社会の変化

非行の背景

少年院に入っている少年たちによっては、知的障害を持っているかどうかの判断において、職員にその判断が委ねられること、CAPASで問題ないとされた受刑者は調べられていない可能性があるといった問題があるということがいえるそうです。結果として「実際のIQよりも高く見積もられてしまう可能性」があり、宮口氏は実際にそういったことに該当する少年たちと出会ったこともあるそうです。

 

宮口氏が出会った少年は集団式の知能検査においてはIQ80以上あり、知的な問題はないと言われていました。しかし、宮口氏が診察し、再度WAISによる正式な知能検査を行ったところIQ60台の値が出たそうです。結果その少年は出院後、知的障害者施設に入所することになりました。これは一例で発見できてよかったのですが、恐ろしいのは、少年を指導する法務教官がそれを信じ、何か問題を起こしたときに健常少年と同じ厳しい処遇をされた場合、知的なハンディを持った少年は理解できず、暴れるなどの不適応行動を繰り返します。そのたびに単独室で反省、出院期間の延長といった処分がされます。このように悪循環を繰り返していると次は精神科医が呼ばれ、少年の気持ちを抑えるよう精神科薬が投与されます。効果がなければ次第に薬の投与量も増え、少年院を出ることには精神科薬なしではやっていけない患者になってしまうのです。このように本来なら必要でない薬を飲まされ、出院後も元々必要のなかった精神科病院への通院を余儀なくされるなど、大人が彼らの人生を台無しにしてしまうのだと宮口氏はいっています。

 

宮口氏は勤務の中で性加害少年に対する再犯予防の治療プログラムを長年行ってきたそうです。一般的には性加害を行う少年は幼少期に性被害を受けたことが多いという研究者が少なくないのですが、宮口氏が関わった中ではそうとは言い切れなかったそうです。それよりも95%くらいは凄惨なイジメ被害にあっており、そのストレスで幼女などに性加害を行っていくケースが大半だったそうです。そして、その裏には軽度知的障害や境界知能といったことに気づかれてさえいれば何らかの支援を受けられた可能性があるのです。しかし、気付かれず忘れられた人々は、勉強ができなかったり、対人関係が苦手で友達ができなかったり、スポーツも苦手といった状態の中でいじめにあうリスクも高く、そのイジメに自分よりもっと弱い存在をみつけ、性加害を繰り返すことになるのです。被害者が被害者を生む構図になってしまうのです。

 

イジメは本当に深刻な問題です。毎年いじめによる被害やニュースは必ずと言ってもいいほど出てきます。しかし、こういったいじめが起きることで起こる犯罪もあるというのは非常に問題です。教育の現場や環境が違っていれば、犯罪も起こりえなかったかもしれません。そして、これらの少年院に入っている少年たちのバックボーンには「発達」といったことが問題として起きていることが分かります。私は常々教育においてもっと「発達」にも目を向けていかなければいけないのではないかと考えています。これまでの単位や教科主義の中で、勉強が嫌いになる子どももいれば、勉強についていけずあきらめてしまう子どももいます。今の教育はそれぞれのペースは個々人にあったものではありません。こういった認知能力や発達と教科の指導の溝というのは非常に深いものだと思ったのですが、この宮口氏の本を読むとそれは社会問題にまで大きな影響を与えているということが分かります。

貧困と健康格差

前回のエリザベス・ドージアは学内で起こっている事件や素行において、決してルールを厳格にすることが解決にはつながらず、「子どもたちにはどういった家庭があるのか」や「貧困は子どもたちにどういった影響を与えるのか」ということに考えがいきつきました。

 

次にもう一人、ナディーン・バーグ・ハリスもドージアのように「貧困は子どもたちにどのように影響を与えるのか」と考えがいきついた一人です。彼女は医師として、患者の健康という観点から「貧困は子どもたちにどういった影響をあたえるのか」という問題に取り組みました。彼女はサンフランシスコのベイビュー・ハンターズポイント地区。街の南東の地味な工業地区で、市内で最も大きく最も荒れた公営住宅のある場所の児童保健センターの小児科長として働いていました。彼女はカリフォルニア・パシフィック・メディカル・センターという資金の豊富な私立の総合病院に雇われており、サンフランシスコ市内の健康格差の問題に正面から取り組もうとし始めました。こういった健康格差はベイビュー・ハンターズポイントのような地区では格差を見つけるのは難しくありませんでした。そして、バーグ・ハリスはハーバード公衆衛生大学院で健康格差について学んでいたのです。そこでは格差をなくしていくための方策も公衆衛生学の教科書に書いてありました。そこでは低所得の家庭が医療機関、特に一時医療(一般的な疾病の予防や初期治療)を扱う期間にかかりやすいようにすることが格差をなくすための方法だとそこにはありました。

 

彼女はクリニックを開くとまずは裕福な家の子どもと貧しい家の子どもの差が明らかで見た目にも分かりやすい健康問題、つまり喘息の管理、栄養教育、三種混合ワクチン接種の推進に重点的に取り組みます。ほんの数カ月で目覚ましい成果があがりました。しかし、彼女はこういいます。「ワクチンの接種率をあげ、ぜんそくで入院する子どもの数を減らすのは、結果的には驚くほど簡単でした。けれども、実はこれで格差の根本的な問題に対処できていないのではないかと思うようになりました。つまり、私の知る限り、このコミュニティではもう長いこと破傷風が原因で死亡した子どもはいないわけですから」

 

彼女は夢の仕事に就くことができ、充分な訓練を受けており、懸命に働いている。資金もたっぷりある。しかし、助けようとしている子どもたちの生活に満足のいく変化をもたらすことができずにいる。子どもたちはいまだに家庭でも街中でも暴力と混沌に取り巻かれ、身体的にも精神的にも明らかに重大な犠牲を強いられてきた。クリニックで出会う子どもたちの多くが抑うつ状態だったり、不安を抱えていたりしているように見え、そのうちの何人かははっきりと心的外傷を抱えていた。そして、彼らが日常的にうけるストレスは、パニック発作から摂食障害、果ては自殺行為まで、さまざまな症状として表れた。バーク・ハリスは一時診療を提供する小児科医というよりも戦場の外科医であるように(患者に応急処置だけを施して戦場に送り返しているように)感じることがあったというのです。

 

こういったことに対し、バーグ・ハリスが答えを探した結果、貧困や逆境に関するまったく新しい議論にたどり着きます。公益機関の刊行物や政治学のシンポジウムではなく、医療系の機関誌や神経科学の会議でそうした議論がなされていました。このようなドージアの学校のあるローズランドやバーグ・ハリスの健康格差の舞台となったベイビュー・ハンターズポイントのような地区の問題は普通は社会問題、つまり経済学者や社会学者の領域とみなされるものが多いのですが、実はもっと微細なレベルで(ヒューマンバイオロジーの領域の深部で)分析・検討された方がよいという答えにたどり着きます。最初は極論に思えたが、徐々に納得がいくようになったと彼女は言います。

 

この結果から見えることがあります。確かにバーグ・ハリスは健康格差をなくすために予防接種や栄養教育などを施します。そして、ある程度の成果がありましたが、「もう長いこと破傷風が原因で死亡した子どもはいない」というように現状としてはその部分の改善はすでにできているというのです。「彼らが日常的にうけるストレスは、パニック発作から摂食障害、果ては自殺行為まで、さまざまな症状として表れた」という部分の改善は難しかった。この部分のメンタルヘルスが結果として健康格差にもつながっているのではないかと考えたのです。そして、それが「貧困と健康格差との関係」においても大きな疑問をバーグ・ハリスに投げかけたのですね。

事件から見えてくるもの

エリザベス・ドージアが赴任したフェンガー高校に来ている生徒たちは経済的にも恵まれていなく、ギャングの問題のある地域に住んでいます。そして、こういった暴力の脅威は生徒たちの上にも大きく影を落としていました。シカゴの殺人発生率はロサンゼルス、ニューヨーク市の倍以上にのぼります。ギャングは他のどの主要都市よりも多きな、しかも破壊的な存在で、ドージアがフェンガー高校に着任したのはちょうどティーンエイジャーの間で銃撃事件が急増していた時期だった。

 

そんななか、ドージアが着任して16日目に事件が起こりました。学校から数ブロックのところで大規模な喧嘩騒ぎがおき、およそ50人のティーンエイジャーが巻き込まれました。そのうちの大部分がフェンガー高校の生徒でした。銃もナイフも使われなかったが、一部の生徒たちが線路の枕木を取ってきてこん棒にし、争いに割って入ったデリオン・アルバートという16歳のフェンガーの生徒をなぐり、ついで顔を殴り、意識をうしない、地面に倒れている間に他の数名から頭をけられ、その外傷がもとで死亡しました。彼の死は他の何十もの死亡事故とさほど変わらなかったが、この様子を動画で撮影した目撃者がYouTubeに流し大きな話題になりました。様々なニュースの取材や学校の正面での追悼集会や抗議集会が開かれた。その一か月後の10月になると非行グループによる激しい喧嘩が校内の3つのフロアで同時に起こり、フェンガー高校は再びニュースを騒がすことになります。

 

学校内の喧喧囂囂(けんけんごうごう)たる議論の末、ドージアは暴力行為および、暴力につながりかねない行為を一切容認しない方針を導入。ギャングを真似たハンドサインを使ったり、ギャング風の握手をしたりする生徒を廊下で見かければ、自動的に10日間の停学を言い渡しました。喧嘩をした生徒は警察に通報し逮捕してもらい、あらゆる手段を尽くして退学にした。廊下には重武装下警備員が巡回し、生徒は専用のひもで首から下げた身分証明書がなければどこにも行けない。休み時間には<ビバリーヒルズ・コップ>の曲が流れ、その曲が終わるまでに教室に移動しなければいけない。こうした堅固な規則があるにもかかわらず、まだ騒ぎは起こっていました。

 

校長になって2年目も半ばのころ、ドージアは自分の役割の中で一番重要なのは授業を指導することではないと思うようになりました。デリオン・アルバートの殺人事件をきっかけに、学校組織のトップのアーン・ダンカンと司法長官のエリック・ホルダーはフェンガー高校で放課後のプログラムを実施するために連邦の資金から50万ドルを支出することを約束しました。そのプログラムの内容は怒りの抑制や心的外傷のカウンセリングで、学校側は対象を生徒だけではなく、生徒の家族にまで広げました。ドージアは生徒の中で最も大きな問題を抱える25名を集中指導プログラムに登録した。

 

今現在、ドージアがフェンガーにおける差し迫った危機は生徒の学業成績の不振ではなく(それも気が滅入るほど深刻なままではあるが)もっと根深い問題、つまり生徒の毎日をつらいものにしている、心的外傷の引き金になるほどの困難な家庭環境から生じていた問題を解決する糸口となるものを彼女は探していました。「この仕事に就いたばかりの頃は“個ここの子どもたちにはどんな家族がいるのか”“貧困は子どもたちにどういう影響を与えるのか”といった疑問を軽視していた」と言っています。それと同時に「けれどもフェンガー高校で働くようになってから考えが変わりました」と言っています。

 

家庭環境の貧困と学業における姿勢が大きく影響しているということが分かるのと同時に、たとえルールを厳格化したとしても、それが問題の解決には至らない、もっと根本的なところからアプローチする必要があるということが分かります。困難な環境からどう支援していなければいけないのか。それはただの授業支援といった部分ではないということが分かります。

知識至上主義から非認知スキルへ

日本でもいまだに「知能至上主義」のような教育はまだまだ続いています。様々な人生のステージにおいても、受験やテストは反復や練習を基にした形態で行われています。そして、成績や偏差値といったもので学力を測られています。しかし、こういった知能至上主義に対し、過去十年、特にここ数年の間に、経済学者、教育者、心理学者、神経科学者が集まって、知能至上主義の背後にある思い込みの多くに疑問を投げかけ始めました。

 

「子どもの発達に最も重要なのは、最初の数年のうちにどれだけたくさんの情報を脳に詰め込めるかではない」ということを彼らはいっているのです。本当に重要なのはそれとはまったく異なる「気質」、つまり粘り強さや自制心、好奇心、誠実さ、物事をやり抜く力、自信などを伸ばすために手を貸せるかどうかであるということです。経済学者はこうしたものを「非認知スキル」と呼び、心理学者は「人格の特徴」と呼び、一般の私たちはこれを「性格」と捉えています。

 

しかし、いくつかのスキルに関して、知能至上主義の背後にある単純な計算、つまり、「大事なのは早く始めてたくさん練習する」といったことは確かに根拠があるとタフ氏は言います。たとえば、バスケットボールのフリースローを落としたくなかったら、毎日の練習で20本よりも200本練習するほうが上達しますし、読解能力においても、4冊読むよりは400冊読んだ方が伸びるでしょう。機械的に向上する技能もあるというのは事実です。

 

しかし、人間の気質のもう少しデリケートな要素を伸ばすとなると、ものごとはそう単純ではないとタフ氏は言います。これに関しては長時間懸命に取り組んだからといって失望を乗り越えるのがうまくなったりはしません。早いうちから充分に好奇心のドリルをやらなかったからという理由で好奇心の足りない子どもに育つわけでもないのです。とはいえ、このような気質を身につけたり、失ったりする方法はランダムではなく、最初からついているものではありません。何かによって生じたものなのです。心理学者や神経科学者たちは、ここ数十年のあいだこうした気質がどこから生じ、どうやって伸びるのかについて研究を重ねてきました。しかし、その方法はまだ謎が多く複雑なのだそうです。

 

この「成功する子 失敗する子」を書いたポール・タフ氏は現在世界中の教室やクリニックや研究室や講義室で勢いを増している、こういった新しい考えを紹介し、児童の発達に関するここ数十年の一般通念は誤りで、間違ったスキルや能力に焦点を合わせ、間違った戦略を使ってそのスキルを教え、育てようとしていることに疑問を投げかけています。

 

しかし、現在、こうした研究はまだまだ新興のもので、新しい知識を積み上げているところです。そのため、科学者や教育者たちは孤立していることが多いそうです。しかし、そのつながりは徐々に広がっていき、学問の分野を越え議論は高まっているそうです。そして、それは子育ての方法、学校運営の方法、社会的なセーフティネットの構築方法を変える可能性を持っているとタフ氏は言っています。そして、そのネットワークの要となっているのが、シカゴ大学の経済学者ジェームス・ヘックマン氏だと紹介しています。

 

最近、様々な研修の中で、ヘックマン氏の非認知スキルの話を聞くことが多くなってきました。乳幼児期に育つ力はその後社会につながるものでもあるというのは、ここ最近ではかなりホットな内容です。

対処法

これまでは、メンタル不調者を出さないための対象の仕方が紹介されていました。では、実際、悩みや不安を抱えた人やメンタルヘルス不調の人と対話をするためにはどういったことを注意しておかなければいけないことなのでしょうか。それには5つの対処法があり、これらのことを意識する必要があると言います。

 

その一つ目が「⑴共感しても共鳴しない」ということで、これはベテランのカウンセラーでもなりうることだと言います。話している内容が深刻であった場合や相手が自分と似たような境遇であったり、生い立ちが似ていたりした場合、自分と相手を切り離して考えられないということがありえます。相手に感情移入しすぎてしまうということですね。あくまで「共感」することが大切です。共感とは相手の気持ちを受け止め、こちらから相手の感情を理解しようと積極的にすることです。しかし、「共鳴」となると、あちらが揺れればこちらも振動してしまう、相手に振り回されてしまうといった受動的なものになりよくありません。注意していても、そうなった場合、話を聞くのは1日に1人とか、リカバリーできるようになんらかの対応を考えておくとか、自分の無理のないコミュニケーションをとることが必要になってきます。

 

2つ目が「⑵拒否にも対処できるようにする」 ということです。時に、気になって声を掛けてみても「イヤ、いいです」と拒絶されることもあります。こういった場合、対処法はケース・バイ・ケースですが、1回拒否されたからと言って、それで引いてしまわないようにしなければいけないというのです。そして、何度も拒否する人に対しては個別に対策を何考える必要があるとも言っています。

 

「⑶つなぐ」 この場合は、たとえば、相手が拒否したとしても、「大変そう」と感じている時点で組織として何らかの対処をすべきであるとすることです。そういった意味では、医師やカウンセラーにつなぐということです。しかし、ここで注意しておかなければいけないことは、部下に何も言わずに産業医やカウンセラーのところに行って部下の相談をすると、産業医や健康管理士から部下に連絡が言った時に「誰が私のことを知らした」と、かえって殻に閉じこもって話をしてくれないようになりかねないことになります。ですから、「ちょっといいですか」と声を掛けた時に、拒否された場合でもきちんとカウンセラーや産業医に相談することを伝えたうえで、相談しにいく必要があります。そういったことを伝えておけば、たいていの人は上司から自分のことを伝えられるよりも、自分から面談に行こうとすることが多いようです。そのため、上司に必要なのは、まず最初に気づくことなのです。マネジメントする側やリーダーといった立場の人が察知し、適切な人、役職、場所、健康管理士やカウンセラーにつなぐことが大切なのです。

 

「⑷緊急性がある場合」 これは例えば「自殺の恐れ」などはまさにこれに該当します。「みる・きく・はなす」技術は相手を直接救うことが目的とされているわけではありません。必要なことは、話を聞いて必要に応じて専門家のところにつなぐことがコミュニケーションの目的なのです。しかし、手に負えないような自殺などのような緊急性のあるものは本人とのコミュニケーションを飛ばして、カウンセラーや産業医に連絡するなり、ご家族に連絡するなり、本人に「休め」というなり、素早い対処が求められます。

 

「⑸確信が持てない場合はどうするか」  部下についての変化を察知したとしても、自分の判断に自信が持てないことがあります。そういった場合はその部下の同僚など近い人に様子を聞くことも重要になります。しかし、ここで注意が必要なのが「様子を見てみよう」と放っておくうちに、深刻な事態になってしまうことです。だからこそ、積極的な行動は大切だというのです。

 

こういった対処法を行うような事態にならないような円滑なコミュニケーションがあることがそもそも必要なのであって、ここで言われることは最終的な関わりです。そして、その中心はやはり「きく」ということがもっとも重要な要素であるのですね。