社会

調査から見えるもの

PISAが国際的な調査を行ったことで、各国の中で、さまざまな議論が起きました。東アジア諸国が教育に関心が強いことが見えてきました。それはアメリカでも同様で、最初の頃のPISAにはあまり関心がありませんでした。しかし、2006年の調査結果発表と共に風向きが変わります。2008年アンドレアス氏は全米知事協会冬季会議でPISAについて講演し、その時、国際比較に向けられた州知事たちの大きな関心を目の当たりにしたと言っています。そして、2009年~2015年までアメリカ教育長官を務めたアーン・ダンカン氏の主導によって、「トップへの競争」がおこなわれます。これはアメリカ各州の取り組みがアメリカで各州間の構想を推進するだけではなく、ワールドクラスの教育システムに注目し、外部は目をむけるよう各州に促しました。その後、コモンケア教育スタンダードの検証委員を務めたときは、アメリカの子どもたちが21世紀に習得するべき目標を設定するにあたり、世界最高レベルの教育システムとの比較が大きく影響していたそうです。

 

このように政府がPISAの結果を、同様の課題を持ちながら成功している他国と比較し、政策と実行を検証するピアレビューの会視点として利用してきた国もあるのです。そして、これは政策立案者や研究者だけではなく、教員の組織や組合を含む現場の教員たちのピアラーニングも活発になったのです。そして、その影響は保護者にも影響を与えていきます。それは一般国民がより良い教育サービスを求めて声を上げるきっかけにもなったというのです。このように様々な組織や企業の経営者は含め、多くの人が教育を単に自分たちの会社の将来の働き手を生産する工場としてではなく、自分たちが暮らし働く社会を形成するにあたり重要な役割をもたらすものであることを理解しているという表れでもあるのです。

 

PISA型の達成目標に向けて多くの国が対策を行いました。各国は、もはや過去の調査結果と学習到達度を比較するだけで自国の教育制度を検証するのではなく、世界最高レベルの教育システムが達成した得点をもとに目標を設定し、その目標への到達度を測っているのです。

 

ブラジルでは、子どもたちが「低レベルな教育水準の学校に通っているにもかかわらずいい点を取る」ことを問題にしていました。そこで、世界基準のPISAの結果を見ることで国民に真実を理解してもらうといって実施し、得点の公表だけではなく、成績向上のため何が必要かをすべての中等学校に説明することで、PISAにおける結果の改善が目覚ましかったのです。メキシコではPISAの調査を受けたことで、PISAの到達度基準最低レベル以下の学校に通うっているデータにも関わらず、保護者の77%が教育の質について良い又は大変いいと回答したということが分かったのです。

 

PISAの学力調査は様々な国の教育について様々な一石を投じ、改善を必要とさせたのです。このことこそがPISAが望んでいたことなのでしょう。各国それぞれの動きだけではなく、全世界を含めた子どもたちの教育への利益。それはそれぞれの国にとっても利益になるということなのだと考えてのことなのだろうと思います。グローバルな世の中において、世界規模で子どもの教育に関心を向け、各国の教育を比較し合い、少しでも最適解を見つけるべく、PISAの学力調査が行われているというのです。そして、実際、改善されている国があるのです。

 

私も、いくつかの国を海外研修ということで行かせてもらいました。そのときに海外の保育を学ぶ以上に、自国の保育を改めて考える機会になることが多くあります。PISAの調査はそういった意味合いもあり、世界において教育の刺激を与えることになったのですね。

PISAと東アジア

PISAの学力調査では丸暗記だけでは不十分です。なぜなら、以前も紹介したように、PISAの学力調査では、知識を持っているかどうかよりも、その学んだことで実際に何ができるかを測定するものだからです。そんな中でも2012年にPISAが最初の創造的問題解決スキルの評価を行ったとき、東アジアの得点はかなり低くなると予想していました。しかし、そんな中、シンガポールがトップになったのです。シンガポールは一世代で開発途上国から最新の工業経済圏へと変容を遂げた国です。

 

2014年当時の教育大臣ヘング・スウィー・キート氏はシンガポールが創造的で批判的な思考、社会情動スキル、人格形成にいかに重点を置いているか強調したそうです。シンガポールは教育機関の質においても、革新的な教育政策の立案や実施における教育者の関与の深さについても一歩先を行っているといアンドレアス氏は言っています。

 

昨年、シンガポールに行かせていただきましたが、その時の感想は「非常に貪欲な姿勢」でした。そして、「若くても有能な人の多さ」に驚きました。そして、何より「教育への関心」が強いのです。それについてシンガポールは自国の資源がないことがということが挙げられると言っていました。そのため、自国が発展していく仕組みとして「人材・建築・金融」ということを言っています。確かにシンガポールはユニークな建物が多くありました。人材育成に関しては非常に深い関心があり、施設においても、保育においても、いかに情動スキルや人格形成が重要かということを現地の方々から聞くことが多くありました。

 

では、日本ではどうかというと、アンドレアス氏は「日本はこれまで一貫してPISA最上位国の一つだが、各教科の履修内容の再現を要求する問題には強くても、習得した知識を道の状況に応用する自由記述形式での成績は芳しくないことが判明した。」と言っています。そして、「その結果について、多岐選択式の大学入試になれている親世代や世論の理解を得るのは容易ではなかった」と言っています。これは今でもそうかもしれません。「学力が落ちている」という言葉だけが独り歩きし、詰込み型教育が見直されました。しかし、戻したところでPISAが示す日本の教育の弱いところを取り戻すことにはつながらないかもしれないのです。実際のところでは「アクティブ・ラーニング」が導入されるように、現在の日本では、そうはいっても、詰込み型ではなく、大学入試が自由記述式になるように「PISA型」になる政策がとられています。2006年や2009年の間に日本は、OECD加盟国の中で、自由記述においても最も足早の改善を見せたのです。アンドレアス氏は「この改善は、弱点に対応するための公共政策の変化が、いかにして教室の現場での変化をもたらせるかを示している点で大きな意義がある」と言っています。

 

このように日本を含め東アジアでは国民の生活向上のために、西欧諸国よりも大きく教育には力を注いでいるとアンドレアス氏は言っています。だからPISAの学力調査では上位のほとんどがアジア圏の国なのですね。

ドイツの変化

PISAの学力調査は各国々に多くの影響を与えることになります。そして、その国々の教育政策における問題を認識させることにもつながるのです。例えば、アンドレアス氏の出身のドイツでは2000年の調査において激しい教育政策議論が交わされました。なぜなら、その年のドイツの生徒の成績が予想を大きく下回ったからです。このことをドイツでは「PISAショック」というそうですが、これがきっかけに教育政策と改革に関する国民の議論が始まります。というのも、ドイツでは、どの学校も適切かつ平等に処遇するべく甚大な力がそそがれてきたのです。それだけに、国民はすべての学校の学習環境は当然一律だと認識していました。しかし、PISAの2000年の結果では学校が社会的経済的に恵まれているか否かによる大きな教育格差が明らかになったのです。このように生徒の成績の学校間での差が50%のドイツに対し、その差がわずか5%というフィンランドの学校の均質性を示すエビデンスは、ドイツに強い印象を与えたのです。つまり、ドイツではどの学校に入学させるかが重要な問題となったのです。

 

このことはドイツの学校制度によるものが大きいといえます。ドイツはマイスターの国でもあるように、子どもたちは10歳で知的労働者としてのキャリアとなる学問コースか、最終的に知的労働者の下で働く職業コースに分かれます。つまり、PISAの調査はこういった社会的経済的背景が有利なドイツの子どもたちは、より優秀な教育成果を残す社会的地位に高い進学校へ進めるが、あまり恵まれていない背景の子どもたちは、教育成果も社会的地位も高くない職業学校へと進んでいるということが生徒の成績の差が大きい原因であるということが分かったのです。

 

このことについてはドイツの教育者や専門家にとっては、この格差に関してはそれほど驚くことではなかったそうです。そのため、公共政策の一環として改善すべきこととはみなされていなかったのです。重要なのはこのPISAの調査から見えるのは、ドイツのように生徒の社会経済的背景が学校の成績に及ぼす影響は国によってさまざまで、ドイツよりも効果的にその影響を軽減している国々があったことだった。このことこそが、PISAによる狙いだったのです。

 

その後ドイツでは、PISAのおかげでエビデンスとデータへの新たな態勢が築かれたのです。そして、教育への国家支出を2倍に引き上げました。そして、お金よりも議論によって国内での幅広い改革の取り組みが始まり、中には革新的な改革も見られたのです。以前にも紹介したように、幼児教育に手厚い教育支援が盛り込まれ、全国教育スタンダードが学校に適応されるようになったり、移民や貧困層への支援も強化されます。そうした対策のもと、9年後の2009年にはドイツのPISAの結果はかなり改善し、質も公平性も共に大きな進展も見せました。このような各国の取り組みはドイツのみならず、韓国、ポーランド、コロンビアやペルー、エストニアやフィンランドなども、PISAの結果を受けて改善をしているのだそうです。

 

その中でも、PISAの開始当初、成績が良く、教育システムの急速な改善を見せていたのはほとんど東アジアの国々だったのです。

学力調査を受けて

PISAがもたらした最も重要な見識の一つは、「教育システムは変革可能であり、改善できるということだ」とアンドレアス氏は言っています。学校がいかなる成果をあげるかに関して不可避で固定的なことは皆無だということをPISAは示したのです。調査結果からは、「社会的な不利と学校での成績不振には必然的な関連がない」ことも明らかになったのです。つまり、学校での取り組みにおいて、成績は変わるというのです。これからの社会は流動性のある社会が求められるといいます。優秀な人が優秀な成果をあげられることが社会には必要であり、そうなっていくためには様々な不利な状況を打開する社会システムが必要になるのです。つまり、人材をうまくいかせる社会構造を作ることでより、革新的な時代となることができるのです。

 

PISAの調査結果は、現状肯定派にとっては挑戦的なものでありました。しかし、ある国が成績向上のための政策を実施することができ、社会的格差をなくすことができたのなら、他の国に同じことができない理由があるのでしょうか?とアンドレアス氏は言います。いい教育方法や保育環境を取り入れることは国にとっても有益な成果を見通せます。現状を肯定し、換えないことが良いことなのか?学校の質を保つ教育システムなど、成功すれば持続性のある安定した教育成果がもたらされることを示した国もありました。フィンランドは、PISAの最初の調査で全面的に最も成績が良かった国だが、保護者は自分の子どもがどの学校に入学しても高い水準の教育を受けられると信じられています。

 

逆に、国の成績が絶対的な数値としても、その国の期待値と比較して低いことが判明した場合、PISAが出す成績の与える影響は大きくなります。PISAが一つの尺度として見えてくるのです。国の成績と国際的な成績との差が見えてきます。このことは今の日本の教育の状況が似ているように感じます。ほかにもPISAが強力な教育改革運動を引き起こすほど、国民の注目を集めた国もありました。国民が思っている教育システムと調査結果が相反するときに非難の声は最大となり、国民と政治家が自分たちの教育は世界で最高のものだと思っているのに、PISAがそれとは異なる結果を示した場合には実に大きな動揺をもたらしたのです。

 

今の日本はまさにここにあるように思います。PISAの学力調査では読解力が落ちていると言われています。そして、それによって政策はその読解力の改善を求めて、小学校の教育を変えてきています。しかし、未だ「詰込み型の教育」への転換が視野に入れられ、学校教育は右往左往しています。これが「ゆとり教育」の弊害です。現場側と政策側がどうもうまく共通理解できていないように感じられます。しかし、政策的には学校教育も少しずつ変わってきています。学校現場の様々な対応が求められています。しかし、未だ課題は多くあり、それは乳幼児教育においても同じことが言われます。「幼保小の接続」はずっと言われ続けています。PISAの学力調査が出るたびに「学力が低くなった」というところばかりがクローズアップされますが、その改善における取組みがあまり取り上げられていないように思いますし、これまでの教育の形を変えることに対して保守的な考えは未だ根強く感じます。PISA の調査結果の受け取り方はなかなか難しいように感じます。

成果の共有

「与える人」の次にあげられる礼節を身につける心得は「成果を共有する」ということです。自分自身が与える側であれば、その逆に「与えられる側」にもあるのです。そして、その時に手柄を独り占めすることがしてはいけないのです。経営学者のウォーレン・ベニスは「良いリーダーはスポットライトの下で自らが輝くが、偉大なリーダーは、自分だけでなく、自分の下にいる人たちを輝かせる」と言っています。このように、自分以外の他人を立てるこうした謙虚さは、さまざまな点で良い効果をもたらすのです。

 

ブラッドリー・オーウェン、マイケル・ジョンソン、テレンス・ミッチェルという3人の研究者は、謙虚さの重要性を証明しました。誰もが他人を素直に評価するような環境では、もともと持っている人間性、能力を超えるような成果をあげる可能性が高まると言っています。謙虚なリーダーに率いられたチームにいる人は、積極的に新しいことを学ぼうとするのです。そして、より熱心にチームに貢献しようとしますし、チームの仕事にも満足する傾向が強いのです。そのうえ、チームに長く留まろうとします。

 

2013年、2014年のIBMの「ワークトレンド調査」では、貢献を正当に認められた社員は

そうでない社員に比べ、会社への愛着が3倍近くも強いという結果が示され、会社に対してよく貢献していると正当に評価された社員は、そうでない社員より、退職する確率もはるかに低くなったことが示されたのです。「認められる」ということはそこで働く人にとってそのままやる気につながっていくのです。そして、その「認められる」という実感を持たせることにおいて「褒める」ということがあるようです。人を褒める経営者は皆に愛されると言います。その人のためならば、何か壁があっても努力して乗り越えようと思えるというのです。

 

では、人を褒めるときというは、どういった時がいいのでしょうか。どのようにすれば効果的なのでしょうか。重要なのはその人の「サクセスストーリー」を皆に広めることだと言います。そして、そのために小さな成功体験が人をやる気にさせると言っています。大きな目標が達成されたときにはじめて称賛するのではなく、その課程の中での小さな目標が達成されるたびに周囲の人にも分かるように称賛するのです。努力して成果を上げたとき、すぐにハイタッチをして喜び合える人がいることが大切なのです。貢献をすればすぐに周囲がそれをほめたたえるべきなのに、できないとしたら、いったいなにが障害になっているのでしょうか。

 

しかし、この「褒める」という行為は非常に難しいというのを日ごろから感じます。大切なのは「褒める」行為自体ではなく、相手を「認め、共感すること」だと私は思っています。これも「与える人」のようになんでもかんでも褒めるということが必ずしも良いことであるとは思いません。しかし、「自分の成果にする」のではなく、「刷り込みなしに相手を見る」ことや「良いところ探し」をすることが大切なのでしょう。つい、人は批判的な見方をお互いにしてしまいます。相手の悪いところを見つけることは簡単なのです。しかし、相手の良いところを見つけるには訓練が必要です。「ないものねだり、ではなく、あるもの探し」をする意識というものを持つ必要があるのでしょう。