教育

PISAと東アジア

PISAの学力調査では丸暗記だけでは不十分です。なぜなら、以前も紹介したように、PISAの学力調査では、知識を持っているかどうかよりも、その学んだことで実際に何ができるかを測定するものだからです。そんな中でも2012年にPISAが最初の創造的問題解決スキルの評価を行ったとき、東アジアの得点はかなり低くなると予想していました。しかし、そんな中、シンガポールがトップになったのです。シンガポールは一世代で開発途上国から最新の工業経済圏へと変容を遂げた国です。

 

2014年当時の教育大臣ヘング・スウィー・キート氏はシンガポールが創造的で批判的な思考、社会情動スキル、人格形成にいかに重点を置いているか強調したそうです。シンガポールは教育機関の質においても、革新的な教育政策の立案や実施における教育者の関与の深さについても一歩先を行っているといアンドレアス氏は言っています。

 

昨年、シンガポールに行かせていただきましたが、その時の感想は「非常に貪欲な姿勢」でした。そして、「若くても有能な人の多さ」に驚きました。そして、何より「教育への関心」が強いのです。それについてシンガポールは自国の資源がないことがということが挙げられると言っていました。そのため、自国が発展していく仕組みとして「人材・建築・金融」ということを言っています。確かにシンガポールはユニークな建物が多くありました。人材育成に関しては非常に深い関心があり、施設においても、保育においても、いかに情動スキルや人格形成が重要かということを現地の方々から聞くことが多くありました。

 

では、日本ではどうかというと、アンドレアス氏は「日本はこれまで一貫してPISA最上位国の一つだが、各教科の履修内容の再現を要求する問題には強くても、習得した知識を道の状況に応用する自由記述形式での成績は芳しくないことが判明した。」と言っています。そして、「その結果について、多岐選択式の大学入試になれている親世代や世論の理解を得るのは容易ではなかった」と言っています。これは今でもそうかもしれません。「学力が落ちている」という言葉だけが独り歩きし、詰込み型教育が見直されました。しかし、戻したところでPISAが示す日本の教育の弱いところを取り戻すことにはつながらないかもしれないのです。実際のところでは「アクティブ・ラーニング」が導入されるように、現在の日本では、そうはいっても、詰込み型ではなく、大学入試が自由記述式になるように「PISA型」になる政策がとられています。2006年や2009年の間に日本は、OECD加盟国の中で、自由記述においても最も足早の改善を見せたのです。アンドレアス氏は「この改善は、弱点に対応するための公共政策の変化が、いかにして教室の現場での変化をもたらせるかを示している点で大きな意義がある」と言っています。

 

このように日本を含め東アジアでは国民の生活向上のために、西欧諸国よりも大きく教育には力を注いでいるとアンドレアス氏は言っています。だからPISAの学力調査では上位のほとんどがアジア圏の国なのですね。

ドイツの変化

PISAの学力調査は各国々に多くの影響を与えることになります。そして、その国々の教育政策における問題を認識させることにもつながるのです。例えば、アンドレアス氏の出身のドイツでは2000年の調査において激しい教育政策議論が交わされました。なぜなら、その年のドイツの生徒の成績が予想を大きく下回ったからです。このことをドイツでは「PISAショック」というそうですが、これがきっかけに教育政策と改革に関する国民の議論が始まります。というのも、ドイツでは、どの学校も適切かつ平等に処遇するべく甚大な力がそそがれてきたのです。それだけに、国民はすべての学校の学習環境は当然一律だと認識していました。しかし、PISAの2000年の結果では学校が社会的経済的に恵まれているか否かによる大きな教育格差が明らかになったのです。このように生徒の成績の学校間での差が50%のドイツに対し、その差がわずか5%というフィンランドの学校の均質性を示すエビデンスは、ドイツに強い印象を与えたのです。つまり、ドイツではどの学校に入学させるかが重要な問題となったのです。

 

このことはドイツの学校制度によるものが大きいといえます。ドイツはマイスターの国でもあるように、子どもたちは10歳で知的労働者としてのキャリアとなる学問コースか、最終的に知的労働者の下で働く職業コースに分かれます。つまり、PISAの調査はこういった社会的経済的背景が有利なドイツの子どもたちは、より優秀な教育成果を残す社会的地位に高い進学校へ進めるが、あまり恵まれていない背景の子どもたちは、教育成果も社会的地位も高くない職業学校へと進んでいるということが生徒の成績の差が大きい原因であるということが分かったのです。

 

このことについてはドイツの教育者や専門家にとっては、この格差に関してはそれほど驚くことではなかったそうです。そのため、公共政策の一環として改善すべきこととはみなされていなかったのです。重要なのはこのPISAの調査から見えるのは、ドイツのように生徒の社会経済的背景が学校の成績に及ぼす影響は国によってさまざまで、ドイツよりも効果的にその影響を軽減している国々があったことだった。このことこそが、PISAによる狙いだったのです。

 

その後ドイツでは、PISAのおかげでエビデンスとデータへの新たな態勢が築かれたのです。そして、教育への国家支出を2倍に引き上げました。そして、お金よりも議論によって国内での幅広い改革の取り組みが始まり、中には革新的な改革も見られたのです。以前にも紹介したように、幼児教育に手厚い教育支援が盛り込まれ、全国教育スタンダードが学校に適応されるようになったり、移民や貧困層への支援も強化されます。そうした対策のもと、9年後の2009年にはドイツのPISAの結果はかなり改善し、質も公平性も共に大きな進展も見せました。このような各国の取り組みはドイツのみならず、韓国、ポーランド、コロンビアやペルー、エストニアやフィンランドなども、PISAの結果を受けて改善をしているのだそうです。

 

その中でも、PISAの開始当初、成績が良く、教育システムの急速な改善を見せていたのはほとんど東アジアの国々だったのです。

学力調査を受けて

PISAがもたらした最も重要な見識の一つは、「教育システムは変革可能であり、改善できるということだ」とアンドレアス氏は言っています。学校がいかなる成果をあげるかに関して不可避で固定的なことは皆無だということをPISAは示したのです。調査結果からは、「社会的な不利と学校での成績不振には必然的な関連がない」ことも明らかになったのです。つまり、学校での取り組みにおいて、成績は変わるというのです。これからの社会は流動性のある社会が求められるといいます。優秀な人が優秀な成果をあげられることが社会には必要であり、そうなっていくためには様々な不利な状況を打開する社会システムが必要になるのです。つまり、人材をうまくいかせる社会構造を作ることでより、革新的な時代となることができるのです。

 

PISAの調査結果は、現状肯定派にとっては挑戦的なものでありました。しかし、ある国が成績向上のための政策を実施することができ、社会的格差をなくすことができたのなら、他の国に同じことができない理由があるのでしょうか?とアンドレアス氏は言います。いい教育方法や保育環境を取り入れることは国にとっても有益な成果を見通せます。現状を肯定し、換えないことが良いことなのか?学校の質を保つ教育システムなど、成功すれば持続性のある安定した教育成果がもたらされることを示した国もありました。フィンランドは、PISAの最初の調査で全面的に最も成績が良かった国だが、保護者は自分の子どもがどの学校に入学しても高い水準の教育を受けられると信じられています。

 

逆に、国の成績が絶対的な数値としても、その国の期待値と比較して低いことが判明した場合、PISAが出す成績の与える影響は大きくなります。PISAが一つの尺度として見えてくるのです。国の成績と国際的な成績との差が見えてきます。このことは今の日本の教育の状況が似ているように感じます。ほかにもPISAが強力な教育改革運動を引き起こすほど、国民の注目を集めた国もありました。国民が思っている教育システムと調査結果が相反するときに非難の声は最大となり、国民と政治家が自分たちの教育は世界で最高のものだと思っているのに、PISAがそれとは異なる結果を示した場合には実に大きな動揺をもたらしたのです。

 

今の日本はまさにここにあるように思います。PISAの学力調査では読解力が落ちていると言われています。そして、それによって政策はその読解力の改善を求めて、小学校の教育を変えてきています。しかし、未だ「詰込み型の教育」への転換が視野に入れられ、学校教育は右往左往しています。これが「ゆとり教育」の弊害です。現場側と政策側がどうもうまく共通理解できていないように感じられます。しかし、政策的には学校教育も少しずつ変わってきています。学校現場の様々な対応が求められています。しかし、未だ課題は多くあり、それは乳幼児教育においても同じことが言われます。「幼保小の接続」はずっと言われ続けています。PISAの学力調査が出るたびに「学力が低くなった」というところばかりがクローズアップされますが、その改善における取組みがあまり取り上げられていないように思いますし、これまでの教育の形を変えることに対して保守的な考えは未だ根強く感じます。PISA の調査結果の受け取り方はなかなか難しいように感じます。

変遷

PISAの学力調査では、各国がどういった教育を行っているかということまで、調整してテスト内容を決めているわけではありません。当然、議論の中には生徒に学校で習得していないことをテストに出ることが不公平だという批判的なものあったそうです。しかし、アンドレアス氏は「人生における試練は、昨日学校で習ったことを覚えているかどうかを問うものではない。今日想定しえなかったことに将来対応できるかどうかが問題になる。現在の世の中では何を知っているかではなく、知っていることで何ができるかが試される」と述べています。

 

これはまさに今日本が教育改革を行う上で、目的としているものそのものです。そして、日本がPISAの学力調査において、弱い部分でもあります。日本は科学的リテラシーや数学的リテラシーは未だトップクラスに良いのですが、読解力においては大幅な低下が見られます。その中でも記述式の自由回答においては無回答が多かったそうです。つまり、問題を解くということは今でも十分すぎるほどのスキルはあるが、自分の考えを伝えることが苦手なのです。このことから日本では読解力の育成を念頭に教育が見直されることになり、それが「思考力・判断力・表現力等の育成」という教育が進められるようになったのです。

 

このように進められたPISAの学力調査ですが、その進み具合は当然順風満帆ではなく、2001年から結果における議論は白熱したものになります。なぜなら調査結果により明らかになった教育の姿は、大多数の人が思い描いていたものとは大幅に異なったからです。はじめ、アンドレアス氏が開発したシステムは、自国の成績を知ることができるが、他の国や地域との比較した結果は分からないようになっていたのです。2006年の調査結果が公表されると議論は最高潮に達します。それは各国のその時点での位置を示すだけでなく、2000年の最初のPISAの学力調査以来、状況がいかに変化したかを測定する3つのデータポイントも含めてあったからです。

 

状況が改善していないというのは政府の政策にも影響があります。しかし、政策立案者にとっては認めたくないものです。結果、政治的な圧力もかかることは避けれない状況になりました。しかし、2006年OECDに着任して間もないアンヘル・グリア事務総長は、PISAの教育改革への影響力を見出し、PISAを成功に導くべく尽力しました。

 

OECDは経済開発協力機構が日本名で、世界経済について話し合わされている中、経済の国際機関が教育についても、研究や政策が行われています。つまり、教育は経済にもつながると考えられているのです。つまり国を維持し発展させるのはその時期の大人だけではなく、もうすでに教育を受ける時点から始まっていると考えているのです。もう少し、我々はこのことを意識すべきなのかもしれません。「生きる力」といっても、なにをどう意識すればいいのかが分からない人は多いような気がします。しかし、もう少し、社会の変遷に目を向け、考えていくと「生きる力」というものが何を意味するのかは想像しやすくなるかもしれません。

これからの社会

2020年日本では教育改革が行われるというのは2018年にベネッセが出した「2020年教育改革」という資料にあります。そこでは「21世紀の社会を生き抜くために必要な能力は大きく変わる」と言われています。その根拠となるのがオックスフォード大学のマイケル・A・オズボーン助教授の2015年の研究で「あと10~20年で、49%の職業が機械に代替される」というものでした。ほかにもニューヨーク市立大学大学院センター教授のキャシー・デビットソンの「2011年にアメリカの小学校に入学した子どもたちの65%は今は存在していない職業に就く」という発表です。また、2013年のディスコキャリアサーチの「外国人社員の採用に関する企業調査」では約1/3の企業が外国人留学生を採用し、特に1000人以上の企業では2社に1社とその割合は増加する」と言われています。こういったデータを見ているといかにこれからの時代が、今生きる子どもたちにとって、今以上に変化のある将来かということが分かります。そして、今、当たり前の社会が非常に速いスピードで変化を起こしているということも分かります。

 

それはこのコロナ禍も一つの契機となっていたかもしれません。コロナ禍以前は、テレワークというのは新しい仕事スタイルとして、認知はされていたものの、まさかこれほどまでに社会で当たり前になったとは思わなかったでしょうし、遠隔での会議も今では当たり前のようになってきましたが、コロナ禍が起こったつい半年前では考えられないことだったと思います。コロナウィルスの流行で仕事様式や生活様式の変化に拍車がかかったようにも思います。そういった変化が起きている時代の中では、どういった教育が求められるのでしょうか。

 

現在OECD(経済協力開発機構)で教育・スキル局長でもあるアンドレアス・シュライヒャー氏は著書「教育のワールドクラス」でこう言っています「これからの学校は、生徒が職場でも、市民としても、他者に共感し、自ら考え、他者と交流する手助けをする必要があるだろう。学校は生徒がゆるぎない善悪の判断力をもち、他者から自分に向けられた主張に配慮し、個人と集団行動の限界を理解できるよう支援しなければならない」と言っています。

 

そして、「職場、家庭、地域で、私たちは異なる文化や伝統の下で他者がどのように生活し、どのような考え方をするのかを深く理解する必要がある。機械が人類からいかなる仕事を引き継ぐにしろ、人類が社会的市民的生活において、意義のある貢献をするための知識とスキルはさらに必要性を増すだろう」と言っています。つまり、いくら機械に代替される時代が来たとしても、人が社会を形成することに代わりがないのであって、ではその本質は変わらないと言っているのです。そして、その本質というのが機械によって代替えされることによってより、鮮明に必要とされてくるということを言っているのです。

 

シュライヒー氏は「私たちにはエージェンシー(自ら考え、主体的に行動し、席員を持って社会に参画し、変革していく力)がある。今後デジタル技術において、いかなる影響を受けるかは、これらの破壊に対し、私たちがいかに協同し、体系的に対応するかにかかっている」と言っています。つまり、この「エージェンシー」というのが一つのキーワードになり、これからの時代に重要な要素になっていくということが分かります。