教育

愛着スタイル

ヒトには「愛着スタイル」が4種類あります。一つは幼児期に養育者が確実にそばにいて自分の欲求を誠実に満たしてくれると感じていた人は「安定型」、必要な時に養育者に突き放された経験がある人は「回避型」、また養育者が自分の欲求をみたしてくれるとは限らないと気付いていた人は「不安型」。最後に幼少期に養育者に何らかの形で傷つけられたと感じた人は「恐れ/回避型」と4つの愛着スタイルがあります。

 

それぞれにおいて、子どもの様子を見るとある特徴が見えてくるといいます。

まず、安定型の子ども、この愛着スタイルを持つ子どもは「養育者との分離時に泣いたとしても、その後の再開場面でスムーズに養育者を受け入れることができる」と言います。それと同時に養育者とは安心基地が築かれているので積極的に探索活動を行います。

 

この場合、安定型の子どもの養育者は子どもの欲求や状態の変化などに相対的に敏感であり、子どもに対して過剰なあるいは無理な働きかけをすることが少ないそうです。そして、子どもとの相互交渉は、全般的に調和的かつ円滑であり、遊びや身体接触を楽しんでいる様子が伺えます。

 

つぎに「回避型」は「養育者との分離に際し、泣いたり混乱・苦痛を示すということがほとんどない。」つまり、あまり不安定さもみせず、近づいても余計遠ざけるといった経験から、遠ざけられるくらいならそこにいてもらうという思考になり、抵抗しなくなるのです。そのため、養育者を安心基地として探索活動を行うことがあまり見られません。

 

こういった愛着スタイルになる場合の養育者の様子は、全般的に子どもの働きかけに拒否的に振る舞うことが多く、他のタイプと比較しても、子どもに対面しても微笑むことや身体接触することがすくない。子どもが苦痛を示していたりすると、かえってそれを嫌がり、子どもを遠ざけてしまうよう場合もある。また、子どもの行動を強く統制しようとする働きかけが多くみられる。つまり、いうことを聞かせようとする行動が見られるということです。

 

子どもの働きかけにどうこたえるかというのはケースバイケースでもあり、一筋縄ではいかないこともあります。

 

では、他のタイプはどういった特徴と養育者の様子があるのでしょうか。

所有物

園に登園してくる子どもの中に、小さなぬいぐるみやおもちゃを握りしめて登園してくる子どもたちがいます。子どもたちは、なぜ、こういった「お気に入りのもの」ができるのでしょうか。先日、東京大学の客員教授であり、発達心理学専門の遠藤利彦先生の講義を受けました。そこで紹介されていたのが、「ライナスの安心毛布」です。このライナスはスヌーピーで有名なチャールズ・モンロー・シュルツが1950年から書き始めた漫画「ピーナッツ」に出てくるキャラクターです。このライナスも毛布を持っている絵があります。

 

この絵を紹介して遠藤氏はある傾向を話していました。こういった所有を求める子どもは「人工乳をする子や時間を決めた授乳、添い寝の習慣がない、別室寝をする家庭」の子どもにこういった特定のものの所有をする子どもが多いようです。つまり、すぐに「おっぱいが貰えない」という状況はストレスがかかります。そして、こういった特定のものを所有する子どもは割とストレスに敏感な子ども、ストレスを感じやすい子どもほど、特定のものを所有する傾向があるのです。確かに、考えてみると、割と園でもそういったものを大切に持っていたり、手放したくないといったような子どもほど、ストレスに敏感であったり、引っ込み思案である子どもが多いように思います。

 

所有物を持つことでストレスを緩和しているのです。このことを単純に見ると、ストレス下にいる子どもがかわいそうに思えてきます。しかし、遠藤氏は果たしてそうなのだろうかと言っています。欧米では「子どもはストレスを解消・調整する力を自ら持っている」と考えられているそうです。そして、その力が「生きる力」だとも言っています。以前、オランダに行ったときに日本人からすると非常に疑問を持つ様子がありました。その園ではお昼寝をする部屋があるのですが、その場所は檻のようなゲージに入れられ昼寝をします。そして、起きて泣いても10分は泣かせておくとも言っていました。泣いたらすぐに抱っこするという日本の感覚からすると違和感を持ちます。しかし、その考えの根底には先に話した能力を子どもは有しているという考えが根底にあるからなのでしょうね。

 

では、実際のところどうなのでしょうか。遠藤氏は赤ちゃんは泣くことですぐにおっぱいをもらえるということで、赤ちゃんは「自分でおっぱいを作れる・何でもできる」といった魔術的万能感を持つそうです。しかし、月齢を重ねていく中で、欲求が多様になってきます。そうすると、当然その欲求に応じてあげることができなくなります。すると、何かを欲してももらえないというストレスを子どもは感じます。このように思い通りにならないなかで、自分は「生かされている」という2者関係を持つようになります。このことを心理学者のウィニコットが20世紀後半に行った研究で、幼児は自分が母親とは別の独立した自我を持っていることを認識し始めると、母親の代わりとなる「移行対象」、つまり安心毛布のような所有物によって安心感を高めることを学習すると言っています。

応答的関わり②

ランドリー・スーザンとスミス・カレンは「応答的」について、4つの定義を出しています。

 

まず、1つ目は「子どもの行動に付随して反応する」ということです。乳児は養育者に対してシグナルを出します。それに対し、養育者が即時に敏感に反応することで、乳児が自分の要求が予想通りにかなえられることを経験するというのです。これは自己有用感につながります。つまり、自分がここにいてもいいという自己肯定感や自尊感情を持つことにも影響が出るということが推測できます。

 

2つ目、「感情的―情緒的にサポートする」ポジティブな感情の入力(暖かさ、微笑みなど)と強いネガティブな行動がないこと(刺激がきつい粗暴な声のトーンや身体的な侵入など)は養育者の関心、受容を情緒的に伝えると言っています。乳児からのサインを養育者に伝えることで、自分の感情を受け入れてもらうという経験をするということですね。こういった関わりを通すことで、子どもの社会的発達(協力、感情の制御など)の発達を促進すると言われています。これは今よく聞く「非認知スキル」にも大きくつながっているのだということが見えてきます。海外の研究におけるすぐれたプレスクールの共通点で「応答的な関わり」が入っているというのはこの非認知スキルに関わるからより注目されているのかもしれませんね。

 

3つ目「子どもが注意を向けていることをサポートする」とあります。そして「乳児が注意をあてていることをサポートすることは、構造を与えたり、乳児の未熟な技能に対して足場を与えているので、高次なレベルの学習や自己制御を促進すると考えられるといいます。二方向のインタラクションでJoint engagementや相互性を促進する、注意を維持することは注意の焦点を移さないで乳児の未熟な注意をサポートする。子どもがアクティブな役割を取り始め。究極的には自分の行動を制御するようになる。言語発達や事物の操作を促進する」といっています。応答的な関わりが安心基地にもつながるということであると読み解けます。安心基地があることで自分の世界を子どもたちは広げていきます。そして、分からないことは大人の力を借りようとして、自ら助けを呼びます。だからこそ、『ともに考え、深め続けること』といった海外における優れた教育にはあるのでしょうね。大人が答えを出すことが求められるのではなく、あくまで主体は子どもであり、その中で、大人がどう関わるか、それは世界を広げることの手助けをすることが重要であるのでしょう。

 

そして、最後に4つ目「発達要求をサポートする言語入力」です。これは「①養育者が乳児の発声を模倣する。養育者が付随的に音声でかえす。②豊かな言語入力(事物や行為やラベルやこれがどのように相伴っているか、機能しているか)を子どもがうけること、また、これが乳児期に特に重要」といっています。つまり、音声言語習得において、養育者が乳児の言葉を模倣したり、応答したり、変換したりすることで言語を習得していく機能があるということが言えるのです。

 

「応答性」というのを4つの定義として見ていくと、いかにこの関わりが乳幼児教育において重要な関わりなのかということが見えてきます。そして、「応答的」というのは、なんでも子どもたちの言いなりになることでもなければ、逆に何も言わないことでもないのです。

 

大切なことは子どもたちの主体性をどう保障するかということが大切なのだろうと思います。そして、子どもたちは主体的に学び、主体的に活動しており、保育者や養育者が教え「なければいけない」のではなく、自ら学んでいるということを信じることが大切なのだろうと思っていなければ「応答的な関わり」にはならないのです。各夕海外の研究における優れたプレスクールの特徴の共通点の三つ目は「すぐれているプリスクールほど、子ども主導の遊びや活動、子ども中心で教師がつなぎ発展させる遊びや活動が多い」という特徴が見えてくるのです。こういったことができるのは保育者自体の子どもに対する保育の視点が定まっていなければできないことなのだろうと思います。

 

ランドリー・スーザンとスミス・カレンのいう「応答的」な関わりのあり方はまさに子どもたち本来の力を引き出すことにつながる関わりであるのでしょう。そして、現在さまざまなところで叫ばれている「非認知スキル」をつけるにあたって、こういった関わりはこれからの保育には必須と言ってもいいほどの能力なように見えてきます。

応答的関わり

先日、大学院の授業で、「応答的関わり」とはどういうことかということが話されていました。よくよく考えるとよく言う「応答的関わり」という子どもとの関わり。その関わりというのはどういったことを指すのでしょうか。

 

この「応答的関わり」という言葉ですが、保育所保育指針やこども園教育保育要領にも書かれています。そのほとんどは乳児保育に関する部分に書かれています。どうやら、日本の保育においては乳児期には「応答的な関わり」というのが大切なのだということなのでしょう。では、幼児期になるとそこはどう変わっていくのかというと。幼児期になると保育者との応答的な関わりから「仲間と遊び、仲間の中の一人という自覚」といったように保育者ではなく仲間関係における書き方がされています。つまり、関わりは大人(養育者)ではなく、子ども同士に関係が移行していくというのです。

 

では、海外においてはどう書かれているのでしょうか。1997年~2008年の英国EPPE(Effective Provision of Pre-school Education)と1997年~2014年のEPPSE(Effective Pre-school and Primary Education)の調査における優れているプレスクールの特徴を分析した結果、見えてきた保育者と子どもたちとの関わりに関する共通点に3つ項目があり、そのうちの一つに「保育者の子どもたちへの関わりが、温かく、応答的であること」とありました。ほかにも「『ともに考え、深め続けること』と呼ばれる関わりを含む、保育者と子どもたちの質の良い関わり」とあります。つまり、優れている保育において「応答的関わり」というのは海外においても、日本においても、重要であると言われているようです。

 

しかし、応答的関わりというのは具体的にはどういったことをいうのでしょうか。これは私たちが行っている「見守る」という保育がどういったことなのかが伝わりにくいのと同様に、想像がつかない人も多いように思います。応答的に変わっているつもりであっても、実際は知らず、待てなくて手が出ていたり、見守っているつもりが、実際は放任的な形になっていたりと、その定義はあいまいであるように思います。では、その応答的というのは具体的に言うとどういうことなのでしょうか。

 

ニューヨーク大学の発達心理学者のタミス=ルモンダは応答的について「乳児の探索的なコミュニケーションの行為に対して親がすぐに付随して反応する」と言っています。また、ランドリー・スーザンとスミス・カレンの2006年の論文で応答的について4つの定義をしています。

なぜ、4月入学?

最近、新型コロナウィルスの流行によって、小学校の入学を4月ではなく、9月にすればいいのではないかという議論が起こっています。私個人の見解としては、4月でも、9月でもどちらでもいいのですが、子どもたちの発達のスピードや教育の理解度によって、進級や進学が保証される教育現場に変わっていってほしいものだと思っています。これは前回紹介した「早生まれの不利」にもつながる話です。分からないまま、自動的に進んでいく教育体制自体がおかしいのではないかと思います。日本国民は全員に適切な教育を受けることができるはずなのに、そうではないということは前回の内容に書かれています。まだまだ、日本はそういった保証がうまくできているようには感じません。

 

さて、この日本の「4月入学」という話ですが、ではなぜ、日本は4月入学なのでしょうか。元々日本における学校は寺子屋・藩校・私塾というのが中心でした。有名なところで行くと藩校は薩摩藩や会津藩などが有名であったように思います。私塾で言うと吉田松陰の「松下村塾」などが有名ですね。これらの学校では入学の日というものは特定されておらず、随時入学することができました。なぜなら、この時代、子どもは大切な働き手です。そのため、入学する日も各々の事情によりバラバラだったのです。また、時間割も決まっておらず、子どもたちは学びたいときに学びたい時間だけ学ぶということが主流でした。

 

その様相が変わったのは明治維新です。西洋文化が入ってくるようになり、西洋の教育体系が日本でも導入されました。そのころ、高等教育の入学は9月入学だったようです。では、なぜ4月になったのでしょうか。これにはいくつかの説があるみたいです。

 

一つは明治19年(1886年)に国の会計年度が3~4月に行われるようになったことです。「会計年度」とは、歳入・歳出の区切りとされる機関のことで、通常1か年を1会計年度としています。『明治財政史』には明治元年(1868年)までは「旧暦1月―12月」で会計を区切っていました。しかし、明治2年(1869年)に国が官公庁が予算を執行するための「会計年度」の規定を設け「旧暦10月―9月」としました。その後に改暦されると」「1月―12月」「7月―6月」などと変更され、明治19年(1886年)に「4月―3月」になり今に至ります。

 

では、最終的になぜ4月になったかというと、主な理由は日本が稲作をしていたことが大きな理由です。つまり、当時農家が多く、政府の税金収入源は米だったため、秋に収穫した米を現金に換え、納税されてから予算編成をしていくには、1月はじまりでは間に合わなかったからなのです。

 

もう一つの説が軍との関係です。明治19年(1986年)12月、徴兵検査を受ける義務のある満20歳男子の届け出期日が9月1日から4月1日になりました。それによって、東京教育大学(現 筑波大学)の前身の高等師範学校が4月入学に変わりました。それ以降、多くの学校が4月入学に変えています。徴兵検査に対応して、入学時期が変わった理由について船寄俊雄・神戸大学教授は「当時の高師と師範には20歳以上の新入生がおおく、9月入学のままだと優秀壮健な人材が先に陸軍に取られてしまう。軍との人材獲得競争だった」と言っています。「4月はじまり」は教育効果への期待というより、軍や役人の都合によって定められたのが実情だったというのです。

 

4月入学の理由は稲作による税収であったり、軍の徴兵によって決まってきたのですね。現在、日本はここで出てきた理由とは生活スタイルが大きく違います。多くは農業をやっているわけでもなく、徴兵もありません。子どもたちが働かなくてもいい時代です。であるならば、より教育効果にあった入学時期や教育スタイルに変えてもいいのではないでしょうか。そして、本来として「子どもたちの利益」になるような判断がされることを今の時代行う必要があるように思います。