社会の変化

事件から見えてくるもの

エリザベス・ドージアが赴任したフェンガー高校に来ている生徒たちは経済的にも恵まれていなく、ギャングの問題のある地域に住んでいます。そして、こういった暴力の脅威は生徒たちの上にも大きく影を落としていました。シカゴの殺人発生率はロサンゼルス、ニューヨーク市の倍以上にのぼります。ギャングは他のどの主要都市よりも多きな、しかも破壊的な存在で、ドージアがフェンガー高校に着任したのはちょうどティーンエイジャーの間で銃撃事件が急増していた時期だった。

 

そんななか、ドージアが着任して16日目に事件が起こりました。学校から数ブロックのところで大規模な喧嘩騒ぎがおき、およそ50人のティーンエイジャーが巻き込まれました。そのうちの大部分がフェンガー高校の生徒でした。銃もナイフも使われなかったが、一部の生徒たちが線路の枕木を取ってきてこん棒にし、争いに割って入ったデリオン・アルバートという16歳のフェンガーの生徒をなぐり、ついで顔を殴り、意識をうしない、地面に倒れている間に他の数名から頭をけられ、その外傷がもとで死亡しました。彼の死は他の何十もの死亡事故とさほど変わらなかったが、この様子を動画で撮影した目撃者がYouTubeに流し大きな話題になりました。様々なニュースの取材や学校の正面での追悼集会や抗議集会が開かれた。その一か月後の10月になると非行グループによる激しい喧嘩が校内の3つのフロアで同時に起こり、フェンガー高校は再びニュースを騒がすことになります。

 

学校内の喧喧囂囂(けんけんごうごう)たる議論の末、ドージアは暴力行為および、暴力につながりかねない行為を一切容認しない方針を導入。ギャングを真似たハンドサインを使ったり、ギャング風の握手をしたりする生徒を廊下で見かければ、自動的に10日間の停学を言い渡しました。喧嘩をした生徒は警察に通報し逮捕してもらい、あらゆる手段を尽くして退学にした。廊下には重武装下警備員が巡回し、生徒は専用のひもで首から下げた身分証明書がなければどこにも行けない。休み時間には<ビバリーヒルズ・コップ>の曲が流れ、その曲が終わるまでに教室に移動しなければいけない。こうした堅固な規則があるにもかかわらず、まだ騒ぎは起こっていました。

 

校長になって2年目も半ばのころ、ドージアは自分の役割の中で一番重要なのは授業を指導することではないと思うようになりました。デリオン・アルバートの殺人事件をきっかけに、学校組織のトップのアーン・ダンカンと司法長官のエリック・ホルダーはフェンガー高校で放課後のプログラムを実施するために連邦の資金から50万ドルを支出することを約束しました。そのプログラムの内容は怒りの抑制や心的外傷のカウンセリングで、学校側は対象を生徒だけではなく、生徒の家族にまで広げました。ドージアは生徒の中で最も大きな問題を抱える25名を集中指導プログラムに登録した。

 

今現在、ドージアがフェンガーにおける差し迫った危機は生徒の学業成績の不振ではなく(それも気が滅入るほど深刻なままではあるが)もっと根深い問題、つまり生徒の毎日をつらいものにしている、心的外傷の引き金になるほどの困難な家庭環境から生じていた問題を解決する糸口となるものを彼女は探していました。「この仕事に就いたばかりの頃は“個ここの子どもたちにはどんな家族がいるのか”“貧困は子どもたちにどういう影響を与えるのか”といった疑問を軽視していた」と言っています。それと同時に「けれどもフェンガー高校で働くようになってから考えが変わりました」と言っています。

 

家庭環境の貧困と学業における姿勢が大きく影響しているということが分かるのと同時に、たとえルールを厳格化したとしても、それが問題の解決には至らない、もっと根本的なところからアプローチする必要があるということが分かります。困難な環境からどう支援していなければいけないのか。それはただの授業支援といった部分ではないということが分かります。

知識至上主義から非認知スキルへ

日本でもいまだに「知能至上主義」のような教育はまだまだ続いています。様々な人生のステージにおいても、受験やテストは反復や練習を基にした形態で行われています。そして、成績や偏差値といったもので学力を測られています。しかし、こういった知能至上主義に対し、過去十年、特にここ数年の間に、経済学者、教育者、心理学者、神経科学者が集まって、知能至上主義の背後にある思い込みの多くに疑問を投げかけ始めました。

 

「子どもの発達に最も重要なのは、最初の数年のうちにどれだけたくさんの情報を脳に詰め込めるかではない」ということを彼らはいっているのです。本当に重要なのはそれとはまったく異なる「気質」、つまり粘り強さや自制心、好奇心、誠実さ、物事をやり抜く力、自信などを伸ばすために手を貸せるかどうかであるということです。経済学者はこうしたものを「非認知スキル」と呼び、心理学者は「人格の特徴」と呼び、一般の私たちはこれを「性格」と捉えています。

 

しかし、いくつかのスキルに関して、知能至上主義の背後にある単純な計算、つまり、「大事なのは早く始めてたくさん練習する」といったことは確かに根拠があるとタフ氏は言います。たとえば、バスケットボールのフリースローを落としたくなかったら、毎日の練習で20本よりも200本練習するほうが上達しますし、読解能力においても、4冊読むよりは400冊読んだ方が伸びるでしょう。機械的に向上する技能もあるというのは事実です。

 

しかし、人間の気質のもう少しデリケートな要素を伸ばすとなると、ものごとはそう単純ではないとタフ氏は言います。これに関しては長時間懸命に取り組んだからといって失望を乗り越えるのがうまくなったりはしません。早いうちから充分に好奇心のドリルをやらなかったからという理由で好奇心の足りない子どもに育つわけでもないのです。とはいえ、このような気質を身につけたり、失ったりする方法はランダムではなく、最初からついているものではありません。何かによって生じたものなのです。心理学者や神経科学者たちは、ここ数十年のあいだこうした気質がどこから生じ、どうやって伸びるのかについて研究を重ねてきました。しかし、その方法はまだ謎が多く複雑なのだそうです。

 

この「成功する子 失敗する子」を書いたポール・タフ氏は現在世界中の教室やクリニックや研究室や講義室で勢いを増している、こういった新しい考えを紹介し、児童の発達に関するここ数十年の一般通念は誤りで、間違ったスキルや能力に焦点を合わせ、間違った戦略を使ってそのスキルを教え、育てようとしていることに疑問を投げかけています。

 

しかし、現在、こうした研究はまだまだ新興のもので、新しい知識を積み上げているところです。そのため、科学者や教育者たちは孤立していることが多いそうです。しかし、そのつながりは徐々に広がっていき、学問の分野を越え議論は高まっているそうです。そして、それは子育ての方法、学校運営の方法、社会的なセーフティネットの構築方法を変える可能性を持っているとタフ氏は言っています。そして、そのネットワークの要となっているのが、シカゴ大学の経済学者ジェームス・ヘックマン氏だと紹介しています。

 

最近、様々な研修の中で、ヘックマン氏の非認知スキルの話を聞くことが多くなってきました。乳幼児期に育つ力はその後社会につながるものでもあるというのは、ここ最近ではかなりホットな内容です。

対処法

これまでは、メンタル不調者を出さないための対象の仕方が紹介されていました。では、実際、悩みや不安を抱えた人やメンタルヘルス不調の人と対話をするためにはどういったことを注意しておかなければいけないことなのでしょうか。それには5つの対処法があり、これらのことを意識する必要があると言います。

 

その一つ目が「⑴共感しても共鳴しない」ということで、これはベテランのカウンセラーでもなりうることだと言います。話している内容が深刻であった場合や相手が自分と似たような境遇であったり、生い立ちが似ていたりした場合、自分と相手を切り離して考えられないということがありえます。相手に感情移入しすぎてしまうということですね。あくまで「共感」することが大切です。共感とは相手の気持ちを受け止め、こちらから相手の感情を理解しようと積極的にすることです。しかし、「共鳴」となると、あちらが揺れればこちらも振動してしまう、相手に振り回されてしまうといった受動的なものになりよくありません。注意していても、そうなった場合、話を聞くのは1日に1人とか、リカバリーできるようになんらかの対応を考えておくとか、自分の無理のないコミュニケーションをとることが必要になってきます。

 

2つ目が「⑵拒否にも対処できるようにする」 ということです。時に、気になって声を掛けてみても「イヤ、いいです」と拒絶されることもあります。こういった場合、対処法はケース・バイ・ケースですが、1回拒否されたからと言って、それで引いてしまわないようにしなければいけないというのです。そして、何度も拒否する人に対しては個別に対策を何考える必要があるとも言っています。

 

「⑶つなぐ」 この場合は、たとえば、相手が拒否したとしても、「大変そう」と感じている時点で組織として何らかの対処をすべきであるとすることです。そういった意味では、医師やカウンセラーにつなぐということです。しかし、ここで注意しておかなければいけないことは、部下に何も言わずに産業医やカウンセラーのところに行って部下の相談をすると、産業医や健康管理士から部下に連絡が言った時に「誰が私のことを知らした」と、かえって殻に閉じこもって話をしてくれないようになりかねないことになります。ですから、「ちょっといいですか」と声を掛けた時に、拒否された場合でもきちんとカウンセラーや産業医に相談することを伝えたうえで、相談しにいく必要があります。そういったことを伝えておけば、たいていの人は上司から自分のことを伝えられるよりも、自分から面談に行こうとすることが多いようです。そのため、上司に必要なのは、まず最初に気づくことなのです。マネジメントする側やリーダーといった立場の人が察知し、適切な人、役職、場所、健康管理士やカウンセラーにつなぐことが大切なのです。

 

「⑷緊急性がある場合」 これは例えば「自殺の恐れ」などはまさにこれに該当します。「みる・きく・はなす」技術は相手を直接救うことが目的とされているわけではありません。必要なことは、話を聞いて必要に応じて専門家のところにつなぐことがコミュニケーションの目的なのです。しかし、手に負えないような自殺などのような緊急性のあるものは本人とのコミュニケーションを飛ばして、カウンセラーや産業医に連絡するなり、ご家族に連絡するなり、本人に「休め」というなり、素早い対処が求められます。

 

「⑸確信が持てない場合はどうするか」  部下についての変化を察知したとしても、自分の判断に自信が持てないことがあります。そういった場合はその部下の同僚など近い人に様子を聞くことも重要になります。しかし、ここで注意が必要なのが「様子を見てみよう」と放っておくうちに、深刻な事態になってしまうことです。だからこそ、積極的な行動は大切だというのです。

 

こういった対処法を行うような事態にならないような円滑なコミュニケーションがあることがそもそも必要なのであって、ここで言われることは最終的な関わりです。そして、その中心はやはり「きく」ということがもっとも重要な要素であるのですね。

怒ると価値観

武神氏は自分自身に「怒る」という感情が向かうことは何の問題もないと言ってます。そして、大切なことは相手を「承認」し、「叱る」ということにつなげるかということが重要なことだと言っています。しかし、この「承認」というのはなかなか難しく、相手を見ていないと分かりません。なぜなら、怒りの基準、つまり「どの程度までを許容し、どの程度を超えたら怒るか」は人それぞれだからです。

 

自分の価値観に沿って考えて行動し、この一線を超えたら怒る。だからこの一線を周囲の人が超えないように「見える化」しておくことが有効なこともあります。しかし、重要なのはこの一線自体も自分の価値観であり、他人が納得しているとは限らないのです。そのためにも、お互いの「怒る基準や許容範囲=価値観」を普段からよく話し合っておくことが大切だと言っています。そして、自分の価値観だけではなく、相手(他人)の価値観も尊重することも重要なのです。大切なのは「正義は人の数だけある」ということを理解しておくことです。そして、価値観は人それぞれであり、本来変えることはできないのです。

 

その価値観は、文化圏や宗教からくるものかもしれません。会社が違えば文化も異なり、「正しい」の基準も異なります。もちろん、年齢や時代というものもあるでしょう。「正しい」と思われる「価値観」は立場の数だけあるのです。武神氏はカウンセリングをしていく中で、まだまだ自分の基準や許容範囲=価値観=正義を超えたから怒る人が多い。つまり、自分の価値基準だけで怒る人が多いと感じるそうです。

 

では、怒る時にはどういった基準で考えたほうがいいのでしょうか。認知科学者の苫米地英人さんは著者『「怒らない」選択法、「怒る」技術』のなかで「怒っていいときはほとんどない」と述べているそうです。怒っていいのは ①相手に過失があり②自分がそれによる不利益を被り③さらにその過失が想定外だった時 以上の3つを満たしたときに限るというのです。そう考えるなら、大概のことは想定内です。つまり、多くは怒るよりも自分のほうを変えることのほうが重要となります。苫米地氏の考えでいうと「怒っていいとき」の説というのは、他人のせいにしないで自己責任として、自己反省や自己成長につなげようという発想ではないかというのです。

 

自分の価値観と相手の価値観(正義)が異なっただけで、相手をいくら上手に叱っても、相手がこちらの怒る判断基準に納得していなければ、その怒ることに自己満足する人もいる一方で、怒られた方は不満、ストレスが溜まってしまうのです。

 

私はこのことをもう一つ付け加えるのなら、その相手が自分自身に過失があることを自覚しているのかといったところもあるのではないかと思います。相手が同じ価値基準にいる。つまり、同じ方向を向いているのであれば、その失敗は本人にとっても「だよね」と思うでしょうし、納得した上で「きく土俵」にのった状態になります。こういったやり取りができるために相手とのコミュニケーションやお互いの価値基準をすり合わせ、調整しておくことを日常からしておかなければいけないのでしょう。

 

また、このことを子どもに当てはめてみます。子どもは大人とは違い、しっかりと意志を泣いたり、怒ったりと行動として出してくれます。そういった意味では大人よりも分かりやすいかもしれません。そのときに、頭ごなしにこちらのやってほしいことに子どもに指示命令をしていくと、叱る前提となる『相手を「承認」している』ということにはつながらず、一方的な価値観を押し付け、最悪、ここでいうところのメンタルヘルス不調と同じような状況になります。親子関係の場合、愛着障害として形が出てくることがこれに近いのかもしれません。まずは関わりにおいて「子どもであっても一人の人間」という向き合い方をしなければいけないというのがここからも見えてきますね。

「怒る」と「叱る」

武神氏は「怒る」ということに目を向けます。同じ組織の中におり、一緒に仕事をしていく中で、「怒る」というコミュニケーションは当然でてきます。しかし、この「怒る」という行為は「叱る」という行為とは違います。いくら「怒る」という行為のテクニックを学んでも、その根底にあるマインドを学ばなければ、職場のハラスメントをはじめとする人間関係のストレスはなくならないのです。では、そもそも「怒る」と「叱る」というのはどういった違いがあるのでしょうか。

 

「自分の価値観と相手の価値観が異なったとき、それが譲れないとき、それは怒るべきときだから怒っていい」と考えている管理職は意外と多いと言います。しかし、こういった人がメンタルヘルス不調者の上司であったというパターンは多くあったそうです。この上司たちは「部下が間違えた」「部下はこうあるべきだった」と丁寧に説明してくれることがあり、決して感情に任せて起こったのではないことが伝わってくる人もいるのですが、結局はメンタルヘルス不調者を出すことになってしまいます。それは「価値観の相違にあるからだ」と武神氏は言います。いくら冷静に怒ったとしても、価値観の相違を理由として怒ることは、あくまで上司の価値観と部下の価値観の相違であるからであり、その場合、どちらが正しいのかが分からない場合もありえてしまいます。なぜなら、当事者はみんな自分の価値観でやっていますし、各々が自分が正しいと考えているからです。

 

では、リーダーシップのある上司やメンタルヘルス不調者を出さない上司、ハラスメント被害者を出さない上司は、滅多なことで起こらないと言います。というのも、こういった人たちは部下を「怒る」のではなく、「叱る」と言います。つまり、この違いに職場のあり方が見えてくるというのです。この違いはどういったことなのでしょうか。

 

武神氏は「怒る」と「叱る」の違いは、「怒る」は自分本位、「叱る」は相手がいるということだと言っています。「怒る」ということは自分で自分に「怒る」こともあります。その場合誰にも迷惑はかけません。しかし、「叱る」ことには相手がいます。そのため、相手を必要とする行為である「叱る」には、その分、他人に対する責任をしっかりと認識して行う必要があります。このことについて元プロテニスプレーヤーの松岡修造の話を武神氏は紹介していますが、松岡修造氏は「叱る」のなかには「期待」があるというメッセージを掲げ、「『怒る』とは自分の感情を相手にぶつけること。『叱る』とは相手のことを思い、注意することだ」と言っています。つまり、「怒る」ときに相手を“承認”すると、それは「叱る」になるのです。逆に相手を承認してない状態、つまり、相手に対して「期待」がない場合は一方的に怒りをぶつけているというようになってしまうでしょうね。

 

相手の価値観と自分の価値観をすり合わせるということが大切なのです。メンタルヘルス不調者を出す上司はこういったところにズレがあるのかもしれません。そのため、相手の価値観を受け入れるというよりも自分の価値観を相手に押し付けることによって相手は納得できないところが出てくることになりかねず、それが結果としてメンタルヘルス不調につながっていくのだろうと思います。