進化

脳の進化と遺伝子と環境と

生物の発達を考えるにあたって、それが生まれつきなのか、その後の環境によってなのかは大きなポイントになってきます。藤森氏は「保育の起源」の中で「私は、生まれながらに持っている遺伝子は、長い進化の過程でその種が生存し、子孫にその遺伝子をつないでいくように作られているのだと思います。」と言っています。たとえば、タンポポは花を咲き終えたら、綿毛になり種を風に乗せて飛ばします。この営みは遺伝子に組み込まれた活動です。しかし、その種が落ちる場所はどこに落ちるかわかりません。なぜなら、どの環境に落ちるかは遺伝子に組み込まれていないからです。落ちるところは子孫を残すには最適な場所ではないかもしれません。しかし、10本のタンポポから10本以下しか増えなければその種は滅びてしまいます。そのため、ばらまく種の数やそのリスクを計算して種を多くし、風に効率的に乗って遠くに飛ぶように進化していきます。つまり、環境要因のリスクを減らすために進化発達するということは環境も無縁ではないのです。また、環境によってその数では対応できない状況が起こることがあります。そのときには落ちた環境に適応できるような能力を次第に獲得していきます。それは長い進化の過程の中で行われていくだけではなく、その時々にも適応できる遺伝子も兼ね備えていて、その環境ともとからの遺伝子との相互関係によって変化させていくのです。藤森氏は「それはまさに『柔軟性』であり『遊び心』であると思っている」と言っています。

 

「社会脳の発達」を書かれた千住氏はこのあたりのことを脳科学の観点からこう考えています。「『脳機能は局在する』『脳機能の局在は経験によって変化する』という発見は、現在の根幹をなしています。一見矛盾するこの知見は、脳機能の局在が脳の構造発達と環境からの入力との相互作用によって創発するという、相互作用説によってうまく説明できます」そして、その相互作用説に基づくのであれば、「脳の発達だけでも社会環境だけでもなく、その両者が発達の過程でどのような相互作用を見せるのかを、丁寧に追いかける必要があります。そのためには発達初期である乳児期から、ヒトの発達の過程を直接研究対象とする必要がある」と言っています。タンポポと同じように人間の脳の発達においても、そもそも脳の中にある遺伝子やその機能と社会環境との相互作用によって発達進化しているということが言えるのではないかと言っています。そして、そのために乳児期から発達する過程を直接見ていく必要があるといっています。

 

しかし、その研究では次のような課題を考えていると千住氏は言っています。「社会行動や社会的認知の脳神経基盤を発達認識神経学の手法を用いて探る、「発達社会神経科学」とでも呼ぶべきかもしれないこの研究方略は、言葉を話さず、運動能力や注意の持続、体力などに大きな制限のある赤ちゃんを対象に、どうすれば認知や脳機能を計測できるか、という技術的な因果を避けては通れない」と言っています。このことに対して藤森氏は「このような研究に対して現場(保育現場)の立場からすると、『臨床保育学』という視点を持つべきだ」と言っています。そうしたうえで「そうはいっても、最近の技術革新により、乳幼児期の行動や脳機能を無理なく測定することは格段に容易になり、体系的に進めることが可能になってきているようです。特に、乳幼児や児童を対象とし、彼らが直面する社会的な環境への適応について、脳科学の手法を直接用いた研究を行うことにより、新しく刺激的な知見を次々と獲得しつつあるようです」と言っています。

 

これまでの内容を見ても、かなり具体的に脳がどのような作用をして、社会性を発達させているのかということがわかってきているように思います。そして、そのことに対して保育や教育というのは無縁ではなく、この研究で解明されていることはまさに保育現場で普段から子どもたちの脳の中で行われているということを忘れてはいけないのです。そして、それほど重要な部分に関わっているということを改めて考えていかなければいけませんね。

脳の大きさと発達

社会脳がヒトの脳にはあり、ミラーニューロンによって相手の行動を自分の行動のように感じることができるようになっているというのが解明されてきました。しかし、まだまだ人間の脳は解明されていない未知の部分がたくさんあるようです。そんな中、「人の脳の発達にチームワークが大きく影響している」というのがAFP通信の記事で出ました。それはアイルランドと英国のスコットランドの研究チームが出した「人類は仲間とのチームワークを通じて脳を大きく発達させてきた」というものです。

 

研究チームはコンピューターを用いて、社会生活における困難な状況に応じて神経回路網を発達させる人間の脳についてのシュミレーション実験を行いました。いくつかのシナリオの中で利己的な選択をしたほうが自分の得になるようなシナリオでしたが、この実験を通して「脳が発達するほど他者との協力を選択する」といった結果が導きだされたそうです。

 

「ヒト科の祖先と比べ、なぜ現生人類ホモ・サピエンスの脳は大きくなったのか」という疑問は長らく、科学者らの間で謎のままでした。しかし、この研究チームの論文でも社会的交流に脳の大きくなった理由が隠されているという結果が出ていました。このチームでは「生き残るために欠かせないのが他者との協力。そこで、多様で複雑な〈社会〉に対処していくためには脳を発達させる必要があった」と見ています。

 

この論文の共著者であるアイルランドのダブリン大学トリニティカレッジのルーク・マクリナーはAFP通信の取材に「グループ内において他人同士が協力することはよくあるが、これには認識力が要求される。誰が自分に対してなにをしていて、それにどのように対応すべきか常に頭を働かせておく必要があるからだ」と語っています。そして、それと同時にグループ作業では相互関係を計算するときに「もしも共同作業で私がずるをしたらあなたはその次の時には『あいつはこの間ずるをしたから、もう協力しないぞ』と考えるだろう。つまり基本的に今後も相手の協力を得たければ、自分も協力せざるを得ないということだ」と指摘しています。さらに、チームワークと脳の力は相乗効果で高め合う関係にあり、より強力的な社会へ移行するにつれ、複雑多様な社会が脳の発達も促進していったのではないか推測しています。そして、「一度、知性が高レベルで発達を始めると、協力行為もより高いレベルで進歩する」と話しています。

 

つまり、ヒトの関わりの中で「競争」から「協力」に移行していったといい。脳の知性が高レベルに達していくとまた、その競争は複雑になり、それに対応して強固な社会が作られ、協力関係もより深くなっていくといったように、様々な事象や状況の中で対応していくうちに脳の発達につながってきたというのです。しかし、面白いのがこういった様々な状況で争いもあったでしょうが、最終的に工夫し協力するための方針をもって、社会を大きくしていったという方策をヒトはとったということです。もし、そのときに利己的な行動ばかりをとっていると人はすでに滅んでいたのでしょうね。自然と協力関係を築いていく中で、各々の「責任」があったということなのでしょう。そして、その責任が「ルール」を作り、社会の中で「掟」となり、その集団がより大きくなっていったのだと思います。こういった生存戦略も脳の発達を通して見るとまた違った見え方がします。そして、本来のヒトも見えてきます。

運動って?

人間は、他者を通して自分を理解すると言われています。そして、自分を評価する他者が多様であればあるほど、自分というものが見えてきます。母親からだけの評価では、社会に出てから他者から違う評価を受けたときに、心に打撃を受けてしまい、自分のうちに閉じこもってしまうことになりかねないと言います。そのため、異年齢の中での育ちはとても重要なようです。そして、人は人とコミュニケーションするときには必ずしも言語によらないことがわかっています。しかし、言語によるコミュニケーションにしても、非言語によるコミュニケーションにしても、人間は五感を使って外からの刺激を感じ、その情報を脳に送り、その刺激を理解し、判断するという行為を行っています。そして、その情報を整理し保存しておくことで、お互いの意味の合意ができ、次回の会話が成り立っていくと藤森氏は言います。

 

そのため5つの感覚で構成されている五感はあくまで入り口であり、刺激を受けることで外界にある事物や事象を意味あるものとして対象になったときに、五感で感じたものが「知覚」になります。つまり、発達は「自分から環境に働きかけること」が必要になってきます。「脳の地図は体との関連でできてくる」と言われることがあり、生まれ持った体や環境に応じて、また体の使い方の習熟・開発に応じて脳は「自己組織的」に体を作り上げていくということと言えます。そして、この体の使い方を「運動」と言うと言っています。

 

このことを考えると「運動」は走ることやボールを投げること、野球やサッカーといった競技をすること、健康や身体を鍛えることを指すことが多いですが、「運動」は「体が動く」こと自体を指すとするならば、少し違ってきます。たとえば、赤ちゃんが音のする方に目を向けたり、動くものを目で追う行為は、視覚、聴覚を使って感じた知覚を、運動によって認知しているのです。この一連の動作を運動と言い、身体が高機能でないと脳機能も高機能にならないのです。しかし、実際のところ、人間は脳のほんの一部しか使っていないといわれています。しかし、それは将来予期せぬ環境に出会った時に、スムーズに対応できるための一種の「余裕」ともいわれ、また、使いこなされている脳の能力のリミッターは脳ではなく、体にあると言われています。人は感覚によって得られた情報を知覚し、身体運動との相互のやり取りによって認知能力が増していくというのです。

 

つまり、「運動」には一般的な運動と五感や知覚をもとに運動によって知覚していくといった運動があるということです。そして、この後者の運動には大きく2通りあると言われているそうです。

自己と他者

心理学において、人はどのようにして自己の心にアクセスし、他者の心を読み取り、社会的コミュニケーションを行うかということは難問でした。その中で、「心の理論」と呼ばれているものがあります。それは心理学でいうところの「相手の心を推察する」「他者が自分とは異なる意識を持つと考えることができる」能力のことです。いわゆる他者の心を推測・想定する能力です。こういった他人からは見えない心の動きを、行動として見える物理的なものと関連付けて研究するのが「心の哲学」と呼ばれる分野です。そして、「心の理論」において重要な切り口になっているのが「ミラーニューロン」の存在です。ミラーニューロンの働きは前回にも話したように「裏の道」の働きをするもので、他者の感情や動き、感覚、情動を自分の内部で起こっているかのように感知する能力です。

 

そして、この能力を通して、人はどのように自分自身の心にアクセスし、他者の心を読み取り、社会的コミュニケーションを行うかというのが研究されてきました。「模倣」「共感」「心の理論」「マインドリーディング」「自己・他者関連単語」「ミラーニューロン」などの研究は、「自己と他者」の問題を正面切って取り上げるものであり、その研究は大いに進展しました。哲学の基本問題である「自己と他者」が哲学の分野から科学的研究の対象になったのは、近年の認知心理学と脳科学の発展によるところが大きいと『ミラーニューロンと〈心の理論〉』(子安増夫・大平英樹編)に書かれています。そして、「自己と他者」について論ずる際にはミラーニューロンと「心の理論」が重要かつ代表的な視点として取り上げられています。

 

藤森氏はこれまでの研究を踏まえてこう話しています。「元々「心の理論」としての研究が始まったころは、子どもにおいて、このような行動がはじまるのは4歳と考えられていました。特に心理的な世界の理解については3歳から4歳に欠けて変化することが、他者が誤った信念(belief)を持っていることが理解できるかどうかという「誤信念課題」と呼ばれる実験でわかっています。そこで、集団における保育が必要とされているのが4歳児からということで3歳児クラスからの保育が行われているのかもしれません。しかし、最近の研究では「自己と他者」との関係において「模倣」や「共感」という心の動きや行動から考えると、0歳児から他者が重要な役目を持ってくることがわかってきました。」そう考えると「幼児」と「乳児」との区分もこういったところがあるから、そこで区切られているのでしょうか。

 

「ただ、この時期における他者は、子どものまわりに自然な社会の中にいる存在するものでした。家庭内においてもきょうだい間での関係です。しかし、現在の家庭事情は少子化により、地域に子どもがいなくなり、自宅内には母子だけが存在することが多くなっています。しかも、母親は家事をしなければならず、子ども一人でテレビやゲーム、スマホで動画を見るといったものを相手に過ごすことが多くなっています。いくら子どもが小さいうちは母親の下で育てるべきだといっても、自宅内に母親たった一人で育てるとなると、このような育児になる可能性は多くなる気がする」と藤森氏は言います。

 

確かに最近の子どもたちの様子を見ていても、登園時にスマホでyoutubeを見ている子どもはいますし、ショッピングモールに買い物に行ってもベビーカーに乗ってスマホを見ている子どもたちを多く見ます。子どもを落ち着かせるためにはとてもいいツールであり、都合がいいのはよくわかるのですが、それが育児の中で大きな部分を占めていくというはとても危険なことです。特に社会的コミュニケーションはこういったツールでは経験することができないというのはよく考えなければいけません。「赤ちゃんは白紙で生まれてくる」といった白紙論が出てきたのも家庭内でこういったコミュニケーションが土台としてあったからであって、今の少子化の時代とは子どもを取り囲む環境が変わっているということを踏まえて教育や保育を考えていかなければいけないということを改めて感じます。それは脳が発達していくメカニズムを考えると今の社会のウィークなところも見えてくるように思います。

社会脳と教育

共感が意識されることなく伝染していくことがあります。集団心理などはまさにそれにあたるもので、集団の中心になる人間の激情が、その場にいる人々に集団感染した場合、個人の感情が全員の共通した感情となり、最初に共感した内容とは別の感情を持ってしまい暴走してしまうことがあると藤森氏は言います。共感とは、他者とつながりを持つうえで大切な能力なのですが、そのためには相手に意識を向け、事態をしっかり理解し判断することが必要になってきます。それは脳の前頭前野の役目だと言われているのですが、この部分が十分に発達していなければ、共感によって、行動までそっくりまねてしまいます。前頭前野がしっかりと働くことで、事態を理解する能力は、学習や経験によって得られる知識や他人の人権を認め、思いやることのできる心に支えられ十分に発揮することできるのです。つまり、感情や激情にただ共感し、衝動的に判断してしまうと社会は作れません。それと同時に知識や他人の人権などのバランスをとれるようにならなければいけないのです。そして、そのためには脳の前頭前野を発達させる必要があるのですね。

 

他人と共感するとき、人が他者と対するとき、即座に好意などの感情的な親近感をもたらすものが「裏の道」とすると、より洗練された社会的感覚をもたらし、適切な反応を導き出すのが「表の道」です。

 

ミラーニューロンの働きは裏の道で、この能力は人と人がうまく同調するために必要です。同調には、お互いが考えるのではなく、非言語的ヒントを即座に読み取って円滑に反応することが必要です。一方で社会における自己存在の位置の自覚、社会の潮流の把握、必要な情報を収集して冷静に解決策を練る能力は表の道であり、それらを支えるのは教育、学習によって得られる多くの知識です。社会でうまくやっていけるための社会的意識が能力を発揮するにはこれらの裏の道と表の道が補い合う必要があると藤森氏は言います。

 

そして「しかし、表の道は裏の道がきちんと整備されていなければ、開通が困難になります。そのために学校教育は社会的認知能力に役立つ知識である表の道を子どもたちに与えるためにあるといわれ、乳幼児教育は豊かな人間関係を築くための、原共感、情動チューニング、共感的正確性、社会認知能力からなる社会脳(社会の一員であるという意識)である裏の道を育てる期間ともいえる。ですから、乳幼児期こそ、生きた人間同士が顔と顔を直接向き合わせることが必要になるのです。」ということを言っています。

 

つまり、人が社会で生きる力をつけるためには乳幼児期と児童期とでは、教育の目的や目標となるものが違うのですね。乳幼児期は特に社会脳の裏の道をしっかりと土台として育てる必要がある時期なのです。とするのであれば「生きた人間同士が顔と顔を直接向き合わせる」環境がより必要になってきます。そして、逆に大人が一方的に教えることやプレ小学校のようなことはかえって子どもたちの発達を阻害する可能性もあるのかもしれません。それよりも子どもたちが関わり合いながら、物事を考えていくことが重要になってくるのですね。本質として乳幼児教育の目的がどういったところにあるのかを「ヒト」を知ることでより明確になってきます。そして、その情報を基に保育を進めることは社会につながる生きる力にそのままつながるというのはとても身が引き締まる思いです。