日々思うこと

教える中で

先日、ある大学で、新型コロナウィルス感染症のため、幼稚園の保育実習を断られた生徒の代替授業の講師として、2限分の授業をさせていただきました。ほとんどが自園の紹介をもとに今自園で取り組んでいる保育内の意図と理由を中心に授業を展開させていただいたのですが、生徒に話していくと、自分としてもまだまだ、説明がうまくできない部分ができてきます。結局のところそういったところは自分自身「知った気になっている」ところなのだということを痛感します。

 

よく「人に教えるということは自分が教わるよりも3倍勉強する」ということを言われます。これは自分自身当てはまることも多く、確かに「誰かに何かを教える」ということはそのことをちゃんと知っていないと教えることはできません。出なければ、自分の口から出てくる言葉は内容が薄っぺらいものになってしまってしまうように思います。その説明の難しさを改めて考える機会となりました。

 

こういったことは保育においても、もっと意識されるべきだと思います。いま、自園で職員と話している内容の中に「伝承」ということがあります。このことは正に字のごとく、これまで子どもたちが経験し身についたことを今度は年下の子どもたちに教え伝える機会を持たせることが重要になってきます。そこで起きたやり取りが子どもたちの自信になり、次のモチベーションにもつながってほしいものだと思います。

 

異年齢保育をしているとそういった姿に出会うことが多いです。自由遊びにおいては多くの場面では子どもたちは自分の発達にあった子どもと遊ぶので、多くは同年齢のクラスの子どもたちと遊んでいます。時に異年齢で遊んでいることもありますが、よく見るとやはり月齢が近い子ども同士で活動していることがほとんどです。しかし、時に、年長児と年少児が遊んでいることがあります。その様子を見ていると、遊んでいるのではなく、何かを教えている様子であったりします。つまり、遊ぶときは自分の発達にあった子ども、何かを教えるときは自分より年少の子どもとその場面によって関わる人が子どもによって違うのです。

 

こういった姿を見ると、大人も子どももそのやりとりの中心となるものは変わらないのだということが分かります。そして、教えている子どもは自分なりの関わる力を総動員してどうやったら、相手の子どもに伝わるのかを試行錯誤しているのを見ていると、「教える」という行動の裏には非常に多くの学びがあるということが分かります。そこにはただ、知識を定着させるだけではなく、もっと深い学びがそこにはあるのです。

 

私自身も眠そうにしている学生にどうやったら楽しく聞いてもらえるのか、それを「生かしてみたい」と感じれるように話をするにはどうしたらいいか試行錯誤の連続でした。こういったやりとりは単純に自分だけの活動を通すだけよりも、もっと得るものが多いだろうことは目に見えて子どもの姿を見ていると感じます。こういったやり取りの深まりをどう保障し環境を作ることが出来るのか、まさにそれが保育の専門性であるのだと思います。

指導力

東洋経済オンラインの6月1日の記事に横浜DeNAベイスターズファーム監督の仁志敏久さんの記事で「『うさぎ跳びを選手に強要する』指導者の無教養」という記事が載っていました。そこには野球の指導者が「意味のない練習をさせること」や「指導者の思い付きや一方的な解釈の押し付けは絶対にさけなければならない」ということを言われています。代表されるものが「うさぎ跳び」であり、仁志さんからするとうさぎ跳びは「何を鍛えているのか?それによって鍛えられたものはどんな時に役に立つのか?おそらくですがきついからやらせていたのだと思います。選手がヘロヘロになって、転びそうになると『さぼるな!』という罵声が飛び、クタクタになった姿を見て指導者は満足をする」のではないかと言っています。

 

また、その他にも「きついことをとりあえず一度はやっておかなければいけない」という趣旨もあるのではないかとも話しています。きつい練習が「レギュラーになるために乗り越えなければならない壁」というように選手に言いますが、果たしてそうなのだろうかというのです。それを乗り越えることでそれまでの自分を越えるような変身ができるのだろうかと、これはやらせる側の一方的な満足で終わり、選手の成長や技術の向上にはあまり役に立っていないということが言えるのではないかというのです。

 

しかし、その一方で、きつい練習がダメだと言っているわけではないと言います。楽な練習はないですし、向上するには労力が必要であり、意味のある練習ほど、きつくつらいものだというのです。しかし、そこに労力を費やす意味があるからこそ、選手はその練習に取り組み、つらい変えを乗り越え、その練習に納得するから継続もできると仁志さんは言っています。つまり、その練習が誰にとっていい練習だったのかを問わなければいけないというのです。

 

こういった一連の考え方は何も野球だけに言えることではなく、学習や勉強、保育においても、同様なことが言えます。よく保育の中で「これまでそうだったから」と言われることがあります。しかし、その始まりの年のクラスの子どもたちにはあっていても、それが今のクラスの子どもたちにとって、良いことであるとは限らないのです。子どもは常に違いますし、それぞれの発達も違います。そのため、今の最適のものを子どもたちに提供していかなければいけないのです。そうすることで、時代や社会に合わせた教育形態を作ることが出来るのです。今の保育業界や教育業界においても変化があまり起きていないことが多く見られます。それというのも、「これまでそうだったから」ということが多いからなのだろうと思います。それがいったい「誰のためのものなのか」ということを考えていくと、教育や保育においては「これからの社会に生きる力を子どもたちに与えるためには」を中心に添えると、「これまでそうだったから」というだけでは、変化のある社会に対応することが出来なくなります。だからこそ、保育において「ねらい」を大切にする必要があるのです。勉強や学習においても、ただ漠然とするのは「うさぎ跳び」をするのと対して変わらないことなのかもしれません。それが何のために必要で、どういったことに意味があるのかが分からなければ、身につくものでもないのだろうと思います。

 

何かを誰かに教えるときにその「意図」と「意味」がなければ、モチベーションは上がっていかないのはどの分野でも、どの年代であっても、同じことであるのだろうとことが分かります。

ルールをつくる基

新しい状況に適応できるよう人々の行動を変えたいときには、それに見合ったルールをつくることが効果的だとゴプニックは言います。確かに何か大きく変化が起きるときはそれに見合った一つの指針があると人の行動をコントロールしやすくもありますし、実際動く人自体もマニュアルのようなものがあると行動に一つの道筋ができます。ただ、そのルール自体が納得できるものかどうかが重要になってきます。

 

そのため、ゴプニックはそのルールにおいて他人への共感に根差した善悪の判断を拠り所にすれば、道徳的相対主義に陥るのを防げると言います。どの人にも共感できるような判断を下すことで、どちらか一方に偏ったものにはならないというのです。これは「世界についての理論を改良するときも基本的前提だけは変えないようにすれば判断基準を失わずに済みます。私たちは常に一定の歯止めのもとに適切なルール、適切な理論を探っているのです。」と言っています。法律や憲法に至っても、時代や社会状況によって「適切」というものが変わってきます。当然それによって改訂していくべきところも出てきます。しかし、その際に、基本的前提を変えなければその基準からブレないルールを作り上げることが出来るのです。

 

このことについて私はこの「基本的前提」をいかに自分の中にしっかりと考えるかは非常に重要な要素であると考えています。これは保育や教育にも言えることですし、政治においても言えます。人が人とつながっていくことにおいて、できるだけ理性的な関わりの社会をつくるためにはその前提となるもののとらえ方は非常に重要です。それが最近ではどうも、違ってきているようにも感じます。以前、工藤勇一先生の著書を紹介しましたが、そこに合った言葉「目的のために手段があるのに、いつのまにか手段が目的になっている」ということが最近は多いように思います。どうも本質的な原理原則から物事をみるのではなく、目の間にあるルールや規範といった手段にばかり目が行っているようにも思います。ルールやマニュアルを作ることに力がそそがれ、それがそもそも何のために必要なのかが置いてきぼりになっていることも多いのではないでしょうか。そのため、根本的に基本的前提や本質といったことを意識することから考えを巡らせるということは非常に重要で、かつ難しいことであると感じています。

コーチングから見えるもの

これまで、鈴木義幸氏の「コーチングが人を活かす~気持ちと能力を高める最新コミュニケーション技術~」という本を中心にコーチングについて考えていきましたが、特に印象的だったのが「なぜからなに」でした。確かに「なぜできなかったのか?」と問いかけるより「何がダメだったんだろう」と問いかけたほうが、相手と共に考える姿勢に自然となっていきます。たった一つの言い回しであり、伝え方でありますが、その裏にはとても大きな「共感」を感じます。保育においても、組織づくりにおいても「共感」はとても大切なキーワードになってくるでしょう。そして、その「共感」は「承認」につながっていきます。そして、「承認」は「自己肯定感」につながり、そこから組織がまとまり、ポジティブな雰囲気ができてくる。といったように、小さな問いかけの違いが大きなうねりのような雰囲気づくりにつながっていくのでしょう。

 

また、失敗する権利においても、今一度考えを改めてることが重要になってくるように思います。確かに鈴木氏が言うように日本は「失敗させない」文化は根強くあるように思います。私は常々思うのですが、「失敗」というのは日々何かしらの形で起きているものです。しかし、その失敗を「ただの失敗」と捉えるのか「つぎにいきるもの」と捉えるのかで、その結果は大きく変わっていくのだろうとおもいます。先日、職員と話していると「怖い」といわれることがありました。多少なりとも凹むものだったのですが訳を聞いてみると、自分の伝え方であったり、職員間での関係性であったり、さまざまな理由が見えてきました。そういった意味では思い切って「どういったところが怖いと感じる?」と聞いてみたことで、色々な視野が広がってきたように思います。職員を信じて、自分をさらけ出して見ることで、改めて自分の問題点を見出すということも大切なことのように思います。

 

このようにコーチングを考えていくなかで、感じるのが、やはりそこで起きるテクニック的な考え方は「見守る保育」につながるということです。見守る保育においても、相手への共感することや共視、共食といったように「共に」という言葉が多くあり、子どもと目線を合わせたり、同じ時間を共有したりするということが大切にすることが中心にあります。そして、上記で話した「失敗する権利」や「なぜではなく、なに」といった関わりも保育に大きくつながる内容です。つまりは、保育においても、大人のコーチングについても、言えることは人が一つに集まり、共に生きていくためにする関わり方というものは繋がるのではないでしょうか。以前、ここで紹介した「メンタルヘルス」の内容や「礼儀の正しさこそ最強の生存戦略」でも、同じことが見えてきます。

 

最近ではこういったコーチングやメンタルヘルスのビジネス書がたくさんあります。その中身を見ていると、どうも中心にあるものは皆共通しているように思います。「承認」「共感」「自己肯定感」といったことは子どもも大人にとっても重要なものであるということが見えてきます。そして、その環境が少ない、又は作るのが難しいということが世の中に多いからこういった本が多数出版されるのでしょう。その意味を考えると、大人になってからこういったことに悩む人が多いのだろうと思います。そのことを捉えると保育という仕事の示す意味と重要性がより鮮明に見えてきます。

意見を言う

組織的に集団で動こうとすると、どうしても行われることが多くなるのが「会議」です。保育をしていく中でも、「職員会議」をはじめ、「クラス会議」「行事の会議」など、日々様々な会議が起きています。先日、ある職員と話をしている中で、「最近の会議はどう話合えてる?」ということを聞いてみました。すると、「割と最近は自分の言いたいことが言えるようになってきました」という言葉が返ってきました。これは、逆にこれまでは「言いにくかった」ということを意味しています。

 

鈴木氏は組織における個人のウェルビーイングに関して、様々な提言をしている石川善樹さんの講演での一言を紹介しています。そこにはこうあります。「“信用は理性的な判断だけれども、信頼は感情的な結びつき”―――だから“彼の能力は信用しているけれども、人としては信頼しきれない”という表現が成り立ちます」これは逆もあり“彼という人間は信頼しているけれども、彼の仕事の正確性を信用してはいない”ということです。また、これとは別に「信頼と信仰の違いというのもありますね」と石川さんは言います。そして、こう続きます。「信頼も信仰も“感情的な結びつきがある”という意味では同じ、しかし、信頼は異論反論を許すけれど、信仰はそれを許さない。異論反論を許し合ってこそ、本当の意味での信頼が醸成される」と言っています。

 

これは様々なミーティングや会議で意見においても、影響があると言っています。「自由な発言するには安心感が必要です。」「安心感は信頼感をもとに生まれるものです。」「信頼は異論反論を許し合う中でこそ育まれる。」つまり、日ごろから「異論反論を投げかけても大丈夫だ」という双方の体験が信頼を作り、安心感を生み、自由な発言を可能にするということにつながると鈴木氏は言うのです。

 

では、異論反論を許し合うということはどういうことを言うのか。これは意見を避けたり、かわしたり、つぶしたりすることでも、ただ賛成することではありません。あくまで「チームや組織の発展」という共通の目的に向けて、大切な貴重なかけがえのない情報として扱うようにコーチである人は意識しなければいけないのです。

 

そう考えると職員が「意見が言えるようになってきた」という言葉には職員関係における信頼関係ができるようになってきたということが言えるのでしょう。ただ、そういった職員はひとりではなく、隠れていることが多くあります。コーチはそういう状態において、一人一人の様子を観察し、各々が主体的に動くことや意見が言えることができるような環境作りをしていくことが求められていくのでしょうね。