教育

3方面の支援

宮口氏は子どもへの支援として、社会面、学習面(認知面)、身体面の3方面の支援が必要ではないかと言っています。そして、そのうち、社会面が気養育の中で最終目標の一つではないかと思っているそうです。

 

なぜなら、勉強ができても社会性に問題がある子をそのまま放置すれば、佐世保の女子後世による同級生殺害事件や名古屋大学の女子学生による知人殺害事件のような事件につながるからです。IQが高くて勉強ができても「これをやればどうなるか?」といったことが予想できないと、容易に間違った選択をしてしまうのです。つまり、計画を立て実行し、間違いがあればフィードバックして修正するといったことができないのです。

 

ほかにも感情のコントロールが弱ければ、正常な判断ができなくなります。誰しも、カッとなってしまうと判断を誤ります。勉強だけではなく、問題解決能力と感情コントロールいった社会面の力がとても大切なのです。しかし、残念なことに今の学校教育の中には体系的に社会面を教える仕組みがないのです。

 

とはいえ、宮口氏が勉強ができることを否定しているわけではありません。それは勉強への挫折が非行につながることがあることを知っているからです。しかし、そこには学習の土台となる見る力、聞く力、想像する力をつける必要があるのです。

 

それともう一つ、身体的な不器用さは周囲にばれるので、イジメのきっかけになり、子どもの自信を無くすきっかけにもなります。結果、3方面どれもが子どもへの理解と支援が必要とかんがえられるのです。

 

私は宮口氏のいう社会性への課題というのはすごく大きいというのを感じます。特に日本は今でこそ多少は緩和されているのかもしれませんが、学歴というものが重要視されています。しかし、ここ最近思うのが、この学力が重視されるよりも、就職に関していうと、面接が重視される割合が大手の企業ほど強くなってきているように思います。以前、人材紹介の業者と話すことがあったのですが、そこでも「いくら、偏差値の高い大学を卒業したとしても、一般常識がなかったりすることが多く、使い物にならない人が多くなっている」と言われることがありました。実社会では、もちろん学力が高いことはもちろんですが、ドラッカーも言うように企業も社会のための集団です。つまり、自社においても、外においても、学力以上に、ひらめきや社会性といった非認知的なスキルが非常に大きな意味を持つようになるのです。ある意味で勉強というのも、あくまで「ツール」なのかもしれません、最近ではスマホやインターネットが普及している今ではこれまでの覚える暗記中心の学問では立ち行かなくなってきているのです。問題はそこで得た知識をいかに社会に還元できるかなのです。そして、そのためには社会性は非常に重要になってくるのです。

 

宮口氏は「習の土台となる見る力、聞く力、想像する力をつける必要がある」と言っていました。これは小学校ではすでに遅いのです。なぜなら、日本ではその時点すでに、教科主義が始まっているからです。となると、その土台を作るのは乳幼児教育の役割となります。つまり、乳幼児教育においては、プレスクール的に小学校の先取りをすることではないのです。小学校に行くまでの土台をしっかりと作ることが必要になってくる時期としての位置づけがあるのです。そのことを踏まえ、しっかりと保育のあり方を考えていかなければいけませんね。

自己評価の向上

少年院に来ている少年たちは自己評価が低いことが多くあります。そういった子どもたちは何をやるにしても否定的で、「どうせやっても無駄」と言って、最初から何もやろうとしません。なぜなら学校の勉強で何度も挫折して、すっかりやる気をなくしているからです。しかし、宮口氏はそういった少年たちが劇的にやる気を出すように変化した様子を目の当たりにします。

 

当初、宮口氏は少年院に来ている子どもたちは勉強が苦手で、認知機能も低い子どもたちということはわかっていたので、認知機能向上を目指したトレーニングのグループにいれて、トレーニングをしようとしました。賢くなれるトレーニングだから、きっと少年たちも前向きに取り組むだろうと思っていたのですが、その予想は大きく覆されます。少年たちのなかには宮口氏の指導を無視したり、中には妨害するような少年も出てきました。もちろん、その中には真剣に取り組む子どもたちもいたのですが、やはりそういった雰囲気になると白けてしまうのです。

 

もともとが勉強嫌いの少年たちです、宮口氏も半ば「やはりだめなのだ」と思い、指導するのも嫌になり、投げやりになったそうです。そして、とうとう教えたり問題を出したりするのをやめ、文句を言っていた生徒に「では、代わりにやってくれ」と彼らを前に出させ、宮口氏は生徒側の席に移りました。その時は、彼らに自分の苦労を体験させようと思ったそうです。ところが、予想は宮口氏の思いに反して、「僕にやらせてください」「僕が教えます」と先を争って前に出てきたそうです。そして、とても楽しそうに問題を出したり、答えを求めたりしたそうです。前に出ていない少年らも、同じ立場の少年から出された問題に答えられなくては恥ずかしいし、自分が前に出たときに無視されたらいやなので、双方どちらも皆真剣にトレーニングに参加するようになってきたそうです。結果、少年たちはその時間を楽しみにするようになり、全体の雰囲気もがらりと変わりました。

 

宮口氏はその時に、少年たちに「教えるんだ」という視点ではダメなんだと思ったそうです。特に、少年院にいる少年たちは「こんなのも分からないの?」と言われ馬鹿にされてきた子どもたちです。自分たちも「人に教えてみたい」「人から頼りにされたい」「人から認められたい」という気持ちを強く持っていること知ったと言います。そして、それが自己評価の向上につながっていくのです。そして、その意識があることで、次第に勉強へのやる気っも出てくる可能性があるのです。

 

「人は教えてあげたくなる性質がある」そうです。もしかすると、私たち人類はそういった普段からの情報共有をすることで情報を「知識として得る」ということだけではなく、こういったやり取りを通して「自信をつける」ということをコミュニケーションの中でもおこなっているのかもしれませんね。そう考えると昨今の、一方的に情報が伝達される今の学校現場における形態は限界にきているのかもしれません。それよりもお互いが教え合ったり、見あうといった勉強の形態を作ることの方がより充実した教育形態になっていくのかもしれません。非行少年たちの事例は決して特別なことではなく、今求められている学校現場の環境においての問題提起になっているようにも思います。

自己認識と集団

宮口氏は非行少年たちが自分が変わることができたきっかけとして挙げられるのは「自分への気づき」と「自己認識の向上」であるということを言っています。そのため、学校などでは、先生が「君を見ているよ」というサインを子どもに送ることや少人数のグループワークをすることで子ども同士お互いを観察し合うことを行っていたりします。もちろん、平成から大人が見本となり、そもそもの「正しい規範」を子どもに見せることは言うまでもないといっています。自分が変わるためには、自分に注意を向け、見つめなおすことが必要なのです。

 

非行少年たちが変わろうと思ったきっかけに共通しているのは、これまで社会で失敗し続けて自信をなくしてきた彼らが、集団生活の様々な人との関係性の中で、「自己への気づきがあること」そして、さまざまな体験や教育を受ける中で「自己評価が向上すること」の2つなのです。特に自己への気づきについては、押し付けでなく少年自身が自ら「気づきのスイッチ」を入れねばなりませんので、少しでもこういった気づく可能性のある場を提供し、スイッチを入れる機会に触れさせることが大切になってきます。

 

これらは学校教育においても全く同じことがいえます。宮口氏は矯正教育に長年携わってきた人の言葉をかりこう言っています。「子どもの心に扉があるとすれば、その取手は内側にしかついていない」つまり、子どもの心の扉を開くには、子ども自身がハッとする気づきの体験が最も大切であり、我々大人の役割は、説教や叱責などによって無理やり扉を開けさせることではなく、子ども自身にできるだけ多くの気づきの場を提供することなのです。子どもが大人と1対1で向き合って得られる気づきよりも、同級生に言われて得られる気づきが大きいこともあり、グループでの様々な活動も欠かせないというのです。

 

まさに今回の内容は「子どもの主体性」の重要性に触れた内容だと思います。大人がどれほど、子どもたちに手を掛けたとしても、子ども自身が気付くことがなければ、身についたとは言えないのです。そして、意外にも大人が子どもに対して言うよりも、子ども同士の関係性の中で話をさせたほうが、すんなりことが運ぶことも保育の中では多々あります。また、子ども同士が関わる年齢の幅も大きな意味があるようにおもいます。ここでは「気づく可能性のある場」ということを言われていますが、私はその「場」というのは「異年齢」にあるように思います。赤ちゃんを見ていると思いますが、赤ちゃんが真似をするのは、大人ではなく、近くにいる赤ちゃんです。大人では発達が違いすぎて真似ができません。もう少しで「できるかも」という自分の認識が「やってみようとする心情」を生むのです。つまり、少し先の発達に触れることの重要性があるのです。これは大人がいくら教え込むよりも、影響があるということが子どもの姿を見ていると感じます。家庭でも親の影響以上に、きょうだいの影響を強く受けるのもこういった発達が近いということが要因にあるのだろうと思います。とすると、こういった非行少年たちの持っている心情というものは生まれたときからあり、こういった子ども同士の関係性のある環境の中で起きる経験値の積み重ねが少ないのかもしれません。これは少子化による大きな影響が出ているのかもしれません

自己評価の大切さ

宮口氏は非行少年たちから学ぶ子どもの教育を挙げています。その内容を見ていると決して特別なことではありません。しかし、我々保育者や教育者から見ても子どもたちに向き合うときによく考えなければいけない内容でもあるように思います。

 

宮口氏は非行少年によっては入院後8か月ごろから大きく変わり始める少年たちがいると言います。彼らは「少年鑑別所や少年院に入ったときは、反省しているように見えたけれど、今は違う、本気で変わるのは今しかない」と述べ、犯罪を行った頃の自分がいかに馬鹿なことを思っていたり、言ったりしていたかを客観的に分析できるようになるのです。そして、この「変わろうと思ったきっかけは何か?」ということは学校教育へのヒントになると言っています。その理由はもちろん、「家族のありがたみ、苦しみを知ったとき」や「被害者の視点になったとき」などがあります。ほかには「将来の目標が決まったとき」や「信用できる人に出会えた時」「勉強が分かったとき」「人と話す自信がついたとき」など、理由は様々ですが、ここに大きく共通するのは「自己への気づき」と「自己評価の向上」です。

 

人が自分の不適切なところを何とか直したいと考えるときは「適切な自己評価」がスタートとなります。行動変容には、まず悪いことをしてしまう現実の自分に気づくこと、そして自己洞察や葛藤を持つことが必要です。適切な自己評価ができるからこそ「悪いことをする自分」に気づき、「また悪いことをやってしまった。自分ってなんてダメなやつなのだろう。」「いつまでもこんなことをしていられない。もっといい人になりたい」などといった自己洞察・自己内省が行えるのです。そして、理想と現実の間で揺れ動きながらも、自分の中に「正しい規範」を作り、それを参照しながら、「今度からがんばろう」と努力し、理想の自分に近づいていくのです。そのためには自己を適切に評価できる力、つまり、「自分はどんな人間なのか」を理解できることが大前提なのです。

 

少年院では集団生活が強いられ、教育ではとことん自分に注意が向けられます。これまで好き勝手に生きてきて、自分を顧みず、何かあっても他人のせいにしていた彼らが、自分はこれまでどう生きてきたか、どれだけみんなに迷惑をかけてきたか、支えられてきたかを、振り返らされます。このように自己に注意を向けることで自己洞察や自己内省が生じる背景に、自覚状態論というものがあります。

 

これは自己に注意が向くと、自分にとってとても気になっている事柄に強く関心が向くようになります。その際、自己規範に照らし合わせ、その事柄が自己規範にそぐわないと不快感が生じます。この不快な感情を減らしたいという思いが、行動変容するための動議付けになる、というのです。

 

たとえば、万引きをしようとする少年が、自己に注意を向ける機会があると、万引きという行為自体についても関心を向けるようになります。そして、「万引きはわることだ」といった規範をその少年がもっていれば、そんな自分を不快に感じ、万引きをやめるきっかけになるというのです。

 

自己に注意を向けさせる方法として、他人から見られている、自分の姿を鏡で見る。自分の声を聴く、などがあります。かつて飛び込み自殺が多かった札幌の地下鉄では鏡を設置したことで、自殺者が減ったといった報道がありました。事実関係を直接調べたことはないと宮口氏は言いながらも、これは鏡で自分の姿を見ると自己に注意が向けられ、「自殺は良くない」という自己規範が生じたからではないかというのです。

 

つまり、この理論を通して見るのであれば、学校においても、先生は生徒に「君を見ているよ」というサインを送るだけでも効果があるのではないかというのです。そして、週人数のグループワークではメンバー同士であれば、お互いを密に観察するので、それだけでも効果があるというのです。

 

 

知能検査では見えないもの

つぎに宮口氏は医療や心理分野の支援に対する軽度知的障害や境界知能への支援の弱点を話しています。まず、医療においては、これらの子どもたちはADHDや自閉症スペクトラム障害の子どもたちは病院にも多くの方が受診しに来ます。そのため、それらにおける診断や投薬治療に関しても、医師の経験は多く長けています。そして、例えば、子どもにADHDなどがあって、多動、不注意が目立ち日常生活に支障をきたしていれば、医師はメチルフェニデートといった中枢神経刺激剤を処方することで、個人差はありますが、そうした薬の投与で多動や不注意といった症状を抑えることは可能になります。しかし、その一方で、同じ発達障害である学習障害(LD)や軽度知的障害、境界知能の子どもが、多動や不注意によって日常生活に支障があったとしても、病院に受診することは稀です。これらは病気というより、勉強ができない、といった困りごとになるので、医療ではなく教育分野の話になってくるのです。そもそも病院にはこういった子どもたちは来ないので、医師も慣れておらず、彼らがどんな特徴を持っているのか、どう対処すればいいのか分からないことが多く、「医療的には問題ありません」「様子を見ましょう」で終わる可能性があるのです。

 

では、心理士であればどうでしょうか。宮口氏は心理士でも、なかなか具体的な支援をするのは難しいと言っています。なぜなら、心理士は教育の専門家ではなく、心の問題の専門家だからです。カウンセリングなどを通して、軽度の気分障害、自閉スペクトラム症、ADHD、不登校、イジメ、思春期の問題などには対応できても、学習の問題に具体的にどう対応したらいいかといった具体的なイメージは持ちにくく、したがって、具体的な方針を提示することも難しいのです。発達の程度を見立てることは可能でしょうし、知能検査をして、例えば、ワーキングメモリー(脳のメモ帳とも呼ばれ、一時的に情報を頭にとどめておく機能)が低いという結果が出たら、それを保護者や教師に伝えることも可能なのですが、それだけでは教師の側は具体的にどう対処すればいいのか、なかなかわからないというのです。心理的検査の所見を説明されたところで、それをどう教育に生かせばよいかの具体的イメージが持てないのです。

 

さらに宮口氏は知能検査においても、話しています。一般的に発達相談などにいった場合、知能検査(小学生以上であればだいたいWISC検査)を受けることがあります。そこでIQが図れますが平均は100になります。例えば、そこで知能の値が98と出ます。これだと平均に近いので問題ないと思われがちです。しかし、困っている子どもはたいてい、10個の会検査の値に大きなばらつきがあります。たとえば、他の値は平均的または優れているのに、語彙力を調べると「単語」や社会的なルールの理解力を調べる「理解」といった検査値だけとても低い、いった場合です。この場合、言語理解や聞く力の弱さなどが推定されています。その他にも暗算などで必要な、一時的に情報を記憶するワーキングメモリーという力だけが弱い、といったように見られます。知能指数は、その子どもが困っているところを見つけるのに役に立ち、その結果を支援のヒントとして利用することができます。

しかし、一方で知能の値が90以上であり、10の下位検査でどこも低いところが見つからなければ、「知的に問題がない」となります。学習上や行動上で何らかの困った様子があるのにです。

 

宮口氏はWISCという検査は、子どもの能力の一部しか見ていないと言っています。なぜなら、たった10個の検査項目で子どもの知能を図っているからです。検査を見てみると、一方的に問題を与えられてひたすら答える、時間内にできるだけたくさん取り組む、といった課題ばかりで、絵を写すなどの再現力や描写力を測るような検査もなければ、答えのない問題に取り組ませて思考の柔軟性を見るような検査はありません。つまり、社会で必要とされる柔軟性、対人コミュニケーションの能力、臨機応変な対応などはWISC検査では測れないのです。IQは高いが融通が利かない、IQは低いが要領が良い、といった子どもたちの問題や特徴は見落とされがちなのです。

 

WISCなど現在主流の知能検査は大雑把に知能の傾向を把握するにはとても役に立つが、このようにそこで拾えなかった躓きを併せて調べて見ないと「知能には問題ない」で負われいなっていますのです。