教育
松下村塾では「課題作文」というレポートがあったそうです。出されたレポートに対しは、松陰が丁寧なコメントをつけています。テーマは各塾生が選ぶこともあれば松陰自体が出すこともありました。そこには現実の問題に対して、どのような解決策があるかを問うようなレポート課題も出しています。たとえば、日米修好通商条約締結といった当時現在進行中の国家的重大事をテーマとして、塾生がレポートを書き、皆で議論をします。この様子はまさにアクティブラーニングであり、問題解決型の学習方法であると言えると齋藤氏は言っています。
しかし、このようなアクティブラーニングのような問題解決型の学習だけではなく、古典の講読や解読も行われていたのは押さえ解かなければならないと齋藤氏は言っています。「孟子」などの古典をテキストにして、現在の問題を議論する。松陰はこのように古典を現在に活用する学習スタイルは得意とするところでした。そういった意味では、認知的な知識を覚える学習も同時に行っていたのでしょう。そして、知識を基にして、問題解決への糸口とすることにも重要性を考えていたのです。
松下村塾の中には情報網がありました。松陰は「飛耳長目」というキーワードを出しています。これは広く見聞きして情報を集めるということです。遠地の情報を集め、共有することが防衛のために必要だと考えていたのです。伊藤俊輔(のちの博文)、山県小輔(のちの有朋)たち六人が長州藩から幸とに派遣されたときなど、まさに藩が飛耳長目に務めていた例である。探索し、情報を積極的に集めることが重要であったのです。また、松陰は都会にいる弊害は、自然と情報が集まってしまうことにあると言っています。自然と情報が集まってしまうというのは気持ちが甘くなり、世間が広いようでいて実は狭くなったり、偏ったりしてしまうことであると指摘しています。
このことについて、齋藤氏は今の時代に照らし合わせて紹介しています。「現在はまさに、インターネットを通して、情報は手軽に大量に手に入る。そうしたことで、むしろ積極的な探求心が足りなくなるという状況も生まれる。」」といっています。確かに、今の時代、探求心を持たずとも、情報は外から入ってきます。特に今回の新型コロナウィルス感染症においても、同様に情報が錯綜しているのは否めません。インターネットだけではなく、テレビ、SNSなど様々な媒体も多くあり、その出所も、日本の政府機関から、大学の研究機関、世界中の研究機関など、一つの情報ではなく、探し出せば無数にある情報の中から有益な情報を取り出さなくてはいけない時代です。吉田松陰がいたころの時代とは全く逆で、かえって情報過多の時代にある今においては、自分自身が「なんのために」「どういった情報が欲しいのか」を割としっかりと持ったうえで、一方向からの情報だけにおいてもそれだけを信用するのではなく、二重三重にもエビデンスを重ねることや見通しを持つことが求められます。しかし、その根底には「その事柄を知りたい」という探求心や好奇心がなければ、それはできないのです。
2020年12月25日 5:00 PM |
カテゴリー:教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
齋藤氏は著書「新しい学力」の中で過去に日本の教育についても例に挙げています。その一例が吉田松陰の松下村塾です。問題解決型の新しい学力を、アクティブラーニングを通して見につけていく環境としては「塾」のような、学び手の側から師を求めてやってくる少人数の画好条件であると齋藤氏は言っています。
吉田松陰(1830~59年)の松下村塾は、江戸時代末期にすでにアクティブラーニングが実践されていたと齋藤氏は言っています。海原徹の「吉田松陰と松下村塾」によれば、松下村塾が目指したのはひとりひとりを生かす教育でした。教科書は塾生が選択する場合も多く、何をまなぶか、どのような教科書を学ぶかが塾生には任されていたのです。
そうなる一つの要因が年齢や入塾の時期が異なるものが塾生として同時に来ていたという点。また、時間的にも出入りが自由な形式であった点などからの自然な選択があったことです。犯行である明倫館の授業・試験に必要な、『資治通鑑』など官学系の勉学に励むものがいる一方で、明倫館の試験とは関係ないものを勉強する学生もいたのです。もちろん、教師の吉田松陰が良いとされる本をテキストにする場合もあります。従来の武士が無頓着であった経済方面の書物をテキストにすることもあり、塾生の一人である品川弥二郎は「経済は金儲けのことを言うのに、奇妙なことを言う先生だと思った」と回想しています。それは松陰は算術や経済を重んじ、実学的な「経世済民」を目指していたからです。そのため、テキストもおのずと現在の問題にいかに対処するかという問題意識が反映された選択となっています。
また、松下村塾には、教卓がなかったとも言われています。吉田松陰は塾生たちの間を移動し、個人指導を行うのです。明確な時間割もなく、来るメンバーや時間もばらばらで、教科書も塾生中心に選ばれていたという状況においては、指導は一斉ではなく個別的になります。松陰は「何のために学問をするのか」と問われれば、「実行が第一である。ただ本を読む学者になってはいけない」と答えています。教師と生徒の関係というよりは、共に学ぶ同士的な関係を松陰は重んじたのです。
よい教師の条件の中に「共に学ぶ教師」と言われることがあります。単に子どもに知識を与えることは子どもたちの学ぶ意欲を消してしまうことがあります。大切なのは子どもの問題意識に共に考えることが意欲を伸ばすことに大切であったりするのです。保育をしていても、そのことを感じることは多くあります。自分が良かれと思って子どもたちに教えたり、何かを描いてあげると多くの子どもはそれを真似して描き始めるどころか、また、描いてともってきます。自分で意欲的に考えさせるためには、教える以上に共に考え、その時に、「もうちょっとがんばればわかる」ところまで教えることが重要であるように思います。また、吉田松陰の学舎の興味深い部分が、「異年齢」と「選択」です。様々に多様な環境や人材がいることで、それらが刺激し合い、教え合うことがその場で起きています。以前、オランダのイエナプランの様子を見にいったときにも、先生ばかりが教えるのではなく、教え合う環境が整っていました。「人に教えることで、自分は3倍勉強する」と言いますが、そういった環境を基にした意欲というというのも、もう少し日本は取り入れてもいいように思います。
2020年12月24日 5:00 PM |
カテゴリー:教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
齋藤氏は「新しい学力観においては、学ぶ意欲自体が評価される」としています。そのため、積極的な問題解決に向かう姿勢を見せることが求められます。だからといって、従来の伝統的な学力を身につけ、試験に臨んできたものたちが意欲に欠けていたと考えるのは妥当ではないといいます。自分の関心や好奇心に従って、問題を考え、レポートにした人間だけが意欲があるというとそうではなく、体系的な知識内容を地味にトレーニングする「耐える学力」も重要なのです。
齋藤氏はこういった力は社会に出てからも必要だと言います。仕事において、必要な知識内容が自分の興味関心が持てるとは限らないのです。部署が変わるごとに必要な基礎知識はその都度新しく大量に提示されます。それを記憶し、活用するためには、むしろ伝統的な学力をトレーニングしてきた人間が得意とするところだといいます。
確かにその通りです。しかし、果たしてそうなのでしょうか。伝統的な学習観があるからできるのでしょうか。アクティブラーニングで問題解決型の学習ではできない能力なのでしょうか。問題解決能力を発揮することで、かえって粘り強く勉強するということに繋がらないのでしょうか。内容を見ていく中で、疑問点が浮かびます。覚え込むことや記憶する学習が必要ないとは思いません。問題解決能力ばかりであると記憶する学習はしないとも思わないのです。当然の話ですが、問題解決能力に向けた学習においても、伝統的な学習においても、根本的に必要なことは「学ぶ意欲」をいかに持たせるかということであると考えます。最近では「レジリエンス」という言葉をよく聞きます。レジリエンスは「跳ね返る、弾力」といった意味を指します。逆境に打ち勝つだけの粘り強さが必要とされるのです。これが最近言われる非認知能力の重要性です。そして、認知能力のまえに非認知能力が土台と言われる所以です。ここで言われる伝統的な学習は自分のスピードで自分の発達にあったものではありません。意欲があっても、できないで、単元が進んでいってしまう。確かに「できる」子どもたちは齋藤氏の言うように、その状況の中でより伸ばしていくでしょう。しかし、「できない子どもたち」はどうなるのでしょうか。「ケーキの切れない非行少年」にある子どもたちはどういった状況で起きてきたのでしょうか。
保育をしている中で子どもたちが意欲を持っているときとはどういったときでしょうか。先生から言われたことをするときに意欲を感じるでしょうか。それとも自分自身でやりたいことを見つけ遊んでいるときに意欲を感じるでしょうか。これは乳幼児だけではなく、学校でも同様のことが言えるように思います。「学び知る楽しさ」を感じたときに意欲が出ると齋藤氏は言っています。私も同感です。それを見つけるには伝統的な学習のように先生からの提案を受けるほうがそう感じるのか、それとも問題解決型のように自分たちで課題を考えるところから始めたほうが良いのか。その根底には、結局、どちらにも「環境」が大きな要因であるように思います。
2020年12月23日 5:00 PM |
カテゴリー:教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
齋藤氏は決してこれまでの伝統的学習を否定しているわけではないことはこれまでの話の中で言われていました。私もそのことには同感です。問題解決能力やコミュニケーション能力を今の学生や若者が持っていないではないかと言われていても、その中にも優秀な方はいらっしゃいますし、PISA調査を見ても日本は決して悪い成績を残しているかというと決してはそういうわけではないのです。よく、「非認知能力」と「認知能力」においても、同様のことが言われます。このことも、「新しい学力観」と「伝統的学習」との差と同じですね。どちらが大事かではないのです。これらはどちらも大事であって、どちらも必要とされるべきスキルなのです。
齋藤氏は分かりやすく医学部と法学部を例に出しています。これらの学部のカリキュラムは比較的定まったものです。憲法や民法、刑法などの基礎知識を学ばなければいけません。いくら「主体性」や「自由な発想」といっても、これらの基礎を習得していないと、現実問題は解決できません。医学部においても、解剖学や免疫学など、医療においては重要な知識は必修科目として多数あります。齋藤氏は医学部の教授に聞いたところ、医学部の学習の95%は記憶することによって行われるとまで言われているそうです。身につけるべき基本的な知識が非常に膨大なので、それを記憶する必要があるのです。たとえ、人柄がよく思考力があっても、基本的な知識がなければ適切な治療は施せないのです。まさに、問題解決能力だけを鍛えても、体系的な知識をもれなく正確に記憶していなければ、実際の仕事は不安定になるのです。
問題解決能力は現在の社会においては確かに必要なスキルです。しかし、「問題解決能力だけあればいい」というのは大きな間違いなのです。社会のそれぞれの領域には体系的知識があり、これを学ぶには体系的学習も必要になります。こういった土台となる専門的な知識を駆使しなければ解決できない問題に取り組み、具体的な成果を上げることはできないと齋藤氏は言っています。そのためただ、暗記するだけではいけないという論説を持って教育を考えるのは非常に惜しいことであると最近の論調について話しています。
このことは確かに今の社会において、注意しなければいけないことでありますね。今の時代「0か100か」で語られることが多いように思います。そうではなく、バランスが必要なのです。よく保育でよくあるのが「個を大切にするのか」「集団を大切にするのか」ということが言われます。そのどちらもが大切なのにもかかわらず、どちらかに絞ってしまいがちです。孔子は論語において「中庸の徳たる、其れ至れるかな。民鮮やかきこと久し」といっています。「不足でもなく、余分のところもなく、ちょうど適当にバランスよく行動できるということは、人徳としては最高のものです。しかし、そのような人を見ることは少なくなりました」といっています。今も昔も、ちょうどよいバランスというは難しいことであったのかもしれませんね。
2020年12月22日 5:00 PM |
カテゴリー:教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
齋藤氏は日本が現在「追いつき、追い越せ」と参考すべきモデルとなる他国はないと考えており、それはPISA調査の問題解決能力の結果で、教育の参考としているアメリカなどの結果よりも日本の方が成績が高いことが物語っているのではないかといっています。そのた、め、単純に「今までのやり方は古臭い」という切り捨てるのは判断の事実的基礎を書いたものではないだろうかといっています。では、歴史的に日本の教育はどういったものだったのでしょうか。
齋藤氏がいうところでは、例えば明治維新を成し遂げた人々は、「学力」ということでいえば、徹底的に「素読」を中心とした伝統的な教育を受け、問題解決学習とは程遠いように見える素読をわざとして身に付けた人が、現実に押し寄せてきた植民地化の波から日本をすくい、欧米列強に追いつくような「問題を解決した」と言います。第二次世界大戦後においても、焼け野原から世界第2位の経済大国にまで成長を遂げ、同時に平和で民主的な社会を作り上げてきた人々の中心は、戦前の教育を受けた世代の人たちでありました。そこでは個性や主体性とはかけ離れた教育を受けたよう見える人たちが爆発的な学習意欲を示し、「問題を解決」したのです。これを見ると、近代史におけるもっとも主体的に動いた世代は「伝統的な教育」を受けた人たちであるということは事実であると言っています。
そして、現在の教育を見ていても、「教育の逆説」的に個性を尊重しようというスローガンのもと、教育改革を進めてきたにもかかわらず、個性化は進んだろうかと言います。むしろ、明治、大正、戦前の人々の方がより精神的に強く個性的であったのではないかと齋藤氏は言います。ゆとり教育の時期に学校教育を受けた生徒たちが、その「ゆとり」を活用して、以前の世代ができなかった主体的な勉強や知的好奇心を持って学習したのかというのです。
また、齋藤氏は現在の日本の教育の中でも、アクティブラーニングはあることを忘れてはいけないというのです。例えば「作文」です。1910年に始まった「生活つづり方」教育は子どもたちの自分の生活を見直して、それを題材に文章を書くことでした。こうして自分の生活を表現します。このような活動は問題解決型の設問をたくさん解いてパターンを身につけ、知的に解決する力を伸ばしていくことではなく、本当の意欲・関心にむけた教育はそういったものとは違う次元のものではないだろうかというのです。これまでの日本で行われてきた教育実践の厚みは世界に誇ることができ、生活つづり方をはじめとした国語教育、強度学習を発展させた社会科教育、実践を重んじた理科教育など、日本の教師たちが積み上げてきた実践は、今求められている新しい学習をまさに実践するものであったと言います。
確かに、これまでの内容を見ていると、「伝統的学習」と言われるものにも大きなメリットがあるということが分かります。このことも忘れてはいけない部分であるのかもしれません。アクティブラーニングという言葉だけが独り歩きし、これまでの教育のメリットとデメリットの取捨選択もこれからの教育においては必要となってくると思います。その点、認知的な学びというのは否定されるものでもありません。大切なのはどれを学ぶかではなく、どう学ぶか、学び手側の意欲や関心といった心情的なものをどう捉えるかが大切なように思います。
2020年12月21日 5:00 PM |
カテゴリー:教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
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