教育

学校の発祥

5代将軍綱吉は公家文化の下で育った生母桂昌院(けいしょういん)の影響もあってか、学問に強い関心を示していたそうです。そこで元禄三年(1690)忍岡の聖堂を江戸城の北にあたる相生橋に移し、大規模な大聖堂をつくりました。それが湯島大聖堂です。ここには将軍専用の御成御殿や賓客が食事をする饗応座敷が設けられ、聖堂は林家の家塾から離れて公的施設としての性格を色濃く持つようになりました。その翌年、林家の当主の信篤は畜髪を命じられ大学頭に任命されます。これは羅山のように剃髪して僧侶の位として任じられたのに対し、はじめて儒臣として認められたということを示しています。

 

その後、綱吉は儒学を信奉して、聖堂の釈奠に参列し、大学頭の講釈を聞くだけではなく、自ら老中以下の大名を集め江戸城中において、毎月「大学」を講義するようになった。また、柳沢吉保が荻生徂徠を召し抱え、「馳走」と称して講義を聞かせたように、諸大名の間でも儒臣を招聘する風潮が広まったのです。そして、このことが各藩に藩校開設を促すことになるのです。家宣の時代になると、甲府の頃から抱えていた儒者の新井白石が幕府政治に深く関与するようになり、室鳩巣(むろきゅうそう)や三宅観瀾(みやけかんらん)といった林家以外の系統の儒者も任用され始めました。儒者の役割が多様化していく中で、湯島大聖堂の機能も変化していきます。

 

聖堂で行われる講釈も、釈奠とした行事の一環ではあるとはいえ、釈奠行事とは関係なしに旗本や御家人を対象として饗応座敷(きょうおうざしき)で定期的に講釈が開催されるようになりました。これを御座敷講釈といい、公開講釈の始まりでありました。しかし、実際のところこの頃のお座敷講釈はあまり人が参加しなかったようです。しかし、これが幕末に入り、出席規定が整備され始めます。

 

安政二年(1855)では、その頃の日割り表を見ると四の日の午前中は御小姓組・御腰元方、午後は御書院番・御納戸番、七の日は午前が大御番、午後が新御番・小十人組といったように役職に応じて出席日が指定されていました。そして、その一方で、聖堂に通じる最初の仰高門を入ったところに講釈所を開設し、享保二年(1717)から毎日午前十時から十二時ごろまで士庶問わずだれでもが出席できる公開講釈を実施しました。これは明治維新まで続いたそうですが、出入りが自由であることから武士から庶民に至るまで、多くの人が儒教の基本となるテキストを学んでいったのです。そのため、熱心な精勤者の中には町民も含まれていました。

 

はじめて、このころから「庶」という言葉が出てきました。これまで僧侶や大名、大名に雇われた人といった人々から、庶民にも教育が施されるようになったのですね。武士の環境の変化が日本の教育の変化に大きく影響していくのです。現在でも湯島大聖堂は学校発祥の地として、受験生が参拝に訪れています。学校において、孔子の儒教というのは大きな影響を与えたのですね。

武士の教育から半官半民へ

徳川家康が幕府を開き、武士を対象とした教育は戦闘者から意図的・組織的な教育に変化していきました。また、寺院教育だけではなく、朱子学の思想も多く入ってきた時代でもあります。その一人が林羅山です。羅山は寛永7年(1630)に上野忍岡に家塾を開設しました。家塾とは幕府や藩に仕える儒者が、公務とは別に門弟をとって教育する形態をさしています。

 

そして、寛永十年(1633)に三代将軍家光が日光東照宮参詣の帰途に林家の聖堂に立ち寄り釈奠に参加しました。この聖堂とは孔子をはじめ古代の賢人を祭る「場」のことを指し、孔子廟とも言われる。そして、これを祭る行事を「釈奠」(せきてん)といいます。家光はこの頃から釈奠に参加して以来、これが慣習化されることになりました。孔子の徳を讃え、その権威を分有することは、武断政治から文治政治への移行期の権力者にとって、その権力の正当性の根拠を提供するものであったからです。

 

その後、寛文元年(1661)幕府により、聖堂の大改築が行われました。林家の家塾は弘文館と名付けられ、修史館と学舎や書庫が作られました。修史館は幕府が林家に国史の編纂事業を命じ、史料収蔵の文庫として設置されたもので、大改築の翌年から行われました。

 

こういったことから聖堂と修史館は幕府の官立的要素を帯びることになります。しかし、一方で弘文館は林家の家塾として存続していました。つまりは半官半民的な要素をもっていたのです。そうなってくると学生も増加していきます。弘文館の入門者名簿にあたる「升堂記」(しょうどうき)には、開塾から約50年間に310名の入門者がおり、ほとんどが身分不明者であったのです。そのうち83名が藩士身分であったと日本の学校史の研究をしている石川謙は言っています。この藩士は後に各藩の藩儒となり、それぞれの藩の教育振興に貢献していきます。

 

では、この頃の教育過程とはどういったものだったのかというと、五科十等制を採用していたとあります。五科とは「経義・博読・詩文・史学・皇邦典故」からなり、塾生の学力の発達に応じて十干(じっかん)と言われる十二支と共に使われた古代中国の暦法を用いて10段階に分けられています。まず、下等生(葵・壬・辛・庚)、萠生(己・戊・丁)、特生(丙・乙・甲)に分けられた。このほか、下等生に(等外・初等)の2級が設けられていました。

 

家塾において塾生の発達に応じてクラスが分けられるというのは面白いですね。このころは年齢で分けるという概念もないでしょうし、純粋に「教えを修める」ということが目的であったでしょうから、習得レベルに応じたクラス編成ということが自然と行われていたのだろうと思います。まさに異年齢教育の考え方が自然とそこにはあったのだろうことが見えてきます。

戦国時代から江戸時代へ

戦国時代から各地域が平定され平和な社会が訪れた江戸時代、それまで各大名において寺院教育や家臣の教育掛からの家訓を用いた子弟教育から、少し教育の形態が変わってきます。それは武士の生活とも大きく関わってきます。徳川家康が全国統一をしていく中で、武士を対象とした意図的・組織的な教育が登場してきました。

 

新興の戦国大名は早くから、新しい儒学である朱子学を研究する学問僧を保護してきました。相国寺で朱子学を学び、のちに京学派の朱子学の祖とされた藤原惺窩(ふじわらせいか)(1561~1619)も家康に招かれ講義をしています。家康は権力の掌握とともに、古文献の収集保存に努めました。そして藤原惺窩から講義を受けた『貞観政要』『孔子家語』といった書物の印刷を命じるなどの文化事業に着手しました。また、伏見に円光寺学校を創設し、足利学校の閑室元佶(かんしつげんきつ)(1548-1612)を迎えて校長に任じています。

 

一般的に、家康の時代では朱子学の思想的な特質に着目し、藤原惺窩の弟子林羅山(はやしらざん)(1583~1657)を招聘して幕府の封建イデオロギーの基礎としたというように解釈されているが、家康の文献政策には儒学を幕府教学の理念としようとする積極的な姿勢はみられていないようです。家康の側近には南禅寺の金地院崇伝(こんちいんすうでん)(1569~1633)や天海(?~1643)などの僧侶が権勢をふるっており、羅山が家康の御伽衆の中心的存在として関わったようには見られないようです。そもそも朱子学自体が仏教を対抗思想として厳しい思想的対立を経て確立してきたこともあって、その内部には激しい仏教批判を有していました。結果、羅山が幕府の文教政策に力を発揮するのは家康の死後であったのです。

 

家康においては、統一事業において、これまでの戦闘者としての武士から、封建官僚としての才能が要求される武士へとあり方が変わっていきます。山鹿素行(やまがそこう)(1622~58)は武士の存在を「農・工・商」の三民の道徳的なモデルととらえ、社会秩序の体現者となるべきであると士道論を説きました。下剋上を克服するためにも、幕府をピラミッドの頂点として、圧倒的な経済力と軍事力を集中し、それによって構成される階層秩序を盤石なものにすることが何よりも優先されたのです。そのため、個々の武士を構成員の一員として組み込むために、新たな思想を必要としたのです。つまり、ここに武士教育の必要性が生まれたのです。

 

幕府の中で出世し、家を盤石なものにするためには武士としての教育をしっかりと納めていなくてはいけなかったのです。ここに新しい、これまでとは違った国をまとめた教育というものが始まっていったのです。また、戦闘者から封建官僚といった必要とされるスキルの変化も大きかったのでしょう。国の中でどういった資質が求められるのか、その部分が大きく変わってきたのが家康が開いた江戸幕府の時代なのです。これまでは自分の領地をまとめることや守ることに視点が置かれていたところから、幕府というものを守り、繫栄させることに視点が変わってきます。自営業と雇われ社員との違いのようにも見えますね。そうすると求められる資質は変わってくることであるのは明白です。では、その時代の学校とはどういった教育がおこなわれていたのでしょうか。

戦国時代の教育

「文武両道」という武と教養といったものから、戦国時代に入ると、厳しい戦国の世で生き残るために戦国大名は「家訓」と呼ばれる教訓書が書き残されました。「多胡辰敬家訓」(たごときたかかくん)(16世紀中ごろ)では「第一手習学文ナリ」とあり、文字学習と学問の必要性がまずはじめに説かれています。学問の無い人間は物の「理非」(道理にかなっていることや反していること)が分からず、犬の吠えるのにも劣るものであると無学を厳しく戒めています。次に武士の嗜みとして弓の修練が記され、続く3番目に「算用事」があげられています。これは領国経営に不可欠な技術であり、これ以降、乗馬の事、医師の事、連歌の事、包丁の事、乱舞の事、鞠の事、躾の事、細工の事、花の事、兵法の事、相撲の事、将棋の事、鷹の事など生活から娯楽にいたるまで、その教訓の内容たるや家庭生活全般にわたっています。そして、そこには武士の生活に即した徳目、たとえば、武や勇敢をたっとび約束を遵守すること、寡欲廉恥(欲を抑え、心が清らかで、恥を知る心がつよいこと。)や質実剛健(中身が充実して飾り気がなく、心身ともに強くたくましいさま)などが武士に欠かすことのない重要なものであるとされていました。

 

これは世子(跡継ぎ)の場合、一族の年長の家臣が教育掛(かかり)に任じられる場合もありますが、それだけではなく、上杉謙信が春日林泉寺で修行し、武田信玄が恵林寺に身を寄せていたように、寺院にあがりそこで一定期間教育を受けるという寺院教育がそうした戦国大名の子弟教育としての機能があったということが見えてきます。またそれとは逆に寺院の僧が戦国大名に顧問として迎えることもあったようです。

 

フランシスコ・ザビエル(1506年~52年)が十六世紀に日本に来た時、「坂東の大学」としてヨーロッパに紹介した日本の足利学校も、主に僧侶が学んだ学校でありました。その中心となっていた科目は兵学と易学であり、その他にも天文学や医学も学ばれていました。こういった科目は戦国大名に仕官する条件でもあったと思われます。これらの知識僧は教師としてというよりは相談や質問に応じるという役割であり、「御伽衆」として大名の近くに控えていたのです。その後、武士を対象とした意図的・組織的な教育が登場しますが、これは戦国の世が平定され平和な社会が訪れなければ起きませんでした。

 

豊臣秀吉に対する千利休などは正にこの戦国大名における御伽衆であるといえるのでしょうね。このときにおいても、重要にされてきたのは兵学や武においてだけではなく、「理非」であったり、易経の解釈を知る「易学」といった中華思想をもとにした知識を学び、世の中の理論を学んでいたのです。そして、それは学問を知るのではなく、それを修めることで教養を持った人になり、人格者になるために学んだのです。単なる知識を知るために学習するのではないのです。このことを戦国時代は「質実剛健」や「寡欲廉恥」と表していましたが、とても思想的な哲学を感じます。現在の時代においても教育基本法には第一章一条「教育の目的」に「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」と書かれています。人格の完成のために教育があることに対して、私たち現場は「教育=人格」と理解できているのでしょうか。目的をはき違えてしまっていないか、自分自身も振り返りながら保育を進めていきたいものです。

武家の教育

寺子屋は寺院教育をもとに庶民の中に広がってきた教育文化です。次に、武士についてはどうだったのでしょうか。言わずと知れた日本は「士農工商」といった身分が分けられていました。沖田氏は日本の教育文化は重層性に富んでいるといっています。それはこれまでの庶民の教育文化のなかでも、庶民の文化だけではなく、古代に確立した天皇を中心とする貴族文化の伝統も年中行事として伝えられてきました。また、貴族政権に代わって武家政権が確立し、戦国時代を経て平和の時代へと移行するに従い、武士の世界も下剋上から秩序を重んじる統治階層にふさわしいものへと変容してきました。戦国武士から、近世の封建官僚としての武士へと移行していったのです。

 

源頼朝が鎌倉に幕府を開いたころ、それまで公家社会であった日本の社会は「弓馬の家」と称して、京都公家の世界とは異なる文化と生活習慣をもつ武家の自立をうたいました。その武家の武家たるゆえんは「戦闘者としての能力と資質」でした。当然、教育においても、作法においても「戦」を前提としたものであり、何においても、それにつながるものでした。しかし、では、学問は軽ざれたのかというとそうではないようで、頼朝は京都から大江広元(1148~1225)や三善康信(1140~1221)といった学者を招いたように、学問を否定したわけではなかったようです。それは領国経営に必要な知識を学ぶことも武家の棟梁に必要な学習であったが、何よりも一族郎党を率い、過信が命を賭けて仕えるにふさわしい見識と公正な判断力、それに人格的な素養を身につけることが要求されたからです。そして、この理想が「文武両道」という言葉になるのです。

 

この「文武両道」に類した言葉として、「右武左武」(ゆうぶさぶ)という表現も昔から使われていましたが、これももともとは「文武両道を以て天下を治める」という中国の潘炎の「君臣相遇楽賦」から伝来した観念であったようです。このように「文武両道」とは、当初は一般武士というよりは、リーダーとしての上級武士の教育観念であったというほうが性格であろうと沖田氏は言っています。

 

家柄というだけではなく、一族郎党を集めるところから求められる武家政権においては人をつなぎとめる教養が魅力となり重要視されていたのですね。最近では保育においても、リーダーシップというものが注目されてきました。このブログでも以前コーチングの本を紹介しましたが、何か目的があり、それを達成するためには自分ひとりで達成することは非常に困難です。特に人間の場合社会を通して行ういきものです。そのため、それぞれ単体の能力だけではなく、それ以上に、その能力をつなぎ合わせ、協力し大きな力に変えていく必要があり、そのためにリーダーシップという能力は非常に重要な能力になってくるのです。

 

現在の教育ではこのリーダーシップであったり、その根底となるコミュニケーションであったりというものがどうも育つような枠組みではないように思います。今回の「文武両道」の考えを見ても、目的にあげられるのは単なる教養ではなく、人をつなぎとめるためのリーダーシップであったり、教養であったりするところに視点が置かれています。つまり、人格の形成といった部分に中心がしっかりと置かれているのです。どうも今現在の教育はその本来の目的から離れているように感じます。さて、鎌倉時代から次は戦国時代に変遷されていく中でどのように武家の教育は変わってくるのでしょうか。