社会

ハラスメントはなぜへらない?

前回は、ハラスメント加害者側の無知、無自覚、想像力の欠如ということが出ていました。ほかにも、その理由はあり、その一つが「ハラスメントを組織が生み出している」ということです。それはつまり「組織におけるストレスが、被害者を助けることができる可能性のある人たちを遠ざけてしまっている」ということだと武神氏は指摘しています。

 

職場の中には自分自身のストレスや、やらなければならない仕事で余裕がなくなり、自分のしていることが見えていなかったり、自分の中の思いやりの心に気づく余裕が無かくなってしまったりするのです。その結果、無意識・無自覚のうちにハラスメントを行っている人たちもいますし、同僚がハラスメント被害を受けていることを見て見ぬふりして、あとになって後悔している人たちも多くいるのです。

 

武神氏は「ハラスメントは受ける側にも問題がある」のは間違いであり、原因があるからハラスメントをするのではなく「ハラスメントをするために原因を探している」ということが多くの場合当てはまるのではないかと考えています。つまり、余裕がないからハラスメントを起こし、そのために原因を探すのではないかというのです。確かに、自分が余裕がなくイライラしているとつい言いすぎてしまったり、相手に求めすぎてしまうことはよくあることだと思います。武神氏はメンタルヘルスにおいて産業医として面接していくなかで、見えてくる「上司のパワハラ」、そして、その傾向などが見つかることはあるのですが、それを人事担当者に「パワハラ部長の上司にそのことを伝えないと」と提案しても、なにも変わらない会社もあるそうです。パワハラを認知していても、対象しない・できないことは会社の責任ではないかと言っています。そのため、こういった問題は組織運営や企業文化の課題として扱われるべきだと指摘しています。

 

パワーハラスメントがなくならない最後の理由は「パワーハラスメント」という言葉の普及であると言っています。この内容は「ハラスメント」というものの定義があいまいで、相手が嫌だと思わなければハラスメントには当たらず、嫌だと思われればハラスメントになるという定義や認定がないといったあいまいなものということです。そのため、なにかあったときに「ハラスメント」だと感じる人が増えてきたということも言葉の定着によって起きることではないかというのです。

 

こういったハラスメントがおきる理由、無くならない理由において、どう対応していくことが必要なのでしょうか。武神氏は一つは「声をあげられる仕組み」をつくることが大切と言っています。そうすることで、メンタルヘルス不調になる前に食い止めることができる対処ができるというのです。そして、もう一つ、様々なハラスメント研修が行われている中で、“やってはいけないことを学ぶ研修”はそれほど効果がでないのではないだろうかというのです。こういった研修をしたからといって、それが「ハラスメント対策をした」といっている企業が多いのではないだろうかというのです。大切なのは「やってはいけないこと」に注目するのではなく、うまくやっている人たちが何をやっているかなど、やってほしいことに注目することが大切になってきます。

 

このことは様々な研修においても言えることだと思います。「やってはいけない」ことばかりが増えていくと、「これもダメなのか?」と意識してしまうあまり、行動に起こすこと自体が難しくなってきます。そうかんがえるのではなく、「こう動くといいのか」といったいいモデルを見ることのほうが「では、こういうのはどうか?」と少なくとも行動をポジティブに考えることができるようになるのではないかと思います。そして、そういった思考は自分の自己肯定感すらも刺激することにつながるのではないかと感じます。ハラスメントというのは非常にあいまいな定義のもとにあるというのは言うまでもありません。そして、その土台には働いている人それぞれの風通しのよさやコミュニケーションの質や職場風土、文化といったものが大きく影響するのだと思います。そして、それにマネジメントする側は非常に大きな影響をもっているということをよく考えなければいけませんね。

ハラスメントとは

昨今、「○○ハラスメント」ということがよくニュースに出てきます。しかも、その種類は年々増えてきてもいます。また、その「ハラスメント」によって、命を絶つことにもつながることにもなり、非常に問題視されていることとしても注目されます。武神氏はこのハラスメントが上司と部下とのこれまでのコミュニケーションが通用しなくったもう一つの要因だと指摘しています。

 

一般的にハラスメントはいじめや相手の嫌がることをすることを指します。職場においてのハラスメントは、職場内での優位を背景に、業務の適正な範囲を超えて精神的身体的苦痛を与える行為とされています。最近でも、小学校の先生が激辛カレーを無理やり食べさせられるというパワーハラスメントがニュースに取り上げられていましたが、こういったパワーハラスメントが自殺につながることもあります。よくあるのが、こういったパワーハラスメントを「かわいがり」や「冗談」「洒落」といったように言うことがありますが、一番の問題は上司が部下に対して、自分たちの行為が部下を自殺にまで追い込んだことやこういった気持ちを引き起こすという考えすらなかったというのが問題で、ましてや自殺まで起こすとは思っていないからこそできるということです。

 

武神氏はこういった職場のパワハラの問題は「思いやり」や「道徳心」の欠如として片づけられないほど、その根は深いと考えています。そして、なぜこういった多くの企業においてハラスメントが無くならないのか。その背景や理由を、年間1000人の働く人と面接を行っている立場から3つ紹介しています。

 

その一つ目がハラスメント加害者側の「無知」「無自覚」「想像力の欠如」からくるもの。というのも、そもそも私たちは「いじめはダメなこと」と習ってきていますし、それが道徳的にいけないことだということは知っています。しかしなぜ、そういったことが起きるのでしょうか。それは他人にしてはいけないことを教わっていないから知らない(無知)があったり、自分の行為がハラスメントに該当することに気が付いていない(無自覚)であったり、自分はそのような指導を受けてきたが、ハラスメントとは感じなかったので同じ指導をしているという(想像力の欠如)といったいろいろない人がいる現状があるのではないかということです。

 

この一つ目の理由はよくあることです。そして、意識していないとこいういったことはなかなか気づくことができないことです。これは子どもに対してしても、言えるように思います。大人は子どもに対して「あなたのためを思って」と様々なことを要求することがあります。しかし、その反面、「自分だったらやらないけれども」と子どもに自分の願望を押し付けたり、「できないことをできるように」と子ども自身が望んでいないことを進めることもあります。それ自体に子どもの意志は何にもかかわらずです。これも一つにパワーハラスメントといえるのではないでしょうか。決して、このことは大人同士だけの話ではないように思います。すべては相手の立場や目線に立つ必要性があるのでしょうし、相手をどう尊重するのかということが一つの重要な要素になってくるのだと思います。そして、こういったことは職場にも保育にも生きる意識ですね。

 

では、二つ目の理由はどういったところにあるのでしょうか。

社会性は高校から?

2019年11月25日の日本経済新聞に「人間関係築く教育を」という記事が書かれていました。掲載したのは古賀正義中央大学教授であり、「将来の進路を模索し、多様な人間関係を築く場であった高校がその機能を失い、社会を支える「普通の市民」の育成が困難になっている」と指摘していました。

 

ではいったいどういうことが今の日本の高校で起きているのでしょうか。現在、日本の高校において大学進学率は60%に迫る勢いであり、人材養成は高学歴化しています。それ自体は悪いことではないのですが、その反面、高卒者の受け入れが減り、非正規雇用が拡大しています。大学を出たからと言って、正職員になる時代ではなくなってきているのです。これまでは進学と人材の高度化は同義語であり、そのために大学に行くことが重要だったのですが、現在では進路が決定できないという理由での進学が増えてきているのです。そのため、社会にでられないための教育機関の延長、「教育モラトリアム」という問題がうまれてきているようです。

 

また、最近において問題になっているのが、中退者の理由です。東京都内の都立高校中退者を対象に行ったアンケート調査(2013)でもっとも多い退学の理由は、教師への反発や問題行動ではなく「遅刻や欠席などが多く進級できそうになかった」ことが一番多く「友達とうまく関われなかった」「精神的に不安定だった」という理由です。多くは学則や学業勉学ではない理由で退学していくのです。しかも、中退者の2割は誰にも相談することなく退学を決めていたそうです。相談する相手がいても、それは教師や仲間ではなく、母親がほとんどでした。そのため、十分なケアができないまま、多くの生徒が1年生の初めに高校を去っていくという現状が今あるそうです。そして、こういったことは低ランクの高校だけではなく、どの高校でも、常にいじめや日々の中で起きか分からない教室から排除される不安と常に戦っているのです。そして、細やかに気を使い、場の空気に合わせて、いつも話せる安心な仲間を持つことが学校生活において非常に重要になってくるのです。そして、こういった対人関係はその後の人生にも強い影響を与えていくということが分かっているそうです。というのも、内閣府の2016年の若者の居場所調査において、20代後半になっても4割ほどの若者が同居家族以外では、高校・大学時代の友人か中学時代の地元の友だちとしか、日々語り合ったりメールのやりとりしていないということが分かったそうです。

 

つまり、職場や地域における日常の人付き合いは広がりを見せず、極めて狭い範囲の人間関係にある若者が多いようなのです。そして、限定された人間関係しか持たない若者ほど、他者に対する評価が厳しくなるそうです。そのため、閉鎖的に人間関係は閉塞的な対人ネットワークにますます期待し、そして失望するという悪循環を生むことがわかりました。古賀氏はこういった人間関係を構築する高校という場にこれまでの構想や選抜の論理から離れ社会参加のための窓口を構築し、自立を援助できる人間関係を形成しやすい環境を取り戻すことが必要だと言っています。

 

果たして、このことにおいて高校からこういった人間関係を形成する環境というものを用意していくべきなのでしょうか。本来こういった人間関係を作る環境というのはどの時期から作るべきなのでしょうか。こういった問題は何も高校で起きているだけではありません。小学校では「小1プロブレム」中学校では「中一ショック」と、どの時期においても結局は人間関係の形成という部分に今の子どもたちは問題を抱えているようです。そう考えていくと、社会に出る直前にその対策を行っていても、どれほどの効果があるのかわかりません。人のコミュニケーションというのは生まれたときから始まっているのです。ということは、そのころからしっかりと社会性を形成できる環境が重要なのは言うまでもないように思います。そして、こういった能力が土台になければ、学業勉学にも結局はつながらないのだと思います。改めて、今の日本の教育現場を見て起きている問題はその時期だけではなく、継続して連携していく必要が分かります。そして、そもそもの教育とはなんなのかそれを問われている時代に来ているように思うのです。

ストレスとリーダー

保育の仕事をしていると、様々な人と関わる必要が出てきます。それは先輩後輩、同僚、保護者、もちろん、子どもも例外ではありません。ちょっとした世代の違いだけでも関わり方が違っていたります。最近ではメンタルヘルスが注目され、労働環境にあって、ストレスがかかる中で、うつ病や自殺者といった社会問題に対応することが言われています。

 

では、こういったメンタルヘルスが必要な人が多くいる組織ではどういったことが問題になっているのでしょうか。なぜ、ストレスに対してメンタルヘルス不調になる人が多くなってきているのでしょうか。それは環境なのか、人材のほうに問題があるのでしょうか。このことに対して、一般社団法人 日本ストレスチェック協会 代表理事で医師・医学博士でもある、武神健之さんは産業医として働いてきた中で感じることがあったそうです。様々な環境の中で、同じような労働環境にあってもメンタルヘルス不調になる人もいれば、そうならない人がいます。一般的にはうつ病などメンタルヘルス不調の人ばかりが注目されますが、多くの場合、同じ環境にいても8~9割の型は元気で健康なのです。そこで武神氏は様々な環境の中でメンタルヘルス不調にならない人たち、つまり元気な人たちに共通することはどこにあるのかに注目します。

 

ここで初めに理解しておかなければいけないのは、メンタルヘルス不調というのは「病気」であるということです。つまり、100人いればそのうち何人かが、高血圧や高脂血症や糖尿病の人がいるのがふつうであるように、メンタルヘルス不調も病気なので、いくらケアをしていても一定の割合でみられるのは当然だというのです。そのため、メンタルヘルス不調者ゼロを目指す必要はないのです。

 

しかし、もし1つの部署で年に2人以上メンタルヘルス不調者が出たとすると、そういう部署には共通点があるそうです。その共通点とは①部門の業務が組織全体の仕事の流れの中で、何らかのひずみになっている。もしくは大きな負荷がかかっているということ。②その部署にメンタルヘルスに理解のない、あるいはコミュニケーションに難のある上司がいるということのどちらかに共通点がたいていあるそうです。

 

そのため、いいチームは「みる・きく・はなす」技術を自然に使っているそうです。つまり、コミュニケーションを取りやすく、風通しが良い組織関係があることはメンタルヘルスが不調にならないことにつながるのですね。そして、そういった組織ではマネジメントをするリーダーは「みる・きく・はなす」のうち何か1つはできていて、そのおかげでコミュニケーションが円滑に行われ、上司部下の関係やチームメンバー間の関係がうまくいっているという傾向があると武神氏は言います。

コミュニケーションの前提

自分自身が園という組織を運営していく中で、職員の先生と話していると、様々なことが見えてきます。その中で、理念の共有ができていないといくら話をしていても、こちらばかりが熱くなって話が響いてないように見えることがあります。組織における理念や目的意識は非常に重要なものであるというのはとても感じます。ドラッカーにおいても、目標管理こそコミュニケーションの前提となると言っています。

 

この目標管理において、部下は上司に向かい「企業もしくは自らの部門に対して、いかなる貢献を行うべきであると考えている」を明らかにしなければいけないと言っています。しかし、その部下の考えが、上司の期待通りであることはまれであると言っています。もちろん、上司と部下の知覚が違っていたとしても、それぞれにとっては、それが現実なのです。実はこうして同じ事実を違ったように見えていることをお互いに知ること自体がコミュニケーションであるとドラッカーは言います。コミュニケーションの受け手たる部下は、目標管理によって、他の方法ではできない経験を持つ。この経験から上司を理解するのです。意思決定というものの実体、優先順位の問題、なしたいこととなすべきこととの間の選択、そして、何よりも意思決定の責任など、上司の抱える問題に接することができるのです。それでも、部下は問題を上司と同じように見ないかもしれない。事実、ほとんどの場合同じようには意味ない。しかし、上司の立場の複雑さは理解する。そして、その複雑さこそマネージャーの立場に固有のものであり、なにも上司が好き好んで創り出しているものではないことを理解する。

 

部下の問題と上司の抱える問題はその性質や役割が違うので、当然違ってくるでしょうね。しかし、その問題から見えてくる上司側の景色というものがあります。受け止め方も違います。こういったことを受け手となる部下に伝わるような言い方を考えなければいけないでしょう。そして、こういったやり取りを通じて、理念と現場の実践とがつながり、今後の活動がより、理念とリンクしたものになるのではないかと思います。

 

ドラッカーは「コミュニケーションは組織において、単なる手段ではない。それは組織のあり方である」であると言っています。そして、そこには経験の共有が不可欠であるとも言っています。単にコミュニケーションをとればいいということではなく、それによって伝えられるものがあり、今後の活動に意味のあると思えるものを伝えなければいけない。それが結果として組織のためになるのですね。

 

コミュニケーションの定義というのはやはり組織運営にとって、非常に重要なものであり、その風通しのよさは組織の強みでもあるのでしょう。そして、目的意識の共有、経験の共有ができていくことで組織がまとまっていくプロセスになっていくのですね。