社会の変化

公的機関のマネジメント

ドラッカーは公的機関についても話しています。マネジメントというのは企業だけに限らず、政府機関、軍、学校、研究所、病院、労働組合、法律事務所、会計事務所、諸々の団体など、いずれも組織であり、マネジメントを必要とするとしています。そして、これらの企業以外の組織、公的機関こそ、現代社会の成長部門であり、成長部門はサービス部門であると言っています。当然そこには様々なスタッフがおり、企業内サービス部門においても、マネジメントがあり、成果を上げるためにマネジメントしなければならないとドラッカーは言っています。

 

そして、こういったサービス機関は、政府機関や病院のような公的機関であれ、企業内サービス部門であれ、すべて経済活動が生み出す余剰によってコストが賄われていると言います。それらは間接費、すなわち社会的間接費あるいは企業内間接費によって賄われているのです。平たく言うと企業においては利益から出たものの転用であり、公的機関は税などによる社会的な費用で運営されており、自前の売り上げで運営されているというものではありません。そして、こういったサービス機関は現在社会の支柱であり、社会構造を支える一因であると言っています。社会や企業が機能するには、サービス機関が成果をあげなければならないというのです。しかし、公的機関のせいかは、立派どころか、なるほどと思わせるレベルにも達していないとドラッカーは言います。

 

これは手厳しい指摘ですね。学校や病院は一昔前に比べると巨大化しており、予算は急増しているが、その反面あらゆるところで危機に瀕しているといのです。確かに少子化になり、大学は定員割れが多く出ています。病院においても、残る病院とつぶれる病院といったように格差が出てきているという話を聞いたことがあります。郵便や鉄道はどうでしょう。19世紀にはさほど苦労はなくマネジメントされていたのが、今日では巨額の補助金を受けつつ膨大な赤字にあえぎ、しかもサービスは劣化しているといっています。そのために国営から民間に日本は変化していっていますね。中央政府や地方自治体も、一層の成果を求めて絶えず組織改革を行っている。こういった中、あらゆる国において、官僚主義への不満が高まっているというのです。それは貢献と成果のためではなく、そこにいる者のためにマネジメントしているとの不安さえあるというのです。

 

では、公的機関は不要なのか?というと、やはり社会の支柱ということもあり、廃止ができるものではありません。なぜなら、公的機関こそ、社会に貢献すべきところが多分にあるからです。そのため、ドラッカーは「われわれに与えられてた選択は、サービス機関が成果をあげるための方法を学ぶことにほかならない」と言っており、そおためにマネジメントが必要だと言っています。

事業と保育

今日の企業は、組織のほとんどあらゆる階層に、高度の知識や技術を持つものを多数抱えていると言います。そのため、企業そのものや企業の能力に直接影響を与える意思決定が、組織のあらゆる階層において行われているのです。当然、それぞれで漠然とではあっても、自らの企業について何らかの定義を持って意思決定を行っているのですが、企業自体がその「自社の定義」をもっており、それを伝えていなければ、あらゆる階層の意思決定が、それぞれ違い両立不能な矛盾した企業の定義に従って行われることになるのです。そのため、あらゆる組織において、共通のものの見方、理解、方向づけ、努力を実現するには、「我々の事業は何か。何であるべきか」を定義することが不可欠であるとドラッカーはいいます。

 

ドラッカーは自らの事業は何かを知ることほど、簡単で分かりきったことはないと思われるかもしれない。しかし、分かり切った答えが正しいことはほとんどない「われわれの事業は何か」を問うことこそ、トップマネジメントの責任であると言っています。そして、企業の失敗や挫折の最大の原因はこの企業の目的としての事業が十分に検討されていないことだと言っています。逆に成功を収めている企業の成功は、「われわれの事業は何か」を問い、その問いに対する答えを考え、明確にすることによってもたらされていると言っています。

 

これは保育にとっては各現場での保育カリキュラムや保育のねらいといったものが企業で言う「事業」にあたるのかもしれません。それぞれのクラスやチームで園の理念を理解した上で、クラス運営をしていかなければいけない。そのためには、園がどういった理念を考えているのか。どこに目的があるのかといったことを理解し、実践していくことが重要になってくるのだと思います。そのため、マネジメントをする側の人の役割は園の理念をしっかりともち、その理念を周りに浸透するための方針を持っていなければいけないということなのだと思います。そして、それを実現するにあたり、ドラッカーは「その出発点は顧客でなければいけない」と言っています。事業は社名や定款や設立趣意書によってではなく、顧客が財やサービスを購入することにより満足させようとする欲求によって定義されるのです。顧客を満足させることこそ、企業の使命であり目的であり、その実現が事業なのです。

 

そのために、では「顧客」とは保育や教育の世界において誰のことを指すのでしょうか。このことを知ることは組織や企業の使命を定義するうえで、もっとも重要な問いとなるのです。この問いに対する答えによって、企業が自らを定義するかがほぼ決まってくるとドラッカーは言います。

イノベーションから保育

ドラッカーは企業の目的は顧客の創造にあるといっており、そして、そのために企業は二つの基本的な機能を持つと言っています。その一つが前回紹介した「マーケティング」でありますが、次にドラッカーは「イノベーション」がもう一つの機能であると言っています。

 

ドラッカーは顧客の側に立ち、「顧客が価値ありとし、必要とし、求めている満足がこれである」といったことをマーケティングとして行うだけでは企業は成功しないと言っています。「企業が存在しうるのは、成長する経済のみである」というのです。したがって、企業の第二の機能は、イノベーションすなわち、あたらしい満足を生み出すことなのです。経済的な財とサービスを供給するだけではなく、よりよく、より経済的な財とサービスを供給しなければならないのです。そして、企業そのものは、より大きくなる必要はないが、常により良くならなければいけないと言います。そして、イノベーションの結果もたらされるものは、よりよい製品、より多くの便利さ、より大きな欲求の満足です。

 

イノベーションとは発明のことではなく、技術のみに関するコンセプトでもない。経済的なイノベーション、さらに社会的なイノベーションは技術のイノベーション以上に重要であるとドラッカーは言っています。イノベーションとはただ単なる技術革新ではなく、人的資源や物的資源に対し、より大きな富を生み出す新しい能力をもたらすことというのです。そのため、当然マネジメントにおいては、社会のニーズを事業の機会として捉えなければならないのです。

 

このことは保育にも言えることです。日本における教育のありかたは江戸時代の寺子屋文化から、西洋の教育文化が入ったのち、終戦においても教育の形は大きく変わっていません。海外の保育を見ていても、主体的な保育が繰り広げられているにもかかわらず、日本ではいまだに画一的な保育が繰り広げられています。時代と世界の流れにとって教育が社会と離れている印象も受けます。時代や社会において、もとめられる人材は変わってきている以上、教育や保育においてもイノベーションが行われなければいけない時代になっているのではないでしょうか。小手先だけの保育方法ではなく、そもそもの子ども観や社会における子どもの認識や先入観というものを変えることもイノベーションとして必要な気がします。そして、これがドラッカーのいう技術的なイノベーションではなく、社会的なイノベーションであるということと同じことのように思います。

 

企業と社会というものがこれほどまでに意識されるべきものというのは、意外でした。結果的に「顧客の満足度」というものに至るのですが、それが利潤目的なのか、社会貢献なのかという出発点の違いだけで大きくその意味合いは変わってくるであろうし、そこで働く社員においても、こういったモチベーションは大きな意味を持つようにも思います。そして、それは教育においても、非常に近しいものを感じます。組織の本質というものや組織の目的の見方というのは保育や教育においても、同じことが言えます。

マーケティングから保育

保育園や幼稚園、こども園といった保育機関においても、「組織」という形態であることは疑う余地のないものであり、その原理というものは共通しているものであると思います。そのため、ドラッカーの経済学から読み取れるものもたくさんあり、参考になる部分も多くあります。前回、企業の目的は顧客の創造である。ということが話で出てきましたが、そこには2つの基本的な機能があるというのです。それはマーケティングとイノベーションです。この内容を保育の中に照らし合わせてみるとまた違った見え方がしてきます。

 

まず、企業においてマーケティングとはどういった部分にあるのでしょうか。私はてっきりマーケティングとは「消費者に対しての売り文句」といったものなのかと単純に思っていたのですが、ドラッカーは「消費者運動が企業に要求しているものこそ、まさにマーケティングである」としています。つまり、その主体は消費者にあるのです。そして、「企業の目的は欲求の満足であると定義せよと要求する。収入の基盤を顧客への貢献に置けと要求する」と言っています。やはりここにも企業は社会のためにあり、社会が求めることを実現するが企業としてのあり方ということが読み取れます。

 

しかし、これまでのマーケティングは私が考えていたように、販売に関係する全職能の遂行を意味するにすぎなかった。つまり、「売る」ということが目的になっていた。しかし、真のマーケティングは顧客からスタートするのです。すなわち、現実、欲求、価値からスタートするのです。「われわれは何を売りたいのか」ではなく、「顧客は何を買いたいのか」であり、「我々の製品やサービスにできることはこれである」ではなく、「顧客が価値ありとし、必要とし、求めている満足がこれである」というのです。そのため、マーケティングの理想は販売を不要にすることであるとドラッカーは言っています。マーケティングが目指すものは顧客を理解し、製品とサービスを顧客に合わせ、おのずから売れるようにすることであるのです。そのためには、顧客自体を知っていなければいけません。

 

このことを保育に置き換えて考えてみると、また面白いものが見えてきます。まず、間違ってはいけないのが企業で言う「顧客」というもの、つまり主体であるものが誰なのかということです。当然それは「子ども」であることは間違いのないことです。つまり、そのサービスを受ける主体はこどもです。このことがブレてはいけません。そして、その「顧客」の現実や欲求、価値からスタートするのです。この受け止め方は非常に難しいですね。私はこのことに対して、乳幼児教育を考えていかなければいけないのは、その恩恵というものは有形ではないものであり、将来役に立つ「生きる力」という目に見えない部分にあるということです。つまり、これからの社会において、必要な力を私たちは考え、予想し、形にするための方針を考えていかなければいけません。そのためには子どもの発達や社会の見通し、必要な力など、様々なことを見通していくことが重要になってきます。そして、それを子どもたちに伝えていくことが乳幼児教育におけるサービスになるのだと思います。やはり、この論説からみても、保育の本質を考えることは組織において重要なマーケティングにもなるのですね。

 

つぎにドラッカーはイノベーションが企業における基本的な機能だと言っています。

本質を見る

ドラッカーは「企業=営利組織ではない」と言っています。そして、利潤動機には意味がないとすら言っています。そして、そこには「組織は社会に貢献する」という目的があるからで、利潤動機には、利益そのものの意義がまちがって神話化する危険があると言っています。もちろん、利益は企業にとっても、社会にとっても必要なものであるのですが、それは企業や企業活動にとって、目的ではなく条件であるのです。つまり、「利益」とは利益を得ることが目的となるのではなく、あくまでも社会に貢献するため、企業活動や企業の意志決定にとって、その妥当性の判定基準となるものが利益だというのです。そのため、利潤動機、利益を求めることが目的になってしまうのは、利益の本質に対する誤解と根深い敵意が生じると言います。そして、この誤解や敵意こそ、現在社会におけるもっとも危険な病原菌問いのです。最終的に利益と社会貢献は矛盾するとの通念さえ生まれてくる。しかし、本来企業は、高い利益を上げて、初めて社会貢献をすることができるのです。

 

このことを保育機関に当てはめるとどういったことになるのでしょうか。保育機関は基本的に補助金です。私立幼稚園などは親との直接契約です。もし、そういった機関が本来の教育という目的ではなく、利潤動機を持ち始めたらどうなるでしょうか。ある意味で企業よりももっと悲惨な社会への影響が出かねないですね。そのため、保育機関では理念をしっかりと共有する必要があるのかもしれません。また、利潤動機とは言わないまでも、本質となる目的を求めないで、惰性で保育をしているというのもあるかもしれません。つまり、毎年同じことを繰り返し保育をしているということも、ここに当てはまるのかもしれません。子どもたちは毎年違いますし、その発達も同じことはありえないのです。そういった意味では社会貢献の目的を持つということは企業においても、保育においても同じことが言えます。むしろ、保育のほうがより感じやすい環境であると言えます。

 

つぎに、ドラッカーは企業の目的に言及しています。そこには「企業は社会の機関であり、その目的は社会にある。」と言っています。そして、企業の定義は一つしかないと言い、それは「顧客を創造すること」と言っています。それはどういうことでしょうか。これも「企業は社会の機関」ということから入っていくと分かりやすいです。つまり、「企業とは何かを決めるのは顧客」ということです。いくら企業が求めても、顧客にニーズがなければいけないのです。そして、そこに価値を見出すのはあくまで顧客というのです。

 

保育においてはどうでしょうか。その「顧客」というのは子どもでしょうか。それとも保護者でしょうか。その主体はどこにあるのでしょうか。当然、それは子どもでなければいけません。その教育の対価を母親が払うということがあるのでしょう。つまり、保育機関において重要なのは、保護者受けということを目的にするよりも、「子どものため」のものではいけなく、その「子どものため」というものがどういったものなのか、そして、ドラッカーの言葉を借りるのであれば、それが「社会に貢献する」ものであるのかということを考えていかなければいけないのです。

 

また、ドラッカーは「企業の目的は顧客の創造である。」と言っていますが、企業は2つの基本的な機能を持つと言っています。そして、その機能だけが成果をもたらすと言っています。