誰のためにあるのか
ここ最近の運動のストレスコントロールや性教育について考えると、共通していることがいずれも主体は大人が「つけてあげる」ものではなく、「本人が身につく」ことにあります。大人ができることは、環境を整えることに限られる場合が多いのだと思います。
運動でいえば、「遊びから生まれる運動」と、大人がルールを守らせる運動では、運動量に違いがあります。大人は決まったことを行わせがちですが、純粋な運動量という観点では、遊びの方がより多くの効果をもたらすこともあります。性教育においても同様です。「男女を分ける」「一緒にさせない」ということが目的になりがちですが、本来の目的は「性差を知ること」や「相手がいやなことをしないこと」を理解しすることに大きな意味があると思います。
つまり、どこに主体があるのか、誰のための行為なのかをよく考える必要があります。必ずしも大人がよかれと思って教育指導を行うことが、子どもの成長に好影響を与えるとは限らず、場合によっては「いらぬお節介」となることも理解しておく必要があります。
たとえば、性教育で「男女一緒にするのはどうか」という質問があります。しかし「男女を分ける」という前提自体、ジェンダーフリーの観点からはバイアスがかかっており、場合によっては差別的ともいえます。また、男性同士が苦手な男性がいるかもしれません。多様性が広く複雑になるほど、大人が枠組みを作ることは難しくなります。そのような世界で生きる今の子どもたちは、私たち大人よりも柔軟な意識を求められるでしょう。既存の意識で子どもたちを縛ることは、将来の障壁を作ることにもなりかねません。
だからこそ、大人は選択肢や環境を用意するなど、間接的な関わりの質が重要になってくるように思います。子ども自身が考え、進む道を選べるよう、大人がじっくり待つことが求められます。根気のいることですし、子どもを信じることは心配にもなります。人を信じることの難しさは、自分自身もまだまだ学ぶところがありますが、保育においてはこの点をよく考えていきたいと思います。
2025年8月22日 5:17 PM | カテゴリー:日々思うこと | 投稿者名:Tomoki Murahashi