教育

改革の難しさ

アンドレアス氏は、日本が行った「ゆとり教育」といった教育改革はかなり先進的な行いだったと評価していました。しかし、それがうまくいくことはありませんでした。教育改革が行われても、それがうまくいくとは限らないですし、それを実現することの方がより困難な場合があります。そして、それは日本に限ったことではありません。

 

PISAではOECD学習到達度調査が行われたことで、学校間のパフォーマンスの違いが見えるようになってきました。それは生徒、保護者、教員や学校管理職から集められた統計データに関連付けて説明できるようになったからです。このようなデータはよりエビデンスに基づいた環境を作ることにつながります。そして、それは政策開発を可能にするのです。しかし、現実には多くの良いアイデアは、政策の実施プロセスの段階でつまずいてしまうとアンドレアス氏は言っています。政府が政策を行うというのは市民からの税金を使って行わなければいけなく、それには賢明かつ効果的な利用を保障しなければいけません。そのため、政府は意欲的な改革目標を掲げ、それを達成するための戦略計画を設定ます。しかし、世界各国の教育大臣はアンドレアス氏との対話で共通してあることを言っています。それは「改革をどのようにデザインするかではなく、どのようにその改革をうまく実行に移すことができるのか」というのが、話題に上がるといっています。どの国も改革を進めることに難しさを感じているようですね。

 

では、なぜ教育改革はうまくいかないのでしょうか。OECDのグレゴリー・ヴルツブルグとパウロ・サンティアゴ、ベアトリス・ポントは長年にわたって教育改革の実行に関する研究を進めています。彼らの見解において、教育改革が困難な理由の一つは「それが対象とするセクターの規模と範囲」があげられます。つまり、教育改革を指示していても、その対象となる子どもに対して、実際のどのような変化が伴うかは「やってみないと分からない」のです、そのため、保守的になるということです。教育改革行うにあたって、政策立案者は法律、規制、構造や組織を見ますが、それはあくまで氷山の一角です。教育制度を動かすには水面下に広がるより大きく、目に見えない部分の存在があるのです。そして、そこに関わる人々の興味・関心。信念、動機や不安によって構成されます。つまり、人々に何を変革すべきかを気付かせ、共通理解と変革への共同の所有権を持たせ、コンプライアンスよりも、資源、能力開発、イノベーションや発展を促すようにデザインされた説明責任の基準等を含む正しい政策風土を形成し、一般に学習者よりも教育者や管理職の関心や慣習によって構築された組織構造を打ち出さない限り、教育改革に成功することがないのです。

 

これは実際に私が感じたことでもあります。何においても、政策を動かしていくのは現場にいる教員たちなのです。いくら理想が高くても、現場にいる教員方が納得していないとそういった政策が理想の形になることは難しいのです。だからこそ、共通理解や共通認識を持つことが重要になってきます。夢や志、という抽象的な理想を共有できなければ、教育改革が行われないというのは当然のことでありますし、人がこれまで行ってきた活動、ましてや大きな問題も起きていないところからわざわざ新しいことを行うというのは非常に大きなエネルギーを使います。そのため、そこに向けた動きに共感や理解がなければなかなかうまくいかないのです。

平等と公平

イギリス領ヴァージン諸島ネッカー島にあるリチャード・ブランソン卿でアンドレス氏は3日間一緒に過ごすことがあったそうです。彼はロンドンの一件のレコード店から「ヴァージンググループ」ブランドを立ち上げ、一大多国籍企業へと育て上げました。しかし、彼の半生は決して順風満帆ではありませんでした。

 

彼は、自分の創造的才能と実業家としての才能を伸ばそうとしない学校に幻滅し、16歳で中退することになるのです。学校は彼の識字生涯の原因を突き止めようともせず、校長は最後の登校日に「君はいつか刑務所にはいるか、億万長者になるかのどちらかだね」と言ったそうです。そんなブランソン氏は多くの航空会社が倒産する中、他とは違う方法をとることで航空会社を成功させます。それは他者が効率性を最大化し、その目的に合わせて組織を変革していた中、従業員を大事にし、優れた成果を出すために必要なことは何かを従業員に尋ねます。そして、彼は顧客に最高のサービスを提供する環境作りを従業員に一任しました。

 

彼は個性と価値観を大事にする教育ビジョンも備えており、善悪への強い感性、他者の主張に対する感受性、個人や集団にできることの限界を把握することが求められる社会の不平等と分断化を踏まえること、そうした側面は特に重要だと思われたのです。こういった考えを持ったブランソン氏と一緒に過ごす中でアンドレアス氏はあることを感じます。

 

「教育の意思決定を行うのはいつも、教育システムの中で苦労を重ねてきた人々ではなく、教育システムの恩恵を十分に受けてきた人々であることを認識した。しかし、教育システムの弱点を明らかにし、差し迫った変革の必要性を示せる人物は、たいていの場合、教育システムの中で、苦労を重ねてきた人々である」ということでした。

 

このことは保育においても非常に感じるところです。私は保育においてよく言うことですが、「できる子どもはできない子どもに合わせることができます。しかし、できない子どもはできる子に合わせることができない」ということを話すことがよくあります。それが発達によってであればより不幸です。ただ、それでは「できる子」が「もっとできる機会」を失ってしまいます。だから「選択制」が必要なのです。いつの間にか大人は「年齢」という枠に子どもを当てはめて、子どもに価値観を当てはめてしまいます。そういった子どもは自分の持っている価値のある才能を生かせない環境においてしまうことになりかねません。「その子ども個人の個性を信じる」ということがいかに難しいかをとても感じますが、それは子どもに委ねて意思決定を持たせることも重要なことなのかもしれません。

 

いずれにしても、大人が思い描く教育システムは「できる子」に合わせたものでありすぎるのかもしれません。一般的にいう「平等」は人によっては「不平等」になりえるということを知っていなければいけません。そうしたうえで、それぞれにあった教育が与えられるような環境があることが子どもたちによって「幸せな人生」につながるようにしてあげたいものです。

教育と経済効果3

ハヌシェック氏は長期的な予測において、学力の高い生徒の割合が多いことで経済的影響が大きくなるという予測をたてました。そして、この予測の信頼性は長期的な予測の前提によって起こるとしています。そして、その前提は2つあり、一つ目は「より優れた教育を受けた労働人口は、より速い速度で技術進歩を遂げるための新しいアイデアをより多く生み出す」ということです。このように今後の社会では世界的なグローバルな社会になってきます。その中において、技術革新というものは様々起きており、イノベーションが起きることが前提になってきています。今の時代でもAIの発展が経済的に起きる影響というのは計り知れず多いということが言えます。そういった技術を進歩させ、かつ新たな経済へと昇華させる人材が重要になってくるでしょう。そのため、そういった人材を育成していかなければいけません。そうでなければ、AIにとって代われれる人材が多くなってきてしまいます。これまでもAIの代替により失業者が増えるといっています。この育成を教育派になっているのです。ただ、これに関してハヌシェック氏はもう一つのシナリオを持っているといっています。それは「それぞれの新し労働者は同程度のスキルを持つ既存の労働者群を単に補充するだけであり、同じ生産性のまま生涯にわたって働き続ける。これは労働者が前任者の労働を単に継続するだけという悲観的なシナリオだが、学校教育が改善された後は金額は少なくなるものの、それでも素晴らしい経済効果が得られる」というシナリオです。どちらにおいても、学校改善において、学力が高い生徒が多くなることで、起きる経済効果というのは起きるということを示唆しています。しかし、前者のシナリオの方が当然大きな経済効果を生むのは言うまでもありません。

 

2つ目の前提は「スキルの向上が経済に実際に活かされる」という前提です。OECD国際成人調査では、人材から価値を引き出す力は、国や地域によって違いがあることを示しています。そのため、学校教育の改善は経済成長のための必須条件であるが、より優れたスキルを持つ多くの人がより良い給料で働ける、より高付加価値な仕事を国や地域が確実に増やすことも必要である。つまり、学校教育の改善により、社会に出る人材の質が高くなれば、そこで働く人材の価値を引き出すこともできるようになるということです。ただ、高いスキルを持った人材がいるだけでも、経済効果というのは起きるでしょうが、それだけではなく、そういった人材を使いこなす人自体も作ることに貢献することがあるのです。

 

こういった予測は過去に似たような転換を遂げた国や地域と同じくらい効率的に新しいスキルが浸透することを前提としています。学校教育と経済効果との関係はかなり大きいようですね。

教育と経済効果2

アンドレアス氏はPISAの学習到達度調査とハヌシェック氏の方法を組み合わせることで、教育の向上による経済的影響を見出しました。そして、それは何も低所得者の多い国だけの話だけではなく、資源の豊かな高所得者の多い地域においても、同様に影響が出ることが見えてきたのです。

 

アンドレアス氏は「天然資源の乏しい国や地域(フィンランドや日本、シンガポールなど)の国民は自国が国民一人一人の才覚、すなわち知識とスキルで生き残っていかなければならないこと、そして、提供される教育の質が頼みの綱であることを理解している。したがって、国や地域が教育をどれくらい重視するかは、知識とスキルが国の財源を満たす方法にどう適合するのかに関する、その国や地域の見解に少なくとも部分的には左右されているように思われる。ゆえに、教育を重視することは最高の教育システムと経済的繁栄の両方を築くための前提条件であるかもしれない。」

 

教育を重視することは経済にも大きく影響するのです。そして、天然資源に乏しくない、つまり天然資源が多い国や地域のすべての生徒が最低限の基本スキルを習得した場合、それらの地域や国の経済的な利益を合わせると、現在のGDPのほぼ5倍に相当するといっているのです。現在、アラブ首長国連邦はごく最近この取り組みを始めました。そして、教育制度を迅速かつ根底から改善していくことを表明しています。経済的に豊かなOECD加盟国で、極端な学力不振を解消するだけで得られる経済的な利益は、初等教育と中等教育への投資よりも多くなることが見えてきたのです。

 

しかし、このようにそれぞれの生徒の基本的スキルを習得することは、学力が低い生徒にとっては大きな影響となるが、すでに高いスキルを習得している生徒にはあまり影響はない。ただ、PISAは学力の低い生徒の学力向上につながる学校改革は、学力が高い生徒にも等しく効果があることを示唆しているそうです。つまり、国や政府の学校教育改革の向き合い方によるようです。学力によって経済的影響が起きている国は、生産性の最も高い国や地域に追いつこうとさらなる努力を行っている国や地域で大きく異なるのです。そのため経済が改善してくプロセスは、このように学力の高い生徒の割合がより大きい国や地域で加速するようなのです。

 

では、学力の高い生徒の割合が高い国や地域はどういった特徴があるのでしょうか。一つのキーワードは公正な教育機会を提供することに成功していることです。教育の卓越性と公平性の両方に投資することが学力の高い生徒の割合が増える可能性が高くなるのです。

 

ただ、こういったように長期的に見て教育システムの影響が大きくなる予想の信頼性は長期的な予測の前提によってきまるといっています。それはどういったことなのでしょうか。

教育と経済効果1

アンドレアス氏は著書「教育のワールドクラス」の中で、たびたび、教育と社会経済との関係を話しています。2015年初期、アンドレアス氏はスタンフォード大学のエリック・ハヌシェック氏と、ドイツ経済研究所のルドガー・ウイスマン氏と共に、UNESCOの世界教育フォーラムの報告書において、持続可能な開発目標の一部として、世界共通の教育目標について議論しました。ハヌシェック氏とウイスマン氏が示したのは、学校教育の質は、国や地域が長期的に生み出す富に関して、信頼のおける予測因子であることです。

 

学校システムの質を損ねることなく、皆が学校教育を受ける権利を保障することは、特に多くの子どもたちが未だ学校に通えない貧しい国や地域において経済的なメリットを生み出すというのです。さらに教育の質の向上によって生じる大きな影響は生徒全員が基本的なスキルを身につけると、経済への直接的かつ長期的な恩恵が大いになるということです。このことは、15歳の生徒が2030年までにPISAの習熟度レベルにおいて最低でもレベル2を達成した場合、経済成長と持続可能な開発の恩恵は相当なものになるということを示したのです。

 

西アフリカのガーナ場合、中等学校への進学率は46%と低く、15歳の生徒の習熟度レベルも最も低かった。しかし、このガーナで最低限の基本的な読解力と数学的リテラシーを習得できるように教育を施せば、今日生まれる子どもの生涯にわたるメリットは現在のGDPの38倍にもなることが示されました。低所得・中所得の国や地域では、現在のGDPの13倍のメリットになり、今後80年でGDPは平均で28%高くなり、中所得・高所得の国や地域では、GDPは平均で16%高くなります。つまり、教育の質を高めることで得られる恩恵というのは何も低所得な地域だけではなく、高所得な国においても大きなメリットがあるのです。

 

アンドレアス氏らの調査によって見えてきたのは、子どもたちの未開発のスキルの中に埋もれている富は、天然資源から引き出せる富よりもはるかに大きいということを、資源豊かな国に対しても突きつけました。「天然資源は消耗する。使えば使うほど少なくなる。知識は成長する。使えば使うほど増えていくのである。人類の発達に最大の影響を及ぼした科学的発見は、無知に気づき、知識を高める手段としての学習を発見したことである」といっています。

 

このことを実現したのがシンガポールでした。シンガポールは天然資源がなく、常に他国に頼ることがある。そのため、資源が少ないために、人材を一つの資源として育てることを中心にしていると聞きました。「金融・建築」などを担う人材を育てることを大切にしているのです。それほど、人という一つの「資源」から得ることができる人材というのは大きいのでしょう。日本においても、決して世界的に見て、学力が低いというわけではありません。しかし、私の主観としてはどこかで停滞しているような気もしています。他国が様々な取り組みや方法を模索し、進めいるなか、日本においては過去の教育をそのまま踏襲し、変化に消極的なように見えます。景気の低迷が長く続いているというのも、もしかすると教育にこそ問題があるのかもしれません。