教育

実験の穴

森口氏は感情の実行機能のしくみを自動車のアクセルとブレーキの関係にたとえて説明しています。たとえば、マシュマロテストで今すぐにマシュマロを手に入れたいという欲求があります。これをアクセルとブレーキの関係でいうと、アクセルと言えます。もう一つの側面がブレーキでありますが、これはマシュマロを手に入れたいという衝動や感情をコントロールする側面です。つまり、マシュマロを手に入れたいという気持ちを抑える働きのことです。このように感情の実行機能はアクセルとブレーキの関係で決まります。

 

このアクセルの働きは生まれたばかりの赤ちゃんであっても母乳やミルクを欲しがることから、アクセルは生まれつき持っていると考えられます。一方、ブレーキについては、赤ちゃんにはほとんどありません。幼児期ごろに備わり、その性能が年齢とともに向上することがわかっているのです。

 

このように感情の実行機能があるのですが、この感情の実行機能を調べるためには複数のテストが使われます。そして、子どもの感情の実行機能はこれらのテストの合計点のようなカタチで表されます。この複数行うことがマシュマロテストだけでは不十分であるということの理由です。なぜかというと、その理由はテストに参加した子どもの好みに左右されるからです。つまり、マシュマロを使った場合、当然マシュマロが好きな子もいればそうでない子もいるということです。冷静に考えてみるとそれはそうなのです。感情の実行機能を測るにあたって、マシュマロが好きではない人にとっては、それを欲しいという衝動や欲求はないわけなので、容易にブレーキで抑えることができるのです。一方でマシュマロが大好きな人はアクセル全開になってしまいやすいわけなので、ブレーキで抑えることがむずかしくなります。つまり、マシュマロテストだけだと、マシュマロを好きかどうかによって結果が大きく影響を受けるので、実行機能をしっかりと調べることができないのです。そのため、マシュマロテスト以外のテストを用いることで、マシュマロなどの特定の好みに依存しない感情の実行機能を調べられるのです。

 

このことはテストを行うにあたって、特に気を付けなければいけないことです。そして、以前に紹介したように、こういった心理実験においては、しっかりとした反証をもちいなければ、正確な結果を得ることができないのです。つい人は先入観や自分に都合のいいように物事を受け取りがちです。そうならないためにも、さまざまな視点から実験や事例を持つことが必要とされるのですね。最近では、マシュマロテスト自体が反対されているという話を聞きましたが、マシュマロテストが問題なのではなく、被験者の好みによって結果が大きく左右されるということに問題があったようです。そのため、多角的な見方をしていかなければいけないということが分かりました。

2つの実行機能

森口氏は実行機能には2種類あると言っています。それは感情面を担う実行機能と、思考面を担う実行機能です。では、それぞれどういった機能をさすのでしょうか。

 

まず、感情の実行機能ですが、これは本能的な欲求や感情をコントロールして、目標を達成する力です。例えば、喉が渇いたときに水を、お腹がすいたときに食事を、買いたいものがあるときにお金を目にすると、私たちは今その瞬間に直ちに手に入れたくなります。その気持ちのままに直ちに手に入れてもいい場合もあれば、一時的に欲求をコントロールする必要がある場合もあります。

 

それはダイエットをしている人が、体重を減らすために、食べ応えがあり、満足感を与えてくれるハンバーガーを食べたい気持ちになっても、目標を我慢するためにはその気持ちを抑えてサラダを食べる選択をしなければいけません。ほかにも、既婚者が、円滑な結婚生活を送るという目的を達成するために、目の前にいる魅力的な人の誘惑に打ち勝つことも、感情の実行機能が必要な例です。つまり、マシュマロテストはこの感情の実行機能を測る方法の一つなのです。ですが、マシュマロテストは感情の実行機能の一部を測定しているに限らないと森口氏は言います。

 

ここで森口氏は感情の実行機能の調べ方を2つ紹介しています。

一つは贈り物テストです。実験者と子どもはテーブルをはさんで椅子に座り、実験者が子どもに背を向けて座り、こちらを見ないように告げます。そのあと、実験者がテーブルの上に贈り物を置き、わざと大きな音を立てて包装します。つまり、子どもが見たくなるように仕向けるのです。このテストでは子どもがプレゼントをみたいという気持ちを抑えることができるかどうかが調べられます。

 

二つ目がギャンブルテストです。これは、子どもの前に2つの箱を用意します。それぞれの箱にはカードが入っています。カードには「あたり」と「はずれ」があり、あたりのカードを引くと子どもにとって魅力的なシールが貰え、外れのカードを引くとシールを取られるのです。そして、二つの箱のうち片方は「ローリスク・ローリターン」の箱で、あたりを引くとシールを1枚もらえ、外れを引くとシールを1枚とられるのです。そして、この箱にはあたりが多いので、この箱からカードを選び続けると最終的には多くのシールが貰えます。次に「ハイリスクハイリターン」の箱です。こちらはあたりを引くとシールを2枚もらえます。しかし、外れを引くと、シールを5枚もしくは6枚とられてしまいます。あたりが少ないのでこちらを選び続けると最終的に損をします。一見すると、「ハイリスク・ハイリターン」の箱のほうがたくさんシールをもらえそうなので、そちらを選び続けたいときもちになります。しかし、はずれも考慮すると、最終的な枚数が多くなるのは「ローリスク・ローリターン」の箱を選ぶ必要があります。

 

では、このテストから感情の実行機能はどのようなものとして見えてくるのでしょうか。

大人での影響

デューク大学のカスピ博士らのグループは2011年の報告で、子どものときの実行機能から、32歳になったときの健康状態や、年収や職業、さらには犯罪の程度までを予測できることが明らかになりました。この研究では、5歳から10歳ごろまでの子ども期に実行機能を、親や保育士などに評定してもらいました。マシュマロテスト一つで調べたわけではなく、

様々な側面から実行機能を調べたのです。

 

それらの子どもを大人になるまで追跡し、大人になったときにどのような影響がみられるかを検討しました。その結果、子ども期において実行機能が低い子どもは、家庭の経済状態やIQなどの影響を統計的に除外しても、大人になった時に以下のような点で問題を抱えやすいことが示されているのです。

 

まず、健康面ですが、特に循環器系疾患のリスクが高く、肥満になりやすい、性感染症になりやすい、歯周病になりやすい。といったことがあるそうです。次に依存症に関しては、ニコチン依存症になりやすいことや、薬物依存症になりやすいことが言えます。経済面では、年収が低くなる。社会的地位が高いとされる職業にはつきにくい。将来への資産運用ができない(貯金が少なく破産もしやすい)ことが見えてきました。犯罪面では、何らかの違法行為を行って、裁判で有罪判決を受ける可能性がひくい。これは「ケーキの切れない非行少年」でもあったように、実行機能の力により、自己抑制力がきかない場合があり、性犯罪の割合が多いということも紹介されていましたね。最後に、家庭面です。子どもがいる場合、シングルで育てることになりやすい。ということが言えるそうです。

 

この結果はかなり衝撃的ですね。それだけ、子どもの頃の実行機能が大人になったときに、経済面だけではなく、健康面や犯罪面においても、多岐に渡る影響が出てしまうのです。逆に実行機能が高い子どもは、大人になったときに肥満や循環器系疾患で悩むことや、ニコチンや薬物に依存することが少なく、年収や社会的な地位は高く、犯罪を起こす確率が低かったのです。

 

もちろん、この結果は全体的な傾向に過ぎず、必ずそうなるとは限りません。それでも、子どもの時の1つの能力が、これほどのちの人生に様々に影響することはなかなかないのです。こういったことが見えてきたので、「失敗する子・成功する子」のポール・タフ氏においても、「ケーキの切れない非行少年」の宮口氏にしても、実行機能というが大きく子どもたちの将来に影響するということを紹介しているのですね。

 

では、その実行機能というのはどのようにして育っていくのでしょうか。森口氏は実行機能には2つのものがあると言っています。

長期縦断研究

森口氏はマシュマロテストではさまざまな要因で、子供の将来を予測するためには重要ではないということが分かってきました。しかしその一方で、実行機能が子どもの将来を予測するものということに変わりはないとも言っています。

 

そして、その根拠となる研究を二つ紹介しています。

それはニュージーランドのダニーデンという人工10万人強の小さな町で、1972~73年に生まれた、1000人以上の赤ちゃんを対象にしたもので、長期間の子どもの発達を追跡した、長期縦断研究があります。この研究が世界中から注目されたのには2つの理由があります。

 

その1つ目の理由は、参加率が高いことです。こういう長期縦断研究では、年々参加者が減っていきます。たとえば、最初1000人の子どもが対象だったとしても、引っ越しなどによって参加が難しくなり、10年後には半分になるということも少なくない。参加者が減ると、データの信頼性が落ちてしまいます。ところがこの研究では、38歳の時点において、90%以上の参加率を誇るのです。つまり、非常に信頼できるデータということになります。

 

ほかにも、イギリスでは1958年・1970年・1990年・2000年に生まれた子どもたちを追跡する4つの大きな長期的な追跡研究が始まっています。そのうち、1990年のものと2000年のものについては、まだ、十分な成果が出ていないそうです。そのため、1958年と1970年のものを森口氏は紹介しています。この研究では、バウマイスター博士らのグループは、ある一週間に生まれたイギリス各地の子ども1万7000人が、誕生時に与えて、幼児期、児童期、青年期、成人期に研究に参加し、どのような人生を歩むかを検討しました。特にこの研究では就労状況への影響が調べられています。

 

具体的には、子どもが10歳前後のときの実行機能を、教師が評定しました。1958年・1970年のどちらの研究でも、教師が評定した結果から、子どもたちは、実行機能が高い群、中程度の群、低い群に3つに分けられ、それぞれの群の失業率を調べています。その結果、実行機能の違いによって、成人してからの失業率が、1~2%程度違うことが明らかになっています。実行機能が高い群は、中程度の群よりも、失業率が低く、中程度の群は低い群よりも失業率が低いということです。

 

この研究でも、子どものIQなどを総合的に評価しています。マシュマロテストとは異なり、ダニーデンとイギリスの研究から、子どもの他の能力や家庭環境を差し引いても、実行機能が将来にわたって重要であることが明らかになったのです。

 

では、日本ではどういった研究が行われているのでしょうか。

 

日本でも、イギリスやアメリカとは規模や内容は異なりますが、いくつかの長期横断研究があります。有名なものとしては、環境省による、化学物質などの環境中の有害物質が子どもの発達に及ぼす影響を調べるエチコル調査や、厚生労働省による21世紀出生児縦断調査などがあります。しかし、多くの調査で知能や子どもの社会性の発達は取り上げられているのですが、子どもの時の実行機能と大人になってからの経済指標や健康指標との関係に打ち手の科学的に妥当な証拠は森口氏の知るところとしてはないそうです。そもそも、日本では実行機能についての理解は十分ではないというのが現状だそうです。

 

アメリカ出身の医学者の知人が、日本の学校や医療機関で働いているときに、大いに困惑したそうです。というのも、アメリカでは現在、実行機能の重要性が広く知られており、教育や子育てに生かそうと動きが広がっているのですが、日本では、実行機能を周りの教師や医療関係者が全く知らず、明らかにこの能力に問題を抱えている子どもに接していても、その問題に気づかないことにとても困惑したそうです。

 

日本ではまだまだ、その理解や認知は少ないそうですが、特別支援学校や小中高の教師、保育現場などでは少しずつ広がってきているようです。私も様々な研修で「非認知能力」という言葉は聴くようになってきました。最近では日本でも少しずつデータが集まりつつあり、子どもの時の実行機能が、後の学力や人間関係に影響を及ぼすことが示されています。今後日本においても実行機能は子どもの発達に重要だといわれることになりそうです。

研究の穴

幼児期の実行機能を測り、幼児期のテストが将来を予測するというマシュマロテストですが、最近になって、この結果が疑問視されているようです。というのは、心理学の過去の有名な研究結果によっても、実はあまり信頼できないといわれることがしばしばあるからです。

 

科学的研究の前提として、同じ方法を使えば、同じ結果が得られなければならないというところがあります。しかし、心理学においては、同じ方法を使っても、同じ結果が得られないことがあります。一つの例として、森口氏は新生児模倣を挙げています。生まれたばかりの赤ちゃんが、大人の表情を真似る。たとえば、大人が口から舌を出せば、赤ちゃんも舌をだすという保育の世界では有名な研究で、養成学校でもならうものです。この40年ほど前の研究報告ですが。最近の大規模研究によると、生まれたばかりの赤ちゃんに同じような実験をやっても、赤ちゃんはほとんど新生児模倣をしないことが報告されました。新生児模倣らしいことをすることはあっても、統計的には偶然の範囲内だったというのです。こういうことを聞くと、研究者が結果を捏造したように思いますが、実際のところは、技術的な問題や、他の重要な要因を考慮していなかった場合などがほとんどです。

 

マシュマロテストについていうと、ニューヨーク大学のワット博士らが、ミシェル博士らのテスト同様、同じ年齢の子どもを対象にマシュマロテストを実施し、その子どもたちの青年期まで追跡して、ミシェル博士らと同じ結果が出るかを調べました。この研究では、さまざまな要因を考慮したのです。それは、青年期の学力や問題行動は、マシュマロテストの成績以外にも、家庭の経済状態(裕福か貧困か)や子どもの時の知的レベルなど、さまざまな要因に影響を受けるということを考慮に加えても、マシュマロテストが影響力を持つかをしらべたのです。その結果、価値の経済状態や子どものときの認知機能などを考慮すると、幼児期のマシュマロテストが青年期の学力や問題行動に与える影響は極めて小さいということが示されたのです。

 

様々な研究は時代によって、新しい知見や要因によって大きく変わってくることはこれまでにも多々ありました。特に、人の心理というのは環境や成育歴によっても要因が出てくるでしょうから、一筋縄ではいかず、非常に多岐に渡る要因を洗い出さなければいけません。今回の森口氏の話は一概に今の研究を鵜呑みにし、研究結果を子どもに当てはめるのではなく、あくまで子どもに目を向けることが重要であるということのサインを送られているようにも思います。

 

森口氏はマシュマロテスト自体は重要ではないとはしていながらも、実行機能は子どもの将来を予測することはしっかりとできると言っています。