成長、成熟は次のバトンパス

大人と子どもとでは脳も心も大きく違うことが分かります。そのため、生活ぶりも違ってきます。簡単に言うと大人は働き、子どもは遊びます。この「遊び」ですが、ゴプニックのいうことを見てみると当たり前のことなのですが、確かにと納得してしまいます。幼児期の遊びにおける未熟さがもつ「無用の用」をこれほどよく示すものはありませんと言っています。

 

この「無用の用」ですが、これこそが「遊び」につながります。つまり、赤ちゃんがする箱を重ねる遊びや幼児のごっこ遊びなど、どの遊びにも、はっきりとした意味も、目的も、機能もないのです。進化に不可欠の捕食をするためでもなければ、闘争、逃走、性交渉といった目標があるわけではないのです。それなのに、この遊びという無用な行為は、人間らしく、子どもから大人まで、計り知れない価値をもつものなのだとゴプニックは言います。

 

もちろん、大人でも遊びを行います。しかし、そこには「○○する」といった遊ぶ目的があったり、意味を持って行うことが「大人の遊び」には多いのではないでしょうか。どこかで意味を求めてしまうのです。ただ単に「遊べ」と言われても困ってしまうかもしれません。それに比べて子どもたちの遊びはそういった目的意識をもって遊ぶことももちろんあるでしょうが、まさに心から楽しみを求めた遊びや目的のない遊びというものにいそしんでいるように思います。それは確かに大人になる準備なのだろうと子どもの姿を見ていて感じますが、では、子どもたちはその遊び一つ一つに意味を求めているかというと無かったりします。保育での子どもの遊びを見ていても、何がそんなに面白いのかと思うくらい何度も何度も同じことを繰り返して遊んでいます。

 

この幼児期の遊びですが、ゴプニックはこれは想像力と学習能力が目に見えるかたちであらわれたものだといいます。つまり子どもたちは「無用の用」の中で、意味のない遊びの中で学んでいるのです。逆に大人はやる内容に意味を求めてしまいます。それが子どもの遊びと大人の仕事のちがいなのでしょう。当然、それだけ見る世界が違うと子どもの意識、日常的に体験する世界の感触も、大人のものとは相当に異なっていることが示唆されるとゴプニックは言っています。そして、子どもの意識を探求すると、大人の日常的な意識や、人間の特性についても新しい展望が開けてくるというのです。

 

その一つが自己同一性の問題です。それはこれまで話したように赤ちゃんと大人とでは違った心や脳、体験を持つ、といった根本的に違った生き物であったとしても、最終的には大人になるということです。この抗うことのできないプロセスは常に起きています。そして、その中で起きる学習と想像、それに続く変革のプロセスを究極的に左右しているものが愛であるとゴプニックは言います。愛は変革の原動力の一つであり、子どもへの愛は、人の場合、単なる原始的な本能、他の動物のような養育行動というのとは違い、長い年月をかけて、子どもたちが人間らしい洗練された能力を発揮できるように力を尽くします。子どもたちが未熟でいられるのは、世話をする人たちの愛に溢れるからです。前の世代が発見したことを学べるのは大人が教育に投資しているからです。

 

そう考えると前回にも紹介した子どもは研究開発で、大人は製造販売ということが現実味を帯びてきます。つまり、大人が礎を築いたものから子どもは学びよりその学びを発展させていくのです。そして、文明は進んでいきます。そして、いつしかその子どもは大人になり、それを次の世代に製造販売役として受け継いで、伝承していくのです。大人になるプロセスはつぎに向かう子供世代へのバトンパスを発達をしていく上で行っているのですね。