日々思うこと

成果の共有

「与える人」の次にあげられる礼節を身につける心得は「成果を共有する」ということです。自分自身が与える側であれば、その逆に「与えられる側」にもあるのです。そして、その時に手柄を独り占めすることがしてはいけないのです。経営学者のウォーレン・ベニスは「良いリーダーはスポットライトの下で自らが輝くが、偉大なリーダーは、自分だけでなく、自分の下にいる人たちを輝かせる」と言っています。このように、自分以外の他人を立てるこうした謙虚さは、さまざまな点で良い効果をもたらすのです。

 

ブラッドリー・オーウェン、マイケル・ジョンソン、テレンス・ミッチェルという3人の研究者は、謙虚さの重要性を証明しました。誰もが他人を素直に評価するような環境では、もともと持っている人間性、能力を超えるような成果をあげる可能性が高まると言っています。謙虚なリーダーに率いられたチームにいる人は、積極的に新しいことを学ぼうとするのです。そして、より熱心にチームに貢献しようとしますし、チームの仕事にも満足する傾向が強いのです。そのうえ、チームに長く留まろうとします。

 

2013年、2014年のIBMの「ワークトレンド調査」では、貢献を正当に認められた社員は

そうでない社員に比べ、会社への愛着が3倍近くも強いという結果が示され、会社に対してよく貢献していると正当に評価された社員は、そうでない社員より、退職する確率もはるかに低くなったことが示されたのです。「認められる」ということはそこで働く人にとってそのままやる気につながっていくのです。そして、その「認められる」という実感を持たせることにおいて「褒める」ということがあるようです。人を褒める経営者は皆に愛されると言います。その人のためならば、何か壁があっても努力して乗り越えようと思えるというのです。

 

では、人を褒めるときというは、どういった時がいいのでしょうか。どのようにすれば効果的なのでしょうか。重要なのはその人の「サクセスストーリー」を皆に広めることだと言います。そして、そのために小さな成功体験が人をやる気にさせると言っています。大きな目標が達成されたときにはじめて称賛するのではなく、その課程の中での小さな目標が達成されるたびに周囲の人にも分かるように称賛するのです。努力して成果を上げたとき、すぐにハイタッチをして喜び合える人がいることが大切なのです。貢献をすればすぐに周囲がそれをほめたたえるべきなのに、できないとしたら、いったいなにが障害になっているのでしょうか。

 

しかし、この「褒める」という行為は非常に難しいというのを日ごろから感じます。大切なのは「褒める」行為自体ではなく、相手を「認め、共感すること」だと私は思っています。これも「与える人」のようになんでもかんでも褒めるということが必ずしも良いことであるとは思いません。しかし、「自分の成果にする」のではなく、「刷り込みなしに相手を見る」ことや「良いところ探し」をすることが大切なのでしょう。つい、人は批判的な見方をお互いにしてしまいます。相手の悪いところを見つけることは簡単なのです。しかし、相手の良いところを見つけるには訓練が必要です。「ないものねだり、ではなく、あるもの探し」をする意識というものを持つ必要があるのでしょう。

与える人

「礼節を持っている人」というのは「笑顔がある人」「尊重する人」「「相手の話を聞く人」とクリスティーン氏は言っています。その上によりワンランク上の礼節を身につけるためには5つの心得も必要であると言っています。それは「①与える人になる。②成果を共有する。③ほめ上手な人になる。④フィードバック上手になる。⑤意義を共有する。」ということを挙げています。

 

まず、一つ目の「与える人」です。多くの人は人に貴重なリソースを分け与えるというのはナンセンスのように感じます。しかし、その目的に焦点を与えるのであれば「与える人」の意味が分かってくるでしょう。ペンシルベニア大学のアダム・グランドは、著書『GIVE&TAKE与える人こそ成功する時代』の中でこういっています。「たとえば、自分が営業職だとして、自分の売り上げ目標の達成と、より安い価格を求める顧客のニーズのどちらを優先すべきだろうかと考えます。『与える人』であるなら、顧客のニーズを優先するというのです。また、医学部生であるなら、自分の勉強に集中するのと、困っている友人の手助けに時間とエネルギーを割くのであれば、『与える人』は自分の時間を犠牲にして、友人を助けるだろうというのです。そして、『与える人』であった場合、営業職を1年間続けた場合は多くの収益を上げ、医学部生も、卒業時には他の学生より、優秀な成績を取っていたということが分かりました。」

 

なぜこのような結果になるのかというと、その要素には大きな2つの要素があるといます。それは「人間関係と意欲」です。グランド氏は「『与える人』は周囲の人たちと深く広い人間関係を築くことなる」といっており、その人間関係は長期にわたっても損なわれず、長期的な成果にもつながると言っています。そのうえ、自分のリソースを他人と共有するひとは自分の存在に意味を感ずることができるし、目的意識を持つ子こともできるのです。つまり、人に教える、伝えるというのは一つの「自分の存在意義」として感じることにも繋がるのです。そのため、自分の他人に対する貢献が重要であると感じていれば、苦しい状況になっても、簡単にくじけることはないのです。

 

ただ一つの問題があります。それは「何も考えずに持っているものをすべて分け与えたらいい」というものではないのです。では、どういったリソースを与えればいいのでしょうか。ロブ・クロス、レブ・レベル、アダム・グランドら三人は共有して生み出す可能性のあるリソースとそうではないリソースがあると言っています。そして、リソースには大きく分けて情報的リソース、社会的リソース、個人的リソースの三つの種類があります。

 

情報的リソースとは「他人に伝えることができる専門知識、専門技術」です。社会的リソースとは「その人のもつ意識や、立場のこと」です。たとえば、何かを入手しやすい立場にいることや、豊かな人的ネットワークの中にいることなどです。個人的リソースは「その人が持つ時間とエネルギー」のことをさします。先の情報的リソースと社会的リソースについては効率的に共有することができますが、個人的リソースは有限であり、他人に分け与えてしまうと、もとの持ち主の分は減ってしまいます。この個人的リソースを分け与える場合は慎重に対応しなくてはいけないと言います。個人的リソースを求められるままに分け与えるのは思慮に欠けると言わざるを得ないと言います。なぜなら、相手の言いなりになり重荷を引き受ける人が多く、その結果、精神的に消耗しつくしてしまう場合が多いからです。よくあるのが、「困っている人がいると、その人の代わりに何かをしてしまう」ということで、特に女性が多いようです。こういった場合、リソースの種類を変えるべきだとクリスティーン氏は言っています。その場合、情報的リソースや社会的リソースを分け与えれば、相手の要求を満たせることが多いので、必要な情報を提供したり、適切な人を誰か紹介するといったことをすればいいのです。

 

確かに、「おせっかい」を焼いてしまう人がいます。しかし、そうしてしまうと、自身の所望も大きいうえに、周りの成長が止まってしまうこともあります。どう行動するのかは常に考えておかなければいけません。自分の行動が周囲の人たちの感情、考え方、健康状態にどう影響するかに気を配ることが重要になってくるのです。

無意識の偏見

社会神経学者のジェイ・ヴァン・バヴェル、ウィル・カニンガムが無意識の偏見を抑制する方法を紹介しています。それは「相手と自分の共通点に注目することが有効」と言っています。つまり、相手と自分と共通するアイデンティティがないかを探すことです。

 

このことでバヴェルとカニンガムはある実験をします。それはいくつかの言葉を提示し、それをできるだけ速く「良い」と「悪い」に振り分けるという作業です。そして、そこで個々の言葉を提示する前には必ず、ごく短時間、人の顔を見せることをしました。

 

被験者は白人の男性の顔か黒人の男性の顔か、必ずどちらかを見てから言葉を提示されることになります。すると、被験者の多くは、無意識の偏見を露呈されます。白人の顔を見た後は「良い」、黒人の顔を見た後は「悪い」に無意識に振り分けられがちであることが分かったのです。その後、バヴェルとカニンガムは、前回と同じことをするのですが、この実験の作業にあたって、その作業の開始前に被験者にある情報を与えます。それはすべていずれかのチームに属しているという情報を伝えます。そうすると、白人、黒人を問わず、どの被検者も同じチームであるか、あるいは敵対するチームに属しているということになります。すると、たとえ黒人男性であっても、「良い」といった方に振り分けがちになりました。つまり。自分と同じチームに属していると解ると、人種に対する六時期の偏見を打ち消してしまったのです。クリスティーン氏は無意識の偏見をなくしていくために重要なのは、個々の人の共通のアイデンティティ、グループを見つけることであると言っています。

 

また、あえて自分の偏見が表に出そうな環境に身を置いてみることも必要だとも言っています。自分と異質の人と交流をし、相手への理解を深めれば、偏見は少なくなっていく。互いへの感情はよくなっていくだろうというのです。そのために、具体的な証拠を判断材料にし、特定の材料のみを重要視することを避けます。そうすることで、判断に主観が入り込む余地をなくすのです。なによりも、偏見を減らすには、他人の意見を積極的に取り入れる姿勢も大切です。何か重要な決断を下すときにはひとりで考えず、必ず他人の意見を聞く。調査によると、多様な意見の出るチームの方が、そうでないチームより、より良い、より偏見のない決断を下せることが分かっているそうです。

 

これはリーダーシップにおいて重要な観点だと思います。どうしても、意識や理想が高いとその理想に一つでも近づけようとして、主観的な考え方になり、自分の考えに合わない人を排他的になってしまいます。結果として、変化が起きず、風土が固定化されてしまうように思います。多様なアイデンティティが組織の中であるのは仕方のないことですが、そこでの共有や議論、コミュニケーションといったものがあって、初めて理念が強固なものに近づいていくのだろうと思います。偏見をなくすことは非常に難しい、ですが、共有することや当事者意識を持つことはできます。そうすることで、一人一人の意識の高まりが見えてくることにつながり、結果として良い組織風土が起きてくるのでしょう。

偏見と思い込み

人は無意識に偏見を自然に持ってしまうと言います。そして、その偏見によってレッテルを相手に貼ってしまい、本来の力を発揮できない、又は認められないような環境を作ってしまう可能性があるのです。この問題は難しいものです。なぜなら、これにおいてはどちらの立場でもそれが言えるからです。

 

管理者は部下に対して、偏見を持ってしまうと、その人自身のやる気や本来の力を発揮できないような環境を作ってしまうことがあるからです。一方で、部下側から見たらどうでしょうか。些細なやりとりの中で、管理者つまり上司に対して偏見を持ってしまうと、その人のためや会社や組織のために動こうと思わなくなります。お互いがこういった偏見を無くす努力をしていく必要があり、それが組織における雰囲気作りであったりします。そう考えるとやはり最終的にはそのリーダーである人間のリーダーシップの影響は大きいですし、そこにおける偏見を解くことは重要な意味合いがあるのが分かります。

 

先日、実習生の学生と就職について話すことがありました。就職する保育士からするとやはり気になるのは人間関係です。そして、管理者側からしても、人間関係は頭を悩ませる要因でもあったりします。学生たちは様々な人間関係に不安を持っていることが分かりました。「人間関係がうまくできるのか」「人間関係が良い園なのか」というところが気になるようです。しかし、そこで私が思うのは「人間関係も良いと思うか。悪いと思うで、大きく変わってくる。」というのを感じます。つまり「良くするのも、悪くするのも自分次第」と思うのです。仮に注意されたり、怒られたり、時には同僚と言い合いのような議論をすることもあるでしょう。それをネガティブに捉えると「自分に合ってないと思います。」しかし、ポジティブに捉えると「そういった考えもあるのか」と自分にできない視点であったり、自己啓発として自分を変えるきっかけにもなります。要は「相手のせいにする」のか、「自分の伸びしろ、自己評価」にするかで、大きく変わってきます。

 

クリスティーン氏の本では、「まず自分が変わる」ことを言っています。私も相手を変えることは難しいと考えています。しかし、自分は心がけ次第で変わることもできるのです。なぜなら、「自分次第」だから。偏見というのは非常に根深く、人の心に影響を与えますし、なかなか拭うのは難しいものです。しかし、そこを見直すことで、自分が大きく変わる良い機会やチャンスにもつながるように思います。

 

では、クリスティーン氏は「無意識の偏見」をどう鎮めるというのでしょうか。それはどういった方法があるのでしょうか。

偏見

偏見は知らずしらず起きていることがあります。それを「無意識の偏見」とクリスティーン氏は言っています。そして、気を付けなければ知らず知らずのうちに誰かに無礼な態度をとる恐れがあるのです。そうなってしまうと、当然、とても悪い結果がもたらされますし、職場内の無意識の偏見を放置すれば、それは不平等へとつながり、業績に悪影響を及ぼしかねないのです。しかし、多くの人は自然と無意識の偏見をしていると言います。

 

クリスティーン氏がある法律事務所に頼まれて、社員間の直接のフィードバックについて講義した時にアフリカ系アメリカ人の社員から「マイノリティ(少数)は、正直なフィードバックを得られにくい、同僚たちがマイノリティを保護するべき存在と感じ、何か良くないところを見つけても正直に言いにくいからだ」という発言があったそうです。つまり、「悪いところがあっても、気を使って言わないのは、その人を下に見ることであり、侮辱であるばかりか、必然的に失敗へと導くことでもある。自分より下だと思っている人には、初めから期待をしない。だから、正しいフィードバックもしない。その結果、相手が何か失敗をすれば、自分より本当に下であることが証明されたと感じてしまう。いわゆる「予言の自己成就」が起きるというわけだ」というのです。要は相手を下に見ているがゆえに、失敗するのを分かっていながら見てみぬふりをするというのだ。しかし、そんなことをしていると業績が上がってこないのは当然であるし、働く職員のレベルアップにもつながらない。

 

そのため、無意識の偏見と闘うには、隠れている偏見を表に出し、目に見えるようにすることです。「自分にはどういう偏見があるのか」「その偏見によって影響を受けているのは誰か」「それによってどのような結果がもたらされるのか」まず、自分の偏見を持っているといった客観視が必要になってくるのです。

 

保育でも、子どもたちに対して「この子はこういう子」というように悪く言えば「レッテル」を貼る人がいます。確かに子どもの様子や発達を見ることが仕事ですが、それが固定概念化されるとその子自体へのアプローチや関わり方に偏りが出てくるようにも思います。だからこそ、今自園で行っているような「チーム」で子どもたちを見るということは必要なことだと常々思います。一人だけの目線であると、偏見を持った見方に偏ることが起きてしまいいます。そのため、他の人の目線からも子どもを見ることで、偏りが緩和されます。その人にはその人の視点、自分には自分の視点といったように偏らず、複数の視点を持つことで子どもの発達をより多角的に見ていくことができます。しかし、そのためにはそもそものチームを組んでいる職員間も風通しがよく、関わりが持てていなければ、新たな子どもの見方が産まれてきません。最終的には職員間の子どもに対する見方をすり合わせ、尊重しあわなければ、より良い見方にはなりません。やはり大人にっても、子どもにとっても、偏見以上にその人そのものを見つめなければいけませんし、そういった人であるようにしていなければいけませんね。