日々思うこと

良い集団

先日、年始恒例である箱根駅伝が開催され、今年は青山学院大学が6度目の優勝となりました。青山学院大学の駅伝チームでは選手一人一人が自律した環境の中で、自分で考え、自分で調整しながら駅伝に向けて、日々の研鑽を重ねていることが紹介されています。監督の原さんのチームをまとめる手腕というのはリーダーシップを取るものとしては非常に参考になることも多く、特に私も常々、それぞれが自律した環境の中で保育をしていくためにはどういったことをしていったらいいのかと思い悩むことが多く、原監督のマネジメントから学ぶことはたくさんありました。

 

原監督のマネジメントの大きな一つが、選手一人一人に対して「自分で考える環境をつくる」ということです。自分が練習の中でどういったことをしていけばいいのかと言ったことの答えを監督から伝えるのではなく、自分で考えることを優先していると話していました。一見、これは監督としては無責任なように感じますが、自律した選手になるためには非常に重要なプロセスであります。誰かから言われたことを行ったとしても、それが出来たときに達成したと感じるでしょうか。うまくいかなかった時の責任をどうかんじるでしょうか。今の時代、それぞれが当事者意識を持つときにはどのような環境がよいでしょうか。主体性がそこになければ当事者意識を持つことはなかなか難しく、うまくいかなかった時「やり方を教えてくれた人」へ責任がもたらされます。つまり、そこには当人の責任転嫁がおきるのです。これは日本において、非常に強い意識であるのではないでしょうか。

 

日本のリーダーシップは割とトップに委ねられることが多いです。それはこれまでトップダウンでの関係性で組織が作られていたからであると思うのですが、これからの時代、多様性に富み、様々な価値観の中で社会が続けられていく中ではトップダウン型の組織形態では行き詰まりを感じるように思います。なぜなら一人のトップの価値観で考えられる予想は非常に狭いものになるからです。そのためこれからの社会では「ボトムアップ型」の組織形態が求められてきます。それはつまり、下からの意見をうまく吸い上げ、調整し形にしていくことです。この環境が青山学院大学の駅伝チームにおいて確立されていたように私には思えました。

 

「良い集団」というものの捉え方ですが、「良いトップについていく集団」と「良い個が集まった集団」どちらのほうが優れているといえるでしょうか。当然後者であると思いますが、そのためには「良い個」を育てていかなければいけません。「良い個」とは自律しており、人との意見をうまく調整し、形にしていく行動力があることが言えます。「良い個」が先か「良い集団」が先かはわかりませんが、そういった集団をマネジメントしていくことがこれからのリーダーシップと言えるのだろうと思います。

研究 2

あけましておめでとうございます。

新年はじめての投稿ということで、今年は修士論文を提出したことで今後はそれの口頭試問などを行う中で修士課程を終えることが出来る年になると思います。それと同時に、本業である保育の内容もより深めていく中で、自分の子ども研究におけるより深い洞察や園運営における知識をより一層深めていきたいと思っています。

 

さて、去年の投稿の続きになりますが、先行研究においては、Ciniiで似た研究はないかを検索します。Ciniiとは論文、図書・雑誌や博士論文などの学術情報で検索できるデータベース・サービスを行う検索サイトであり、様々な論文などを検索できるのです。日本の検索では、学協会刊行物・大学研究紀要・国立国会図書館の雑誌記事索引データベースなどの学術論文情報を検索できるようになっており、他校の研究においても、このデータベースに掲載されることになります。まずはこのCiniiで自分が行う研究と似ている研究を探してきます。もし、自分の研究と似ているものがあった場合、その研究と比べて、自分の研究がどれほどオリジナリティがあるのかを示さなければいけません。同じような研究を行ったとしても、それが研究されたものであれば意味がないのです。そういった場合、たとえば、研究する前提の違いや元々あった研究と比べてどうであったかという変化を見せなければいけないのです。

 

私の研究の場合は複数担任制の文献がまだまだ少なかったことやそれと同時に0歳児クラスの子ども同士の関係性という分類の文献は散見することができなかったことがありました。つまり、これが意味していることは、まだまだ0歳児クラスの子どもにおける保育の研究というものは少なく、いやゆる「未開拓」であるということが分かりました。結果として、子どもの同士の関わりというものの研究は心理学などの分野ではあっても、保育現場としての臨床では行われていなく、私の行う研究においてはこれからのものであることが言えました。

 

このように研究が始まることにおいての手順というのは様々な研究における結果や課題から行われているものが多く、そこから自分の研究において、解明されていないものを明確にして行っていくということを初めて知りました。あくまで、これは私が今回体験した修士論文での話であって、その他の博士課程の論文やそのほかの論文においても、多くは同じ過程であると言えるのでしょうが、このように研究の始まりというものが行われていくのです。

研究 1

「論文を書く」ということはどういったことなのか。このことを自分は割と研究することや自分が知ることが目的になっていたように思いました。もちろん「論文」とは「不明や分からなかったところを知る」ために行うことなのですが、今回の論文を書くことで、改めて考えさせられたのが「新しいことが分かったことで、どうするのか?」ということでした。つまり、「何のために研究するのか」ということです。この視点は私にとってはわかっていても意識まではしていなかった内容でした。確かに、ただ検証するだけではなく、よりよい社会や保育のためになることをするのだと考えると研究というものもより意図やねらいを意識しやすくなるように思いました。

 

また、今回やってよかったと感じるところは、「なんとなくそう思っていたところ」がさまざまな検証を行っていく中で割とクリアになってきたことです。研究というのは常に「仮説」「検証」です。私の場合はどちらかと言うと「検証」がメインであり、そこから「結果」を導き出すという経過を通したのですが、そこで見られる結果は非常に面白いもので、感慨深いものでした。

 

その研究ですが、私の研究では0歳児クラスの子ども同士でも、関わりを通してコミュニケーションを行っていることの証明でした。それと同時にこういった子ども同士のコミュニケーションに対して、保育者がどのようなアプローチを行っているのか、それがチーム保育で行われる中でどのような作用が起きているのかということの検証でした。

 

このチーム保育ですが、このことについて、藤森先生はそもそも大前提として「保育者と子どもの関係を二者関係の関わりとして捉えるのではなく、社会ネットワークとして捉えようという、関係性のとらえ方の転換」と言ってます。私も、実際チーム保育を行っていくなかで、このことの意味がとても分かるようになりました。よくあるのが、「保育者は母親の代わりであって、特定の保育者がつくことで子どもは情緒が安定する」ということです。果たしてそうなのかと感じることがチーム保育では多々あります。保育者が複数いるから子どもが落ち着かないかというとそうではないですし、一対一だから子どもは落ち着くのかというと、昨今の母親の育児ノイローゼの増加を見てもそうとは言い切れません。特に、最近の3歳児入園をした子どもたちの様子を見ると言語の発達に遅れが生じている子どもが多々います。とても、特定の大人と子どもが関わることがすべていいとは言い切れないことが多く起きているのです。

 

そのため、チームで子どもを見るという複数担当制から見た、子ども同士のコミュニケーションの見方や保育者の意識を見ていきました。

近況2

論文を書くにあたり、論点を絞っていくというのが、割と私は時間がかかりました。「何を中心にどういったことを知りたいのか」そして、「他の人が研究していない、オリジナリティを持たせる」ということを考えて絞っていかなければいけません。初めは、そのことを指導教員の先生に伝えられたのですが、どうも自分の中で、しっくりこず、なかなか研究することの内容を決められずにいました。

 

その時に役に立った思考方法が「まず、自分で何を知りたいかを話す」ということでした。「自分はなぜこの大学院にきて、何を調べたくて、又は、何を知りたいのか」それを指導教員の先生に説明したのです。その際、教員の先生が一言「それを書けばいいのよ」。実に端的です。これは自分の性格にもよるのでしょうが、私は割と人に話しながら頭の中で考えを整理することが多く、確かにそこで話をすることが研究による目的であったというのが分かりました。

 

次に研究目的が見えてくると「先行研究」の洗い出しです。先行研究を見る目的は「まだ研究されていない部分を探す」ということが目的になります。それは「オリジナリティ」というところにつながってくるのですが、つまり研究によってわかってくる部分がこれからのために役に立たなければいけないわけで、同じ研究をしても検証されてしまっていては意味がないのです。そのため、他の研究が行われていないか先行研究を洗いだしていくことが必要になってくるのです。

 

これらの過程を経て、いよいよ研究です。研究目的と先行研究を通して、目的が明確化されてくるとそこに向かって、仮説が立てられます。その仮説は何も「こうなるであろう」ことを予測していなくてもよく「どうなっているのかを明らかにする」のも仮説としては成り立ちます。

 

このとき、私が感じたことですが、つい「論文を書く」ということが目的になり、仮説を立てる意味や研究をするということの本当の意味が意識されていないことが起きてしまうということです。これは自分自身も陥りがちになるので、都度都度立ち返るようにしました。

 

このように進めていく中で、いよいよ研究の具体的な内容に入っていきます。研究によっては様々な方法があるので、割愛しますが、研究を進めていく中で沢山わかることが有ったので、雑談的に書いていこうと思います。

近況1

ずいぶん久しぶりの投稿になります。というのも、現在、大学院に入学し、自分の論文を書いている事によって、そちらに集中したいということもあり、ブログの進行を止めていたというのが「言い訳」です。

 

今回私が研究していた内容が「0歳児クラスの子ども同士の関わり」という内容で研究していました。そこでは0歳児クラスの子どもたち、(つまりは0歳児だけではなく、1歳児になった子どもも含まれます。実際、私の研究した対象のお子さんは1歳児になった子どもでした。)がどのような関わりが行われていて、それに対して、大人(保育者)がどういった関わり方をしているのかという事を研究しました。

 

こういった研究に際し、私はこれまで「論文を書く」といったちゃんとした研究をしたことはなく、始めから悪戦苦闘しました。まず初めに「何を研究するのか」ということから難しさがあったのです。単純に私は大学院に入ることの目的は「修士課程をとる」ということが目的でありました。当然、論文を書くということはわかっていたので、「この際、論文の書き方も習おう」という目的もありました。そこで初めは「0歳児の子どもの関わり」を目的に研究を行おうと思っていたのですが、指導教官の先生には「関わりと言っても、色々ある」といわれ、それが遊びなのか喧嘩なのか、保育者との関係なのかということから考えなければいけませんでした。そして、この「関わり」というのが曲者で、発達心理学にも関わる内容であったので、そうなると自分の範疇を越えていくことになってしまうのです。

 

自分自身、どちらかというと、「これまで様々な研究がされていたものが実際の子どもの現場でも起きていることの証明」くらいで軽く考えていたのですが、論文にはオリジナリティが必要であるというころから、研究目的の設定に非常に迷っていました。

 

ただ、このオリジナリティという点に関しては実はまだ「0歳児」に対する論文というのは少ないという点です。もちろん、0歳児の研究は発達心理学や心理学の面では非常に多くの論文があるのですが「0歳児の保育」の論文は少ないのです。この点に関しては先ほどの「これまで様々な研究がされていたものが実際の子どもの現場でも起きているか」ということの論文もまだまだないという事なので論文の目的としてはオリジナリティは求めやすいものであったのです。

 

そこで、大切になってきたのが、「論文の目的」を絞っていくという事でした。