社会

ネグレクトの影響

森口氏は家庭環境において、実行機能に影響がある一つの要因が虐待であるといっています。そして、その中でも、ネグレクト(育児放棄)がもっとも深刻な影響を与えるといっています。ネグレクトとは、子どもや障害者などが、その保護や養育を放棄されることを指します。具体的には食事を作ってもらえなかったり、親に無視されたりする経験が含まれます。平成26年厚生労働省の統計では、ネグレクトは児童虐待の中でも、心理的虐待、身体的虐待についで第3位で、虐待の3割弱を占めているように、非常に日本においても問題になっているものです。

 

ミネソタ大学のエグランド博士らの研究では、児童虐待を受けていないグループ、身体的虐待を受けている子どものグループ、心理的虐待を受けている子どものグループ、ネグレクトを受けている子どものグループを比較しました。その結果、ネグレクトを受けている子どものグループは身体的な虐待を受けているグループや心理的な虐待を受けているグループよりも、頭の切り換えの発達が遅くなることが示されたのです。つまり、ネグレクトを受けて育った子どもは、思考の実行機能の発達が遅れるということが分かったです。

 

なぜネグレクトのほうが、思考の実行機能において、発達の遅れが見えてくるのでしょうか。一見してみると身体的な虐待や心理的虐待のほうが、直接的に子どもたちに向かった影響が出そうなものです。しかし、子どもたちに直接的なアプローチがないネグレクトのほうがより深刻な影響が出るというのです。

 

このことについて、森口氏はルーマニアの事例を挙げています。ルーマニアで独裁者として君臨していたチャウシェスクという人物がいました。この人物はルーマニアの人口を増やすために、人工中絶を禁止したり、多産を極端に奨励したりするような政策を実施しました。しかし、当時のルーマニアは、非常に厳しい財政状況でもあったため、食糧不足などが生じ、家庭では育てられなくなった多くの子どもたちが、養護施設に預けられました。そのため、政権が崩壊したときには10万人以上の孤児がいるような状況になったのです。多くの孤児がいるので、養護施設の職員はきめ細かにケアができず、必然的にネグレクトに近い状態になったのです。

 

メリーランドン大学のフォックス博士の研究グループが、この施設で育った子どもたちの発達過程を検討するために、大規模な調査を行いました。まず、この施設で育った子どもを、2つのグループに無作為に分けます。1つは以前と同じように施設で育つ子どものグループ、もう一つは、里親を探して、その里親の下で育つグループ、そして、施設と関係のない、生まれたときから家庭で育ったグループを加え、3つのグループの発達を比較しました。

 

すると、ネグレクトと実行機能との差にある一定の結果が見えてくるようになったのです。

家庭環境と実行機能

子どもを取り囲む環境が実行機能に影響を与えることが言われています。胎内環境から前頭前野に与える影響があるということが言われていますが、では、出生後の家庭環境においてはどのような影響が出てくるのでしょうか。現在、発達支援や教育支援という点から非常に重要視されているのが、家庭の経済状態と実行機能の関係だと森口氏は言っています。そして、家庭の経済状態を示すためによく用いられるのが社会経済的地位と呼ばれるものです。これは社会的な地位(職業や学歴)と経済的なレベル(所得や財産)によって構成されます。いうなれば、ある家庭が裕福なのか、貧しいのかを表す指標のことを言います。

 

つまり、この社会経済的地位が低い子どもは、高い子どもに比べ、いくつかの能力が低いことが世界中で示されていると森口氏は言っています。そして、このことは幼児期においてもその差は明確だというのです。では、社会経済的地位は子どもたちのどういった能力に盈虚を与えるのでしょうか。このことをコロンビア大学のノーブル博士らが調べました。対象となった能力は視覚認知能力、空間認知能力、記憶力、言語能力、思考の実行機能です。

 

この研究から社会経済的地位が子どもたちに与えた影響は、言語能力と思考の実行機能だということが分かってきました。その一方で、視覚認知能力や記憶力などにはあまり影響を与えなかったということも分かってきました。このことから見て、言葉や実行機能のような、発達に時間がかかる能力ほど、社会経済的地位の影響が大きいということを森口氏は言っています。そして、その理由として家庭での教育や子育てが長期間に及ぶことと「ストレス」の影響があるのではないかというのです。この結果は思考の実行機能だけではなく、感情の実行機能においても報告されているそうです。また、森口氏の研究においては、社会経済的地位が、子どもの前頭前野の発達に影響を及ぼしているということが分かってきたそうです。前頭前野が実行機能において、大きな意味があるということはこれまでも紹介してきましたとおりです。

 

では、なぜ、社会経済的地位が子どもの実行機能に影響を与えるのでしょうか。その理由の一つに社会経済的地位が低い子どもは高い子どもに比べて、ストレスを感じる経験が多いことからだといいます。そのため、ストレスに脆弱な前頭前野はその影響を受けてしまうというのです。たとえば、虐待です。身体的虐待、心理的な虐待、性的な虐待などがありますが、このような虐待を受けると、子どもは強いストレスを感じ、脳の発達は深刻なダメージを受けます。このストレスは何も本人が直接的に虐待を受けるだけではなく、例えば父親が母親に暴力をふるうのを見るだけでも、子どもには大きなストレスがかかってしまうのです。オレゴン大学のグラハム博士らの研究では、1歳以下の赤ちゃんが睡眠中に両親が口論すると、赤ちゃんの脳がストレスを受けることが示されています。それ以外にも、家族にアルコール依存症や薬物依存者がいること、精神疾患を持つ人がいること、服役中の人がいることなども子どもに大きなストレスを与えるといっています。しかし、このような家庭でのストレス経験の中でも、最も子どもの実行機能に深刻な影響を与えるのが、ネグレクト(育児放棄)と森口氏は言っています。

実行機能への影響

子どもが実行機能を発達させていくことにおいて、遺伝子が影響していることがわかってきました。しかし、森口氏は遺伝子がすべてではないといっています。環境的要因も重要になってきますし、遺伝子の働き自体が環境に影響を受けることも示されているからです。では、子どもの成長とともに、どのような環境的な影響が重要になってくるのでしょうか。

 

初めにとって最も早い時期の環境は、生まれる前の母胎の環境があげられます。この時期は実行機能そのものはありませんが、前頭前野の発達に影響を与える重要な要因が胎内環境にあると森口氏は言っています。レスブリッジ大学のコルブ博士らの一連の動物研究において、ラットの母親の胎内環境が子の前頭前野の発達に影響を及ぼすことが示されています。どういったものが前頭前野の発達に影響を及ぼすのでしょうか。コルブ博士らの動物研究では、妊娠中の母胎のストレスが子どもの前頭前野の発達に影響を与えるということが分かってきました。ここでは、水のはったゲージの中にラットを入れるなどのストレスを与えたそうです。そうすると、前頭前野の一部領域において、神経細胞の一部が過剰生産されたり、逆に過少生産されたりしてしまうなどの影響があることが示されたのです。ストレスが前頭前野の発達になんらかの影響が与えられたのは疑う余地がありません。

 

人間の場合においては、胎内環境の重要性を示す証拠は早産の子どもたちの研究です。在胎37週未満で生まれてきた赤ちゃんはそう産児と言われています。早産児は実行機能の発達に問題を抱えやすいことが示されていると森口氏は言っています。これは在胎期間が短いことによって脳の発達過程が満期児とは異なることや、出生後の環境が母体とは異なることが影響を与えるためと言われています。そのため、早産児に対するケアは非常に重要になります。

 

つぎに、出生後の家庭環境です。現在、発達支援や教育支援という観点から重要視されているのが、家庭の経済状態と実行機能の関係です。これは以前のポール・タフ氏の著書「成功する子・失敗する子」の中でも触れられていましたね。家庭環境において、貧しい家庭にいる子どもたちは裕福な家庭にいる子どもたちに対して、投資されるものが多くなります。そのため、教育においても、多くの投資を受けることによって、将来成功する機会が多くなるということが言われていました。森口氏はそれだけではなく、社会経済地位が子どものいくつかの能力においても影響を及ぼしているといっています。

 

では、家庭環境がどのように子どもの実行機能に影響を与えていくことになるのでしょうか。

環境か遺伝子か

これまで、実行機能の大切さを森口氏の著書から紹介していましたが、では、実行機能はどのようにして発達していくのでしょうか。このことは様々なところで研究されてきたものです。よくその中でも、上がっていくるのが「遺伝的な要因」からなのか「環境的な要因」からかということです。これらの研究は双子を対象にすることで調べられてきました。

 

双子には「二卵性双生児」と「一卵性双生児」があります。一卵性双生児は全く同じ遺伝子を持っていますが、二卵性双生児に関しては50%程度しか同じ遺伝子をもっていません。そのため、一卵性の双子のある能力の類似性と二卵性の双子の能力の類似性を比較することで、遺伝的な要因と環境的な要因の重要性において、自分をコントロールする実行機能はどちらが大事になってくるのかを調べるようにしたのです。

 

慶応義塾大学の藤澤博士らは、子どもにとって、遺伝的な要因よりも、環境的な要因が重要な役割を果たすということを示しました。そして、家庭環境や学校環境、友だち関係のような様々な環境の中で、実行機能に影響を与えるのは家庭環境であるといっています。ただ、遺伝的な要因も決して影響がないわけではありません。では、遺伝的な要因としてはどのような影響があるのしょうか。

 

森口氏らの研究で見えてきたのは、「目標を達成するためのスキルである実行機能の高い・低いの一部は、遺伝子によって決まっている」ということが分かったそうです。研究の中で、見えてきたのは、実行機能に関わる遺伝子にも様々なものがあるのですが、その中でも前頭前野において影響を与える遺伝子があるといっています。この前頭前野でやり取りされる有名な神経伝達物質がドーパミンです。このドーパミンに関わる遺伝子としてCOMT遺伝子というものがあるのだそうですが、その遺伝子のある型をもつ子どもは、別の型を持つ子どもよりも、思考の実行機能が高いことが分かったそうです。また、こういったように遺伝子に遺伝子による影響は3-4歳ごろでは見られなかったことに対して、5-6歳児においては影響が見られたそうです。思考の実行機能が発達する幼児期後期になってからこの遺伝子は実行機能に影響を与え始めたようです。ただし、遺伝子的要因がすべてではありません。環境的要因も重要になってきますし、遺伝子の働き自体が環境に影響されることも示されていると森口氏は言っています。

 

では、環境的要因はどのように影響してくるのでしょうか。環境と一口に言っても、物質的な環境もあれば、文化といった環境もあります。また、森口氏は子どもの年齢によっても、環境的影響は異なるといっています。

保育に求められるもの

子どもが成長発達していく中で、実行機能が大きく影響を及ぼすということが言われてきています。しかし、まだまだ日本では実行機能はそれほど、メジャーなものではなく、もっとふかめていかなければいけないものであると思います。保育においても、もっとこういった知識を知ったうえで、今どういった保育が求められているのか、今いる子どもたちにとってどういった環境や関わりを持たせていくべきなのかを考える必要があるように思います。

 

森口氏の著書に書かれている「子ども期」というのはまさに「3~5歳児」が中心に書かれていますし、それはまさに保育に関わる期間です。すごく大切な時期であることに対して、あまり評価がされておらず、未だ託児所的にみられることもしばしばあります。また、政治の政策においても、子どもたちに対する補助というよりは、保護者の社会進出や保護者支援の意味合いが強いようにうかがえるのも否めません。

 

また、日本の教育現場の考え方はトップダウン的です。「大学のために高校があり」「高校のために中学校がある」「中学校のために小学校があり」「小学校のために幼稚園、保育園がある」という意味合いがまだまだ強くあるのも感じます。しかし、本来、子どもたちの発達や成長は年齢が上がるとともに発達していきます。つまり「幼稚園や保育園があるから小学校がある」のであり、「小学校の期間があるから中学校につながる」のです。そして、その先に社会があるのです。なかなか日本において教育機関の連携が取れないというのはこういった発達におけるベースが考えられていないからなのかもしれません。

 

以前、ある人から「学校なんか意味がない、会社に入ったら会社で教育するから別に小さい頃から教育する必要がない」とまで言う人がいました。しかし、実際の会社ではどうでしょうか。有名大学に出ていても、会社で活躍できないヒトが多い。就職することも難しいといわれる時代です。ある会社の重役の人と話をすると「一番使えないのは日本の男性、次に日本の女性、一番使えるのは帰国子女。なぜなら、自分の意見を言うことやコミュニケーションを取ることができるから」と言っていました。時代は「言われたことをする」という時代から「自分でできることを見つけたり、新しいことをやってみる」というイノベーションが求められる時代に変わってきているのです。そういった時代を生きていくためには粘り強く物事にあたる必要があり、トライ&エラーを繰り返し行う胆力が求められます。そして、そのためには、自己コントロールは非常に重要な要素になっています。

 

実行機能とはそういったこれからの時代に非常に重要な意味合いが求められる能力であるといえるのです。そして、このことは保育現場に直結してきます。森口氏はつぎに「実行機能を育てる」ということを紹介していますが、このことはよく受け止めていかなければいけない内容であると思います。