教育

教員のスキル

つぎに成績を上げるためには教員は優秀でなければいけないのでしょうか。PISAの成績上位国は、成績上位の3分の1の卒業生から教員を採用しているといっています。つまり、優秀な先生が教員でいるほど、学習成績は上がるのです。それは学校システムの質が教員の質を上回ることがないためです。つまり、いくら学校システムが良かったとしても、生徒と関わるのはあくまで教員です。その教員が学校システムについて理解ができていなければ、当然、学習成果は上がってこないのです。こういったこともあり、成績上位国の学校システムは教職員の採用を重視しています。しかし、それらの国では、成績上位の卒業生が弁護士、医師、エンジニア等ではなく、教員という職業を選んでいるのでしょうか。

 

実際のデータを見ていくと、読解力と数的思考力の平均で、教員が大学の学位を持つ成人の上位3分の1にある国は1つもないですし、下位3分の1の国もない。つまり、ほとんどの国では教員のスキルは平均的な大卒成人と同程度なのです。しかし、その中でも例外はあります。それはフィンランドと日本で、教員のスキルは平均的な大卒成人よりも優れているが、チェコ、デンマーク、エストニア、スロバキア、スウェーデンでは、その逆であるデータが見えてきました。

 

また、ある研究では、教員と生徒のスキルとの間に正の相関関係があることが分かっています。しかし、これにも例外はあり、韓国やエストニアなどの一部の国では、教員の数的思考力は平均的ではあるが、生徒の数学的リテラシーに関しての成績はトップです。さらに、成績上位国では、その国の教員の平均的な知識とスキルから推定される以上の成績を修めている。この生徒の好成績は教員のスキルに加えて、他の要因が関連しているのが見えてきます。

 

アンドレアス氏は「教員が尊敬される職業でかつ魅力的な職業選択となるように、知的にも財政的にもよく考える必要がある」といっています。そのため教員の育成と競争力のある雇用条件にもっと投資する必要があるというのです。教員の雇用条件の悪さは模範的な授業をしている教員の自信を失わせ、授業力を低下させ、もっとも才能のある教員を退職させてしまう可能性があり、それは教育の質の低下を意味するのです。

 

日本の場合は他国とは違い、まだ、教員は保証されているようです。そして、教員のスキルも高いようです。これは倍率の高い教員試験があるからかもしれません。しかし、現状の教員の様子を聞いていると、書類に追われていたり、残業が多かったりと、かなり厳しい職場環境であるということをよく聞きます。こういったことが教育の質を下げているということはこれまででも言われてきたことですが、なかなか改善されないものでもあるようですね。これは保育においても、同様のことが言えます。日本の場合は監査においても書類で管理されることがほとんどです。しかし、いくら書類ができているからといい、それがイコール保育の質が高いということではないと思います。そして、結果的にそれが質を下げているというのであれば、改善されなければいけません。雇用環境も質に関係していくのですね。

質?量?

PISAの調査は子どもたちの学習成果とこれまでの教育システムにおいて信じられていたことに疑問が出てくることが見えてきました。社会経済的背景やクラス規模などが学習成果に関係するということがこれまでも紹介してきました。ほかにも「学習時間が多いほど成績が良くなるのか」ということも挙げています。

 

このことは学校システムによって、特に授業時間後の学習にどれだけの時間を費やすかが大きく異なるそうです。ある教科に対する学習時間が長くなるほど、その教科の学習成果が向上する傾向があるからなのですが、この点について、国際比較をしてみると、その関係は逆転します。授業時間と学習時間が多い国は。PISAの成績が悪かったのです。それはどうしてなのでしょうか。

 

これは単純な理由です。学習成果は常に学習機会の量と質の結果であるからです。教育の質を一定に保ったまま学習時間を増やせば学習成果は向上します。その一方で国が教育の質を向上させれば、生徒の学習時間を増やすことなく、より高い学習成果が得られる傾向にあるのです。つまり、量を増やすことで学習成果が伸びることはあるのですが、質を向上させることで、量を増やすことなく、成果は伸びるというのです。

 

このことはPISAの調査結果を見ると考えさせられます。例えば、日本において科学的リテラシーは韓国の生徒とほぼ同じ得点です。しかし、全教科の学習時間を合算すると、日本の学習時間は週に約41時間(学校28時間。放課後14時間)に対し、韓国は週に50時間(学校30時間、放課後20時間)です。逆もあります。2015年のPISAの調査では、中国(北京、上海、江蘇、広東)とチュニジアの生徒は学校で週30時間と放課後27時間と同じくらいであったが、科学的リテラシーの平均点は中国が531点に対して、チュニジアは367点でした。この二つの調査の結果が意味しているのは学習時間以外に学校システムの質と生徒の学習時間の有効利用、放課後の学習機会の質が影響していると考えられるのです。

 

そして、ほとんどの保護者は学校で確かな学問知識とスキルを身につけると同時に学業以外の活動に参加する時間があることを望むとアンドレアス氏は言っています。演劇や音楽、スポーツ等を通じて社会情動的スキルを発達させ、彼らのウェルビーイング(すべてが満たされた状態)を望むと考えているのです。

 

最近では、「副教科」の重要性も言われているようです。学習の中心となる5教科(国語、数学、理科、社会、英語)だけではなく、美術や技術、音楽などがあることでより成績が良くなるということが言われているようです。このことを見ても、学習というものがなにをさしているのかを考える必要があるのかもしれませんね。どうしても、学習成果を測られるのが「点数」「成績」ではありますが、それだけにこだわっても結果として伸びてはいきません。学ぶ意欲や質、そういった抽象的ですが、心情に則ったものがなければ、結果として身につくものではないのでしょう。モチベーションや動機がなければ、人は学べないのですね。

クラス規模

つぎによく上がってくるのが「クラス規模」です。以前、ドイツやオランダの保育現場を見ていると子どもたちのクラス規模は大体15人ほどだったのが、とても印象的でした。日本に比べると、海外の方が一つのクラス規模というのは少ないように思います。小学校においても、オランダのイエナプラン校では、異年齢で12~15人ほどの異年齢の子どもたちが一つのクラスの中にいるような様子でした。日本でも、クラス規模について、配置基準というものがありますが、果たして、クラス規模と学習成果とは関係があるのでしょうか。

 

アンドレアス氏は「政治的にクラス規模の縮小はよく議論されるが、それが学習成果を向上する最良の方法であると示す国際的な証拠はない」と言っています。それだったら、その代わりに良い教員に高い給料を払った方がよいかもしれないと言っています。実際、PISAの成績上位の教育システムは、クラス規模よりも教員の質を優先する傾向があるのです。成績上位の教育システムでは、小規模クラスと教員への投資のどちらかを選ぶとすれば、いつも後者を選択しているのです。

 

ただし、他の条件が同じであれば、たとえば、教員の給料が同じであったりするのであれば、より効果的で新しい教育実践の機会を広げ、クラス規模を小さくするほど学習成果は向上するのは確かだそうです。クラス規模が小さいほど、しっかりとした教育実践ができるというのです。しかし、それはしばしば間違った予算の使い方だとアンドレアス氏は指摘しています。なぜなのか、それは「政府は予算を一度しか使えないから」です。もし、クラス規模を縮小すれば、教員の給料をあげたり、教員に授業以外の重要なことに取り組む機会を与えたり、生徒の学習時間を延ばすための予算が少なくなるのです。一度もらえる予算を上手に消費するためには、クラス規模を小さくする方に予算を掛けるよりも、教員の保障、授業の充実に予算を掛ける必要があるというのですね。

 

このように小規模クラスの利点を示す根拠がないにも関わらず、多くの国が引き続き、その優先度を高めています。教員、保護者、政策立案者はより良い、より個別最適化された教育の鍵として小規模クラスを捉えているのです。2005年~2014年の間に小規模クラスは増えてきています。しかし、ほぼ同時期にOECD加盟国の教員の給与は平均6%あがってはいても、3分の1の加盟国では教員の給与は下がったのです。中等学校の教員はほかの大卒フルタイムの労働者の88%の給与しか支払われていないのです。

 

日本は教員の給与に関しては、低いのは今に言われたことはありません。保育者ともなるとなおさら低いのが現状です。そのため、給与面に不安があり、辞めていく職員も中にはいます。お金の掛け方というのはなかなかに難しく、雇う立場となると、そのやりくりはシビアなものになります。子どもに対して、適切な大人を雇おうと思っても、人件費がかかることが多くあります。予算と教育保育というのはなかなかに難問なのでしょう。

社会的背景

アンドレアス氏は国際テストを各国が行い他国の教育システムと比較してどのような成果を上げているかを見ていく中で、多くの間違った仮定を明らかにしたと言っています。

一つ目は「貧しい子どもは成績が悪い」です。これは以前、ポール・タフ氏の「成功する子・失敗する子」でも触れられていました。そして、貧困層の所得の子どもたちは成績が悪いということが言われていましたが、アンドレアス氏がいうにはPISAの結果においては、社会集団の良し悪しが、そのまま学校の成績や日常生活に直接結びつくとは限らないと言っています。

 

この内容には二つの側面があり、一方はすべてのPISA参加国で学習成果と生徒や学校の社会的背景には関係が見られるという点。もう一方は、社会的背景と学習成果との質との関係は教育システムで大きく異なるということです。確かに社会的背景が学習成果と大きな関わりがあるのは確かです。しかし、それは教育システム次第では恵まれない生徒だからといって、必ずしも学習成果も悪いわけではなかったのです。これは2012年のPISAの調査で、上海の15歳で恵まれない10%の生徒が、アメリカや他国の最も恵まれた10%の生徒よりも優れた数学リテラシーの成果を示したことからも見えてきます。このことはほかの国においても同様のことが見えました。

 

すべての国に優秀な生徒はいるが、すべての生徒が優秀な国はないというのです。そして、恵まれない生徒が成功する国や地域は社会的不平等の緩和に成功しているといっています。教育による大きな公平性の達成は、社会正義として重要であるだけではなく、より効率的に資源を使用し、すべての人々が社会に貢献できるようにするための方法でもあるのです。たとえば、最も恵まれない学校に、恵まれない生徒を集め、恵まれた学校管理職をそこに集め、適切な学習指導方法を用いるようにして公平性を持つように進めるのです。こういった国はいくつかあるそうです。このように、最も弱い子どもたちをどのように教育するかは、社会の在り方を反映しています。このことに関しては逆もあります。

 

アメリカの批評家は「恵まれない生徒が非常に多いアメリカでは、教育の国際比較を行う意味がない」と主張しますが、他国よりも社会経済的利点を持っていたり、ほとんどの国に比べ裕福であり、教育にも予算を投じています。しかし、なぜ批評家は「恵まれない生徒が多いというのでしょうか」アメリカでは社会経済的に恵まれないことが成績に大きな影響を与えいるそうです。そして、社会経済的背景による学習成果の違いが他のOECD加盟国よりも大きいのです。その結果、入学する学校ごとの成果の格差が人生の機会の不平等につながり、社会的流動性を低下させる悪循環につながっているのです。社会経済的背景がそのまま学習の格差に出てしまう社会の在り方があるのです。前者と後者では、子どもに対する考え方が違うというのが分かります。

 

このことが、学習成果と生徒と学校の社会経済的背景に見られる。一方で、教育システムにより、社会的背景と学習成果との質との関係は教育システムで大きく異なるという一見矛盾するかのような結果を生んでいるのです。

 

恵まれていない子どもたちの中には力はあってもそれが発揮できるほどの環境がないということは、結局のところ環境によって格差が大きくなるというのが言えます。社会流動性を持たせるために義務教育があるのですが、果たして今日本は今回の内容のように「公平性」は保たれているのでしょうか。もしかすると、このコロナ禍において起きた遠隔での授業により、多くの生徒が優秀な先生の授業を聞けるようになるのだとしたら、公平性はより保たれることになるのかもしれませんね。

海外から見て

アンドレアス氏は「教育は非常に局所的で内向きになることが多い。」といっています。そのため、学校と教員が自分たちの仕事に関する知識を共有するのが困難になっている可能性があると言っています。このことは各国の教育システムにも同様のことがいえ、国境を越えて他国の教育政策や実践に目を向ける機会はほとんどない。他国の経験から学ぶことがほとんどないのです。アンドレアス氏はこのことについて「今を生きる若者の人生や未来のため、新たな政策や実践を試みる倫理的な要素を考えれば残念なことだ」と言っています。

 

確かにこのことは海外研修に行かせてもらうとよくわかります。それは日本の良いところを見ることにも繋がるのですが、どちらかというと日本の課題のほうがより鮮明にみえる気がします。特に大きく違うと感じたのが、教育と政府との関係です。海外はどの国でも、子どもの教育において、政府の介入が大きいのを感じました。ドイツでは、以前紹介したようにミュンヘン市は「陶冶プラン」が進められ、私が見学にいったときも園長先生や施設長は分厚い「バイエル」という日本でいう指針や要領にあたるものを持って話していました。韓国や中国では国が進めるということに対して、非常にスピーディに変化が起こっているのを感じました。シンガポールは教育省である「エクダ」がスパークという園の資格のようなものを発行し、その質の担保を確保するようにしていました。このことに対し、日本の特に保育に関しては、保育指針や教育要領といった指針となるものはあっても、その動きは大綱的です。そのため、各園の裁量によるものが多く、さまざまな保育形態が乱立していても良いという環境です。それが良いのかどうかはわかりませんが、ジャッジを下すものがないため、施設によってその目的や子どもの発達の見通しというのは大きく違ってくるように思います。こういったことは日本の様子をより感じるのは海外を見ることでより感じます。

 

アンドレアス氏は「国際比較が非常に重要な理由はここにある」と言っています。「教育の世界をリードする人々が達成した公平性、効率性の高い功績に基づいて教育の可能性を示すことができる」といったように海外の様々な教育体系を見ることによって、政策立案者は、測定可能な目標に基づいて有意義な目標を設定することができ、異なる教育システムが類似の課題にいかに対処しているかを理解できるようになるのです。そして、私が感じたように、「政策立案者や実践者が国際的な視点から自らの教育システムについてより明確な見解を得る機会が提供されることである。そのシステムの根底になる信念や構造、強みや弱みを深く理解した上で、教育システムは変更、改善されなくてはならない」と言っています。

 

私はそれともう一つ、こういった変更改善を行うためには、自分の教育システムを見直す視点を自分も持っていないといけないということです。そして、そのためには、今自分たちが行っている保育や教育に対してしっかりと理解していなければ、変更や改善するのではなく、鵜呑みにしてしまいます。まず、じっくりと自園での実践に目を向けることが重要なのだということが分かります。