教育

ドイツと子どもの権利条約

ドイツでは「オープン園」という保育形態に近年は変わってきています。「どこで何をして誰と遊ぶかを自分で決めることができ、園は子どもの決定権や参画を保証する場」として保育を考えていくということでしたが、始めはなかなかうまくいかなかったとベルガーさんは言っています。従来の保育方法に慣れている先生たちは、最初「すべての子どもを把握するのは不可能」や「保育者との関係性が希薄になるのではないか」といった意見が出てきたそうです。そういった状況を変えることにはまず大人側の発想の転換が必須になってきます。次々と疑問や困難が出てきました。しかし、こういった疑問や困難を職員全体で乗り越える協力体制を作っていくことが「オープン園」の前提となります。

 

では、なぜドイツはオープン園を進めているのでしょうか。これには「参画」ということが大きく関わっているようです。「参画」については1986年国連総会において「子どもの権利条約」が採択されたことが大きいようです。オープン園において「子どもたちが自分たちで決める」ということを重要視しているというのは前回にも話しましたが、子どもの権利条約において「意見の表明権」がこれにあたっていくのだと思います。ちなみに日本はこの子どもの権利条約において批准しています。つまり、守らなければいけない立場になっています。しかし、日本政府は国連の子どもの権利委員会」から勧告を3度受けています。そして、その勧告のうちの一つが「子どもの意見の表明権」についてです。以前、このことについて調べてみましたが、そこには「(国連の)審議の中では、競争の激しさとともに、カリキュラムや校則に柔軟性がないことが指摘されています。子どもたちが学校の運営に関わっていないこと、学校で子どもに県が尊重されていないことはここにも(権利条約 第12条 子どもの意見の尊重と参加する権利)関連しています」と書いてありました。日本はこのドイツの「参画」から学ばなければいけないものは多いように思います。

 

このようにドイツでは子どもの権利条約の採択をうけていく中で、保育改革や教育改革が行われます。そして、この「オープン」という概念は70年代の西ドイツにおいて考案され、障害児童特別措置に疑問を持つインクルージョン派と子どもの体づくり推進が統合され発展してきたとベルガー氏は言います。そして、「オープン園」の目指すところが分け隔てなくすべての子どもを受け入れることとされ、関わる全ての人々が参画可能なオープンな社会の基礎となる幼児教育を体現する場とされたのです。

 

このようにドイツは国を上げて国の教育に大きく変化をもたらせたのです。そして、その根本には子どもの権利条約が大きく影響しているのです。何とも考えさせられるものです。日本では未だ、カリキュラムは大人主導で決まるものであり、子どもの参画というのはそれほど重要視されるものではありません。もうすこし、子どもの権利というものを見直す機会が必要であり、意識されなければいけない。大人の意識の転換が求められるようにドイツを見ていると思います。

ドイツの保育

先日、ドイツの保育士の方からこのコロナ禍の中で、どのような保育をしているのかを聞く機会がありました。ドイツでは2月にイタリアで新型コロナウィルスが出たのち、3月初めから国境を閉鎖し、3月よりロックダウンが行われ、2週間ほど幼稚園や保育園などすべて閉鎖という形を取っていたそうです。しかし、子どもたちは園には来ないが、職員は出勤し、掃除などをしていましたが、そのうちすることも無くなってきたのと、ソーシャルディスタンスが取れないので会議もできないということで、順番での勤務とホームオフィスつまりテレワークによる勤務体系になったそうです。どこの国も同じようなことが起きているのですね。

 

また、こういった勤務体系と新型コロナウィルスによって、保育の形も変えざるを得なくなってきたそうです。新型コロナウィルスがこのように発生し、大きな影響を与えるまではドイツのミュンヘン市では「オープン保育」が行われていました。以前、私は2011年にミュンヘンの保育を見る機会があったのですが、その頃はまだオープン保育は行われていませんでした。では、そのオープン保育とはどういったものなのでしょうか。

 

まず、ドイツのミュンヘン市バイエルンには6種類の幼児教育施設があります。0~3歳児対象の保育園、3~6歳児対象の幼稚園、6~10歳児対象の学童保育。そして、保育園と幼稚園が統合した「コープ」、保育園・幼稚園・学童の3つが統合した形をとる複合乳幼児施設があります。そういった環境の中で保育が行われていますが、近年ドイツの幼児教育関係者の関心を集めているのが「オープン園」です。

 

「オープン園」とは、「職員全体で園全体の子どもたちを保育する園です」といっているのはミュンヘン市の幼児教育施設で働く、ベルガー有希子さんです。職員から見て保育園にいる子どもたち全員が「私たちの園児」という捉え方をするので、「私のクラス」という概念がないのが特徴です。そして、その核となるコンセプトは「すべての子どもたちが心地よく過ごせる場所であること、子どもたちは、どこで何をして誰と遊ぶかを自分で決めることができ、園は子どもの決定権や、参画を保障する場」とされています。そして、「その中で、子どもの発するシグナルを重視し、子どもの欲求や子ども自身がすでに内に秘めてるそれぞれの陶冶プランを見出すことが先生の役割と捉える」というのです。「陶冶」とは「人の性質や能力を円満に育て上げること。育成。」ということです。子どもそれぞれに合わせた保育の提供が根底にあるのです。

 

私が見学させていただいた2011年ごろはまだ、オープン保育というほどではなく、少人数の異年齢集団で活動していたのを覚えています。しかし、当時から先生の介入は驚くほどすくなく、子どもたちが自分自身が体験すること、その中での葛藤や悩みながら解決していくことを非常に重視していました。しかし、そんなドイツでも、オープン園にすることには抵抗があったそうです。

愛着スタイル ②

「不安定型」は「アンビヴァレント型」ともいい、「養育者をスムーズに受け入れられず、逆に怒りを示したり、グズグズとして状態を長く引きずってしまう」つまり、分離時に非常に強い不安や混乱を示します。この場合養育者との関係は不安な時に居たり、居なかったりするような養育を受けているので、どうすればいいのか見通しがつきにくいのです。そのため、おいていかれるくらいならくっつくといった不安行動をしめします。全般的に行動が不安定で随所に用心深い態度がみられ、養育者を安心基地として、安心して探索活動を行うことがあまりできません。

 

この愛着スタイルをもつ子どもに対する養育者の特徴は子どもが出す各種の愛着のシグナルに対する敏感さが相対的に低く、子どもの行動や感情状態を適切に調整することがやや不得手である特徴がある。子どもとの間で肯定的な相互交渉を持つことも少なくないが、それは子どもの欲求に応じたものというよりは、養育者の気分や都合に合わせたものであることが相対的に多い。結果的に子どもが同じことをしても、養育者の反応に一貫性を欠くため、応答のタイミングが微妙にずれるといったことが多くなり、結果、子どもの様子においても不安や混乱をきたすことになるのです。

 

最後に「恐れ/回避型」は「無秩序・無方向型」ともいい、「養育者にくっつきたいのか、養育者から離れたいのかよくわからない、どっちつかずの行動を示します。」この場合、子どもは不自然でぎこちない動きを示したり、タイミングのズレた場違いな行動や表情を見せたりする。さらに、突然すくんでしまったり、うつろな表情を浮かべた理事っと固まって動かなくなってしまったりするようなことがある。総じてどこへ行きたいのか、何をしたいのかが読み取り辛い。時折、養育者の存在のおびえているようなそぶりを見せることがあり、むしろ初めて出会う実験者等により自然で親しげな態度をとるようなことも少なくはない様子が見えてきます。

 

この「恐れ/回避型」の子どもの場合、被虐待児や抑うつなどの感情障害の親を持つ子どもに非常に多く認められる。そのため、精神的に不安定なところがあり、突発的に表情や声あるいは言動一般に変調をきたし、パニックに陥るようなことがある。言い換えると子どもをひどくおびえさせるような行動を示すことが相対的に多く、時に通常一般では考えられないような(虐待のような)二木せつな養育を施すことがある養育者の特徴です。

 

子どもとの愛着は養育者との関係性が大きく影響しますが、このような愛着スタイルが見えたときに子どもたちとの対応を考える必要あるということを感じます。そして、「養育者」は確かに多くは保護者であり、両親であることが言えます。しかし、その中で祖父母や保育者もその一端を担っているのは確かです。最近では子どもたちが家庭より保育施設のほうが長い時間要る子どもも少なくはありません。こういった子どもとの関係性を含めて保育を考えていく必要があるように思います。

愛着スタイル

ヒトには「愛着スタイル」が4種類あります。一つは幼児期に養育者が確実にそばにいて自分の欲求を誠実に満たしてくれると感じていた人は「安定型」、必要な時に養育者に突き放された経験がある人は「回避型」、また養育者が自分の欲求をみたしてくれるとは限らないと気付いていた人は「不安型」。最後に幼少期に養育者に何らかの形で傷つけられたと感じた人は「恐れ/回避型」と4つの愛着スタイルがあります。

 

それぞれにおいて、子どもの様子を見るとある特徴が見えてくるといいます。

まず、安定型の子ども、この愛着スタイルを持つ子どもは「養育者との分離時に泣いたとしても、その後の再開場面でスムーズに養育者を受け入れることができる」と言います。それと同時に養育者とは安心基地が築かれているので積極的に探索活動を行います。

 

この場合、安定型の子どもの養育者は子どもの欲求や状態の変化などに相対的に敏感であり、子どもに対して過剰なあるいは無理な働きかけをすることが少ないそうです。そして、子どもとの相互交渉は、全般的に調和的かつ円滑であり、遊びや身体接触を楽しんでいる様子が伺えます。

 

つぎに「回避型」は「養育者との分離に際し、泣いたり混乱・苦痛を示すということがほとんどない。」つまり、あまり不安定さもみせず、近づいても余計遠ざけるといった経験から、遠ざけられるくらいならそこにいてもらうという思考になり、抵抗しなくなるのです。そのため、養育者を安心基地として探索活動を行うことがあまり見られません。

 

こういった愛着スタイルになる場合の養育者の様子は、全般的に子どもの働きかけに拒否的に振る舞うことが多く、他のタイプと比較しても、子どもに対面しても微笑むことや身体接触することがすくない。子どもが苦痛を示していたりすると、かえってそれを嫌がり、子どもを遠ざけてしまうよう場合もある。また、子どもの行動を強く統制しようとする働きかけが多くみられる。つまり、いうことを聞かせようとする行動が見られるということです。

 

子どもの働きかけにどうこたえるかというのはケースバイケースでもあり、一筋縄ではいかないこともあります。

 

では、他のタイプはどういった特徴と養育者の様子があるのでしょうか。

所有物

園に登園してくる子どもの中に、小さなぬいぐるみやおもちゃを握りしめて登園してくる子どもたちがいます。子どもたちは、なぜ、こういった「お気に入りのもの」ができるのでしょうか。先日、東京大学の客員教授であり、発達心理学専門の遠藤利彦先生の講義を受けました。そこで紹介されていたのが、「ライナスの安心毛布」です。このライナスはスヌーピーで有名なチャールズ・モンロー・シュルツが1950年から書き始めた漫画「ピーナッツ」に出てくるキャラクターです。このライナスも毛布を持っている絵があります。

 

この絵を紹介して遠藤氏はある傾向を話していました。こういった所有を求める子どもは「人工乳をする子や時間を決めた授乳、添い寝の習慣がない、別室寝をする家庭」の子どもにこういった特定のものの所有をする子どもが多いようです。つまり、すぐに「おっぱいが貰えない」という状況はストレスがかかります。そして、こういった特定のものを所有する子どもは割とストレスに敏感な子ども、ストレスを感じやすい子どもほど、特定のものを所有する傾向があるのです。確かに、考えてみると、割と園でもそういったものを大切に持っていたり、手放したくないといったような子どもほど、ストレスに敏感であったり、引っ込み思案である子どもが多いように思います。

 

所有物を持つことでストレスを緩和しているのです。このことを単純に見ると、ストレス下にいる子どもがかわいそうに思えてきます。しかし、遠藤氏は果たしてそうなのだろうかと言っています。欧米では「子どもはストレスを解消・調整する力を自ら持っている」と考えられているそうです。そして、その力が「生きる力」だとも言っています。以前、オランダに行ったときに日本人からすると非常に疑問を持つ様子がありました。その園ではお昼寝をする部屋があるのですが、その場所は檻のようなゲージに入れられ昼寝をします。そして、起きて泣いても10分は泣かせておくとも言っていました。泣いたらすぐに抱っこするという日本の感覚からすると違和感を持ちます。しかし、その考えの根底には先に話した能力を子どもは有しているという考えが根底にあるからなのでしょうね。

 

では、実際のところどうなのでしょうか。遠藤氏は赤ちゃんは泣くことですぐにおっぱいをもらえるということで、赤ちゃんは「自分でおっぱいを作れる・何でもできる」といった魔術的万能感を持つそうです。しかし、月齢を重ねていく中で、欲求が多様になってきます。そうすると、当然その欲求に応じてあげることができなくなります。すると、何かを欲してももらえないというストレスを子どもは感じます。このように思い通りにならないなかで、自分は「生かされている」という2者関係を持つようになります。このことを心理学者のウィニコットが20世紀後半に行った研究で、幼児は自分が母親とは別の独立した自我を持っていることを認識し始めると、母親の代わりとなる「移行対象」、つまり安心毛布のような所有物によって安心感を高めることを学習すると言っています。