支援的な関わり

森口氏は子どもの発達に影響があるのは「支援的な子育て」と「管理的な子育て」と言っています。では、具体的にそれはどういったことを指すのかを見ていきましょう。

 

まず支援的な子育てですが、たとえば、子どもが自分で洋服のボタンをはずそうとしています。ある親はいらだって、子どもの代わりにボタンをはずします。別の親は親が代わりに外すのではなく、外すためのヒントをそっと教えてあげます。例えば、ボタンの穴が入るように、ボタンの持ち方を教えたりすることです。前者の親と後者の親を比べたときに後者の親が「支援的な子育てをした」といえます。つまり、親が子どもの行動を一から十まで、教えるのではなく、子どもが自分で頑張ろうとしているときに、少しだけ後ろから支えてあげるということです。

 

ただし、ここで注意なのが、子どもがどれだけ時間をかけてもできそうな状況では、この程度のヒントでは難しいと思われます。森口氏は「大事なことは、親が子どもの現在の能力をしっかりと見極めたうえで、今取り組んでいる課題(ここでいうボタンをはずす)を子どもが自分で解決するために、最低限の支援をするということです。そして、これの対極にあるのが過干渉なのです。」と言っています。

 

このことは保育の中でもよく起きることです。特に乳児での保育で複数人の子どもを見ていると、どうしても時間に追われがちです。その中で、もたもたしている子どもがいるときせっかちな先生ほど、待てず、手を出して先生が「してあげる」ことが多くなります。幼児期の保育でも同じようなことがあるように思いますね。例えば、喧嘩の仲裁など、子どもたちが話し合っている中に介入し、子どもたちの言葉を取ってしまう保育者がいます。せっかくの子ども同士の関わりが、先生が間に入りすぎてしまうと、子どもたちはお互いで話すことをやめ、先生に話をし始めます。こういったように保育において、保育士が「保育」とおもって子どもたちに「してあげる」ことが「お節介」につながることがあります。これは結局のところ、「いけない」ということが分かっていますが、「何がいけない」のかの議論はそれほど深まってはいないように思います。しかし、森口氏はこういった大人の支援的な関りは子どもの実行機能に関わるといっています。では、それはどういったところから実行機能に影響があるというのでしょうか。

 

ミネソタ大学のカールソン博士らの研究では、親の支援的子育てを、親子のパズル遊びの中で検討しています。子どもがうまくパズルができない状況で、親が子どもにどのように関わるのか。ある親は、子どもがパズルをできないのがもどかしくて、自分が実演して見せます。これは親が子どもに過干渉している例であり、実行機能の発達は促されません。

 

別の親は、子どもが自分でパズルを解決できるように、ヒントだけ与えます。この方が支援的な親だということになるのですが、こういった親は子どもが問題解決することを支援しているものの、決して親自らが解決しているわけではありません。そのため、自分をコントロールする力が育まれやすいのです。

 

このように親を見ていくと、親の方にも実行機能が必要となります。子どもが自分で片付けようとしているのに、面倒だからとか、時間がかかるからという理由で、親が片付けしてしまうということは日常的によくあることです。ただ、子どもの自律的な行動を支援するためには、親も実行機能を発揮し、子どもが自分でやるのを見守ることが必要なのだと森口氏は言っています。

 

保育士においても、同様のことが求められますね。保育士自体が実行機能を持っていないと子どもたち自体に実行機能を持たせることができなくなるのです。まさに、大人の様子を子どもが踏襲することになり、人的環境という意味ではよく考えていかなければいけない内容ですね。