社会

ストレスと脳

バーグ・ハリスはACE(子ども時代の逆境)に関するフェリッティとアンダの質問表に多少の変更を加えたものを使ってクリニックで700人を超える患者からアンケートを取ったところ、ACEの数値と学校での問題のあいだに不穏なほど強烈な相関が見つかりました。ACEの数値がゼロの患者のあいだでは、学習や行動に問題が見られるものは3%に過ぎなかった。しかし、ACEの数値が4以上のもののあいだでは、それが51%に上ったのです。

 

ストレス心理学者たちも、この現象を生物学的な側面から説明しています。脳の中で幼少期のストレスから最も強く影響を受けるのが前頭前皮質、つまり自分をコントロールする活動(感情面や認知的におけるあらゆる自己調整機能)において重大な役割を果たす部位である。このため、ストレスに満ちた環境で育った子どもの多くが、集中することやじっと座っていること、失望から立ち直ること、指示に従うことなどに困難を覚える。そして、それが学校の成績に直接影響する。抑えることのできない衝動に圧倒されたり、ネガティブな感情に悩まされたりしていれば、アルファベットを覚えるのも難しい。実際、幼稚園の教諭を対象とした調査の結果によれば、いちばん問題になるのは文字や数字を知らない子どもたちではなく、癇癪を抑えられない子どもたち、挑発を冷静に受け流せない子どもたちであるというのです。ある全国調査では、幼稚園教諭の46%が、自分のクラスの子どものうち少なくとも半数は指示に従うことができないと答えている。また、別の研究ではヘッドスタート(低所得層の就学前児童を対象とする、アメリカ政府の育児支援プログラム)の教員からの報告が取り上げられています。彼らの生徒の4分の1以上に、ほかの子どもを蹴ったり脅したりといった自制心の欠如を示す深刻な問題行動が、少なくとも週1回は見られると伝えています。また、ストレスの前頭前皮質への影響の中には、感情又は心の問題として分類されるものもある。それが不安と抑鬱です。前頭前皮質に過重な負荷がかかった結果、感情を制御することが困難になることがあるのです。

 

しかし、多くの場合は、ストレスの影響はおもに思考を制御する能力を弱めるかたちで出ます。これは「実行機能」として知られる、認知をつかさどる特定の機能が前頭前皮質にあるからなのです。富裕な学区では「実行機能」は教育上の新しいキャッチフレーズになっています。評価・分析すべき最新の事象というのです。しかし、貧困家庭に育つ子どもの研究をしている科学者のあいだでも、「実行機能」は別の理由から魅力的な新分野となっています。それは実行機能の改善が、貧困家庭の子どもと中流の子どものあいだの成績格差を埋める有望な手段に思われたからです。

 

子ども時代の逆境という環境は身体的な影響だけではなく、脳の前頭前皮質にまで影響をあたえ、その影響が子どもの集中力や衝動性、問題から立ち直るレジリエンスといったものにまで影響するのですね。このことを受けて考えてみると、今、教育現場の中で言われている「小1プロブレム」や学級崩壊、うつ病やひきこもり、最近のニュースでは「あおり運転」なども衝動性を抑制する力が無くなってきているといことにつながっており、社会の中で起きている問題行動と子ども時代の環境は決して無縁ではないのだろうと思います。乳幼児期の保育や環境というのは調べれば調べるほど、いかに重要な時代であり、それを受け持つことがいかに責任のあることなのかと感じられます。「環境を通して」ということは保育所保育指針でも、幼稚園教育要領にも書かれていますが、その重要性をもっと深く考える必要がありますね。

アロスタシス

ロックフェラー大学の神経内分泌学者のブルース・マキューエンは1990年代のはじめに提唱したストレス反応についての理論を提唱し、今も広く受け入れられています。マキューエンによると、ストレスを管理するプロセス(彼はこれを「アロスタシス」と名付けた)こそが体を損なう要因になっていると言っています。人体のストレス対応システムは、酷使すればやがて壊れてしまうのです。そして、このストレス対応システムによって徐々に進行する人体への負担をマキューエンはアロスタシスによる負荷(アロスタティック)と呼び、負荷による有害な影響は体を観察していればわかると言います。たとえば、急激なストレスによって一時的に血圧が上がるのは、危機的な状況に対応するために必要なだけの血液を筋肉や内臓に送り込むためなのだが、この血圧の上昇が繰り返されると動脈内に隆起が生じ、心臓発作の原因となる。継続してかかるストレスにより、結果として心臓発作になりかねないということが見えてきます。ACEの数値が高い人が虚血性心疾患になる危険性をはらんでいるということとつながります。

 

しかし、本来、人間のストレス対応システムは受けたストレスの種類によって適切な防衛機制がひとつだけ引き出されるのがよいのです。たとえば、もし何かで軽傷を負ったなら、免疫システムが働いて大量に抗体を作り出せばよいのですし、もし、攻撃者から逃げる必要があるのなら、心拍数や血圧が上がればいいのです。しかし、HPA軸(視床下部・下垂体・副腎系)は脅威の種類を見分けることができないため、どんな脅威に対してもすべての防衛機制をいっぺんに活性化させるのです。つまり、一つの脅威に対して全く助けにならないストレス反応もしばしば起こるというのです。たとえば、聴衆に向かって話をしなければならないときに突然口が渇いてしまうといったことなどです。これはストレスによって危険と察知したHPA軸が襲撃に備えて水分を保存しているのです。そうなると必死で水の入ったグラスを探し、中身をごくごくと飲み干すことになります。

 

現在、これらのアロスタティック負荷を測定する数値も現在では研究され、ある程度数値化する指標が見えてきているそうです。そのため、医師が例えば20代の患者に出してみせるたった一つの数字に、当の患者がそれまでに受けてきたストレスと、そのストレスの結果として現在直面している健康上のリスクとの両方が反映されてしまうというのです。そして、それは厳然たる医療データを反映したものとして出てくるのです。そのため、現在では子ども時代の逆境が実際に体に及ぼした影響は皮膚の下、体の奥深くに刻みこまれたものとして見えてくるようになってきたのです。

 

このようにストレスは体に影響が出てくるだけではなく、数値化できてくることが分かってきました。そして、それは体だけではなく脳においても影響が出てくるということも分かってきました。

HPA

アンダとフェリッティは逆境によるストレスが、発達段階の体や脳にダメージを与えると言っています。

 

私たちの体はHPA軸と呼ばれるシステムを使ってストレスに対応している。HPA軸は「視床下部・下垂体・副腎系」の略で、これは困難な状況への反応として脳から体へと化学信号が流れる様子を表している。視床下部、つまり体温や空腹感、渇きなどの無意識に起こる反応をつかさどる脳の領域は、なんらかの危険を感じとったときに最初に防衛にあたる。まず、視床下部が化学物質を放出して下垂体を刺激し、それを受けた下垂体がシグナルを伝達するホルモンを放出する。そのホルモンにより副腎が刺激を受け、グルココルチコイドと呼ばれるストレスホルモンを送り出して特定の防衛反応のスイッチを押す。こうした反応のなかには自覚できるものもある。恐怖や不安といった感情や、心拍数の上昇、発汗、口内の渇きといった体の反応がそうです。しかし、HPA軸の影響には、自分の体内で起っていることなのに直に感知できないものが多いのです。神経伝達物質の活性化、血糖値の上昇、心臓血管系から筋肉への血液の流れ、血中の炎症性たんぱく質の増加などがその例です。

 

「なぜシマウマは胃潰瘍にならないのか」(シュプリンガー・フェアラーク東京、1998年)の中で、神経科学者のロバート・M・サポルスキーはこう言っています。「わたしたちのストレス対応システムは、他のすべての哺乳動物と同じように、急性のストレスに反応できるように進化してきた。人類がサバンナに暮らし、捕食者から逃げ回っている分にはそれでよかった。しかし、現代の人類はめったにライオンと戦ったりしない。今日のストレスの大半は、さまざまなものごとについて心配するという精神機能からくる。だがHPA軸はその種のストレスに対応するようにはできていない。」と言っています。そして、「人間の生理システムは急を要する身体的な非常事態に反応するよう進化してきたものである。しかしわたしたちは住宅ローンや人間関係や昇進について心配することで、そのシステムを何カ月ものあいだ使い続ける」というのです。

 

こうした生理システムの使い方は効率が悪いだけではなく、きわめて有害でもある。その証拠にここ15年以上の間に多く発見されている。HPA軸に、特に幼少期に負荷をかけすぎると、長期にわたる深刻な悪影響が体にも、精神にも、神経にも様々に出てくるのです。しかし、このプロセスの難しいのは、わたしたちをかき乱す原因がストレスそのものではないという点です。原因はストレスに対する反応にあるのです。

逆境とその影響

アンダとフェリッティは子ども時代の逆境(ACE)を数値化していく中で驚くべきデータを見つけます。それはACEの数値が高ければ高いほど、成人後も常習行為から慢性疾患にいたるまでほぼすべての項目でより悪い結果が出ていたというのです。この結果を見て、アンダとフェリッティは次々に底辺のX軸にACEの数値を振り、Y軸には肥満、鬱、性行為開始年齢、喫煙歴などの項目を当てはめ、棒グラフを作っていきます。すると、どの表も一貫して、棒グラフは左(ACEの数値がゼロ)から右(とくに7以上)にいくにつれて確実に伸びていったのです。

 

この表を見ていく中で、ACEの数値が4以上の人々は子ども時代に逆境になかった人々に比べて喫煙率は2倍、アルコール依存症である割合は7倍、15歳未満で最初の性行為を経験した割合も7倍。がんの診断を受けた率は2倍、心臓病は2倍、肝臓病も2倍、肺気腫や慢性気管支炎を患っている率は4倍であった。そして、いくつかの表ではグラフの伸びがことに顕著であった。ACEの数値が6を超える成人は、ゼロの人に比べて自殺を試みたことのある割合が30倍に上ったのです。そして、ACEの数値が5を超える男性は、ゼロの男性に比べて46倍という高率でドラッグを注射したことがわかったのです。

 

心理学者たちは長い間、子どもの頃の精神の痛手は自己評価の低さや無力感の原因となり、そうした感情が依存症や抑鬱、はては自殺にまでつながる可能性が高いと推定するのは妥当だと信じてきた。そして、ACEの研究でも扱った肝臓病や糖尿病や肺がんのような病気は、部分的には過度の飲酒、過食、喫煙といった自滅型の行動の結果だった。

 

しかし、フェリッティとアンダの研究によると、そうした自滅型の行動をとらなくともACEの数値の高い人々には成人後の健康に深刻な悪影響がでていた。ACEの数値が7を超える人々を見ると、喫煙や過度の飲酒をせず、太りすぎているわけでもないのに数値ゼロの人々に比べて虚血性心疾患(アメリカ国内の死因第一位)にかかる危険性が3.6倍高いことが分かった。彼らが子どもの頃に経験した逆境は、本人の行動とは関係のない経路で彼らに病気をもたらしていたのである。

 

子ども時代の逆境の数値(ACE)から見えてくることはたくさんあったのですね。その環境から喫煙や飲酒に目覚めるのが早いというのは想像がつきます。しかし、それ以上に虚血性心疾患など、環境や本人の行動によらない疾病にまで影響が出ているというのは非常に驚くべきことです。それほど幼い頃のストレスのかかる環境というのは非常に深刻な影響を長いスパンの中でもたらす可能性があるのですね。

 

その後、研究を進めていくことで、アンダとフェリッティは逆境によるストレスが、発達段階の体や脳にダメージを与えるということが分かってきます。

子ども時代の逆境

バーク・ハリスは子どもたちの貧困と経済格差において、単純な医療行為や社会問題だけの問題ではなく、もっと微細なレベル(ヒューマンバイオロジーの領域の深部)での分析や検討をしたほうが良いということを考えるようになります。そんな時にある医療雑誌の記事に出会います。そのタイトルには「子ども時代の逆境が成人の健康に及ぼす影響―黄金が訛りに変わるとき」とあり、ヴィンセント・フェリッティというカリフォルニアを拠点とする大規模医療保険団体カイザー・パーマネンテの予防医学部門の責任者の記事でした。この記事には「子ども時代の逆境(ACE)の研究」の内容であり、1990年代にフェリッティがロバート・アンダ(アトランタにあるアメリカ疾病予防管理センターの伝染病学者)とともに行ったものでした。

 

研究の開始は1995年。カイザーの医療保険の登録者で総合健康診断を受けた人に子ども時代の逆境を10のカテゴリーに分けた場合に自分はどこに属すると思うかというアンケート調査を実施した内容です。このカテゴリーには暴力や性的虐待、身体的/感情的ネグレクト、両親が離婚/別居していた、家族の中に刑務所に収監されているものがいた、精神病を患っているものがいた、何らかの依存症だったものがいたなど、様々な種類の家庭の機能不全が含まれる。数年のうちに1万7千人を超える登録者からアンケートの回答が寄せられた。返答率は70%で、回答者はまさに統計学上のマジョリティ、つまり、中流および上位中流階級の人々だった。75%が白人で、75%が大学教育を受けており、平均年齢は57歳でした。

 

回答を一覧にまとめたときにアンダとフェリティがまず驚いたのが、低所得者層ではなく、中流及び上位中流階級と言われる層の中にも子ども時代につらい思い出を持つ人が多いということでした。回答者の4分の1以上がアルコール依存症患者やドラッグ常用者のいる家庭で育ったと答えていたのです。そして、子どものころ叩かれたと答えた人数もほぼ同じ割合でした。二人はこのデータを使って、それぞれの子ども時代の逆境(ACE)を数値化します。ひとつのカテゴリーにつき1点を加算していくようにしていきます。するとその結果、3分の2の人に1点以上がつき、8人にひとりが4点以上がついたのです。

 

さらに二人が驚いたのは、カイザー社が集めた街灯登録者の膨大な医療履歴をACEの数値と比較したときでした。子どもの逆境と成人してからのネガティブな結果の間には非常に深い相関関係が見えてきたのです。そして、この2者関係は非常に直接的なものでした。というのもACEの数値が高ければ高いほど、成人後も常習行為から慢性疾患にいたるまでほぼすべての項目でより悪い結果が出ていたのです。