日々思うこと

近況2

論文を書くにあたり、論点を絞っていくというのが、割と私は時間がかかりました。「何を中心にどういったことを知りたいのか」そして、「他の人が研究していない、オリジナリティを持たせる」ということを考えて絞っていかなければいけません。初めは、そのことを指導教員の先生に伝えられたのですが、どうも自分の中で、しっくりこず、なかなか研究することの内容を決められずにいました。

 

その時に役に立った思考方法が「まず、自分で何を知りたいかを話す」ということでした。「自分はなぜこの大学院にきて、何を調べたくて、又は、何を知りたいのか」それを指導教員の先生に説明したのです。その際、教員の先生が一言「それを書けばいいのよ」。実に端的です。これは自分の性格にもよるのでしょうが、私は割と人に話しながら頭の中で考えを整理することが多く、確かにそこで話をすることが研究による目的であったというのが分かりました。

 

次に研究目的が見えてくると「先行研究」の洗い出しです。先行研究を見る目的は「まだ研究されていない部分を探す」ということが目的になります。それは「オリジナリティ」というところにつながってくるのですが、つまり研究によってわかってくる部分がこれからのために役に立たなければいけないわけで、同じ研究をしても検証されてしまっていては意味がないのです。そのため、他の研究が行われていないか先行研究を洗いだしていくことが必要になってくるのです。

 

これらの過程を経て、いよいよ研究です。研究目的と先行研究を通して、目的が明確化されてくるとそこに向かって、仮説が立てられます。その仮説は何も「こうなるであろう」ことを予測していなくてもよく「どうなっているのかを明らかにする」のも仮説としては成り立ちます。

 

このとき、私が感じたことですが、つい「論文を書く」ということが目的になり、仮説を立てる意味や研究をするということの本当の意味が意識されていないことが起きてしまうということです。これは自分自身も陥りがちになるので、都度都度立ち返るようにしました。

 

このように進めていく中で、いよいよ研究の具体的な内容に入っていきます。研究によっては様々な方法があるので、割愛しますが、研究を進めていく中で沢山わかることが有ったので、雑談的に書いていこうと思います。

近況1

ずいぶん久しぶりの投稿になります。というのも、現在、大学院に入学し、自分の論文を書いている事によって、そちらに集中したいということもあり、ブログの進行を止めていたというのが「言い訳」です。

 

今回私が研究していた内容が「0歳児クラスの子ども同士の関わり」という内容で研究していました。そこでは0歳児クラスの子どもたち、(つまりは0歳児だけではなく、1歳児になった子どもも含まれます。実際、私の研究した対象のお子さんは1歳児になった子どもでした。)がどのような関わりが行われていて、それに対して、大人(保育者)がどういった関わり方をしているのかという事を研究しました。

 

こういった研究に際し、私はこれまで「論文を書く」といったちゃんとした研究をしたことはなく、始めから悪戦苦闘しました。まず初めに「何を研究するのか」ということから難しさがあったのです。単純に私は大学院に入ることの目的は「修士課程をとる」ということが目的でありました。当然、論文を書くということはわかっていたので、「この際、論文の書き方も習おう」という目的もありました。そこで初めは「0歳児の子どもの関わり」を目的に研究を行おうと思っていたのですが、指導教官の先生には「関わりと言っても、色々ある」といわれ、それが遊びなのか喧嘩なのか、保育者との関係なのかということから考えなければいけませんでした。そして、この「関わり」というのが曲者で、発達心理学にも関わる内容であったので、そうなると自分の範疇を越えていくことになってしまうのです。

 

自分自身、どちらかというと、「これまで様々な研究がされていたものが実際の子どもの現場でも起きていることの証明」くらいで軽く考えていたのですが、論文にはオリジナリティが必要であるというころから、研究目的の設定に非常に迷っていました。

 

ただ、このオリジナリティという点に関しては実はまだ「0歳児」に対する論文というのは少ないという点です。もちろん、0歳児の研究は発達心理学や心理学の面では非常に多くの論文があるのですが「0歳児の保育」の論文は少ないのです。この点に関しては先ほどの「これまで様々な研究がされていたものが実際の子どもの現場でも起きているか」ということの論文もまだまだないという事なので論文の目的としてはオリジナリティは求めやすいものであったのです。

 

そこで、大切になってきたのが、「論文の目的」を絞っていくという事でした。

教える中で

先日、ある大学で、新型コロナウィルス感染症のため、幼稚園の保育実習を断られた生徒の代替授業の講師として、2限分の授業をさせていただきました。ほとんどが自園の紹介をもとに今自園で取り組んでいる保育内の意図と理由を中心に授業を展開させていただいたのですが、生徒に話していくと、自分としてもまだまだ、説明がうまくできない部分ができてきます。結局のところそういったところは自分自身「知った気になっている」ところなのだということを痛感します。

 

よく「人に教えるということは自分が教わるよりも3倍勉強する」ということを言われます。これは自分自身当てはまることも多く、確かに「誰かに何かを教える」ということはそのことをちゃんと知っていないと教えることはできません。出なければ、自分の口から出てくる言葉は内容が薄っぺらいものになってしまってしまうように思います。その説明の難しさを改めて考える機会となりました。

 

こういったことは保育においても、もっと意識されるべきだと思います。いま、自園で職員と話している内容の中に「伝承」ということがあります。このことは正に字のごとく、これまで子どもたちが経験し身についたことを今度は年下の子どもたちに教え伝える機会を持たせることが重要になってきます。そこで起きたやり取りが子どもたちの自信になり、次のモチベーションにもつながってほしいものだと思います。

 

異年齢保育をしているとそういった姿に出会うことが多いです。自由遊びにおいては多くの場面では子どもたちは自分の発達にあった子どもと遊ぶので、多くは同年齢のクラスの子どもたちと遊んでいます。時に異年齢で遊んでいることもありますが、よく見るとやはり月齢が近い子ども同士で活動していることがほとんどです。しかし、時に、年長児と年少児が遊んでいることがあります。その様子を見ていると、遊んでいるのではなく、何かを教えている様子であったりします。つまり、遊ぶときは自分の発達にあった子ども、何かを教えるときは自分より年少の子どもとその場面によって関わる人が子どもによって違うのです。

 

こういった姿を見ると、大人も子どももそのやりとりの中心となるものは変わらないのだということが分かります。そして、教えている子どもは自分なりの関わる力を総動員してどうやったら、相手の子どもに伝わるのかを試行錯誤しているのを見ていると、「教える」という行動の裏には非常に多くの学びがあるということが分かります。そこにはただ、知識を定着させるだけではなく、もっと深い学びがそこにはあるのです。

 

私自身も眠そうにしている学生にどうやったら楽しく聞いてもらえるのか、それを「生かしてみたい」と感じれるように話をするにはどうしたらいいか試行錯誤の連続でした。こういったやりとりは単純に自分だけの活動を通すだけよりも、もっと得るものが多いだろうことは目に見えて子どもの姿を見ていると感じます。こういったやり取りの深まりをどう保障し環境を作ることが出来るのか、まさにそれが保育の専門性であるのだと思います。

指導力

東洋経済オンラインの6月1日の記事に横浜DeNAベイスターズファーム監督の仁志敏久さんの記事で「『うさぎ跳びを選手に強要する』指導者の無教養」という記事が載っていました。そこには野球の指導者が「意味のない練習をさせること」や「指導者の思い付きや一方的な解釈の押し付けは絶対にさけなければならない」ということを言われています。代表されるものが「うさぎ跳び」であり、仁志さんからするとうさぎ跳びは「何を鍛えているのか?それによって鍛えられたものはどんな時に役に立つのか?おそらくですがきついからやらせていたのだと思います。選手がヘロヘロになって、転びそうになると『さぼるな!』という罵声が飛び、クタクタになった姿を見て指導者は満足をする」のではないかと言っています。

 

また、その他にも「きついことをとりあえず一度はやっておかなければいけない」という趣旨もあるのではないかとも話しています。きつい練習が「レギュラーになるために乗り越えなければならない壁」というように選手に言いますが、果たしてそうなのだろうかというのです。それを乗り越えることでそれまでの自分を越えるような変身ができるのだろうかと、これはやらせる側の一方的な満足で終わり、選手の成長や技術の向上にはあまり役に立っていないということが言えるのではないかというのです。

 

しかし、その一方で、きつい練習がダメだと言っているわけではないと言います。楽な練習はないですし、向上するには労力が必要であり、意味のある練習ほど、きつくつらいものだというのです。しかし、そこに労力を費やす意味があるからこそ、選手はその練習に取り組み、つらい変えを乗り越え、その練習に納得するから継続もできると仁志さんは言っています。つまり、その練習が誰にとっていい練習だったのかを問わなければいけないというのです。

 

こういった一連の考え方は何も野球だけに言えることではなく、学習や勉強、保育においても、同様なことが言えます。よく保育の中で「これまでそうだったから」と言われることがあります。しかし、その始まりの年のクラスの子どもたちにはあっていても、それが今のクラスの子どもたちにとって、良いことであるとは限らないのです。子どもは常に違いますし、それぞれの発達も違います。そのため、今の最適のものを子どもたちに提供していかなければいけないのです。そうすることで、時代や社会に合わせた教育形態を作ることが出来るのです。今の保育業界や教育業界においても変化があまり起きていないことが多く見られます。それというのも、「これまでそうだったから」ということが多いからなのだろうと思います。それがいったい「誰のためのものなのか」ということを考えていくと、教育や保育においては「これからの社会に生きる力を子どもたちに与えるためには」を中心に添えると、「これまでそうだったから」というだけでは、変化のある社会に対応することが出来なくなります。だからこそ、保育において「ねらい」を大切にする必要があるのです。勉強や学習においても、ただ漠然とするのは「うさぎ跳び」をするのと対して変わらないことなのかもしれません。それが何のために必要で、どういったことに意味があるのかが分からなければ、身につくものでもないのだろうと思います。

 

何かを誰かに教えるときにその「意図」と「意味」がなければ、モチベーションは上がっていかないのはどの分野でも、どの年代であっても、同じことであるのだろうとことが分かります。

ルールをつくる基

新しい状況に適応できるよう人々の行動を変えたいときには、それに見合ったルールをつくることが効果的だとゴプニックは言います。確かに何か大きく変化が起きるときはそれに見合った一つの指針があると人の行動をコントロールしやすくもありますし、実際動く人自体もマニュアルのようなものがあると行動に一つの道筋ができます。ただ、そのルール自体が納得できるものかどうかが重要になってきます。

 

そのため、ゴプニックはそのルールにおいて他人への共感に根差した善悪の判断を拠り所にすれば、道徳的相対主義に陥るのを防げると言います。どの人にも共感できるような判断を下すことで、どちらか一方に偏ったものにはならないというのです。これは「世界についての理論を改良するときも基本的前提だけは変えないようにすれば判断基準を失わずに済みます。私たちは常に一定の歯止めのもとに適切なルール、適切な理論を探っているのです。」と言っています。法律や憲法に至っても、時代や社会状況によって「適切」というものが変わってきます。当然それによって改訂していくべきところも出てきます。しかし、その際に、基本的前提を変えなければその基準からブレないルールを作り上げることが出来るのです。

 

このことについて私はこの「基本的前提」をいかに自分の中にしっかりと考えるかは非常に重要な要素であると考えています。これは保育や教育にも言えることですし、政治においても言えます。人が人とつながっていくことにおいて、できるだけ理性的な関わりの社会をつくるためにはその前提となるもののとらえ方は非常に重要です。それが最近ではどうも、違ってきているようにも感じます。以前、工藤勇一先生の著書を紹介しましたが、そこに合った言葉「目的のために手段があるのに、いつのまにか手段が目的になっている」ということが最近は多いように思います。どうも本質的な原理原則から物事をみるのではなく、目の間にあるルールや規範といった手段にばかり目が行っているようにも思います。ルールやマニュアルを作ることに力がそそがれ、それがそもそも何のために必要なのかが置いてきぼりになっていることも多いのではないでしょうか。そのため、根本的に基本的前提や本質といったことを意識することから考えを巡らせるということは非常に重要で、かつ難しいことであると感じています。