社会の変化

ソーシャルネットワーク 

脳のニューロンや神経細胞のシナプスの連結においても、人類は決して、一人で生きてきたことはなく、常に社会の中で生きてきたということが紹介されています。しかし、昨今の子どもを取り巻く環境は少子化で子どもの数は減ってきていますし、核家族が多くなることで家庭では母子だけで過ごすことも多くなっているということもあり、社会と乳児とが離れてきている環境が多くなってきているように思います。また、社会関係の希薄化というのも、とりわけ話題に上がってくる課題であります。

 

そこでソーシャルネットワーク論では、母子関係について「母子関係はその後のすべての人間関係の発達について必要十分条件ではない」と考えられています。乳児は母親、父親だけではなく、きょうだい、あるいは血縁関係のない養育者とも愛着関係を同時並行的につくっているといわれています。そして、3歳までには、子どもはある対象とある機能とを結びつけ、助けが必要なときには親を、遊びたいときには同年齢の友だちを、真似しようとするときには少し上の子どもを、何かを教えてほしいときにはもう少し年上の子どもを選ぶことを見出すのです。つまり、仲間関係は社会的な技能、能力の発達において最も重要なものであり、仲間関係は乳児対大人の関係の代用物ではなく、もっと根源的なもので、おそらく系統発生的にもより古く、種の生存のために不可欠であるといわれています。生後6か月の乳児でさえ、発声、接触、微笑によってふたりの間で交代しながら仲間関係を作ったという研究もあります。乳児は他の年代の人間よりも同年代の仲間をより好むこともわかっています。また、近年の研究から、1歳児の対人スキルの発達には3か月間にわたって絶えず子どもと接触することが重要であることも分かってきました。

 

1歳児の対人スキルの発達は3か月間にわたって絶えず子どもと接触することが重要であるというのを見ても、家庭の中で母親と赤ちゃんが一対一での関係性だけでいることの難しさというものが見えてきます。赤ちゃんの育ちにとって他児との触れ合いというのは母子関係での関わり以上にその必要性があるのですね。乳児にとって仲間は、互いに対して、伝達したり、攻撃したり、防御したり、協力したりするスキルをゆっくり丁寧に作り上げていく機会を与えると言います。仲間は子どもにとっていろいろな意味で近い存在なので、人間関係の発達に必要な能力を訓練するパートナーとしては、親よりも適しているのです。

 

しかし、だからといってそれは母親の存在を否定するわけではないと言います。ソーシャルスキル論において、社会的発達において、母子関係と仲間関係では大きな違いがあるというのです。自由遊びの場面で母親に向けられた交渉と仲間に向けられたそれとを比較した研究では、仲間からの刺激は子どもにとって特別であり、魅力的であることがわかりました。仲間との遊びの場面では、大人と関わっているよりも、応答的、持続的、情動的であること、仲間の活動や応答は大人より、目新しく、興味深いこと、仲間は同じ発達水準であるため、大人の行動よりも模倣しやすいということがわかったのです。乳幼児の教育的環境というときに最も必要なのが、この仲間の存在であることは明白なのです。

 

母子関係は安心基地としての役割があり、友だち関係は世界を広げてくれる役割があるように思います。ソーシャルネットワーク論においても、友だち関係の重要性が指摘されているのですね。また、仲間関係の中では、「学ぶ」ということもあるのですが、特に対人スキルの発達に関しては、親子の関係以上に子ども関係における学びや発達が著しいということがわかります。つまり、コミュニケーション能力が問題になっている昨今では、このような「友だちとのかかわり」というものにもっと目を向けていかなければいけないのでしょうね。そして、「子ども同士をつなげる」ということが保育にももっと目を向けなければいけないのですね。つい保育の話になっても「大人の子どもへの関わり方」ばかりに目がいきますが、子ども同士にこそもっと着目していく必要がありますね。

労働意欲

2019年10月2日のインターネットサイト「ビジネス+IT」に「絶句・・・“意識低い系ニッポン”の実態、14カ国比較調査の衝撃的な内容とは?」(経済評論家 加谷珪一)という記事が出ていました。そこには人材大手のパーソルグループの調査会社パーソル総合研究所が2019年8月27日、アジア太平洋地域における就業意識調査の結果を発表が紹介されています。この調査ではアジア太平洋地域で働くビジネスパーソンを対象に、国ごと1000人を抽出して行われ、主な調査項目には、上昇志向、学習、ダイバーシティ(職場における多様性)、転職などを調査しました。そこで出た結果において、日本人のビジネスパーソンはあらゆる面において仕事に対する意識が最下位という内容が出てきたというのです。

 

まず、上昇志向について、日本のビジネスパーソンの中で「管理職になりたい」と考える人の割合は21.4%となっており、14カ国中、最も低い結果がでました。それは「会社で出世したいか」という似たような質問項目でも、日本は最下位になっているというのです。では、上位にあがっている国はどういったところがあるのでしょうか。1位はインド、2位はベトナムとどちらも新興国になっており、一般的には成長が著しい新興国ほど前向きになり、成熟した先進国は結果が低めに出ることが多いそうです。その傾向はこの調査でもはっきりしており、日本の次に出世意欲が低いのがニュージーランド、ついでオーストラリア、シンガポール、香港、台湾と続いています。しかし、ここで注目すべきは順位ではなく、数値です。ニュージーランドでは管理職になりたいと考える人の割合が41.2%なのに対して、日本はそのほぼ半分の21.4%となっているのです。順位としては近いが、その数値には大きな開きがあるというのです。

 

つぎに、勤務先以外での学習や自己啓発についても、「何も行っていない」という人の割合も割合の高めだったオーストラリアやニュージーランドが21%~22%なのに対して、日本は46.3%と突出して低くなっていました。ちなみに一番行動しているというベトナムは「何も行っていない」人は2.0%となっています。

 

その原因として、日本企業における人的資源の教育投資や非正規社員雇用の問題があるとここで紹介されています。非正規社員に粗糖する契約で働く場合、諸外国の場合は補助的な作業か、期間限定の業務に従事している可能性が高いのに対し、日本の場合はコスト削減の一環で、仕事内容を変えないまま、契約だけ非正規移行した人も多く結果として仕事に対する意欲が持てないという影響があるのです。日本全体では非正規労働者の数は2120万人で、全従業員の約4割とかなり高い数値が出ているというのです。

 

今の社会、不景気によりコスト削減が叫ばれている中、こういった非正規労働者の雇用はかなり日本は多いのですね。確かに、こういった賃金が安いということで労働意欲の意識が低くなっていることもあるでしょうね。しかし、その反面、やはり私はこの結果を受けて、教育における考え方も改める必要があるのではないかと考えてしまいます。保育士の分野においても、少子化における保育士不足や賃金が低いことによるといった問題で保育者不足が問題になっています。しかし、やめていく人のほとんどが「賃金」ではなく、「人間関係」や「職場関係」なのです。労働意欲というのは賃金だけではないのかもしれません。また、仮に教育投資を高めたところで、勤務先以外での学習や自己啓発を何も行っていないと言われる今のビジネスパーソンにとって、仮に研修があっても、自分から意欲的に取り組むのかと疑問に感じます。

 

必要なのは自発的な学習意欲であり、それは乳幼児期からの環境に大きく影響があると考えています。そのため、保育の中で、自分で選択する経験や保育環境や教育環境においてもダイバーシティを取り組むことなどを考える必要があるとより思います。人は自分から行動し、達成することで達成感を感じるといいます。逆に人に言われてすることは達成感ではなく安心感であるといいます。今の子どもたちは成功体験といっても、自発的な成功体験よりも、求められた成功体験のほうが多いのかもしません。それだとその後の自己肯定感や自尊感情にはつながらないとも言われています。こういった社会の現状を見ることで、保育の本来の意味や社会を視野に入れた教育のあり方を改めて考えさせられます。

 

日本の技術の制御② 

マサビュオーは日本人の「空間の使用」について5つの技術があったと指摘します。そして、さらにこの技術を制御し変化させてきた3つの要因について考察します。1つ目は「自然環境」であり、日本の行動様式の中心には日本の過酷な自然環境に一つの要因があり、それが日本人の刹那的な不安定さのイメージにつながっているといいます。そして、2つ目は「数の重み」です。人口が増え、自然環境が厳しい土地環境の中で、どのくらいの空間をどのくらいの人口を保有するのかということを考えるということも日本の特殊な風土の産物だといいます。

 

そして、つぎの3つ目の要因は「異文化受容の方」を上げています。それについてマサビュオーはこう説明しています。《日本文明は、本質的に周縁的で求心的である。与えたものよりも、はるかに多くのものを受け入れてきた。したがって常に、外国の価値や技術をどのように吸収するかによって、日本文明がどれだけ有効に自然環境を支配し、独自の空間を建設するかが左右されてい》と言います。この指摘はある意味で「日本は物真似が得意だ」と評されたことでも納得がいくと藤森氏は言います。藤森氏はマサビュオーの説明を受けて「日本人の物真似は、私は素晴らしい能力だと思っています。なぜならそれは単なるコピーではないからです。日本では古来より多くの文化が中国から渡来し、明治になると西洋から様々な要素を取り入れてきました。彼は日本人の外来文化受容における特徴を《何らかの恐れを抱いて、何を受け入れるかを選択し、受けいれの規模も徐々にしか増大せず、慎重で、受け入れのどの段階でも合意の得られたものしか選択されないのだ》と指摘している」と言います。

 

日本人は外国では「物真似が得意」と言われているのですね。考えてみると、日本の文字も漢字を中国から得て、そこからカタカナ、ひらがなへと進化しています。ただ真似をしているのではなく発展させて、日本の文化に落とし込んでいるような真似のしかたをしているのがわかります。しかし、そういった発展ができるのも、真似する対象自体をしっかり理解しているからであって、その本質をしっかり理解できるという高度な理解力や状況にあった柔軟性も持っているからなのでしょう。そして、「何らかの恐れを抱いて、何を取り入れるかを選択する」といったしたたかさも持っていたからこそ、今日の技術大国としての日本ができたのでしょうね。

 

そして、最後の4つ目の次元ですが、それは「空間の構造化」です。マサビュオーはそれぞれの文明は自らの文明において、空間の中で大切にするもの、象徴するもの、こだわるものを持っているとしつつ、日本において大切にされてきたものは何かというと、それが日本の「伝統の家」だというのです。彼は森を背景にしていることが多い村落において、伝統的家の図式を容易に見出すことができるといいます。彼は《たいていの場合、村落は気の茂った斜面のふもとに位置していて、必ず神社がある。神社の入り口には、人目をひく「鳥居」と呼ばれる門がある。この入り口は、街道か道にのぞんでおり、その両側に住居が並んでいる。この入り口をくぐると、多少とも長く、曲がりくねった道がある。木が茂っていて薄暗く、見通しがきかない。この道は本殿まで続いている。本殿は、村のいわば「奥」であり、精神的な中心である。陰と神秘に満ちている。この本殿は、集団全体に存在の意義を与え、宗教的神秘の領域を確保している。ちょうど家の「奥」があることによって、家の真の空間が成立することに匹敵する》

 

日本の宗教において、「山岳信仰」があるように山は神秘に満ちた空間として、敬われていることが多くあります。そもそも日本の「よろずの神」の考え方も自然環境からの畏怖の念から始まっているのではないかと思います。こういった家における空間のとらえ方は日本人の精神性を表しているといっています。

 

このように4つの要因が日本の空間において大きな影響を与えてきたというのです。しかし、私はこういった自然の環境との共生というのは西洋文化が入ってきた現代社会においては薄れてきているのではないかと感じます。しかし、脈々と受け継がれてきた日本文化の精神性は大切にしていきたいものです。

 

日本の技術の制御 

マサビュオーは日本人の生活に関する意識を4つの次元と定義しました。そして、そのうちの「空間の使用」において、「空間は人間生活のさまざまな局面に適したものでなければいけない」としました。そして、その空間を「役に立つもの」として5つのグループとして技術があったと紹介しました。そのうえでマサビュオーはさらにこの技術を制御し変化させてきた3つの要因について考察します。

 

3つの要因のうち、1つ目は「自然環境」日本は〈どんなに厳密に予想を立てても、因果な連なりは絶えず打ち砕かれ、長期的な計画は様々な偶然に翻弄せざるを得ない〉という仏教的な考え方につながるような厳しい自然環境の下にあります。〈日本人の行動様式に今になっても記されている多くの特徴は、このはかなさについての鋭敏な感性から発している〉とし、なんでもどんどん受け売りする、景観を絶えず作り替えていく、ものをどんどん破壊する、家族とか家の抽象的な形式を大切にして、その型や形式が具体化しているものをそれほど大切にしないなど、マサビュオーは日本人の刹那的な不安定さのイメージを列挙しています。

 

日本の「わびさび」といった文化にも通じるところですね。日本人が「散りゆくさま」に情景や美しさを感じるのは日本における自然環境に絶えず振り回されてきた経験から、自然と共生し、それが日本人の行動様式になったことでこういった「はかなさ」といったものに対して鋭敏な感性をもつことになったのですね。

 

2つ目にあげられるのが「数の重み」です。〈日本人は人口があまりに多いことに長い間苦しんできた。このハンディキャップがあるために、日本人は日本列島の中で何とかできる土地をすべて開拓し、人口過剰に対するさまざまな経済的な対症療法を考えだし、出生率を制限し、移民を送り出した。〉こういった対象療法は当たり前のように思いますが、マサビュオーはこうした考えは、実は、人口過剰を意識し限られた空間の中で人間はどのくらい暮らすことができるのか、また、どの空間がどのくらいの人口を保有することができるのかを考えるという特殊な風土の産物だといいます。〈この考え方によって、各個人が耐えられるとされる生活の最低限のレベルはこの上なく低くされ、貧困は不可欠であり、簡素な生活は美徳ではないにしても、少なくとも1つの芸であると考えられるようになった〉と考えるのです。

 

日本の感性の源は「自然環境」だけではなく、人口増加における「数の重み」によって開墾され、厳しい自然環境の中、最低限のレベルでの生活の中で、逞しくも生きてきた先祖の強さにもあるのですね。こういったDNAが日本人にはあるのですね。そのころの人々は非常にポジティブであり、クリエイティブでもあり、エネルギッシュでもあったのでしょうね。

 

この「数の重み」に対して、藤森氏は日本の保育に通じる部分を話しています。それはどういったところにあるのでしょうか。

 

空間を役に立つものにする技術

マサビュオーは空間を「役立つ」ものにするためには与えられた自然環境の中で、ひとつの共同体が生活していくのに切り離すことができない諸価値、生き延びていくのに不可欠であると判断された諸価値の実現を企てることだと言っており、それは技術の問題として検討することが必要だと言っています。そして、その技術を5つのグループに分類できるといいます。

 

その1つ目が「道具の技術=活発な手工業が存在し続けたことによって、手で操るさまざまな工具が豊富に作られ、改良されてきた」という部分。2つ目は「共同生活の技術=家族関係のモデルがあらゆる集団に適用され、人と人との間に生まれた義理の意識が血縁のつながりにとって代わる」といった部分。3つ目は「指導の技術=人間関係があらゆるところで支配的力をもち、序列の中でのみ各人が仕事や安全や幸福を見出すことができるという状況が、社会上層の責任のあり方を規定している」というところ。4つ目は「価値の社会化の技術=社会集団の中で各人は、もっとも確実に社会集団の中に取り込まれ、美しいもの、真なるもの、善いものについての集団的な実践によって、社会の中で有効とされる基準を自分のものとして深く受け入れていく」そして、5つ目に「外部世界拒否の技術=〈ウチ〉と〈ソト〉の対立の下で自分たちの独創性を絶えず意識し、そのことに不変の喜びを感じている」としています。

 

そのなかで、4つ目の「価値の社会化」についてマサビュオーは何世紀にもわたって日本で伝承されてきた、茶の湯、生け花、自然の景勝地や宗教上の名所への団体旅行などはその実践で、それらによって日本人の美的感覚は均質化されていると指摘します。芸術上の趣味・娯楽は共同体支配の中で個人に残された憩いの領域であると考えるヨーロッパ文明の価値観と違い、日本では、趣味・娯楽的な価値観に対して、社会集団の力が最も厳しく作用しているというのです。日本というのは何かと「均質化」されることは確かに多いのかもしれません。趣味に関してもこれほどまで「~教室」といったものは海外にはないようにも思いますし、「しっかりと基本を知る。そのためにしっかりと習いたい」というのも大きな特徴なのかもしれません。

 

また、5つ目の「外部世界拒否」については、こうした「自民族中心主義」はどこにもあるものですが、マサビュオーの日本に対する目は厳しく、日本人のこの心性が極端な外国人嫌いや、現代日本の外交の弱さや諸外国との関係づくりの不器用さに現れていると指摘しています。日本は島国ですし、鎖国などをしていた時期もあり、非常に外の世界に対して、閉鎖的に自国を見ているところはありますね。

 

日本人は共同体における価値を見出すことや生き延びていくために不可欠な価値の実現を見出していくことで文化を確立し、共同体を維持して生きたのですね。そして、日本人はこれらの技術を使い工夫していきます。そして、そのために「空間」は重要な役割をもっていたというのです。このように日本人の「空間の使用」についてこの5つの技術があったと指摘する彼は、さらに、この技術を制御し、変化させてきた3つの要因について考察しています。