KIPPの実践

1999年サウス・ブロンクスで10代前半の38人がキップ(KIPP)アカデミーのミドル・スクールを卒業しましたが、彼らが8年生だった時のクラスはアメリカの公教育史上最も有名なクラスかもしれないとタフ氏は言います。というのも、このクラスは全員が黒人かヒスパニックで、ほぼ全員が低所得層の家庭の子どもであり、4年前に4年生の教室からディビット・レヴィンに引き抜かれた子どもたちでした。レヴィンは25歳で白人のイェール大学の卒業生でした。そして、「僕の新しい学校に入るなら、君たちを公立学校の典型的な学業不振の生徒から大学進学を目指す学者の卵に変身させて見せる」と約束し、親や子どもを説得したのです。KIPP(「知は力なり」ナレッジ・イズ・パワー プログラムの略)での4年間は新しい学校生活の中で過ごしたのです。

 

これは高エネルギー・高密度の授業が続く長い一日と、入念につくられた態度強制・行動変容プログラムを組み合わせた学校生活であり、レヴィンがそのつど、考えて見えることも度々あるようなものでした。レヴィンのやり方は効果を上げ、しかもそれが過ぎに目に見える形で成果が表れます。1999年の8年生の全市統一学力テストで、KIPPアカデミーの生徒たちはブロンクスでは最高、ニューヨーク全市でも5番目の成績をあげ、これは入学時に成績を問わない貧困地区の学校としては前代未聞の成績でした。このことでニューヨークタイムス紙の一面にKIPPについての記事が載り、CBSのドキュメンタリーでも取り上げられるものでした。その後、GAPの創始者ドリス&ドナルド・フィッシャーの目に留まり多額の寄付を決意させたことにより、KIPPは全国組織へと拡大しました。その結果、各地に100を超えるKIPP方式の特別認可学校(チャーター・スクール)ができ、KIPPはチャータースクールや教員の労働組合、共通テスト、学習への貧困の影響などに関する国内議論の中心であり続けたのです。

 

そのKIPPアカデミーの最初の生徒たちはまるで脅しだと思われるほど、高度な教育の重要性をたたき込まれます。学校の廊下には大学の校旗が並び、どの教師も受け持ちの教室を母校のグッズで飾ります。会談の吹き抜けには大きな看板があり、そこには「大学への山を登り切れ」と書かれ、生徒たちはそれが自分の使命だと信じていました。卒業したときにはまさにその態勢が整っているようでした。彼らは抜群の成績でミドル・スクールを終えただけではなく、ほとんどの生徒が一流の私立高校やカトリック系の高校に進学を決めており、全額給付付きの奨学金を受けられるものも少なくありませんでした。

 

しかし、これだけ抜群の成績を残したにも関わらず、この最初の生徒たちについて、一つの課題が見えてきました。そして、このことは成績や偏差値偏重の今の教育環境や知能至上主義に一つの問題を投げかけているように感じます。KIPPの生徒はどういった様子を見せ始めたのでしょうか。