教育

学力調査だけで見ると

齋藤氏は「新しい学力観」に関して、「個性を伸ばす」であったり、「主体性を伸ばす」といった言い方であったり、「日本人は記憶力はあるが問題解決能力は低い」と言われていることに対して、個性や主体性を重んじた教育への転換には本当にリアリティはあるのだろうかといっています。実際のところPISA調査における問題解決能力に関してはどうなのだろうかを見ていこうと言っています。

 

この2012年のPISA調査は65カ国・地域、51万人(日本からは約6400人が参加)の15歳を対象に行われたものです。日本は数学的リテラシーの平均得点は7位、読解力は4位、科学的リテラシー4位と、2000年の調査に比較すると2分野で順位を下げました。そのことも根拠の一つで、「学力の低下」と日本では叫ばれていたのです。しかし、この結果は本当に「悪い」ことなのだろうかと齋藤氏は言います。なぜなら、PISAの調査によると日本はどの分野も比較的上位に位置し、日本より上なのは、おもに上海やシンガポールなど、日本より著しく規模の小さい地域、それも東アジアの地域です。

 

これは「問題解決能力」において進んでいると言われており、最も頻繁に参考にされるアメリカやスウェーデンよりも上位であり、「新しい学力観」の根幹に関わる「問題解決能力調査」の試験で、日本がほかの欧米諸国より顕著に優れた結果を残しているという事実もあります。

 

齋藤氏は日本の教育において、「様々な問題はあるとしても、一般に日本は今のところ比較的平和で安全で清潔な社会であり、生産性が高く質の高いサービスが提供される社会でもある。日本よりも平和で安全で機能性の高い国を見つけるのはなかなか難しい。このような高い文化水準と経済力を兼ね備えた社会を、単純に『今までのやり方は古臭い』と切り捨てるのは、あまりに判断の事実的基礎を書いたものではないだろうか」と話しています。

 

確かに、このことはPISAの学力調査の結果を見た時に考えさせられる内容ではないでしょうか。あたかも日本の問題解決能力は他国に比べ、低いような印象を受けることがおおくあります。しかし、実際の成績結果を見ると日本はトップ10に入ってはいますし、必ずしも低いとは限らず、むしろ高いのです。ただ、そこで注目されるのはPISA調査の上位の国は非常に加熱した受験戦争が行われている国が多いということも同時に見えてきます。このことは何を意味しているのでしょうか。受験やテストを否定するわけではありません。しかし、実際のところ、PISAの学力調査から見えてくるものと、実際に社会に出てから見えてくるものとの違いもあるようにも思います。これらの学力が高くても「いじめ」は無くなりませんし、自殺者やうつ病といった社会問題が解決はしません。学力を「学力」として、成績として見るのか、その後の社会生活や学力が生かされているのかも加味してみていかなければいけないように思います。

ICTがあっても

齋藤氏はICTの活用にも学習の質は関わっていると言っています。ICTはうまく活用すると大きな成果を生むとしながらも、注意しなければ、このような学習形態や学習の手段が、学力の質を必ずしも保証しないのではないかと指摘しています。ICTは学習者がパソコンやタブレット、スマートフォンなどを手元に持ち、その場でインターネットを使って調べたり、ひとりひとりが課題を解くプロセスをICT機器をとおして教師が知ったり、主体的な学習の実現や、教師と学習者との間の双方向的なやりとりが期待されています。

 

教師が出した課題を生徒がICT機器で回答し、生徒の何割がどのような回答をするかを教師が把握することで、次の授業への展開への指示の仕方変わってくることもあります。また、調べものや情報の組み合わせをすることでレポートを仕上げたり、プレゼンテーションにおいても、クラス全体が同時に文字情報などを黒板にのせることもできたりします。こうしたようにICTを利用することで、自分で調べる習慣が身につき、自分の考えを全体に対して発表することにも慣れてきます。

 

しかし、一方で、ICTの利点に反して、知識の取得や思考の育成にとっては、こうしたやりとりが伝統的な学習スタイルよりも有効であるという保証はないのです。調べる媒体や活用する媒体としてはICT機器は優れて居ますが、本当に技として活用できる知識をどのように身につけるかということになると、便利な道具よりも、自分の手を使い、声に出して学習する地道な学習の方が効果があることもあり得るのです。

 

これは実際に地道な方法で覚えた知識は大人になっても忘れないが、インターネットで調べた知識は忘れてしまうことは多くあります。カーナビもそれにあたるかもしれませんね。カーナビを使って、目的地まで行くと意外と道順は覚えなかったりします。しかし、自分で地図を見てルートを決めたり、迷いながら目的地に行くことで道や地図を覚えることが多いです。確かにそう考えると、ICTにすべてを変えて、地道な学習は必要ないということではないということが分かります。あくまで、ICTの利便性を活かし、学習者がより充実した有意義な学習スタイルを身につけるような授業をしなければいけないのです。実際、脳科学者で東北大学教授の川島隆太氏は教科書の電子化について、道具が便利になり楽をすればするほど、脳は活性化しなくなると発言しています。学習において、ICTにもその可能性はあるのです。

 

現在スマートフォンを持っている人は多くおり、インターネットを通じて、古今東西の学問的知識はどこでもどんなことでも手に入れることができる知識の宝庫ですが、では、今スマートフォンをこういったように活用している人はいるでしょうか。多くの人はゲームやSNS、商品検索や音楽を聴くことに活用しています。青空文庫のような著作権の切れた名作を読む人は少ない。結局のところICTの活用は使う日との学習意欲が高くなければ、学習の質は上がらないのです。場合によっては、質の高い学習が行われているのであれば、一方的な講義形式でも問題はないのです。

評価の必要性

従来の同じ日時に試験を受け、一点刻みで評価が出される従来の試験スタイルは、評価は厳密になり生徒にはプレッシャーがかかります。試験では実際勉強したところの5%にも満たないかもしれないが、入試で「あと一点」を挙げるために、結果として出題されない大部分を真剣に勉強する。そうしたある意味理不尽ともいえる状況で努力することを評価してきたのが、従来の試験スタイルです。しかし、それを廃止し、問題解決型の問題を解くとなると、もともとの頭の良さが問われることになるとなり、さきのPISA調査のような教科にとらわれない問題では準備ができず、努力のしようがなくなり、勉強自体をしなくなるのではないかと齋藤氏は危惧しています。授業でどれほどアクティブに話し合いをしていても、それだけで終わりでは、結果として総合的な学力は落ちてしまうというのです。

 

また、大量の人間が受ける試験で、思考力・判断力といったその場で発揮できるかどうかにかかっている能力を問うことが公平であるかも疑問だというのです。努力してきた、いわば「努力賞」を与えることもテストの一つの良さであったという部分も齋藤氏は指摘しており、こういったどの生徒も入試のために行った地道な努力といった公平性は新しい学力に合わせた面接やレポートで果たして保障されるのであろうか。また、レポートを他者が作成する危険性も完全には排除できないのではないかというのです。

 

学習の場面において、多くの場合、評価に向けて子どもたちは努力します。その時に、何をどう評価するのかが不透明であれば、努力は甘いものになります。評価の基準を明らかにし、それを子どもたちにつたえ、自ら成長への意欲を持たせることができるかで、「新しい学力」を得るどころか、むしろ子どもの意欲の芽を摘みかねないというのです。

 

今回の齋藤氏の内容は非常に今の日本の教育者かいを物語っているように思います。「評価に向けて子どもたちは努力する」というのはそれだけ、自己評価ではなく、他者評価によるものが重視されているのだろうと思います。誰かに評価されるのが普通であり、評価されないと不安になるのです。海外ではどうかはわかりませんが、よく入試に関して聞くのは海外では大学は「入りやすく、出にくい」ということをよく聞きます。そのため、大学を卒業するためにはそれだけ大学内で何を勉強し、どういった研究をしたいのかをより明確にしていかなければいけません。それに比べ、日本の場合は「入学しにくく、卒業しやすい」と言われています。だからか、逆に入試に関しては燃え尽き症候群と言われるように大学に入ってからやる気が無くなる人も多いと聞きます。大学や学校の入試に関して、もちろん選別という意味での試験が必要であるということはわかります。しかし、齋藤氏が危惧する意味の「評価に向けて子どもたちは努力する」といった評価は重要なことなのでしょうか。それ以上に私が大切に思うのが、「評価のために勉強をする」ということよりも、アンドレアス・シュライヒャー氏が言っていたように「何のために勉強しなければいけないのか」という目的意識を持たせることが重要なことであるように思います。日本の場合、この「努力すること」に目が行き過ぎて、何のために努力をすることが必要なのかに目が向いていないように思います。「○○大学に進学する」ことが目的になり、「○○大学で~~を勉強して、○○になりたい」といったところまで、見通しを持ったことはないように思います。日本は大学を出てから職業を決めます。こういった文化自体を変える必要はあるのかもしれない。大学がステータス化しているのはこういった文化にあるように思います。

評価

新しい学力を育成する際の二つ目の問題点は評価の問題です。「意欲」というものをどう評価するか。「情熱があります」「意欲があります」と面接の中で言葉として出しても、それが情熱・意欲の証明になるものかというと疑問です。意欲は内に秘められてこともありますし、静かに燃えている形もあり、いかにも活動的で話し合いが巧みであっても、生涯をかけて粘り強く研究を続ける意欲があるとは限らないと齋藤氏は言っています。これは意欲だけに限らず、思考力・判断力・表現力・行動力といった諸能力についても、それを評価し、点数化することは、かなり困難なことであります。

 

では、評価の一つの方法として、生徒一人一人が自分の思考力や判断力について自己評価を下すことも考えられなくはない。例えば、カードにその都度自己評価を書いていくことがそれであるが、それも学力評価になるかというと、客観性には欠けるのです。そして、「みんなそれぞれがそれぞれの意欲を持てばいい」とすると、評価基準はないに等しくなります。アクティブ・ラーニングでは、生徒の自主性に任される側面も多く、それについて教師が一方的に評価することが必ずしも正しいとはいえない。生徒がわき道にそれても、それをゆるやかに受け止め、何かしらの気づきが生まれることを期待する器の大きい授業運営が求められると齋藤氏は言います。

 

齋藤氏は器の大きい授業運営の難しさを過去の小学校の見学を通して話しています。そこではこんにゃくの作り方をテーマに1時間生徒に話合わせていました。しかし、そこで行われていたのが一見熱心に話しているように見えるのですが、生徒は自分の言いたいことをただいうだけで、的確な根拠に基づいて思考し、判断し、次の課題に行く過程は見られなかったのです。そして、それだけはなく、教師や他の生徒が「評価しよう」とする場面もなかったのです。楽しく研究発表をして終わるのであれば問題がないが、評価基準のない教育を実践するはあまりに危険だと齋藤氏は言います。意欲・思考力・判断力などを評価する明確で客観的な基準をどのように設定するのか。教師の主観に頼りすぎない客観的でシンプルな評価のやり方が用意されているかが問題であるのです。

 

成績の評価というのは難しく、思考力や判断力・意欲といったものをどう評価していくかというは常に課題となっていると言います。齋藤氏は自己評価についても触れていましたが、日本では自己評価というものが海外ほど重視されていないことも一つの要因でもあるように思います。基本的に日本は他者評価が多いように思いますし、自己評価を行い、自分自身に学習の責任を持たせることをしていなかったのではないかと思います。確かに自己評価が学力評価として適切かどうかは疑問です。しかし、アクティブ・ラーニングが学習内容ではなく学習方法であるように、評価においても、自己評価は学力評価とは別にもっと積極的に行っていくべきであろうと思います。また、この議論においては、テスト形式においても、記述式ではなく、マークシートで、一設問に対し、複数の答えを選択したりと、まだ、工夫の余地はあるのではないかという見方もあります。また、こういった取り組みに関しては学校教育だけではく、乳幼児教育においても行っていくべき部分はありそうです。自己評価や自分で主体的に選択すること、思考力・判断力・意欲というものは乳幼児教育においても、決して、無縁ではなく、その始まりは乳幼児教育にあります。私がここ最近、学校教育における書籍を紹介しているのも、先の学習に対する乳幼児からのアプローチを考えていかなければいけないと思うからです。何も情報をやり取りするだけが連携ではなく、小学校の教育を理解して保育をすることも、幼保小の連携であるのでしょう。

センス

アクティブラーニングを教師が行う際に、齋藤氏が問題にしているのが、どうしても実践として行う教師の「センス」が子どもの学習状況を把握するには必要であるということです。実際のところグループ・ディスカッションと一口に言ってもダラダラとした話し合いになることも多ければ、「調べ学習」と言いながらも、学習者がさぼってしまうケースもあります。そうした曖昧な授業が1年間行われても、何が身についたかと言われると生徒は明確に答えられないのではないかというのです。

 

確かに自分が学生のときにおいてもグループ学習は行いましたが、自習のような取り組みに近く、頑張る生徒と傍観する生徒との間に学習の差があったようにも感じます。これであれば、ゆとり教育のような評価になり、まだ伝統的な学力を身につけるほうが結果としては生産的なのではないかと評価されかねません。そもそも、教員養成を行う大学の教員がどれだけアクティブラーニングを実践しているでしょうか。まだまだ、教員養成において大学の授業は昔ながらのものが少なくはなく、そうした授業を受けた大学生が現場の教師になったとしても、現実的にアクティブラーニングを主軸にした授業が行えるかというと大きな不安があります。

 

これに対し、伝統的な学力のような授業は、しっかりと決まった教科書があり、その内容を習得させる授業ならば、一年間の授業の実績は保証されやすくなります。面白い授業にならない危険性もあるが、内容上の水準はキープしやすいのです。そして、アクティブラーニングにこだわらなければ、センスのある教師はそれとは別の形で学習者の意欲を育てるような面白い授業をする力を持っている教師もたくさんいるのです。その教師たちは現行の指導要領においても伝統的な学力を伸ばしつつ、意欲や思考力、判断力などを高める授業をしています。

 

つまり、「新しい学力」を伸ばす授業をするには、教師のセンスが不可欠であり、意欲・思考力・判断力等が何より教師自身に求められます。それさえあれば、アクティブラーニングという手法にこだわる必要はないということも言えます。逆に伝統的な授業スタイルで成果を上げている教師にとってはアクティブラーニング主体に変えることで、学習効果が下がってしまう可能性もあるのです。

 

また、このことは教員養成における大学教育にも不安があると齋藤氏は言っています。大学の教員はそのほとんどは研究を主たる仕事とする研究者がほとんどです。そういった大学教員が授業の場を取り仕切る学習者の意識を活性化させる教育者としてのセンスを併せ持つことは容易ではありません。研究能力と授業というライブ空間を取り仕切る教育力は質的に異なる者なのです。しかし、これからの大学教育では、授業空間をマネジメントし、リードする教育センスが研究能力の高さと共に求められます。そのため、具体的に学習者のひとりひとりの意識が活性化する授業ができているかどうかを見なければいけないのです。

 

実際、自分が教員免許を取ったころは座学的に単位を取るものが多くありました。そして、単位さえ取れれば教員免許は取れるのです。厳選たる資格の認定はなく、多くは厳しい教員試験でふるいにかけられ、実践の中で学んでいくことが多いのだろうと思います。こういったジレンマを私は大学時代に感じました。これは教員だけではなく、保育者も似たようなものかもしれません。結局のところはテクニックではなく、「思い」であったり、「情熱」であったりをどれだけ高い水準で持っているかを見極めないと、本質的なものにはいきつかないように思います。新しい学力においても、その理解はやはり大きなモチベーションがなければ理解できない部分は大きかろうと思いますし、変わるためのエネルギーにはつながっていかないように思います。