ランタン型意識

ゴプニックは赤ちゃんの意識を「ランタン型意識」ではないかと言っています。つまり、周りのあらゆるものごとを明るく照らし出す意識だというのです。これと対局なのが「フロー」と呼ばれる状態です。これは一つの対象や活動に没頭しきって得られる境地です。これは「ゾーン」とも言われますね。一つの物事に完全に没頭し、それ以外のことは目に映らず、取るべき手順すら意識されない。企図がひとりでに完成していくような、気持ちのいい無意識状態です。

 

ランタン型意識がもたらす幸福感は、むしろ忘我の境地というのに近いのではないかとゴプニックは言います。このような幸福感を得るのは、世界に同化できた時です。禅の鈴木駿流師はこのような状態を「初心」と呼び、初心とは物事に熟達する前の澄んだ心だと言っています。ロマン派の詩人ワーズ・ワースは無限の驚きをもって世界を体験できる幼児期に、特別な価値を置いていました。赤ちゃんは悟りを開いた仏陀のように、小さなお部屋の中で旅を続けています。まばゆいばかりの光明と初めて体験する壁や影や声に包まれているのです。心理学者のウィリアム・ジェイムズはこのような意識を描写しています。それによると「一部の人たちの意識は真っ暗な世界に差し込んだ一筋の光。そうでない人では『あたりはもっと明るく、流星群のように降り注ぐイメージで満たされている。流星はランダムに地上に落下し、そのたびに思考の焦点がズレていく』」と書いています。しかし、この描写は明晰なのに散漫な大人たちのことを表しています。ゴプニックはこの文章の『』の部分の内容が赤ちゃんにこそ当てはまると言っています。

 

もちろん、乳幼児において、いつもランタン型のような意識体験をしているわけではありません。大人よりはその状態が長いとはいえ、むしろ眠っているかぐずっている時間の方がずっと長いでしょう。大人が前回紹介したように、赤ちゃんの意識体験をするにおいて「旅に出る」ことが近いとありました。また、「瞑想」も赤ちゃんの意識に近くなるようです。しかし、この二つの体験を行うためには「旅に出る人」はまずお金をため、出費をし、旅支度をしなければいけません。「瞑想する人」も自分の意識を制御するためには訓練が必要です。しかし、赤ちゃんの場合は大人のそんな苦労などせずとも、そして、望む望ま無しにも関わらず、おのずと旅先や瞑想で得られるような意識状態になっているのです。

 

このような「赤ちゃん研究は意識とはそもそも何なのかを私たちに教えてくれる」とごプ肉は言います。盲視の体験が、行動と意識が解離している可能性を示すように、赤ちゃんは、違う種類の心理学的な能力の間にも解離があり、それぞれが違う種類の意識を生み出している可能性を教えてくれるのです。それはたとえば、学習をしているときの意識は、計画を立てているときの意識とはまるで違う種類のものかもしれないといったことが示唆され、これまで大人の意識についてなされた実験のほぼすべては、注意を集中させ、ごく限定的な課題をやらせるものでした。赤ちゃんはこのようなやり方では、総体的な意識の断片しかわからないことを教えてくれているのです。

 

そもそも、大人と赤ちゃんとでは意識の向け方が大きく違うのです。保育においても、大人の意識を子どもに求めることは多いように思います。子どもそれぞれを信じて、関わることが何よりも大切なことがより見えてきます。大人のロジックでは子どもは動いていないのです。「子どもを丸ごと信じただろうか」と私の恩師である先生が保育において、このように言われていました。今、この言葉の意味がより鮮明に分かるような気がします。