教育

社会関係資本

アンドレアス氏は「社会経済の世界では、質問は公平性と包摂性をもたらす」と言っています。この「質問」という文脈が私は少しわかりにくく感じましたが、「疑問」という言葉に読替えると理解しやすいように思います。つまり、常に疑問を持って社会経済を見ていくことで、公平性をもたせる必要性と包摂性(弱い立場のある人々も含め、市民一人ひとりが社会の一員として、支え合うこと)をもたらすということができるようになるというのです。

 

そして、私たちは経験、文化的規範、共通の目的又は職業を共有する家族や他の人々への帰属感といった「接続型社会関係資本」と呼ばれるものを持って生まれる。しかし、これからの社会経済において経験、アイデア、イノベーションを共有し、多様な経験と関心を持つ集団間で共通理解を築き、見知らぬ人や機関に信頼を広げていく「橋渡し型社会関係資本」を作り出すためには計画的で継続的な努力が必要であると言っています。

 

これからの時代においては多様性を持たせる社会や持続可能な社会ということが言われています。こういった社会のために「橋渡し型社会関係資本」を作り出す必要があるというのです。このような社会関係資本の橋渡しと多元性を尊重する社会は、どこからでも最高の才能を集め、多様な視点を積み重ね、創造性とイノベーションを育むことができるようになるため、常に創造的なのです。現在、様々な技術革新が起きている中で、世界的に有名が企業の多くは多様性が尊重されているように思います。偏見をなくし、それぞれの才能が尊重される社会であれば、より一層の発展した社会がもたらされるのは想像に難くありません。しかし。アンドレアス氏は多元性と多様性という価値観への幻滅が広がっていると言っています。このことは「内向き」のポピュリスト政党の登場を含む、政治的な状況からみられるというのです。最近でも、アメリカの大統領が変わりましたが、人種差別問題がやはりあがっていました。また、アメリカの経済の発展のためだけがクローズアップされ、他国との協調というところは重視されない背景が見えてきました。しかし、これは驚くべきではないとアンドレアス氏は言っています。

 

世界経済が一体感を増すことで全体的な生活水準は大幅に改善されたが、知識とスキルが高い人と低い人との間で仕事の質の格差を広げたというのです。OECDの国際成人力調査によると、OECD加盟国には10歳の子ども相当の読解力のような最も基礎的なスキルを持たない労働者は2億人以上もいるようです。まだまだ、世界では教育は包摂性といった課題からは逃れられていないのです。日本においても、この教育格差というのは問題にあがることがよくあります。

 

そこには社会関係資本のあり方に問題があるのではないだろうかとアンドレアス氏は言っています。社会関係資本が弱まり、市民社会が繁栄するための必要条件が損なわれることで共同体に不平等が生まれます。多くの人は普通に豊かに生活する人生を送る一方では、戦争による移民や生活困窮によって豊かな国に移民しようとするといった、何百人もの人々が生活環境の変化に苦闘しています。その状況は現在の生活の変化に怒りを感じ、混乱させられ、自分たちが誰なのか、自分のいる位置はどこなのかといったアイデンティティに疑問を感じているのです。アンドレアス氏は「私たちは単純化された解決ではなく、想像力とイノベーションで機会のギャップを埋める努力が必要である。そして、共通の人間性を理解するための努力も必要である」と言っています。これからの社会において、日本も労働人口確保のために海外の労働者を受け入れていくことが予想されています。

 

つまり、日本においても社会関係資本の考え方は決して無縁の話ではないのです。そのときのために、教育や保育は備えておかなければいけないのです。

30年後・・・

今後の世の中はデジタル技術とグローバル化によって、経済構造や社会構造に大きな影響をもたらすと言われています。しかし、その影響は当然のごとくどういったものかはまだ分かりません。それらの結果について、アンドレアス氏は「破壊的な影響力に対する集団的な反応、すなわち技術的な最先端領域と文化的、社会的、制度的、経済状況と、それに応じた人々の継続的な相互作用によって決まる」と言っています。つまり、生かすも殺すも自分たち次第ということですね。うまく新しく出てきた技術や多様な社会において、適応していくのかが重要になってくるのです。

 

こういった環境において、国際社会では2030年に向けて持続可能な開発目標(SDGs:Sustainable Development Goals)を設定し、貧困を終わらせ、地球を保護し、すべての人々が繁栄するための行動指針を示しました。アンドレアス氏は「これらの目標は、ますます加速してく時代の遠心力に対する接着剤であり、グローバル化のパズルにかけた部分を提供する人類共通のビジョンである。これらの目標がどの程度設定されるかは、今日の教室で起こることに少なからず依存している。持続可能な開発目標の基本原理が、市民との真の社会契約になるためのカギを握るのは教育者である」と言っています。

 

そして、アンドレアス氏は「2030年には現在の小学生は義務教育を修了している。したがって、私たちは小学生が現在何をまなぶかを形づくるために、彼らの将来について考えていなければならない」と言っています。このことについて、私もある先生から「私たちが今保育している子どもたちは30年後には間違いなく社会に出ています。つまり、私たちは30年後の未来を予想して保育をしなければいけません」と言われたことを思い出します。

 

教育者はつい、日ごろの保育に追われ、現在の子どもたちに目を向けがちです。それは当然のことで、それを怠ってはいけません。しかし、自分たちは決して社会において無縁ではないということも同時に考えなければいけないのです。そして、社会に出たときに、どういった力が必要とされるのかを意識する必要があるのです。アンドレアス氏の話はどちらかというと学校教育の話が中心です。そのため、多くの話は学校現場においての話になりますが、我々保育に携わる者はこういった学校現場の変遷を知ることの重要性もすごく感じます。

 

保育は小学校のプレで行うものではなく、社会を見据えた保育を行い、乳幼児期に必要なことを行い、小学校にパスしていかなければいけないのです。それぞれにはそれぞれの役割となる教育課程や保育課程があるが、それらは別々に行われるものではなく同じ目標を向いていないければいけないのであろうということを感じます。それが保育現場と教育現場の連携となりえると思うのです。

移り行く環境

アンドレアス氏は「21世紀の教育の背景には、絶滅寸前となった私たちの環境がある」と言っています。それはどういった部分のことかというと「人口の増加、資源の枯渇、気候変動」ということが挙げられており、そこから持続可能性と将来の世代のニーズについて考えていかなければいけないと言っています。それと同時に、テクノロジーとグローバリゼーションの相互作用は、新たな課題と新たな機会を生み出しているというです。

 

アンドレアス氏は「デジタル化は民主化の力である」と言っています。しかし、デジタル化は小さな声をどこでも聞こえるようにする一方で、個性と文化の独自性を消し去ることにも危惧しています。人々は利便性のために自由を引き渡し、コンピューターの助言や意思決定に依存すれば、デジタル化は人々から力を奪うこともできるのです。

 

このことは私も常々感じているところでもあります。TwitterなどSNSといったツールは正しく使えば、非常に便利な機能を備えています。しかし、その反面、最近のニュースではSNSに関わるものが少なくありません。結局のところ、SNSをうまく使うというよりは、SNSによる技術に人間が振り回されいるようにすら感じます。しかし、このことはSNSだけに限らず、技術の進歩はそれと同時に人間の豊かな心情や生活をどこかで犠牲にしているように思います。メールが出てきたときも、「相手の顔が見えないので感情を見えずらい」といったようなコミュニケーションにおける問題が言われていました。世の中では、24時間どこででも、飲み物や食べ物が変えるようになった半面、家庭で手料理が出ないことも出てきたり、食品添加物の発展による健康被害もささやかれたりしています。

 

新しい技術共に、新しい文化が出来上がっていくというのはどの時代も同じだという一方で、今の社会、コミュニケーション能力の低下というのは非常に危惧しなければいけない内容だと思います。なぜならば、それは人がこれまでの歴史の中で、最も強みとしてた能力であって、人が他の種とはっきりと違う高度なコミュニケーションがあるからこそ、さまざまな気候変動や環境に適応してきたことや、グレートジャーニーと呼ばれるほどの途方もない旅に出て、分布を広げることができたのだと思います。そのコミュニケーションができなくなっているというのは非常に危険なことであろうことは想像に難くないと思っています。

 

だからこそ、保育は子どもたちの家族以外の「他」と触れる初めての機会でもあります。この始まりこそ、大切にしなければいけない時代であると私は思っています。デジタル化になっていく環境には逃れることはできません。便利な世の中になっていくということも変えることはできません。だからこそ、そういった時代だからこそ、保育とはなにかということを問い続けることが必要な時代でもあるのだろうと思います。

改革の進み

アンドレアス氏は政策を実行するにあたっての社会構造の欠点についても言及しています。

公教育は標準化とコンプライアンスが社会全体における規範となっており、集団教育や一度きりの教員研修が効果的であると言われた産業革命の時代に誕生していると言っています。この時代には、生徒が学習指導要領を通じて学ぶべきものは、すべてピラミッドの頂点においてデザインされ、何階層もの政府機関を介して、機関レベルでの教材、教員養成や学習環境に取り入れられ、各教室で個々の教員によって実施されるといったトップダウン形式の方法がとられています。

 

この構造は今でも同じように脈々と行われています。しかし、アンドレアス氏はこの構造が、今日の改革プロセスを非常に遅らせていると言っています。改革の動きが速い国々さえ、学習指導要領の見直しは、6~7年ごとにしか行われていません。その他の領域となると急速な変化のペースに対する反応はさらに遅いと言わざるを得ない。実際のところ、今日、私たちの日々の生活に関わるほぼすべての側面において、デジタル技術による革命が起きているにもかかわらず、それが教室に入ってくるスピードは驚くほどに遅かったことが例として挙げられています。今回の新型コロナウィルスにおいても、この教育の中にデジタル技術を導入するということが取り上げられていました。それまではなかなか進まなかった教科内容が今回のコロナで大きく前進したと言われています。こういったことがない限りなかなか教科の内容が進まないというのも一つの特徴として挙げられるのでしょう。しかし、このように教科内容が進んだとしても、その議論が行われていないだけに、不完全なものが多いようにも思います。アンドレアス氏は「新しい技術を導入する試みでさえ、多くの場合、不完全な形でカリキュラムのニーズに対応する程度に止まってきたのである」と言っています。

 

そして、「何階層にもよる行政構造を通じてトップダウンによる統治は、もうすでに機能しなくなってきている。今直面している課題は、世界中の何百、何千もの教員や学校管理者の専門性を基盤として改革をすすめることであり、優れた政策や実践をデザインするために彼らの参加を促すことである。改革のデザインに教員やガッコいう管理職を取り組まなければ、彼らがそれを実施することはないだろう」と話しています。

 

この言葉から私は、今や現場にいる人間が制度のせいにするのではなく、自分たちが発信する側にいるということを自覚していなければいけないのだろうと思います。現在、自園でも保育をかえることを行っていますが、乳幼児教育の場合は、制度が良くも悪くも大綱化されています。そのため、各園の裁量によって動くことができます。そのため発信することや改革をすることは園独自では比較的行いやすいのですが、それが学校教育となると公教育であり、制度によって教育内容が見直されるため、なかなか難しいというのが現状なのでしょう。そして、そういったところから離れた「私塾」が新しいことを行いやすく、独自の文化も作りやすいというのが日本における塾文化ができた一因なのかもしれません。やはり本質は制度に縛られるのではなく、どう生徒や子どもを見るかどういったところを大切にするかという子ども観から保育や教育を見ていくようにしていかなければいけないということが重要なようですね。

政策と現場

アンドレアス氏は教育改革を行うには人々に何を変革すべきかを気付かせ、一般に学習者よりも教育者や管理職の関心や慣習によって構築された組織構造を打ち崩さない限り、成功することはないと言っています。

 

それと同時に、教育改革は利益や特権的な地位に与える潜在的な損失に着目することが特に重要だとも言っています。それはこういった改革を行うにあたって、そこに存在する既得権益が数多くあるからです。たとえば、その際たるものは、テスト業者や教科書出版などです。こういった既得権益が存在するので、現状維持に努める庇護者、すなわち変革によって一定の権力や影響力を失う可能性のある教育に関わるステークホルダーが多く存在するのです。そのため、小規模の改革でさえ、大規模な資源の再分配が必要であり、多くの市民生活に影響を与えます。それは「人目を忍んで実施する改革は不可能」ということを意味しています。すべての改革案には後半に及ぶ政治的なサポートが不可欠なのです。それは教育改革は教育者が主導して実行しない限り実現しないことを意味しています。

 

それはなぜなのか、政治からの変革は難しいのか。そこには先に述べたステークホルダーの存在があります。それと同時に教育インフラは規模が大きく、何階層もの政府が関与しており、お互いに改革に関わるコストを最小限にしたり、他に負担を負わせえようとする動きが見られる点から、コストに関わる不透明さを解決するのは難しいという面もあります。そして、教育分野への投資は金額が高く長期間にわたるにもかかわらず、特に改革の実施から効果が見えるまでの時間差が大きいために、新たな改革による明確な成果を短期的に予測することは困難なのです。

 

一方で教員はたとえ現行の教育制度への不満が大きかったとしても、一般的に社会からは好意的にみられています。また、教員は政治家と比べて社会からの信頼を得られる傾向が強く、改革への抵抗は教員にはあまり影響しないことが多い。現行の教育制度への意見が多少なりともある保護者においても、一般的に教員には好意的なのです。そのため、多くの場合教員との協働なくして改革の実行は不可能です。教員は改革が間違っていたと非難することで、改革の動きを弱めることもできるのです。まさに「ゆとり教育」はこういったことが背景にあるように感じます。

 

しかし、教員の多くは教育実践の改善や学習者や教育者のニーズよりも政治的な関心を優先した一貫性のない混乱を招くような改革に、多くの教員は長年苦しめられたと言っています。改革へ向けた教員の努力は必ずしも彼ら自身の専門性や経験に基づくものではなかったともアンドレス氏は言っています。だからこそ、教員側の理解も得られなかったのでしょう。

 

政策と現場は両輪で動かなければいけない中、それがうまくいっていない現状は多々あります。「子どものため」というのが免罪符になり、どちらにおいても、どこに向かうべきなのかということが意識されないまま、進められていることはどの国でもおおいにして起きていることなのかもしれませんね。