教育

忘れられた人々

前回の話にもあったように、現在の知的発達障害の目安は「IQ70未満」とされています。しかし、そこには大きな問題があり、それまでの「IQ85未満」と言われていた人を対象にするとあまりに支援を行うことが困難になるので引き下げていたと言います。ではその間にいた人たち。つまり「IQ70~85」の人はどうなったのでしょうか。数年前までは支援が必要だったと言われていた人たち、軽度知的障害者や境界知能を持った人たちは結果として気付かれず、支援されることもないことで、周囲の人に気づかれることもなく、生活もしていて、何か問題が起きたときに「どうしてそんなことをするのか理解できない人々」として映ってしまうことがあると宮口氏は言います。これはとても不幸なことです。

 

では、「IQ85」というのはどれくらいの人のことを言うのでしょうか。宮口氏がいうにはこの世の中で普通に生活してく上でIQが100ないとなかなかしんどいと言われているそうです。つまりIQ85未満というのは相当なしんどさを感じているのではないだろうかというのです。しかし、実際のところ彼らは困っていても自分から支援を求めることはしません。公的に障害を持っていると認定されるわけでもありません。だから、支援につながることは少なく、仕事を転々とした莉、続かなかったり、ひきこもったり、ちょっとした問題に巻き込まれたりと、生きにくさにつながる可能性があるのです。

 

また、軽度知的障害や境界知能を持っている人たちに対して、「軽度」ということで誤解を招きがちであると言っています。こういった人たちは多くは支援を必要としているのです。しかし、社会的には普通の人と区別がつかないため、難しい仕事を与えられて、失敗すると非難されたり、自分のせいだと思ってしまったりするのです。宮口氏の著書を読んでいるとこの「軽度」というのが大きな誤解をよんでいることが分かります。軽度だからといって支援が必要ではないということではないのです。軽度の知的障害は健常人と見分けがつきにくく、当然放っておかれることが増えてきます。そして、その誤解により、本人も普通を装い、支援を拒否するため、支援を受ける機会をも逃してしまうのです。

 

この支援を受けないことの弊害は大きいようです。ここで出てくる非行少年のように犯罪を犯してしまう少年たちも多くいますが、虐待も知的なハンディが原因の場合もあるそうです。というのも、虐待してしまう親の特徴として、一般的には、生真面目で“こうあるべき”といった固定概念が強く、自分の弱みを人には見せない、こまっていることを人に相談できない、孤立している、対人関係が苦手、経済的な困窮があるといったような軽度知的障害や境界知能の人たちの特徴と似ていることが分かります。とはいえ、これはあくまで推測の域を出ないと言えるそうです。確かに、虐待をする人と言っても、高学歴やIQが高い人もいますので、すべてが軽度知的障害や境界知能がある人と言い切るのはどうかと思います。かなり偏った意見でもあるように思うので、この議論はもっと慎重にするべきでしょう。

 

しかし、なかには該当することもあるので、無視もできない内容です。そして、最近様々なところで起きているニュースにおいても、どうもおかしな動機で起きている事件が多いように思います。すべての人が軽度知的障害や境界知能であるとは言わないまでも、ここで宮口氏がいっている状態の人に該当する人も少なくはないように思います。そして、宮口氏は医療少年院で働いていることで、非行少年の多くがこういった社会において「忘れられた人々」と出会う機会が多いことに気づいたと言っています。

気付かれない

障害を持っている子どもたちが学校でも、子どもたちの問題行動の背景まで気づいてもらわれず、「手のかかる厄介な子」といったような見方をされ、結果として問題が深刻化することがある子もある中で、保護者にも気づかれることがない場合もあるそうです。これは保育現場においてもあることなのですが、保護者に子どもの問題行動を話していてもなかなか理解してもらうのは困難なのです。これでは適切な支援を受けることがありません。

 

その後、少年たちが社会に出たときに やる気はあっても、認知機能の弱さ、対人スキルの乏しさ、身体的不器用さなどが原因となって、言われた仕事がうまくできない・覚えられない、職場の人間関係がうまくいかない、時間通りに仕事に行けない、などの問題を起こし、非行に理解はあっても発達障害や知的障害についての十分な知識がない雇用主から叱責を受け、嫌になってやめてしまうことになるのです。

 

では、特別な支援が必要ながら、気付かれていない子どもたちは、どのくらいいるのでしょうか。現在、知的障害はIQが70未満と定義されており、これは1970年代以降のものです。1950年代の一時期には「知的障害はIQ85未満」とされていたことがありました。IQ70~84 は、現在では「境界知能」と言われる範囲にあたります。とすると「知的障害は85未満」とすると、知的障害と判定される人はどれくらいいるのでしょうか。実際でいうと全体の16%くらいが知的障害扱いになり、それではあまりに人数が多すぎることになり、支援現場の実態に合わないことになります。そのため、さまざまな理由から「IQ85 未満」から「IQ70未満」に下げられたのです。しかし、実際のところ、IQ70~85 の子どもたちは減ったのでしょうか。そんなことはなく、時代によって知的障害の定義は変わっても、境界知能の子どもたちは依然としているのです。つまり、この範囲内の子どもたちは知的障害者と同じくしんどさを感じており、支援を必要としているかもしれません。

 

では、そういった境界知能の子どもたちはどのくらいいるのでしょうか。知能分布から算定するとおよそ14%いることになるそうです。それは1クラス35名のうち、約5人いることになります。つまり、クラスで下から5名程度は、かつての定義なら場合によって、知的障害に相当していた可能性があるのです。

 

ただ、そもそも知的障害自体は病院の治療対象ではありませんので、軽度知的障害であっても気づかれる場合は少なく、診断がつくことも少ないのです。平成30年度の内閣府の障害者白書によると、知的障害者は108万人程度いるとされていますが、5年前の平成25年は54・7万人でした。5年間で倍に増えたのです。当然、このように急激に知的障害者が増えることはありません。これは知的障害に対する認知度が高まって、療育手帳取得者が増えた結果なのです。これは「支援が必要なのに気づかれていない知的障害者がまだかなりの割合いる」ということが言えます。境界知能になるとますます気づかれないでしょう。病院に行っても適切に診断され、支援を受けられるようになることは、通常ないと宮口氏は言っています。

 

しかし、このように急激に知的障害者が増えたことに反して、支援の現状を用意するのが難しくなっているのですね。その結果、境界知能や軽度知的障害を持っている子どもたちは適切に支援されず、結果問題行動を起こしてしまう。悪い連鎖が起きているのですね。それだけ、今の教育現場において一人一人にフォーカスが当たりずらい現状があるのだということがわかります。私の園では今チーム保育で4人一組で子どもたちにあたっています。そのため、気になる子どもに一対一で関わる時間も作ることができます。これまでの保育や学校教育の現場では、周囲に合わせることが重要視されるあまり、個々の要望にはそれほど重きが置かれていないように思います。では、個々の要望に重きを置くとやりたい放題なのではないかという話が出てくるでしょうが、そうではありません。あくまで、「その子自身が」周囲にアンテナを張り、「自分から合わせよう」とする主体性が求められるのです。そのための援助が大人には必要になってくるのだと思います。そして、そういったことはなにも学校現場だけでは起きることではなく、乳幼児からの積み重ねは大きいように思います。

共通点と違い

宮口氏は幼稚園や、小学校、中学校と様々なところで学校コンサルテーションや教育相談、発達相談を行っているそうです。そこでは生徒や子どもたちの頭を悩ませる行動の相談も多く寄せられてきます。もちろん、その問題は発達相談から始まり、イジメ、不登校、非行、親の不適切養育と様々です。また、そこで上がってくる子どもたちの特徴や振る舞いは相談ケースとして挙がってくることが多いのですが、よく見てくと、その子どもたちの特徴や振る舞いは非行少年たちの小学校での様子とほぼ一緒だったということが見えてきたそうです。

 

それまで、宮口氏は少年院に入ってくる少年たちの生活歴は特別にひどいものだと思っていたそうですが、もちろん、親の非虐待や親の刑務所入所などはありますが、それは全員に共通したものではないと言います。むしろ、前記にある子どもの特徴のほうが共通していたのです。では、普通の子どもたちと非行少年たちとの差はどこにあるのでしょうか。

 

非行少年たちの調書や成育歴を見ていると、大人が頭を抱える共通の特徴は小学校2年生くらいから少しずつ見え始めてくるようになるそうです。その中には知的障害や発達障害といったその子に固有の問題や家庭内での不適切養育や虐待といった環境の問題を背景とした問題がありますが、それとは別に友だちから馬鹿にされ、イジメにあったり、親や先生から「手がかかるどうしようもない子」と思われることで、単に問題児として扱われることもあります。そして、その問題の背景まで気づいてもらえない場合があります。

 

そういった場合、学校にいる間は大人の目が届きますが、学校を卒業してしまうと支援の枠から外れてしまいます。本人が困っていなければ本人から支援を申し出ることはほとんどないのです。そのため、仕事は続かず、人間関係もうまくいかず、ひきこもったりして社会から忘れ去られていきます。もし、そういった子どもたちが小学校で特別支援教育につながっていたら、少年院に行くことも、被害者を作らなかった可能性もあるのです。

 

最近、療育の子育てセンターに行くことがありました。そこには多くの療育を必要とする子どもたちが来ていましたが、実際、自分の感覚から言うと「それほど問題を抱えているのだろうか」と思う子どもが多かったです。しかし、実際保育現場においては大変なのでしょう。確かに最近は発達障害にも当たらない、いわゆる「グレー」と言われる子どもたちが多くなっていることに気づきます。集団内において見ることができず、一対一での対応を求める子どもたちが多くなってきています。宮口氏は小学校2年生から現れると言っていますが、逆にこのことが意味していることに疑問を感じます。なぜなら、幼児期においてもここで挙げられていた特徴は見えてくるからです。乳幼児においても、押さえておく必要がある部分は多くあるように思います。

身体的不器用さ

宮口氏は非行少年の中には極端に身体能力の使い方がおかしい少年がいたのを目にします。例えば、体育の時間でサッカーでゴールにボールをけるところを相手の足を蹴り、一試合で何人も捻挫したり、お客さんに料理を出すときに、勢いよくおいてしまいお客さんとトラブルになったり、中にはじゃれあっただけなのに相手に大怪我をさせたと言われ傷害罪で逮捕されたなどといった非行に関するものまでありました。こういった子どもたちは少年院を出て、まじめに働こうとしても、身体的不器用さ故にクビになり、職を転々としたり、本人にそのつもりはなくても傷害罪でつかまったりするケースが見られるのです。

 

しかも、宮口氏が関わっている少年たちはたいてい認知機能の弱さも伴っていました。認知機能の弱さがあるとサービス業につくよりも建設現場で、土木作業員といった肉体労働に就く傾向にあります。しかし、身体の使い方が不器用であるとそういった肉体労働でも問題を起こして仕事が続かず、生活ができなくなるのです。安定した就労は再非行防止に欠かせない要素ですが、身体的な不器用さが就労のハードルになり、再非行のリスクを高めることにもなると言っています。

 

この身体的に不器用さというのは、発達性協調運動症といった疾患概念があります。協調運動とは別々の動作を一つにまとめる動作です。皿洗いで例えると、皿が落ちないように一方の手で皿をつかみ、もう一方の手でスポンジを握って皿を擦るという2本の手が別々の動作を同時に行う高度な協力が必要です。これが協調運動なのですが、身体的不器用さはこの協調運動に障害があるため、粗大な協調運動(身体の大きな動き)や微細な協調運動(指先の動作)に困難をきたすのです。5~11歳の子どもで約6%いるとされているそうです。

 

この身体的不器用さは協調運動が必要とされる日常生活上の身体活動の獲得や遂行に困難さを生じます。ボタンを留めたり、靴ひもを結んだりですね。ほかにも字を書くことや、楽器を演奏するといった創作的活動にも必要な動きがあります。身体的不器用さは身辺自立や創作活動にまで支障をきたすこともあるのです。また、こういった身体的不器用さは成長により無くなると言われていましたが、青年期にも持続することが数多くあります。また、こういったことは目立つので、それがもとでいじめにあったり、自信を失うことも多いのです。

 

このような少年たちの特徴は「力加減ができない」「物をよく壊す」「左右が分からない」「姿勢が悪い」『じっと座ってられない』というものが特徴的だと言います。これらのことは自分の体のイメージや相手の体のイメージが分からないことにあると宮口氏は言います。また、「姿勢がわるい」ということに関しては筋肉の調整機能に問題がある場合があると言っています。筋肉の緊張が弱いと関節が柔らかく、まっすぐ立ってもお腹が出るように姿勢になり、逆に筋肉の緊張が強いと柔軟性にかけ、ロボットのようにぎこちない動きになるのです。結果、姿勢が悪くなることでずっと座っていられなくなり、それによって指先の細かい作業ができず、指先が不器用にもなるのです。

 

このことは最近の子どもたちにも言えることです。最近の子どもたちも立っていられない子どもたちが多くなってきています。すぐ地べたに座り込んでしまうのです。これは子どもたちの遊び場問題があるのかもしれません。最近子どもたちが外で体を使って走り回ったりしている姿を本当に見なくなりました。地域で遊ぶ場や公園でもボール遊びができなくなったり、さまざまな制約があります。またテレビゲームなどの普及によってますます外に出なくなっているようにも思います。子どもたちの身体的な能力は一昔前よりも大きく下降傾向であると思います。宮口氏はこういった身体的不器用さは、じっと座っていられなければ学習にも、力加減ができなければ対人関係にも影響します。そのため、学習面や社会面に加えて、身体面への支援も欠かせないことがわかると言っています。

育つ環境・時代

宮口氏は非行少年たちの相手が何を考えているのか、表情の読み取り方など、聞く力や読み解く力、見る力が弱いといった認知機能の弱さがあると言っています。そして、それは対人スキルにおいても影響が出ているというのです。相手に嫌われないために、悪い行為に手を染めるといったように、自分たちの生き残りの手段のために非行化を行うといったこともあると言っています。

 

そして、それは社会構造にも問題があると宮口氏は言っています。現在、日本の経済産業において、第3次産業であるサービス業が全職業の約7割を占めているそうです。昔は自然に働きかけて生計を立てる第一次産業や職人仕事のような第2次産業は激減し、人間関係が苦手だからといって人間関係に重きを置かない職業は選んでられなくなりました。つまり、対人スキルに問題があると、仕事を選ぶうえでも不利になるのです。対人関係が苦手で、就活で何十社かれも面接で堕とされたりする学生はざらにいるのです。しかし、その一方で

対人スキルがトレーニングできる機会は確実にへってきてきました。SNSの普及で直接会話や電話をしなくても、指の動きだけで瞬時に相手と連絡がとれます。携帯電話が普及していないその昔、相手の家に電話を掛けるときには、本人以外の家族が出ることが多くありましたので、それなりに電話を掛ける時間帯や言葉遣いなどの最低限の礼儀は心得ていなければなりませんでした。今ではそんな必要はなくなりました。宮口氏はこのように対人スキルがうまく機能できないのは昨今の社会形態において対人スキルを鍛える環境が少なくなってきている現状もあるのではないかと言っているのです。

 

確かに職人仕事というのは昨今非常にすくなくなっているのは確かですね。すし職人など、昔は徒弟制度があったような職業においても、今では専門学校にいくことで習うことができますし、「技を盗む」という時代から「技は習う」という主体が受け身になってきているのもあるように思います。以前、麴町中学校の工藤勇一氏の本の中で言われていたことですが、最近の子どもたちは受け身になっていて、その結果、「他責」になっている子どもの様子がよく見られるということを言っていました。本来教育は「習いに行く」ものであり、「習いに行かなければいけない」ものではなかったのではないかと思うのです。しかし、それが「must(~なければならない)」ものになると主体は受け身になり、「なぜ、教えてくれないのか」といったように「周りのせいにする」意識が生まれてしまいます。今の若者の意識においてこういった「他責」という意識は意外と強いのではないでしょうか。

 

どこかで「誰かのせい」にする意識から歪んだ対人スキルを得やすい時代でもあるように思います。また、SNSなどの技術進歩も一つの要因であると宮口氏は言っています。私はSNSを否定するつもりはありません。情報を得るためのツールとしては非常に有用なものであると思います。しかし、それは使い方を間違うと凶器にもなるのです。SNSは顔を合わすこともなければ、言葉を交わらすこともありません。そして、匿名です。そう考えると常に受け手を考えて発信するといった非常に高度なコミュニケーション能力を求められるように思います。しかも、多くは不特定多数に送られます。SNSが悪いのではなく、SNSが使われるための土台を作ることができていない教育現場や保育現場、子どもを取り囲む環境に本質的な問題があるのかもしれません。非行少年たちは結果として、そのあおりを受けているようにも思えますし、今の子どもたちは昔よりも子どもたちが育つうえで過酷な環境なのかもしれません。