社会

コミュニケーションの質

組織のコミュニケーションにおいて、これまで考えられてきたのが、トップダウン式のコミュニケーションです。トップから必要なことを聞き、それを現実化させていく、        多くの組織の中ででも当たり前のようによくあることが多かった組織形態です。しかし、最近ではトップダウン式の経営手法から、ボトムアップ式の経営に変わってきているという話をよく聞きます。つまり、上から下への関わりだけではなく、下から上への重要性です。

 

ドラッカーもコミュニケーションはこれまで数百年にわたって、上から下へ試みてきた。しかし、上から下へでは、いかに懸命に行おうともコミュニケーションは成立しないと言っています。それは「何を言いたいか」に焦点を合わせているからです。そして、コミュニケーションを成立させる者は発してであると前提しているからです。そうはいっても、はっきりとものをいうことや書いたりする努力は必要ないわけではなく、むしろ逆です。どのように話すかという問題は、何を話すかという問題が解決されて、初めて意味を持ちます。どのように上手に話していても、一方的に話したのでは話は通じないです。そして、一方的という部分に関して言えば、下の者の言うことを聞いたからといって、問題の解決にもなりません。

 

いまから40年前、エルトン・メイヨーは、それまでのコミュニケーションに対するアプローチの欠陥に気づき、上に立つ者は下の者が言わんとすることに耳を傾けなければならないと指摘しました。部下に理解させたいことからではなく、部下が知りたがっていること、興味を持っていること、つまり知覚する用意のあることから着手しなければならないとしました。子どもの保育に関しても、相手に共感し、傾聴するということの重要性が言われていますが、それは大人にも当てはまることなのですね。

 

この傾聴について、ドラッカーは耳を傾けるだけでは効果はなく、下の者の言うことを理解して初めて有効となると言います。そして、下の者がコミュニケーションの能力があって初めて有効となる。といっており、上の者ができないことが、下の者にできる保証はないと言っています。これは耳が痛いですね。つまりは、両者が傾聴する意識や共感することができて初めてコミュニケーションになるのです。

 

たとえ情報が多くなっても、その質がよくなっても、コミュニケーションに関わる問題は解決されない。コミュニケーションギャップも解消されない。むしろ、情報が多くなる分、効果的かつ機能的なコミュニケーションが必要になるのです。

 

こういったやりとりはそのまま、保育に変換することができます。大人が子どもに話すときにやはり、子どもの言い分や話に耳を傾けたり、共感しなければ、子どもはダダをこねたり、かんしゃくを起こしたりとかえって、時間がかかったりします。それと大人の関わりにも似ているのを見ると、人とのコミュニケーションというのは大人も子どもも大切なところは大きく違っていないのでしょうね。

要求と情報

コミュニケーションの3つ目は「要求」です。ドラッカーはここで新聞の例を出しています。新聞では紙面の余白を埋めるために、ニュースにならない些事を2,3行にまとめて、埋め草を使うことがありますが、かえってこの埋め草の記事のほうがよく読まれ、よく記憶されることが多くあります。それはなぜなのでしょうか。ドラッカーは「それらの豆記事が何も要求しないからである。読者の関心と関係がないからである」と言っています。

 

コミュニケーションは受け手に何かを要求します。受け手に何かなること、何かをすること、何かを信じることを要求する。それは常に何かをしたいという受け手の気持ちに訴えようとします。そして、それが受け手の価値観、欲求、目的に合致するとき強力となるのです。逆にそれらのものに合致しない時、まったく受け付けられないか抵抗されるのです。しかし、それらのものに合致しない時でも、コミュニケーションが力を発揮したときには受け手の心を転向させることができるといいます。それは受け手の信念、価値観、性格、欲求までも変えるというのです。しかし、そのようなケースは、人の存在に関わる問題であり、まれであるのです。人の心は、そのような変化に対し、激しく抵抗するというのです。

 

以前、研修の中で、なにかを変えるときに進むベクトルよりも戻るベクトルのほうが強くなり、保育においても変化を起こし続けるのが難しいことがよくあるということが言われていました。大きく人の価値観を変えるのはなかなか難しいことです。そして、一度ついて価値観というのを拭い去るのも難しいのかもしれません。そのため、マネジメントは相手の価値観や欲求、目的を分析し、うまくコミュニケーションを図っていかなければいけないのです。相手を知るための共感や傾聴する力というのはとても重要になってきます。

 

最後の原理は④「コミュニケーションは情報ではない」ということです。ドラッカーはコミュニケーションと情報は別物であると言っています。しかし、その関係は依存関係でもあると言っています。コミュニケーションは近くの対象であり、情報は論理の対象というのです。情報は形式であり、それ自体に意味はない。情報には人間はいなく、人間的な要素はない。情報はむしろ、感情、価値、期待、知覚といった人間的な属性を除去するほど、有効となり、信頼度も高まるのです。しかし、情報はコミュニケーションを前提とすると言います。情報と記号であり、情報の受け手が記号の意味を知らなければ、情報は受け取られることもないのです。情報を発信する送り手と受け手との間に、あらかじめ何らかの了解、コミュニケーションが存在しなければならないのです。

 

確かに情報を流れてきたとしても、それにどういった意味があるかわからなければ理解することはできません。暗号ばかり送られても暗号解読できなければ、その情報に意味はないのです。そのため、コミュニケーションにとって重要なことは、情報ではなく、知覚することだとドラッカーは言うのです。

どうも「コミュニケーションをとらなければいけない」という話になったときに、人は発信するほうにばかり目がいってしまいがちです。しかし、コミュニケーションというのは相手があってこそなのです。当たり前のことですが、ですが実際のところ受け手の期待を察知し、対応していくことが難しくもあるように思います。ドラッカーのコミュニケーションの原則は非常にシンプルなところを冷静に取り出しているように思います。受け手の意識を察知し、知覚できるように、要求や期待に応えるそういったところにコミュニケーションの大切な部分があるのですね。

期待

ドラッカーはコミュニケーションについて「4つの原理がある」と言っています。そして、その一つが前回紹介した「知覚する」ということであり、相手とコミュニケーションをとるにあたり、「相手がわかることを話しているか」やそもそも「聞き手が聞く気があるか」といった、「受け手の知覚能力の範囲内か、受け手は受け止めることができるか」といったことを「知覚」することでした。

 

そして、次にコミュニケーションの原理に挙げているのが②コミュニケーションは期待である。ということです。このことは非常に単純で、「われわれは期待しているものだけを知覚する」と言っています。そして、期待していないものは反発を受け、その反発がコミュニケーションの障害になるというのです。そして、重要なのは、期待していないものは受付けられることさえないというのです。見えもしなければ、聞こえもしない。無視される。あるいは間違って見られ、間違って聞かれます。人の心は期待していないものを知覚することに抵抗し、期待するものを知覚できないことに対しても抵抗します。つまり、期待する者であっても、分からなければ抵抗するというのです。そのため、期待されるものが何かを警告する必要があるのですが、その期待されるものが何なのかを、そもそも知っていなければいけない。そしてさらに、それが期待されないものであった場合、間違いなく伝える方策、つまり、誤解なく伝え、連続した心理状態を断ち切るショックが必要となるというのです。

 

言葉に出してみるとまるで、言葉遊びのようにもきこえますが、つまりは、相手が何を期待し、何を期待していないのかをマネージメントする側はしっかりと理解していなければ、後にも先にも動きずらいのです。期待するものを知って、初めてその期待を利用することができる。あるいはまた、受け手の期待を破壊し、予期せぬことが起こりつつあることを強引に認めさせるためのショックの必要を知ることができるというのです。

 

保育を変えていくにあたって、こういった壁に当たることはよくあります。とくに「受け手の期待を破壊し、予期せぬことが起こりつつあることを強引に認めさせるためのショック」を与えるというのはとても難解です。「知覚する」ことにおいても「期待する」ことに対しても、相手がどう考えるかというアンテナを張る必要は非常に重要であるということが分かります。自分ばかりが進めていては組織は成り立ちませんし、まとまってはいきません。また、そのためには小手先の「今の状況」や「動き」といった具体的なことよりも、もっと大局の理念や理想といった大きな組織の目標を共有するということがなによりも重要な要素としてあるように思います。その目的に向かって、「期待する」ことが適しているのか、それとも破壊する必要があるのかといったことを伝えていかなければいけないのだと考えています。それは組織の人だけではなく、人との関わりにおいても同じことが言えますね。

コミュニケーションと組織

保育士不足というのが世の中でとても言われています。そして、新卒の保育士が職場に求めているものが「職場の人間関係」といったものを重視しているようです。そして、新任の保育士が辞めていく要因の中にも「人間関係」というものが原因に上ることが多く、多くの人は職場内でのコミュニケーションにおいて問題を抱えている現状があるのです。

 

ドラッカーにおいても、組織内のコミュニケーションというのは、今日あらゆる組織において最大の関心事となっていると言っています。しかし、実際そのコミュニケーションは未知のものであると言っており、実際のところ不足していると言っています。そして、コミュニケーションは①知覚であり、②期待であり、③要求であり、④情報ではない。それどころか、コミュニケーションと情報は相反する。しかし、両社は依存関係にある。という4つの基本を紹介しています。

 

まず、1つ目の①知覚である。ということはどういうことをいうのでしょうか。それは「コミュニケーションを成立させるものは、受け手である」ということで、実際のところ、コミュニケーションの内容を発する者、すなわちコミュニケーターではないというのです。コミュニケーターは音を発するだけであって、聞くものがいなければ、コミュニケーションは成立しないのです。確かに、実際問題、聞く手に聞く気がないと話は相手に入ってこないですし、響くこともありません。相手との信頼関係があってこそ、コミュニケーションが実現するというのは至極当然であると思います。ドラッカーはコミュニケーションは受け手の言葉を使わなければ成立しないと言っています。言葉で説明しても通じない。経験にない言葉で話しかけても理解されないのです。コミュニケーションを行うには「受け手の知覚能力の範囲内か、受け手は受け止めることができるか」を考える必要があるということを言っています。当然、あらゆるものには複数の側面があり、様々な受け止められ方があるということを考えることは至難の業です。そのため、受け手が自分とは違う理解をせざるを得ないということも認識していなければいけないのです。

 

このことは保育の話を保育者や保護者などに話すときに考えることがあります。様々な子どもの研究をそのまま保育者や保護者に話してもなかなか理解できないことが多く、難しそうな顔をされることがあります。それを分かりやすく話すようにしなければ理解はされません。そのため、相手の反応や顔を見て、その理由を探ります。また、「聞き手あってのコミュニケーション」というのは忘れてはいけませんね。発信だけをしていても、コミュニケーションとは言えないのです。「会話」というのはそのやりとりであり、一方的な関わりはコミュニケーションではないという視点はよく考えておかなければいけません。特に最近の若者は会話やコミュニケーションが不得意と言われます。それはもしかすると、発信ばかりに偏っているからなのかもしれません。

社会的影響と社会的責任

社会的責任の問題は2つの領域において生ずるとドラッカーは言っています。第一に自らの活動が社会に対して与える影響から生ずるもの。そして、第二に自らの活動とは関わりなく社会自体の問題として生ずるもの。いずれも、組織が必然的に社会や地域の中のそんざいであるがゆえに、マネジメントにとって重大な関心事足らざるを得ない。この2つの社会的責任は全く違う性格のものです。前者は、組織が社会に対して行ったことに関わる責任であり、後者は組織が社会のために行えることに関わる責任です。

 

このように見ていくと、教育というのは非常に社会的影響と社会的責任のある仕事であるということがいえます。保育機関や教育機関が社会に与える影響として日々の教育や保育を行っていることに対して、その責任はその後、関わった子どもたちがつくる社会において責任を持たなければならないということです。つまり、今の社会がダメだという前に、その子どもたちが受けてきた教育や保育の内容にも責任を持ち、社会と教育をリンクさせた考えを持たなければなりません。それが教育機関における社会的責任なのだということが分かります。特に乳幼児教育においては、発達や情動のコントロール、関わり、共感、など、様々な人との関わりの芽生えや原点があるように思います。つまりは、そういったところの問題が出てきたときに、改めて保育の状況や環境を見直していかなければいけないのです。

 

ドラッカーは現在の組織はそれぞれの分野において社会に貢献するために存在すると言っています。つまり、そして気が社会に対して与える影響は、それぞれが自らの存在理由とする社会に対する貢献にとどまることがない。保育でいうと、保育や教育に限らず社会において、その影響があるということをしっかりと捉えておかなければいけないということですね。

 

これに対して、社会の問題は組織とその活動の影響からではなく、社会自体の機能不全から起こる。組織は、社会環境のなかにおいてのみ存在する。そのため、社会自体の問題の影響を受けざるをえない。地域社会がなんら問題視せず、かえって問題と取り組むことに抵抗したとしても、社会の問題は組織にとって重大な関心事たらざるを得ないというのです。健全な企業、健全な大学、健全な病院は、不健全な社会では機能しえないからである。マネジメントが社会の病気をつくったわけではない。しかし、社会の健康は、マネジメントにとって必要であるというのです。

 

つまりは、理解のある社会ではないとその組織の社会的責任は認められないということなのでしょう。そのため、マネジメントはその状況をうまくいかせるための策を講じなければいけません。しかし、それはあくまでも「社会に貢献する」ということが目的になっていないとそれは遂げることができないのです。そして、その時代の状況、その社会状況においてどのような社会的影響があるのか、マネジメントはそういったことを意識した上で、考えていかなければいけないのですね。