教育

早期教育とは

脳科学の発達により、子どもたちの保育環境や早期教育においても、考え方は変わってきています。声高に子どもの早期教育について「売り」にしている幼稚園や保育園がいまだある中、では、実際子どもたちにおける早期教育がどのように子どもたちに影響が出るのか。子どもたちの頭の中でどのようなことが起きているのでしょうか。「最近の早期教育の特徴は、子どもの“脳”のみでとらえる論調にある」と小西行郎氏は言っています。彼は、日本の小児科医であり、保育学者であり、2001年に日本赤ちゃん学会を創設しました。惜しまれるも2019年にお亡くなりになられました。

 

そんな小西氏はこの「脳」のみでとらえる論調は子どもを「勉強ができる・できない」で判断する偏った見方を促し、結果的に子どもから“子どもらしさ”を奪うことになるのではないかと言っています。確かに日本ではまだまだ学歴というものは根強くありますし、「何をまなんだ」か「何をまなびたいか」よりも、どこの学校を出たかは未だ注目されます。そのため、勉強の目的においても、「学びたい」と意欲のあるものではなく「成績」が重視されるところが多くあるのかもしれません。結果的に小西氏が言うような「“子どもらしさ”を奪うことになる」というのでは、果たして子どもたちは「豊かな人生」を送れるということになるのでしょうか。

 

日本においては、早期教育はどういった捉えられ方をしているのでしょうか。小西氏は早期教育は「三歳児神話」と相まって、一種のブームといえる状況にあると言っています。現在ではこれまでの「天才児を育てる」と謳って、スピードを競って集中力や記憶力を高めることに重点を置いた早期教育だけでなく、キャラクターを使い、ゲーム感覚で子どもの判断力、思考力、創造性を養うことを目的とした塾や教材も増えてきていると言います。小西氏はこういったものに保護者がこぞって早期教育への意欲を見せる様子に「乳幼児の子育てはもはや“育児”ではなく、いかに頭のよい子ども、勉強のできる子どもを育てるかが目的になっているとさえ感じられます」と言っています。とかく、共通しているのは「育脳」をキーワードにした教材や塾が多いのです。

 

こういった早期教育において、切っても切り離せない関係にあるのが、「臨界期」という考え方です。小西氏はこの「臨界期」は「簡単に言えば、生き物の発達過程において、ある時期を過ぎると、ある行動の学習が成り立たなくなる限界の時期」のことを指すと言っています。この概念は、ノーベル医学・生物学賞を受賞した動物学者コンラート・ローレンツ博士の「刷り込み=インプレインティング」理論にさかのぼります。「刷り込み」とはふ化直後のハイイロガン(雁の一種)の雛が最初に見た動くものを母親だともってついて歩くという習性のことで、孵化直後の一定期間しか起きないことを指します。この一定の期間が「臨界期」に該当するという考えです。

 

この「臨界期」は、乳幼児期の脳の発達の仕組みが大きく関わっています。

伴走者

では、具体的に「コーチング」はどういうことをしていくのでしょうか。まず、コーチングにおいて最も大切なのは「発見を促す」ことです。「相手の中にある、相手さえもそこにあると気付いていない内側の情報を『一緒に探索』して見つけていくことである。そして、『共に発見』した情報を、未来に向けた新たな行動の指針となる知識に変えていく」ことと鈴木氏は言います。つまり、「探索の伴奏者となってくれる人が一人いるだけで、その人の人生はずっと力強いものになる」というのです。

 

このことはよく不良少年を更生させていくプロセスでもよくあるということを聞いたことがあります。主体的にポジティブな考え方を持とうとした時に考え方を変えてくれる。または見るベクトルを変えてくれる人の存在というのは大きい存在であると感じたことはないでしょうか。私自身もネガティブに物事を考えてしまうことが多かったのですが、そのたびに他の人からの意見などをもらい、その時にただ、同調されるだけであるよりも、考え方を変えてくれるアドバイスが非常にありがたかったりします。また、「探索の伴走者」ということが大事なのでしょう。あくまでその走っている主体は本人であり、解決も本人が行わなければいけないのです。そのため、伴走者となるアドバイザーは相手を走らせなければいけないのです。とって代わってあげることはかえって「お節介」なのです。

 

では、コーチングにあたり、どういったことから始めていくといいのでしょうか。初めはまず「通りがかりの一言」が大切なようです。「ありがとう」や「おはよう」といった挨拶をはじめ、こういった当たり前の一言にどれだけ気持ちを込めれるかが大切なのです。次に「そうなんだね」「そういうふうに考えたんだね」と相手の発言を自由にする。そして、「それで」「それから」と話の細部にまで関心が生まれることで「もっと聞かせてくれよ」とまた、質問をするのです。こうしていくなかで、「受け取って、受け取ったことを伝え、促し、質問する」この過程をくりかえすことで、相手は徐々に自分を探索の伴走者として認め、実際に発見が促されていくと言います。

 

大切なのは「まだ、十分に探索されていない目の前の人の能力や気持ちや考えを、一緒に『発見してみよう』そう思った瞬間に、あなたはその人にとっての、その主観における人生最高のパートナー(コーチ)となるのです」ということです。

 

よく「傾聴」と言います。以前読んだ、メンタルヘルスの本においても、「シンクシビリティ」においても、同様のことが言えます。まず相手の様子を見て、相手の気持ちに寄り添い、聞く、傾聴していく姿勢は相手とのコミュニケーションにおいて、最も重要な要素なのでしょう。私はどちらかというと経営者的な目線でこの本を読んでいますが、これは保育においても、意外と見落としがちなように思います。子どもたちの保育の中で気持ちを聞く時間というのは最も重要な時間であると自分は思っています。もちろん、カリキュラムや活動に追われることもあるでしょうし、思ったよりも、時間がかかることがあります。しかし、この「傾聴」され「認められる」ことは長い目で見たときに大きな信頼関係を生むように思います。このプロセスは大人だけではなく、子どもにおいても必要な姿勢だということがあります。まずはやはりこういった「聞く」ということから始めることが大きな一歩となりえるのですね。

コーチング

先日、NHKを見ていたら、「逆転人生」という番組が放映されていました。そこでは、日本ラグビーが世界で活躍するために活躍した一人の女性が紹介されていたのです。その方はスポーツ心理学者の荒木香織さんで、当時に日本ではそれほどメジャーではなかったすぽー心理学を利用し、選手のメンタルサポートを行うことで、それまではネガティブな思考であった選手たちをポジティブな意識に変えることで、より良いチーム作りのためアドバイスし、世界で活躍するチームにまでなったということを紹介していました。

 

最近では保育の中でも、「リーダーシップ論」というものをよく聞くようになりました。また、自分自身も幼稚園や保育園という組織において、そこにある風土や環境、雰囲気というのは大きく働く人に影響するということを感じています。ドラッカーも「その組織は何をすべきか。昨日は何か」といった組織を社会貢献することの使命感の大切さを持たせることの重要性を言っています。この使命感です。このことは荒木さんも同様に日本代表の選手たちにまず、自分たちの使命であったり、やりがいというものを持たせることから始まったと言っています。どうやら、マネジメントにおいて、「コーチング」というスキルは必要な能力なのだと思います。

 

では、コーチングとはどういったところに目的があるのでしょうか。「新コーチングが人を活かす」を書いたコーチ・エィ代表取締役社長の鈴木義幸氏は「コーチングはあくまでも、問いを2人の間におき、一緒に探索しながら、相手の発見を促していくというアプローチ」であると言っています。つまり、相手に主体性を持たせることに目的があるということが分かります。そして、その本質は「未来を作り出す主体的な人材を創る」ということにあると言っています。今まで自分が考えて居た「コーチング」というのはどちらかというと「指導者」のようなイメージがあり、指示をする人というイメージを感じていたのですが、それはどうやら違っているようです。

 

確かに荒木氏が選手に行っていたやり取りのほとんどは聞き取りであり、会話でした。「今のチームをどう思いますか?」「どこに問題がありますか?」「どう変えたいですか?」「理想のチーム像は?」「そうなるためにはどこからはじめましょうか?」といったように、相手に常に考える余白を持たせながらやり取りをしていたことが紹介されていました。このやりとりは保育でも通じるところです。特に「主体性」というのものは前回の齋藤学氏の「新しい学力」においても課題としてありましたし、保育においても「意欲を持たす」というようにその主体性の持たせ方やそのための関わりというもの、考え方はいつも課題になります。「コーチング」というのは何も管理者だけではなく、さまざまな人に共通するやり取りの形なのかもしれません。以前、「リーダーシップ」について話をさせてもらう機会がありました。「リーダー」とはどこか特別な人なイメージがありますが、実際のところは様々なところに「リーダーシップ」は求められるのです。それは先輩後輩かもしれません。もちろん、管理者と職員でもあります。学校や保育機関で言うと子どもたちと先生での関係でもリーダーシップはあります。このように「コーチング」を必要とする役割をもつことは様々なところで出てきます。

志を持つ

日本の教育基本法第一章、第一条「教育の目的」にはこう書かれています。「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」社会の形成者としての資質を教育においては培うことが教育の目的になると言っています。こういった社会における一員として教育があるというはこれまでの教育者も同様のことを言っています。デューイやルソーも同様に教育は民主的社会の一員として、社会の一翼を担う個人を育てるためにあると言っています。また、吉田松陰や福沢諭吉のように自発的に考え、行動し、責任を引き受けていく人物を生み出すためには、その人物に核となる「志」があることが重要だと齋藤氏は言っています。そして、それは同時に、「身体的である」と齋藤氏は言っています。つまり、「問題解決能力」や「判断力」も人によって様々で、皆一律に伸ばすということはありえないと言います。それは数値化や一般化できないからこそ、その大前提が重要になってきます。

 

これは仕事をしていると分かりやすいかもしれません。特に保育という仕事はより、この「志」や「やりがい」といった数値化できない、意識が多分に出てきます。勉強ができ、ただ知識があったとしても、その意識がなければ宝の持ち腐れになることがあります。しかし、知識がなければ、環境を作るときの工夫や構成がひらめかないかもしれません。結局のところ、感じるのが最終的にこの仕事において「何をなしたいのか」ということがはっきりしていないと「知識を得ることもただ漠然としたものになる」と思うのです。

 

たとえば、今回のコロナウィルスについてもそうです。今回のコロナウィルス感染症について、単純に見ると非常に危険で子どもたちにとっても少なくはない、大きな影響を与えるものであります。ただ、怖がるだけであると、保育はできなくなります。しかし、自分たちが何を優先順位として持つかで、コロナウィルスの情報の取り方が変わってきます。単に情報を取り入れると「怖い」「危ない」「気を付ける必要がある」となり、それは自らの行動を律することになり、動きは制限されたものになります。しかし、保育を優先順位として一番に考えると「~をするには、今の状況だとどうすればいいのだろうか」と思うようになります。たとえば、「子どもたちは自宅待機している。でも、その中でも保育を届けるにはどうしたらいいのか」というように考えると、その中での保育を考えます。単に「自宅待機」だけを考えると「何もしない」となるのですが、保育を念頭に置くとその判断は変わるのです。

 

今の時代、より柔軟で多様な社会が求められます。そのときに柔軟で多様な社会を作るためにはいろいろなアイデアが必要ですし、それはひとりでどうこうなる問題ではないと思います。様ざまな人の意見を総合し、統合し、新たな知識としてイノベーションしていく必要があるのです。そのときに、一つの基本となるのが「志」や「理念」であるのだろうと思います。そして、それが「やりがい」につながっていくのです。

情熱

吉田松陰が開いた松下村塾からは数々の歴史を変えた偉人たちがともに学んでいました。徳富蘇峰の言葉を借りると松下村塾は「徳川政府転覆の卵を孵化したる保育場の一なり。維新革命の天火を燃したる聖壇の一なり」というと齋藤氏は言っています。松下村塾は安政3年から安政5年までおよそ2年半の期間、松陰によって運営されました。たった二年半ですが、そこから日本を変える大きな逸材たちが生まれたのです。塾生の日下玄端は禁門の変の中央人物になり、高杉晋作は騎兵隊を組織し、幕府軍に勝利しました。幕府軍に長州藩という一藩が勝利したというのは非常に画期的な事件であったのです。また、薩摩藩と長州藩が手を結んだことで、明治維新の流れをつくり、そこにも松下村塾の塾生は大きな役割を果たします。それらの人材は明治になっても、伊藤博文や山県有朋らが近代日本建設の中心となったのです。このように、松下村塾からはこれほど多数の人材が輩出されました。

 

それは教師としての松陰の類まれな資質が関係していると齋藤氏は言います。現在と古典の問題を結び付け。常に問いかけをし、意識をアクティブにさせていく。学習形態をアクティブにするだけでなく、松陰自身の情熱を伝えることによって、塾生たちの意識自体が活性化したのです。齋藤氏はこの松下村塾のことを受け、教育の根本的原理は「憧れに憧れる」関係性にあると考えました。教師の何かへの強い憧れが学習者たちのあこがれを喚起します。教師が物理学を愛し、ニュートンやアインシュタインへのあこがれを強く伝えることで、生徒はそのすごさに目覚め、物理学を一層学びたいと思うようになるというのです。

 

教師があこがれを持つことで、生徒が憧れるかどうかはわかりませんが、その姿を見て、その先生の姿勢に憧れることはあるように思います。この人のように学びに向かいたいといったことや、深い学びを持つことがどういったことにつながるのかを知りたいという意欲を持たせることが「憧れ」にはあるように思います。教師自体が学ぶ姿勢があることで、子どもたちにその姿勢が伝播することにつながるのだと思います。

 

齋藤氏も、教師の情熱こそが主体性を育てると言っています。「学問ははじめから面白いとは限らず。地道でつまらないものと思える勉強を経て、学問が分かるようになり、そして、自在に応用できるようになって、初めてそのすごさ、面白さがわかってくるものである。教師は、その面白さが分かるようにするために粘り強く自らが情熱を持って教えなければならない」といいます。私もこのことには同感です。自分が教える教科が好きなことであると、それだけ思いは伝えていく過程の中で強く出てくるのではないでしょうか。ただ、大切なのは教師が学習者を思っての行動かどうかです。ただ単に自分の思いだけを相手に伝えたのでは思ったような意欲は出てこないでしょう。相手に伝えたい、相手の様子をみて伝えることではじめてそのやりとりは成立するのです。授業とはいえ、そこはコミュニケーションの場なのです。齋藤氏も「教室空間や家庭の学習空間を支えるのは、教師や親の情熱であり、配慮である。マニュアル化しにくいその根本的な部分こそが『新しい学力』の柱なのである」といっています。