教育

陶冶

寺子屋を出た子どもたちは働き口へ丁稚として雇われ、丁稚奉公の中で学習をしていきます。労働環境の中に学習する場としての機能もあったというのです。しかし、現在では、企業での学習は企業が働く人のことを省みないことから、変化していきます。高度経済成長になり、企業は人材を育成するといった教育的機能から純粋に利潤追求の組織となる傾向になってきました。青年を一人前に仕立て上げえるといった教育の場から、年功序列の廃止と競争の原理による能力主義を採用することで変わっていったのです。

 

このほかにも子どもたちは丁稚以外で社会で学ぶ場がありました。それが職人の「徒弟教育」です。この場合、教えてもらうのではなく、師匠の技を「盗み取る」ことが多くありました。これは教えられて学ぶ以上に、より主体的な学びが必要であり、そのなかで習熟するという技術の継承の仕方であったのです。教えられた技術はそれ以上のものではないが、学び取って習熟した技術には学ぶ主体の技術観が投影されてきます。

 

たとえば、大工職人の場合、一般に10年を区切りとする年季奉公の間に、大工道具の扱いや木材に関する知識など実際に家を建てるに必要な諸々の知識に習熟されるだけはなく、大工職人に必要な生き方と将来独立して棟梁となるときに要求されるさまざまな職人を差配するにふさわしい「人柄」というものを師匠から学び取るのです。

 

こういったことからどんな職人でも、自分の子どもを弟子として教えることはあまり見られませんでした。一定期間「他の釜の飯を食う」というように、他の同業者のところで修行を経験させます。これは単に苦労をさせることが目的ではなく、厳しく教えて貪欲に学ぶという徒弟教育の「学び教える原理」が肉親の情に妨げられて成立しにくいといったところもあるからです。こうした意味で、近世の技術教育は「技」の修得が労働と一体のものであり、心身の陶冶を伴った「全人教育」であったともいえるのです。

 

ここで「陶冶」という言葉が出てきました。「陶冶」というとドイツの「陶冶プログラム」が思いつきます。「陶冶」とはもともと鋳物や陶器を作り上げることを指していましたが、その意味を「人間のもって生まれた素質や能力を理想的な姿にまで形成することをいう。」と捉えて、教育に当てはめてドイツでは考えられていました。それがドイツの保育で行われている「オープン保育」です。園内のどこにいってもよくて、自分の遊びや学びを自ら環境を通して遊ぶということが行われていました。「陶冶」というこの言葉が江戸時代の子どもの教育において当てはめて考えられていたということに驚きを感じます。

 

そもそも私が寺子屋に興味を持ったのも、異年齢であったり、主体的に学ぶという今海外で起きている教育改革のもとが日本の寺子屋に非常に酷似しているということから興味を持ちました。そのため、海外の教育を日本に入れようとする様子はまるで、寺子屋の文化を「逆輸入」しているようにすら感じるのです。

奉公人教育

寺子屋を出た子どもたちは丁稚から始まり、その預けられたところで学んでいき、出世していくことで社会に向かっていきます。つまり、教育において、寺子屋は基礎となる心得や教えをもち、その先に店に預けられた先でより実践的な物事を学んでいくのです。

 

このような奉公人教育の中心となるものは、越後三井家のことを『近世庶民家訓の研究』を書いた入江宏氏によると「家法と店式目」であったそうです。つまり法規や制度といった「決まり事」ですね。これは丁稚を対象にして「子ども式目」を定め、時間があれば「手習算盤」に励むことが記され、「第一算盤ニ疎キもの在之候は早速暇可申渡候」というように、計算能力の習得が奉公人教育からの脱落に関わるものとして記されていました。このほかにも幕府の法令遵守から始まり、幼児を言いつけられた時の請け返事の作法や、顧客への対応や衣類に関する注意など、生活全般の極めて細かい取り組みが記されていました。こういった教育を通して三井家にとって必要な人材として育てられていくのです。

 

商家は単に商売の方法を教授し、利益を得る利益共同体ではなく、人間形成の教育機能を有したものであったと言います。企業に対する日本人の忠誠心は欧米の労働者からは奇異に見えるであろうが、「企業人間」という表現は企業が人材を育成するという近世の方向教育の伝統が今なお継承されていることを意味すると沖田氏は言っています。

 

こういった日本において職場で人材を育てるといった傾向はこういった時代の文化が残っているからなのですね。それと同時に、日本は海外と比べ、チームワークを取ることに長けているといいます。こういった要素も、若いうちから職場に入り、その職場での働き方をレクチャーするという文化があることで生きてくるのかもしれません。ただ、これは良いことばかりではありませんでした。たとえば、こういった「企業人間」が政治家への贈収賄や企業の社会的責任論、はては家庭を顧みないことで家庭の崩壊の要因となったり、様々な側面から批判されるようになったのです。そのため、日本の企業が伝統として有してきた教育的機能を放棄し、純粋に利潤追求の組織となっていく傾向になってきたのです。そうして、青年を一人前に仕立てあげてきた教育の場というものが、年功序列の廃止と競争の原理による能力主義を採用することによってまた一つ消えようとしているのです。

 

こういった背景があるからか、最近では転職をするということが当たり前になってきているように思います。職場で働く若い人たちもあまり所属意識を持つよりは、自分の環境を変えることの方を優先しているように思います。そのため働き手に取っても働く場にとっても社会にとって貢献する組織なのかどうかや働きがい、そこで働くことへの誇りといったものを伝えるということがあまりされていないように感じます。このことはドラッカーも同様のことを言っていましたね。もちろん、利潤追求によって、働く人たちが不利益を被ることは良いことではありません。しかし、そこで働く思いがなければいい仕事もできないのではないかと思うのです。一体何のためにその場で働き、何のためにこの仕事があるのか、こういったことは昔の寺子屋や奉公人教育の方がはっきりと伝えていたのではないかと感じます。見習わなければいけない、こういった姿勢はたくさんあります。

その後

寺子屋は師匠より「人としての教え」を学び、「読み書き」を中心に学習していました。では、その後子どもたちは社会の中でどう育っていくのでしょうか。一般的な庶民の場合、ごく限られた上流階層に属する子弟を除き、一般庶民の子どもたちにとって、寺子屋後の上級学校は存在しなかったといいます。子どもたちは成長するにしたがい、集団生活の中で「大人」への成長過程を歩むことになります。農村でいえば、村落秩序の中で、若者宿や娘宿などの集団生活を通して学んでいきます。また、村落が主催する祭りなどのさまざまな行事への参加を通して、村落の構成員の一人として承認を受けます。これは農村地帯だけでなく、漁村においても大体同様の自治組織があり、村落共同体が一定の教育機能を果たしていた。このように農業や漁業などの労働の実務を通して見習いから一人前の働き手へと成長していくのです。そのため、労働の場が学校の機能を持っていたことが商人や職人の場合では比較的明瞭に理解できます。

 

まずは、寺子屋で4~5年間最低限度の「読み書き」を学び、早い子どもで十歳前後、だいたい十二~十三歳くらいから、商人の場合は丁稚奉公、職人の場合は年季奉公と呼ばれる徒弟教育の生活に入っていきます。商人の場合は、丁稚から始まり半人前をへて手代(てだい)へと進み、能力があれば二十五歳くらいで番頭に抜擢され、一~二年のお札奉公を経て、三十歳前に「暖簾分け」または「仕分け」と称して独り立ちしていきます。それによって、主人より屋号となにがしかの資本を譲り受けて自分の店を経営しました。丁稚に始まり段階を踏んで出世していくことは各商家によって異なり、必ずしもその呼称も一定していません。そして、商家における身分は様々あり、それらは単なる職種の相違ではなく、それぞれの身分に応じて髪型や服装などの厳しい区別がありました。

 

奉公人と一口に言っても、さまざまあり、将来自分の店を継ぐべき立場にある長男を修行に出して、一定期間商人としての教育を受けさせる「見習奉公」や、年季を定めずに丁稚から一人前の商人に成長するまで「住込奉公」を行い、能力があれば暖簾を分けられて独立した店を経営する「子飼奉公」などがあります。いかに優秀な子飼を育て上げるかは、その商家の繁栄につながるため、子飼の教育には商いに劣らないほどの力を注いだのです。

 

例えば越後三井家といった豪商で言えば、関西だけではなく江戸にまで支店を出していました。しかし、その場合、丁稚を採用する場合、現地の人間ではなく、国元でしかるべき身元保証のできる仲介者を経て採用しました。三井ではこういった丁稚を「子供」と呼んでいたのです。この段階では直接店に出て商いの実務に携わるのではなく、奥向きの日常的な仕事を通して商家の生活様式を習得し、商家の仕来り(しきたり)、礼儀・作法や言葉の使い方などの躾全般を学び、商人として必要な基礎知識を身につけることに努めたのです。半人前になると、ようやく店に出て実務につくのではあるが、この期間は商売の実際を学ぶ見習い期間であり、自分の裁量で自由に取引をすることはできませんでした。手代になって初めて取引業務に従事します。これであってもまだまだ一人前の独立した商人とはみなされませんでした。手代として数年間商いを経験し、能力があると認められれば番頭に抜擢されます。番頭までは商人としての見習い期間であり、盆・正月の里帰りの際に主人からなにがしかの小遣い銭を与えられるほかは原則として無給であったのです。

 

番頭からさらに独立しないでその商家の経営に携わる人は支配人と称され、主人の代わりに商いの実際の責任を負い、さらにほとんどの場合、その商家の奉公人教育の責任者でもありました。三井家の制度では、組頭までは原則として年功序列になっています。組頭までの段階では十二~十八年までを一応の目安としています。その後は厳しい業績主義が取られたのです。」

子どもの学習の競争

寺子屋では現在のように成績や試験というものを意識する必要がありませんでした。そのため、他人と成績を競うこともありませんでした。そのため、そこでは個人の興味と生まれ持った才能に任せて学ぶことになります。あるものは他人よりも学びの速度が速くなり、学ぶことに強い関心を抱くことにもつながります。しかし、だからといって寺子屋の学習で試験に類されたものや競争の原理は全くなかったかというと、決してそうではなかったようです。

 

毎月一回、寺子屋の学習において、それまで学習してきた手本を復習する「小浚」(こさらい)と一年に一回同じく一年間学習してきた手本を暗唱や暗書する「大浚」(おおさらい)が行われました。そして、これが「おさらい」として現在にも言葉として残っています。しかし、このような制度は必ずしもすべての寺子屋で実施されたものではないようです。また、このような試験を通じて、進級するというのも、当時等級制といった制度を取っていなかった寺子屋においては、成績は必要とはされていませんでした。あったとしても、成績優秀者に筆や紙、書物といったものくらいの賞品はあったようですが、これくらいの子どもの素朴な競争意識以外に競争へ子どもを追い立てる客観的なシステムは存在しませんでした。あくまで、「小浚」や「大浚」は子どもたちを選別するものではなく、個々の到達度を見るという極めて教育的配慮の行き届いたものだったのです。

 

寺子屋では、子どもの競争意識を向上心へとつながる工夫が行われていました。その一つが「角力書き」(すもうがき)や「数習い」(かずならい)でした。「角力書」は相撲のように東西に分かれた子どもたちが、行司役の師匠の呼び出しとともに本当の相撲のように登場し、見合って席につき、決められた文字を書きそれを師匠が判定するような取り組みです。「数習い」は選考に火をつけて、それが燃え尽きるまでどれほど多くの文字を正確に書くかを競う行事でした。

 

ほかにも毎年4月と8月の2回行われる「席書」では当日、師匠は裃(かみしも)の礼装用の着物を身にまとい、寺子も身分に応じて羽織袴などをきて、席について決められた文字を書き、それを寺子屋の四方の壁に貼り付けてお互いに品評し合うというものでした。これは現在の小学校でも行われるものですが、競争というより、子どもたち自身の評価する能力とそれに伴う向上心を発達させるという教育的効果を発揮するものでした。

 

これに似た行事が「書初」です。これは今でも行われている通り、正月に一年の計にふさわしい言葉を選んで字を書くことです。また1月25日には「天神講」が行われていました。この天神講ですが、これは学神として信仰の対象ともなっている菅原道真を祭り、「奉納天満天神」と書いて、学業の成就を願いました。7月7日の「七夕祭り」も、文字の品評のような要素があり、寺子たちが五色の色紙で様々な形をつくり、そこに師匠の徳を讃える言葉を記すとともに、学業成就の願いも書き添えて竹の枝に結び、その下で遊戯をしたりして過ごすという者でした。

 

こういった行事は子どもの能力を評価することやその能力の向上心を発達させるという教育効果だけではなく、師匠との親睦をはかる意味合いもあったそうです。それと共に、文字学習だけではなく、文字の背後にある社会観や倫理観もしくは宗教観を養い、それらを共有する場でもあったのです。

 

教科書

寺子屋で使用されていたテキストは「往来物」と呼ばれ、もともとは一対の往復書簡(特定の2人の人物の間でやり取りされた書簡を収録されたもの)を定型化してテキストに編集したもので、最古のテキストは平安時代の貴族である藤原明衡の手紙文から構成された『明衡往来』(めいごうおうらい)(『雲州消息』とも称され、十一世紀の祭礼や年中行事などをしるしたもの)があります。他にも鎌倉期になると『十二月往来』のように各月往復の手紙を24通選んで編集したものなどがあり、ここには貴族の日常的な生活習慣や年中行事などが掲載されていて、武家社会やその他の階層に貴族文化を浸透させる大きな役割を果たしました。他にも『釈氏往来』といった平安末期から鎌倉期に成立した、僧侶が宮中での役割を体得するために使われたもので、近世には朝廷仏事の知識を得るテキストや、『貴理師端往来』(きりしたんおうらい)といった日本人キリシタンの、信仰生活の心構えが書かれていたものなどがある。

 

十四世紀から十五世紀にかけて、文字学習が貴族階級から武家階級、さらに上層の農民や商人へと広がるにつれて、従来の手紙文という形式をかりながら単語の習得に配慮した『庭訓往来』が登場します。この『庭訓往来』はこれまでの貴族社会の生活や行事などから離れ、武家社会から農業、職人、商人に関わる実用的な内容が盛り込まれるようになりました。このように学習対象者は武家から庶民に拡大していくのです。この『庭訓往来』は室町時代に成立したのですが、これが江戸時代の寺子屋に用いられたということは新しい生活に密着した実用的な学習内容によるところが大きいのです。その後、江戸時代になると様々な工夫がされ、こういったテキストは単なる文字学びのテキストといった意味だけではなく、生活辞典としての機能もあわせもった形で編集されるものになってきます。

 

このように発展してきた「往来物」ですが、江戸時代には寺子屋や庶民の家庭で用いられるテキストとなり、実用性と生活重視を基本として編纂され始めます。そこでは地域性や職業又は男女別の内容を持つおびただしい往来物が出版されました。農村地帯では『農業往来』や『田舎往来』といった農地や農具の利用や穀物の栽培・耕作に関する知識や農民としての心構えといったもの。商業地域では商業に必要な用語で始まる『商売往来』や問屋の商業活動に必要な知識が書かれた『問屋往来』。漁村用には漁業に要求される文字や知識の書かれた『浜辺小児教種』や『舟方往来』。大工職には『大工註文往来』、左官職の『左官職往来』などがあり、有名どころで言うと十返舎一九による『万福百工往来』があり、度量衡に用いる道具や大工道具の用法などが書かれていました。

 

このように実に庶民の生活に密着したものであり、こういった職業のほかに地理や地誌に関するもの、たとえば日本全国の字名・村名・町名・国名といったものが書かれた『国尽』があり、有名なものと言えば滝沢馬琴の「国尽女文書」がある。他にも、江戸・京都・大坂をそれぞれ書いた『江戸往来』、『都名往来』『浪速往来』、これらはいずれも三都の諸行事や特質が庶民の目線で書かれています。また、東海道五十三次を主題として、七五調の「文字鎖」でつないだ『都路往来』などもあり、こういった往来物を基本とした多様な往来物が各地で編纂され敢行されました。庶民経済の成立と発展と共に、職業の多様化と都市間の人と物の移動が往来物の刊行を促し、各地の情報が往来物を通して学習されたのです。

 

これらを見ていると往来物というのは何も寺子屋だけではなく、庶民の中でも活用されていたのが分かります。そして、この往来物を子どもたちの生活を前提に編纂して、子どもの興味と関心を引き付けるための最大の努力と工夫をしたうえでテキストと活用し、子どもたちは自分のまわりにある社会を理解し、将来の職業について学んでいたのだと言います。

 

現在の教科書と往来物との大きな違いは庶民が「知りたいもの」または「知らせたい」内容を自分たちで編纂しているところが大きく違うと沖田氏は言います。そして、あくまで生活に根差した生活中心主義と実用主義を貫いているというのです。明治期においても「開化消息往来」や「世界国尽」といった往来物など多く編纂されたそうですが、文部省が学校教科書を検定から国定へと規制力を高めるにしたがって、無くなっていったそうです。