社会

愛着スタイル ②

「不安定型」は「アンビヴァレント型」ともいい、「養育者をスムーズに受け入れられず、逆に怒りを示したり、グズグズとして状態を長く引きずってしまう」つまり、分離時に非常に強い不安や混乱を示します。この場合養育者との関係は不安な時に居たり、居なかったりするような養育を受けているので、どうすればいいのか見通しがつきにくいのです。そのため、おいていかれるくらいならくっつくといった不安行動をしめします。全般的に行動が不安定で随所に用心深い態度がみられ、養育者を安心基地として、安心して探索活動を行うことがあまりできません。

 

この愛着スタイルをもつ子どもに対する養育者の特徴は子どもが出す各種の愛着のシグナルに対する敏感さが相対的に低く、子どもの行動や感情状態を適切に調整することがやや不得手である特徴がある。子どもとの間で肯定的な相互交渉を持つことも少なくないが、それは子どもの欲求に応じたものというよりは、養育者の気分や都合に合わせたものであることが相対的に多い。結果的に子どもが同じことをしても、養育者の反応に一貫性を欠くため、応答のタイミングが微妙にずれるといったことが多くなり、結果、子どもの様子においても不安や混乱をきたすことになるのです。

 

最後に「恐れ/回避型」は「無秩序・無方向型」ともいい、「養育者にくっつきたいのか、養育者から離れたいのかよくわからない、どっちつかずの行動を示します。」この場合、子どもは不自然でぎこちない動きを示したり、タイミングのズレた場違いな行動や表情を見せたりする。さらに、突然すくんでしまったり、うつろな表情を浮かべた理事っと固まって動かなくなってしまったりするようなことがある。総じてどこへ行きたいのか、何をしたいのかが読み取り辛い。時折、養育者の存在のおびえているようなそぶりを見せることがあり、むしろ初めて出会う実験者等により自然で親しげな態度をとるようなことも少なくはない様子が見えてきます。

 

この「恐れ/回避型」の子どもの場合、被虐待児や抑うつなどの感情障害の親を持つ子どもに非常に多く認められる。そのため、精神的に不安定なところがあり、突発的に表情や声あるいは言動一般に変調をきたし、パニックに陥るようなことがある。言い換えると子どもをひどくおびえさせるような行動を示すことが相対的に多く、時に通常一般では考えられないような(虐待のような)二木せつな養育を施すことがある養育者の特徴です。

 

子どもとの愛着は養育者との関係性が大きく影響しますが、このような愛着スタイルが見えたときに子どもたちとの対応を考える必要あるということを感じます。そして、「養育者」は確かに多くは保護者であり、両親であることが言えます。しかし、その中で祖父母や保育者もその一端を担っているのは確かです。最近では子どもたちが家庭より保育施設のほうが長い時間要る子どもも少なくはありません。こういった子どもとの関係性を含めて保育を考えていく必要があるように思います。

愛着スタイル

ヒトには「愛着スタイル」が4種類あります。一つは幼児期に養育者が確実にそばにいて自分の欲求を誠実に満たしてくれると感じていた人は「安定型」、必要な時に養育者に突き放された経験がある人は「回避型」、また養育者が自分の欲求をみたしてくれるとは限らないと気付いていた人は「不安型」。最後に幼少期に養育者に何らかの形で傷つけられたと感じた人は「恐れ/回避型」と4つの愛着スタイルがあります。

 

それぞれにおいて、子どもの様子を見るとある特徴が見えてくるといいます。

まず、安定型の子ども、この愛着スタイルを持つ子どもは「養育者との分離時に泣いたとしても、その後の再開場面でスムーズに養育者を受け入れることができる」と言います。それと同時に養育者とは安心基地が築かれているので積極的に探索活動を行います。

 

この場合、安定型の子どもの養育者は子どもの欲求や状態の変化などに相対的に敏感であり、子どもに対して過剰なあるいは無理な働きかけをすることが少ないそうです。そして、子どもとの相互交渉は、全般的に調和的かつ円滑であり、遊びや身体接触を楽しんでいる様子が伺えます。

 

つぎに「回避型」は「養育者との分離に際し、泣いたり混乱・苦痛を示すということがほとんどない。」つまり、あまり不安定さもみせず、近づいても余計遠ざけるといった経験から、遠ざけられるくらいならそこにいてもらうという思考になり、抵抗しなくなるのです。そのため、養育者を安心基地として探索活動を行うことがあまり見られません。

 

こういった愛着スタイルになる場合の養育者の様子は、全般的に子どもの働きかけに拒否的に振る舞うことが多く、他のタイプと比較しても、子どもに対面しても微笑むことや身体接触することがすくない。子どもが苦痛を示していたりすると、かえってそれを嫌がり、子どもを遠ざけてしまうよう場合もある。また、子どもの行動を強く統制しようとする働きかけが多くみられる。つまり、いうことを聞かせようとする行動が見られるということです。

 

子どもの働きかけにどうこたえるかというのはケースバイケースでもあり、一筋縄ではいかないこともあります。

 

では、他のタイプはどういった特徴と養育者の様子があるのでしょうか。

遊びと社会的発達

ペレグリーニは社会的スキルの中でコミュニケーションはほぼ間違いなく最も価値の高いものだと言っています。そのため、社会的スキルの発達においても仲間との遊びは非常に価値のある者だと言うのです。いくつかの研究において、子どもたちは大人と遊ぶときよりも、子ども同士で遊ぶときのほうがより洗練された言語を使うことが分かっているそうです。

 

例えば、ごっこ遊びでは「実際には存在していないものについて話し合わなければならないので、仲間に自分が言おうとしていることをうまく伝えられるように、込み入った言葉を使わなければならない」と言います。ところが相手が大人であると、大人の方が足りない部分を補ってしまうので、子どもは楽をするというのです。このことは保育の中でも、多々あります。大人はニュアンスで理解してしまうのに長けています。そのため、子どもの言葉を最後まで聞くのではなく、先回りしてしまうことすらあるのです。それでは、子どもは自分でどのように伝えるのがいいのか、ということを考えなくなります。私の園では異年齢で過ごしているので、年長児が年少の子どもたちに話しかけている姿を見ると、同年齢の子どもと話しているのでは、話し方も話す速さも違っているのが分かります。

 

このように遊びが子どもの社会化を助けるなら、遊びの不足は社会科的発達を妨げるはずです。それを示唆する研究が、ミシガン州イプランティの教育研究財団 ハイ・スコープ・エデュケーショナル・リサーチ・ファンデーションが1997年に発表した論文です。この論文では落ちこぼれになる可能性が非常に高い貧しい家庭の子どものうち、遊びを重視する保育園に通った子どもは、絶えず教師によって命令される幼稚園に通った子どもよりも、大きくなってから、より社会的に適応していることが示されました。教師から絶えず指示される幼稚園に通った子どもの1/3以上は、23歳までに重罪で逮捕されていたそうです。一方、遊びを重視する保育園にいた子どもたちの場合は、逮捕者は1/10に満たなかった。そのうえ、遊び重視の幼稚園に通った人のうち大人になってから停職処分を受けたのは7%未満なのに対して、直接教師から命令を受けていた人たちの1/4以上が停職処分を経験していたのです。

 

逮捕者や停職処分を受けた人がこれほどまでに数が違っているのか、そこには自由遊びが大きな要因であると言っています。実際のところは、子どもたちが主体的に考え、関わり合いながら自分たちで問題を解決したり、決めていくということが大切になってくるというのが分かります。そして、そこで培った非認知能力などの社会的スキルが社会に出たときに大きな力となり、子どもたちの人生に影響が出てくるというのです。そして、そういった力を得やすい環境というのが「遊び」であり、自由遊びは文字の通り、「自由」なだけに、より子どもたちの能力を発揮しやすい環境となるのでしょう。「自由」というのはなかなかに難しいものです。「なんでもいい」と言われるよりも「ある程度の条件」を出してもらった方が楽だったりします。「自由遊びは目的がない」とこれまでもありましたが、目的がなくできることというのは意外にも難しいものなのです。その目的を自分で見つけることや、価値を見出すということは確かにとても重要な経験になるということが分かります。

信念を持つ

私は「志」や「誇り」という言葉に強い意志を感じます。そして、この言葉はどの仕事においても、重要なことであると思っています。先日、テレビ番組「半沢直樹」を見ていても、それを感じることがありました。

 

そこでは主人公の半沢直樹が「私は勝ち組、負け組という言葉が大嫌いだ」というセリフがあったのです。そして、「子会社だから、親会社だからといって、遠慮することはない。」ということも言っていました。ほかにも「信念を持って事に当たる。真に顧客のお客様の利益になるために」と言葉は正確ではないですが、そういったニュアンスのことを言っていました。

 

この言葉も、どの職業にとって、重要な意味合いがあるように思います。私は保育の話を職員にするときに必ず「理念を持って保育をしよう」と話すことがあります。一体自分たちが何のために保育をし、何のために今の仕事があるのかを考えてほしいと思っています。そして、この言葉を話しながら、自分にも言い聞かせるようにも戒めています。

 

今回の新型コロナウィルスでもありましたが、この仕事は比較的に国に守られた仕事です。コロナ禍でも仕事は休業要請からも外れ、仕事はありました。飲食業やその他の仕事は今の時代非常に苦しい時代でもあると思います。しかし、こういった社会インフラの仕事というのはそれだけ社会において重要であるということも言えるから確保された現状があるのです。この意味をよく考えなければいけないとふとドラマを見ていて改めて感じました。

 

「保育」というのは人を育てる仕事です。つまり、その先の社会に「生きる人材」を作ることが仕事です。そういった意味のある仕事であり、ただ子どもを預かっている仕事ではないのです。そのため、私の師である先生がいつも言うのですが「保育は子どもたちが社会に出た時に活躍するためには、未来のことを予測して保育しなければいけない」とおっしゃっていました。それほどまで、高い理想があるということをいわれなければ感じない私もまだまだ未熟であると思いましたが、それが実際のところ真に考えなければいけないことであり、こういったマインドを持って保育を組み立てていかなければいけないのだろうと思います。

 

今の保育の現状は「職場の人間関係」や「保護者との関係」で1年もたたずやめていく職員がいるという話を聞きますし、保育士不足も深刻です。しかし、こういった時代だからこそ、この仕事が一体、社会にどれだけ貢献し、どれだけやりがいのある仕事かということを改めて感じることが大事なのだろうと思います。でないと、仕事の意味ややりがいを感じません。なによりもそういった気持ちが持てるような保育士施設にしていくことが大切なのだと思います。

 

しかし、こういった思いを持たせるということはなかなか簡単なことではないというのは身をもって感じています。だからこそ、自分はもっとより高い信念を持たなければいけないのだろうなと感じました。変な話ですが、こういったドラマを見ると改めて奮い立たされるところは多くありますね。

大人も遊ぶ

ブラウン氏はヒトでも、動物でも、遊びのない幼年期を過ごすと、正常な社会的、感情的、知能的発達が妨げられるといっており、いくつかの研究においてもそれは裏付けられています。子どもの自由遊びを制限すると、不安を抱えた、不幸で社会にうまく適応できない大人になるのではないかと懸念しています。では、幼年期に遊びがなかった場合、もう取り返すことができないのかというと、遊びをはじめるのに決して遅すぎることはないとブラウン氏は言っています。大人になっても遊びは精神的・肉体的健康を促進するというのです。大人にとっても「遊ぶ」というのは大切なようです。

 

これはコロラド大学のボールダー校のベコッフ氏は「遊ばずにいると大人もやがてめちゃくちゃな忙しさのせいで燃え尽きてしまうかもしれない」と言っています。あそばない大人たちは、どうしてそうなってしまうのか分からないまま、みじめに疲れ果ててしまうこともあるというのです。たしかに、世の中に出てくる優秀な経営者ほど、忙しい時間の中、好きなことにも全力で遊んでいるようにも思います。

 

では、どうやったら生活の中に遊びを取り入れることができるのでしょうか。ブラウン氏は3つの方法を進めています。一つは「体を使う遊び」記録や成績のない運動に参加する(脂肪を燃焼させるためだけに運動しているなら、それは遊びと言わない) 2つ目に「物を使う遊び」(どんな物でもかまわない。この場合も特別な目標を定める必要はない) 3つ目に、「人と交わる遊び」(特に目的の無いことをしている人々の輪にはいる。それは世間話でも、討論でもいい)

 

大切なのは、どんな遊びをするかではなく、遊ぶかどうかで、必ず遊ぶようにするには、1日のスケジュールに遊びの時間を組み込むのが良いとベコッフ氏は提案しています。「仕事というのはやり終えられるものなのだ。」といい、「実際、遊ばなかったからといって、その分たくさん仕事ができるとは思えない」と言っています。遊ぶことによって得られる幸福感や新たなエネルギーは「“失った”時間を埋め合わせてあまりあるものを与えてくれる」といってます。大人にとって「遊びをもつ」ことは社会性や感情的・知能的発達にもつながることが言えますし、幼少期に得られなかった時間を取り戻すこともできるのだろうということがいえるのです。

 

私自身は、大人になり新しい趣味を持ちました。趣味は仕事とは違い、目的はありますが、必ず遂げなければいけないというものではなく、自分で自主的に選んだものなだけにやめるのも自分次第です。ここで言われる「自由遊び」とは違うのかもしれませんが、確かに仕事においては良い影響があるように思います。ストレス解消にもつながりますし、健康にもいい影響が出ています。利害の無い関係の知り合いも増えます。大人にとってもこういった新しい関係性のある環境を作ることは非常に大切なことのように思います。しかし、どうやらブラウン氏のいう「遊び」というのはそういった趣味のようなものではなさそうです。では、ブラウン氏のいう「遊び」とはどういった定義のものをいうのでしょうか。