社会の変化
ストレス原因がストレス症状となってしまう反応性ストレスですが、一つ目が前回紹介した「がんばるストレス」であり、これは優秀な人ほどこういった反応が起きやすいということが言える反応性ストレスです。
次に挙げられるのが②「我慢のストレス」です。これは「NO」と言えない人に生じやすい反応性ストレスです。頼まれた仕事や苦手な人間関係にNOと言えずに我慢したり、実際はまだまだ仕事があってもあと少しと我慢したり、仕事がなくなるのが怖いから我慢するなど、ある程度の我慢は社会人であれば必要ではあるのですが、問題は自分の健康を害するほどため込んでしまうことです。このように我慢の反応性ストレスをため込みやすい人たちには共通するものがあるそうです。それは「自分のストレス原因への対象手段に他人を巻き込みたくない」というものや「他人に迷惑を掛けたくない」という感情です。これらはストレスとならない範囲内でこれができている限りは美徳です。しかし、この気持ちの根底には「他人を巻き込んだり荒波を立ててしまったら、自分が嫌われてしまうのではないか」という不安が潜むことが少なくありません。逆に我慢のストレス反応が出ない人は、日ごろから相手との関係性が強固なものであると自信を持っていたり、「NO」ということで自分のすべての評価がネガティブになることはないと考えているので、我慢がストレスになる手前で「NO」といえるのです。そして、そういった人は自己肯定感が高い人です。
こういったように我慢を続ける人は、我慢を続けていても報われていない、我慢しても改善されない、と感じた瞬間に張っていた気持ちが切れてしまうのです。そして、肉体的あるいは精神的な疲労の蓄積に気づき、今までの“我慢していた反応”が、“反応性ストレス”にかわるのです。「我慢するストレス」を抱えている人はストレス症状が出てきても、「大丈夫です。もう少し頑張ります」と返答し、早期発見・早期治療の機を逃してしまったパターンが多くあると武神氏は言います。
そして、「反応性ストレス」の3つ目は「ガス欠ストレス」です。こういったタイプの人は仕事以外の日々の生活で趣味がなく、楽しみがなく、熱中するものがない人に多いそうです。そのため、気分転換や「ON/OFF」のメリハリがなく、徐々に徐々に気づかないうちに調子が悪くなってしまうパターンが多いのです。仕事は嫌いではないので、上司からの仕事の評価は「ハイパフォーマーではないが、ローパフォーマーでもない」といったように淡々と仕事をこなします。週末は家で何もしないで一人で過ごすことが多かったり、テレビとゲームで過ごす日々であったりとだんだんと何もする気が無くなってきます。こういった相手と面談をしたとき、武神氏は「相手の目を見てはなすこともほとんどなく、笑顔もなく、覇気がなかった姿が印象的であった」と言っています。
こういった場合、特に目立ったきっかけがなく、周囲が気付かない間にストレスをため、心身ともに病んでいくパターンになっていくというのです。このタイプの場合、仕事の場面ではそつなくこなすので、「あの程度の仕事で?」と驚くこともあるそうです。しかし、それは仕事に問題があるのではなく、日々の楽しみ、喜び、熱中できることなどがなく、気分のリフレッシュやエネルギーの充電ができず、肉体的にも精神的にも摩耗消耗した「ガス欠」状態になるのです。そのため、働き続けても、仕事以外で熱中できることや趣味を見つけなければいけない限り、なかなか治らない種類の反応性ストレスです。
「頑張る」「我慢」「ガス欠」どのストレス原因においても、必ずしも自分だけで対処できないものがあるのです。そのため、自分だけでため込まず、同僚や友人、家族など、周りにいるサポーターに相談するようにすることが大切なのです。そして、マネジメントをする側から見るとそういった職場風土や文化を作っていくことがメンタルヘルス不調を患う人を少なくするといった対策になるのでしょう。
2019年12月8日 5:00 PM |
カテゴリー:社会, 社会の変化 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
昨今、「○○ハラスメント」ということがよくニュースに出てきます。しかも、その種類は年々増えてきてもいます。また、その「ハラスメント」によって、命を絶つことにもつながることにもなり、非常に問題視されていることとしても注目されます。武神氏はこのハラスメントが上司と部下とのこれまでのコミュニケーションが通用しなくったもう一つの要因だと指摘しています。
一般的にハラスメントはいじめや相手の嫌がることをすることを指します。職場においてのハラスメントは、職場内での優位を背景に、業務の適正な範囲を超えて精神的身体的苦痛を与える行為とされています。最近でも、小学校の先生が激辛カレーを無理やり食べさせられるというパワーハラスメントがニュースに取り上げられていましたが、こういったパワーハラスメントが自殺につながることもあります。よくあるのが、こういったパワーハラスメントを「かわいがり」や「冗談」「洒落」といったように言うことがありますが、一番の問題は上司が部下に対して、自分たちの行為が部下を自殺にまで追い込んだことやこういった気持ちを引き起こすという考えすらなかったというのが問題で、ましてや自殺まで起こすとは思っていないからこそできるということです。
武神氏はこういった職場のパワハラの問題は「思いやり」や「道徳心」の欠如として片づけられないほど、その根は深いと考えています。そして、なぜこういった多くの企業においてハラスメントが無くならないのか。その背景や理由を、年間1000人の働く人と面接を行っている立場から3つ紹介しています。
その一つ目がハラスメント加害者側の「無知」「無自覚」「想像力の欠如」からくるもの。というのも、そもそも私たちは「いじめはダメなこと」と習ってきていますし、それが道徳的にいけないことだということは知っています。しかしなぜ、そういったことが起きるのでしょうか。それは他人にしてはいけないことを教わっていないから知らない(無知)があったり、自分の行為がハラスメントに該当することに気が付いていない(無自覚)であったり、自分はそのような指導を受けてきたが、ハラスメントとは感じなかったので同じ指導をしているという(想像力の欠如)といったいろいろない人がいる現状があるのではないかということです。
この一つ目の理由はよくあることです。そして、意識していないとこいういったことはなかなか気づくことができないことです。これは子どもに対してしても、言えるように思います。大人は子どもに対して「あなたのためを思って」と様々なことを要求することがあります。しかし、その反面、「自分だったらやらないけれども」と子どもに自分の願望を押し付けたり、「できないことをできるように」と子ども自身が望んでいないことを進めることもあります。それ自体に子どもの意志は何にもかかわらずです。これも一つにパワーハラスメントといえるのではないでしょうか。決して、このことは大人同士だけの話ではないように思います。すべては相手の立場や目線に立つ必要性があるのでしょうし、相手をどう尊重するのかということが一つの重要な要素になってくるのだと思います。そして、こういったことは職場にも保育にも生きる意識ですね。
では、二つ目の理由はどういったところにあるのでしょうか。
2019年12月4日 5:00 PM |
カテゴリー:社会, 社会の変化 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
多くの企業の中で、今新入社員との関わり方は大きく変わってきているそうです。保育の世界においても、新任の保育士が多く初年度にやめてしまうということが大きく問題になっています。武神健之氏の著書の中で紹介されている50~60代の聞き取りでは「昔は新入社員にガツンと言っても翌日会社を休むことはなかったが、今はすぐ来なくなる」ということが紹介されています。そして、その理由にはいくつかの問題があります。その一つ目が「社会の変化とそれに伴う価値観の変化」です。そして、そのなかには子ども時代の社会の変化があるのではないかと指摘しています。
今、新入社員と紹介されている世代は20~30代前半の世代ですが、その世代は一人っ子が多いということの影響はやはりあるのではないかと言います。きょうだい同士でもまれて育ってきたのと、一人っ子で親からも祖父母からもかわいがられ、けなされることなく育ったのとでは、やはりストレスに対する閾値がだいぶ違うのは間違いないと言っています。そのうえ、今の子どもたちは放課後に近所の子どもたちと遊ぶという場面が少なくなっているのも、打たれ強い人が少ないということに関係しているのです。つまり「争いごとや喧嘩になれていない」「コミュニケーションがあまり上手でなく、意見が通らなかった時の対処法がわからない」といった傾向は、やはり今の40~50代に比べて、20~30代に顕著になっていると指摘しています。
最近では一人っ子の子どもたちが多くなっているのは保育の仕事をしていると非常に身近に感じる問題ではありますし、先日園見学に来られた保護者と話をしていても、最近では同じ年の子どもと遊ぶことは多いですが、様々な世代の子どもたちと遊ぶというのは少なくなっていると思います。ということを言っていました。こういった乳幼児からの子ども同士の関わりは社会に出た時に非常に大きなハンディキャップを負いかねないというのは私も感じていました。実際、産業カウンセラーとして武神氏が感じている内容が保育においても、直結している話であるということはよく考えなければいけない内容であるということを感じます。
こういった社会の価値観の変化において、「偏差値教育」というのもあげています。産業医をやっている武神氏が新入社員に「なぜ、この会社に入ったのか」と聞いたところ「友達がみんなこれくらいのレベルの会社を目指すから」と返答が返ってきたそうです。それは今の偏差値教育の中で「これくらいのレベルならこのあたり」「周りが行くなら自分も」といった外的価値観によって自己判断が行われることであって、それをよりどころにしていては会社では長続きしないと言います。
今の人の特徴として「他と自分を比べる」という人は確かに多いように思います。その裏側には「自分はこれができる」といった自己肯定感よりも「他の人はこのくらいできるから」と否定的に自分の能力を見てしまいます。それは人と比べることが偏差値教育のなかで常に比べられているような形になっているからなのかもしれません。
他にも単身世帯の増加や朝の挨拶と飲みニケーションなど、上司との関係性の中で、世代間の摩擦やコミュニケーションの希薄化が社会の変化とともに価値観が変わってきているということが上司との関係においても影響が出ているのではないかと話しています。社会に出た時に起きる問題に乳幼児の環境は大きく影響があるということがいえるのですね。
また、最近では「○○ハラスメント」という言葉がいたるところで聞きます。なぜ、「ハラスメント」がこれまで以上にニュースにでるようになってきたのでしょうか。
2019年12月3日 5:00 PM |
カテゴリー:乳幼児教育, 社会の変化 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
トップマネジメントには多元的な役割があるとドラッカーは言っています。これからマネジメントをしていくにあたって、その役割を意識するというのは大きな影響を与えそうです。そして、その役割とは6つに分けられます。
1つ目は事業の目的を考える役割。「我々の事業は何か。何であるべきか」といってことを考えることです。2つ目に基準を設定する役割。それは組織全体の規範を定める役割であって、目的と実績との違いに取り組まなければいけないのです。その主たる活動分野において、ビジョンと価値基準を設定しなければならない。3つ目は組織を作り上げ、それを維持する役割。明日のための人材。特に明日のトップマネジメントを育成し、組織の精神を作り上げなければいけません。そして、トップマネジメントの行動、価値観、信条は、組織にとっての基準となり、組織全体の精神を決めます。それに加えて、組織構造を設計しなければならない。4つ目はトップの座にある者だけの仕事として渉外の役割がある。様々な機関とのやり取りにおいて、それらの関係から様々な姿勢についての決定や行動の影響を受ける。5つ目の役割は行事や夕食会への出席など数限りない儀礼的な役割。こういった付き合いは逃れることができない時間のかかる仕事である。6つ目は重大な危機に際しては、自ら出動するという役割。著しく悪化した問題に取り組むという役割です。有事には最も経験があり、最も賢明で、もっとも傑出したものが出動しなければいけない。法的な責任もあり、放棄することのできない仕事である。
6つの役割を見ていくとそれは決して企業だけにいえることではなく、非営利の組織においても例外ではないように思います。どのような組織においてもマネジメントをするということは6つの役割が同じように求められます。
ドラッカーはあらゆる組織にとって、トップマネジメントの機能は不可欠であると言っています。もちろんトップマネジメントが行う具体的な機能は個々の組織によって特有ではあります。問題は「トップマネジメントは何かではなく、組織の成功と存続に致命的に重要な意味を持ち、かつトップマネジメントだけが行いうる仕事は何かである」とドラッカーは言います。
マネジメントする側に立った時に、では、自分の役割は何なのだろうかと悩んだ時期がありました。現場に入るわけではない、しかし、現場に対してのアプローチはしていかなければいけない。自分自身現場にいた経験もあるので、どういった話を聞きたくて、どういわれたら嫌なのかということはわかってはいたつもりなのですが、なかなかそれがうまくいかない時がありました。しかし、信念や理念をもったことや、自分から試行錯誤して行動していくことで見えてきたこともあり、なにより、自己評価をし続けることが一番大切であったことのように思います。そのうえで、「トップマネジメントだけが行いうる仕事は何か」と問い続けることは重要になってきます。そして、理念や信念は変わらなくとも、時代よみ、社会を知るためには柔軟でなければいけません。そこを見通すことの必要性、物事をマクロで見ながら、その反面、大局も見なければいけないのを感じます。ドラッカーはトップマネジメントの役割が、課題としては常に存在していながら仕事としては常に存在しているわけではないという事実と、トップマネジメントの役割が多様な能力と性格を要求しているという事実がトップマネジメントにはあると言っています。確かにこういったことを考えていくとなるほどなと考えさせられることが多くあります。
2019年11月30日 5:00 PM |
カテゴリー:社会の変化 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
ドラッカーは仕事と労働について、マネジメントは「生産的な仕事を通じて、働く人たちに成果をあげさせなければならない」と言っています。そして、仕事と労働(働くこと)は根本的に違うと言っています。確かに仕事をするのは人であって、仕事は常に人が働くことによって行われることは間違いないが、仕事の生産性をあげるうえで必要とされるものと、人が生き生きと働くうえで必要とされるものは違うというのです。そのため、仕事の論理と労働の力学の双方に従ってマネジメントしなければならないのです。つまり、働くものが満足しても、仕事が生産的に行われなければ失敗であり、逆に仕事が生産的に行われても、人が生き生きと働けなければ失敗であるのです。また、ドラッカーは働くことは人の活動であるといっていて、人間の本性でもあるとしています。そして、これを労働における5つの次元として挙げています。
一つ目が「生理的な次元。」人は機械ではないので、機械のように働くことはできない。一つの動作しかさせられないと著しく疲労します。心理的な退屈や生理的な疲労もある。人はそれぞれのスピードやリズムがあり、同じ一定のスピードやリズムで働くことには適さないなど、生産性をあげるためには予測できることが一番だが、ある程度の余裕を持たすことやそれぞれに合わせた環境を作っていかなければいけないのです。でなければ、仕事にとっては優れた環境であっても、人にとっては最悪な環境になりえてしまうのです。二つ目の次元が「心理的な次元」です。これは人にとって、働くことは重荷であると同時に本性でもあるということです。ドラッカーは働くという行為を人格の延長であるといい。自己実現であり、自らを定義し、未渦からの価値を測り、自らの人間性を視るための手段であると言っています。もし、人が働かなくてもいい、労働のない社会が実現したとしたら、人は人格の危機に直面するだろうというのです。
三つ目は「社会的な次元」組織社会において、働くことが人と社会をつなぐ主たる絆となり、社会における位置づけまで決めるというのです。人は働くことで社会に属し、仲間を作る欲求を満たす手段でした。アリストテレスは「人は社会的動物である」と言いましたが、人は社会との絆のために働くことを必要とするといったのです。そして、働くことを通じて社会との結びつきは、時として家族との結びつきよりも意味を持つのです。それは若い独身者や子どもたちが独立した後の年配者について言えます。四つ目の次元は「経済的な次元」です。労働は生計のもとであり、存在の経済的な基盤であるのです。しかも、それは経済活動のための資本を生み出し、経済活動が永続するための基盤をもたらし、リスクに対しての備えであったり、明日の職場をつくりだし、明日の労働に必要な生計のもとを生み出します。そして、このことは私有、国有、従業員所有のいずれであっても避けられないというのです。五つ目は「政治的な次元」集団内、特に組織内で働くことは、権力関係が伴います。組織では、誰かが職務を設計し、組み立て、割り当てます。こうして労働は順序に従って遂行され、組織の中で昇進したりしなかったりします。このように権力は誰かが行使するようになるのです。
ドラッカーはこれまでのマネジメントのアプローチではこの5つの次元のうち、一つだけを唯一のものとした改善をしているところに誤りがったとしています。そして、多くの経済学者は経済的次元が他のすべての次元を支配するとしていたと言います。しかし、マネジメントをするためにはこの5つの次元とそれらの関係について、今日以上に知らなければいけないとドラッカーは言います。
確かに、保育者において職場を選ぶ視点は意外と「賃金面」ではなく、「人間関係」であったり、「職場環境」「仕事量」といった部分であったりします。保育現場においてはそのほとんどは「人間関係」において成り立っています。なおのこと、経済面だけでは続けることは難しい部分があるように思います。こういった働く人を取り囲む「次元」を理解しておくことでマネジメントの指標は見つけていくことができるのですね。
2019年11月18日 5:00 PM |
カテゴリー:社会の変化 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
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