教育
小学校入学の前倒しの課題を白梅学園大学名誉教授の武藤隆氏はこの件で、小学校と乳幼児教育機関への問題提起を行っています。では、幼児教育において、小学校の就学が早くなるとどういった課題が上がってくるのでしょうか。
一つ目は9月入学になり、年長児の後半が小学校に移れば幼児教育の完成期とされる部分が抜け落ちてしまいます。つまり、異年齢の幼児間の学びをしている幼稚園に関しては、年長児がいないことで、子ども同士の学びが弱くなるのでではないかと言われています。また、幼児教育修了時に達成してほしい力(10の姿など)のレベルを下げるということも一つの対応として挙げられますが、卒園を約半年早めて幼児教育を成り立たせるには、試行に数年以上かける必要があると武藤氏は言っています。そして、それらの改訂は理論的・実践的な根拠と実例を洗い出して行う作業でなければいけなく、その場合、5年以上の検討期間が必要になりそうだというのです。では、幼稚園入園を半年前倒しの場合はどうでしょうか。武藤氏はその場合、2歳児クラスは少人数クラスである必要があり、今以上の予算投下が必須になると言います。このように就学年齢を前倒しにするためには小学校低学年と幼稚園の教育のあり方を大きく変える必要があると武藤氏は言っています。
では、入学を前倒しにすることにメリットはないのでしょうか。武藤氏は入学に際してメリットがあるとしたら、小学校教育の早期化により義務教育修了の学力を上げることが言えるだろうと言っています。しかし、日本の場合すでに、国際調査においては、算数や理科などは世界的に見てもトップクラスだと言います。低いと言われる読解力に関しても、トップに近く、近年低下している要因はデジタルリテラシーの定着の遅れだと言われいます。このように現在の義務教育において必ずしも学力が下がっているというのも一概には言えないようです。
また、国語や算数において、文字の読みや計算といったリテラシーの基礎は実際の場面で使うことで意味とともに慣れる必要があると武藤氏は言います。そして、それは幼児教育そのものだと言っています。例えば、絵本や歌の歌詞を通じて文字の手ほどきをすることや集めたドングリを10個単位で数えることで数量の意味に触れるなどの活動です。また、「目標を目指して粘り強く取り組む」ことや「そのためのやり方を調整し工夫すること」「友達と同じ目標に向けて協力し合う」といった非認知能力の獲得は幼児期に進むということを踏まえ、行われている幼児教育の充実もあります。
このように、小学校での一斉授業、幼児教育における小学校に向けて必要な非認知能力のための体験活動。こういったそれぞれの教育機関における役割を考えると、従来の小学校流の一斉授業を早期にいきなり導入するよりも、幼児教育の質をあげ、一人一人の発達に応じて、格差の是正に取り組むことが必要ではないだろうかと武藤氏は言っています。
これからの教育においては、小学校においても幼児教育においても、どちらも改革が必要になるということを武藤氏は言っています。そのため、幼児教育に関しては非認知能力における考え方はより、これからの乳幼児教育において重要視されていく内容であると思われます。これをうけて、我々保育者はどのような保育を進めていくことが必要なのかをより考えていかなければいけません。そして、これからの社会でどういった力が必要なのか、もっと大きな目で見通しを持つことが必要になるのですね。
2020年7月12日 5:00 PM |
カテゴリー:乳幼児教育, 教育, 社会 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
2020年7月6日の日本経済新聞に大学などの「9月入学」導入議論を機に、就学年齢を引き下げる案が浮上しているとして、小学校入学を前倒しする際の課題を、白梅学園大学名誉教授の武藤隆が寄稿されたいました。この記事は世界と日本においての就学の違いから書かれていました。ほとんどの国では幼稚園や保育園から小学校教育への移行期はおおむね5~7歳だと言います。そのうえで、日本の満6歳を過ぎてからという日本は比較的遅い分類になるのだそうです。
そんな日本において、小学校への移行を現在の4月入学から9月入学に変更するつまり、約半年早めることについてどのような課題があるのかを武藤氏は書いています。まず、見えてくるのが、約半年の発達の違いは個人差が大きいということです。そして、一部の子どもは小学校への適応が難しくなるかもしれないということを武藤氏は言われていました。確かに、現在においても「小学プロブレム」というように、小学校への適応がうまくいかず、学級崩壊などが起きている小学校があるということが現場で起こっています。
実際のところ、幼児は早生まれか遅生まれかで小学校入学時の準備態勢が違うことが言われています。よく言う「月齢差」ということですね。実際問題生まれ月の違いによる学力の差はかなり遅くまで残ることも調査から知られているというのです。このことはよく聞きます。実際、保育園や幼稚園で働いていると「月齢差」というのは無縁ではいられません。それは子どもたちの様子にも表れてきます。そのため、こういった保育機関で行う活動の多くは真ん中くらいの月齢の子どもたちに合わせた活動が多くなることが多くあります。また、幼稚園によってはその保育方法は園によって特色や違いがあり、うえで話しているような活動の内容ではないところも多くあります。私の園でも、今では異年齢での保育方法を通して、子どもたちは発達を基に自分でできる難易度のものを自ら選ぶ選択性の活動を主として行っています。
では、小学校ではどうなのでしょうか。武藤氏は「小学校の教え方は幼児教育とは大きく異なる。」と言っています。固定クラス、一斉授業、時間割、教員の説明と子どもとの応答などは、幼児教育ではあまり見られないのであり、小学校に入ると急に幼児教育にはなかった環境が始まり、入学早々に躓く子どもが多くいるそうです。そして、もし就学年齢を引き下げることになると、今以上にこういった入学時につまずく子どもたちが増えていく危険性があるというのです。そのため、現行の小学校の指導のやり方を変えずに就学を約半年早めれば、学力格差が広がる可能性があるというのです。
私は子どもの就学に関して、これまで学校教育から変わっていくべきではないかと考えています。これは海外の学校教育を見るとよりその意識は強くなる一方なのですが、未だ日本の教育というは明治ごろから大きく変化はしていません。武藤氏はこの記事の中で、これからの小学校教育の変化とそれにともなって、日本の幼児教育への問題提起を行っています。
2020年7月11日 5:00 PM |
カテゴリー:教育, 社会の変化 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
これまでの森口氏の話を見ていると、管理的な保育や子育てはいけないことのように見えてきます。では、放っておくと、子どもたちは自分をコントロールできるようになるのでしょうか。自由にしておくことで、待てるようになるのでしょうか。決してそういうわけではないと、森口氏は言っています。森口氏は「子どもは最初から自分をコントロールすることができるわけではありません。親に自分の行動を統制されながら、成長とともに自分でできるようになるのです。」と言っています。脳科学的には決して管理されることが悪いということではないのですね。つまり、極端な管理は慎まなければいけないのですが、ある程度の親の統制は実行機能を育むと考えられます。これが、2つ目の管理的な子育ての側面です。
森口氏らの研究では、体罰などを除いた管理的な子育てが子どもの思考の実行機能に影響を与えるかどうかを検討しました。それはどういったものかというと、たとえば、親が子供を自分の言いつけ通りに従わせているかや、歯磨きなどを子どもがやるまで何度でも言い聞かせるか、などを尋ねるというものでした。その結果、親が管理的であると、子どもの思考の実行機能が育まれることが示されました。つまり、親の統制は重要なのです。
では、具体的にどのような管理的な子育てが子どもの実行機能に影響を与えるのでしょうか。その一つに「ルール」作りを森口氏は挙げています。どの家庭にも、その家庭ならではのルールがあると言います。たとえば、家に帰ってきたら手を洗うことや晩御飯のときはテレビをつけないなどです。しかし、この場合、どのようなルールであれ、家族全員が、そのルールをしっかりと守るということが肝心です。たとえば、母親は家に帰ってきたら自分も手を洗うし、子どもにも手を洗うように言うけれど、父親は手を洗わないし、子どもにも手を洗うように言わないなどのケースは好ましくはありません。ほかにも、子どもと大人で違うルールがあるということも望ましくありません。子どもには9時以降おやつを食べてはいけないというのに、親は9時以降に晩酌をする状況は子どもにとって不可解というのです。つまり、家族がみんなでルールをしっかり守る様子を見ることで、子供にもルールを守る意識が形成されるのです。そして、それによって、ルールに応じた行動を選択し、不適切な行動をとらなくなるのです。まさに人のふり見て我がふり直せ、ですね。子どもは見ているのです。
それと同時に、ルールがしっかりとあることで、子どもにとって次に何が起きるかという見通しを立てることができるようになると森口氏は言っています。そして、家庭における安心感にもつながっていきます。一方で、ルールがない家庭では、子どもはつぎに何が起こるか分からず、不安なまま生活することになります。こうした不安がストレスになるのです。
確かに、ルールや規律というのはそれ自体が集団をまとめる一つのツールでもあるという
側面があるように思います。それは一つの事柄を一緒になって「共有」するからなのでしょうね。しかし、そのルールがあいまいであり、人によって違うとなると、確かにストレスです。子どもにとって集団の中における不安定な位置に自分がいるかどうかというのはストレスになるのです。保育機関においてはどうでしょうか。しばしば、大人と子どもとのルールが違っていることはよくあることです。大人は食事を残してもいいけれど、子どもは許されないなんか典型的によくあります。こういったやり取りの中で起きる関係性はそのまま信頼関係にも影響していくのだろうと思いますが、思考の実行機能においても、管理的な実行機能においても、信頼関係というものは大きく影響しているようにも思います。
2020年7月10日 5:00 PM |
カテゴリー:乳幼児教育, 教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
これまで、「支援的な子育て」を見てきました。それでは「管理的な子育て」というのはどういったことをいうのでしょうか。支援的な関わりが子ども主導の子育てに対して、管理的な子育てはその逆で、親主導の関わりだと森口氏は言っています。ここでは「歯磨き」を例にして説明しています。親が子どもに歯磨きをさせたい場合、何度も歯を磨くように指示をします。そのうち磨かなければおやつを抜きにするなどの罰をあたえるかもしれません。罰をあたえるというのは、管理的な子育ての典型的な例だと言っています。
そして、森口氏は「管理的な子育ての影響には2つの側面がある」と言っています。一つ目が、極端になりすぎると子どもの実行機能に悪影響を与えてしまうという点です。2つ目は、ある程度の親の統制は実行機能を育むと考えられるという点です。
まず極端な例というものを見ていきます。これはルーヴァン・カトリック大学のロスカム博士らの子どもの母親や父親に対して、子育てに関するアンケート調査を森口氏は紹介しています。ここではアンケート項目は大きく、支援的な子育てと管理的な子育てに分けられ、支援的な子育ての項目は、たとえば「子どもが何か問題を抱えたとき、私(親)はそのことについて子どもと話し合う」などで聞いていきます。一方、管理的な子育ての項目は「子どもが私(親)の癇に障る場合、私(親)は身体的な罰をあたえることがある」などでした。
このアンケートを親に実施し、子どもに対してさまざまな実行機能のテストを行いました。そして、アンケート結果と子どもの実行機能の関連を調べたのです。その結果、親が支援的な子育てをした場合には子どもの思考の実行機能が高かったのに対して、親が管理的な子育て、特に、体罰を与えるような子育てをした場合には、思考の実行機能が低かったというのです。
ここに体罰が意味のない、結果として子どもたちに大きな影響を与えてしまうということの具体的な意味合いが見えてきます。確かに保育をしていても、子育てをしていても、罰を与えなければいけない瞬間というのは出てきます。しかし、体罰は子どもの発達において全面的に悪影響を与えると森口氏は言っています。そして、こうも言っています。「残念ながら、我が国において家庭や教育現場で、現在においても体罰を容認するような声を聞きますが、許されません」
体罰は長い間、教育現場でも言われていました。しかし、未だ、「教育的な躾」ということで体罰をするニュースが後を絶ちません。こういった考え方は根が深くあるのが今の現場環境です。しかし、実行機能に悪影響が出ているのはアンケートによって明らかになったのを見ると改めなければいけないのです。そして、カーっとなったときに大人も自分の感情をコントロールしなければいけないのです。以前、森口氏も子どもの実行機能を伸ばすためには、そこに関わる大人も実行機能が高くなければいけないと言っていました。そこにはこういった意味があるのです。
2020年7月9日 5:00 PM |
カテゴリー:乳幼児教育, 教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
支援的な子育てとはどういったことをいうのでしょうか。森口氏は支援的な子育てとは、やみくもに子どもを褒めることとは違うといっています。もちろん、子どもを褒めることは必要なことです。しかし、子どもの行動を何でもかんでもほめればいいわけでもないのです。
トマセロ博士らの研究では、1歳半くらいの乳児の親切な行いがご褒美を与えられることによって減少することが示されています。1歳から2歳くらいの子どもは非常に親切で、見知らぬ人であっても進んで手伝ったり助けたりします。たとえば、知らない人が物を落としたりすると自ら拾いに行くいうのです。子どもは、最初はそのこと自体を楽しんでこの行為をおこないます。褒められたりご褒美をもらったりするためにおこなうわけではありません。ところが、手伝うなどの行為をした後にご褒美をもらえると、子どもは自ら進んで手伝わなくなります。最初は自発的に行っていた行動が、ご褒美をもらうことによって、ご褒美をもらうことが目的化してしまい、自発的に行わなくなるのです。
子どもを褒めるというのは一見、良いことをしたと子どもに意識させるために行うことが多いです。しかし、その行為自体が、子どもの自発性を損なうことがあるのですね。これは子育てに限らず、保育の中でも注意しておかなければいけないことです。森口氏は「自発性を損なうようなかかわり方は、子どもの実行機能にも負の影響を与えると考えられます」と言っています。「褒める」という行為の難しさを感じます。
森口氏はさらに「子どもが一度欲求をコントロールできたからといって、ご褒美をあげるのは考えものです。」と言っており、「子どもは自分のために自分を制御するのであって、人に褒められるために頑張るのではない」というのです。
保育を見ていると特に思うのは、「褒める」という行為や「怒る・叱る」という行為の意味です。どちらもあくまで「行為」の問題であり、子どもたちの関わりのおける本質ではないのではないかと感じます。大切なのは子どものその状況での気持ちや葛藤を理解し、共感することが保育においても大切になってくるのではないかと思うのです。最近、私はそのことを「相手の気持ちを見通す」というように言っています。相手がどう感じるか、どう思うかを考えたうえで、「怒る」や「褒める」ということを話さなければ、結局のところ相手に言葉が響くことは難しくなるのではないかと思うのです。
そして、そのためには「主体は誰か」ということをよく考えなければいけません。やみくもに褒める場合というのは「主体は大人」です。大人が子供に対して「こうなってほしい」をある意味で押し付けであったり、大人が上位にいる場合にそうなっているように思います。しかし、あくまで「主体は子ども」なのです。なんでも、大人が介入して褒めるのはおかしいというのはそういうことだと思います。森口氏はこの項目の最後にこう言っています。「子どもが主体的にやっていることに対しては、見守るような関わり方をすることが重要になってきます」と言っています。「見守る」ということは子ども主体になる距離感であるのですね。
2020年7月8日 5:00 PM |
カテゴリー:乳幼児教育, 教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
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