教育に価値

寺子屋は寺院教育から庶民の学習要求に基づいたものへ移行していき、その後に職業としての寺子屋が登場するようになります。それと共に師匠の「教え」に対する報酬としての「授業料」が定められてきます。初めの頃はこの「教えの報酬」といったものは「束脩(そくしゅう)」や「謝儀」といった、いわゆる「お礼」として差し出されたものでした。そこから「授業料」に変えた初めての人が、慶應義塾の創始者でもある福沢諭吉でした。

 

福沢諭吉は「学問は個人が『身を立てる財本』であるから、受益者負担の原則で、等価としての授業料を支払うのは当然であるという」論理からはじめたそうです。しかし、寺子屋は職業として成立していながらも、「教え」が単なる文字の読み書き技術の授受にとどまらず、「人としての学び」の伝統が学び手の側に存在しました。そのため、お礼としての「束脩」や「謝儀」は基本的には「心付け」の意味あいが強く、僧侶へのお布施に近いものがあったと考えられます。

 

「謝儀」の形態は、都市や農村によって異なっており、地域によっては金納よりも物納という方法を取ることもあったようです。物納の場合、平均してみると月に米一升というのが一般的だったそうです。また、個々の寺子が負担する形態のほかに、地域が共同で師匠を雇い入れ、寺子屋の経費を負担するところも少なくはなかった。こうなると寺子屋も公立学校に近い郷学の性格を帯びてきます。明治2年(1869年)には64項の小学校を創設した京都では、竈銭と称して、町組の一家を構える家々から通学児童のあるなしに関わらず、出勤して学校の経営にあてていることもあるように、寺子屋は地域共同体とも強いつながりをもっていたことが伺えます。

 

寺子屋は庶民の地域の中から教育形態として、徐々に形になってきたのです。そして、そこに今度は「授業料」という勉強や学習に「価値」を求めるようになってきたということが分かります。日本においてこういった知識を「価値あるもの」と認識されてきた過程の中に寺子屋の文化というものは非常に大きな影響があったのでしょう。

 

徐々に現在の「学校」に近い形態になってきました。「教育」にはいかに価値があり、必要なことであるのかが明確になってきたように思います。もちろん、現在においても「教育に価値がない」という人はいないでしょう。しかし、「なぜ教育が必要か」と問われたときに答えに窮する人も多いと思います。寺子屋の文化においては、その習う必要性や楽しさといったものが、いまよりも貪欲にあったのだろうことは感じるところがあります。