探索への旅

前回、相手に主体的に考えさせることが重要であるということで、「待つ」ということや「なぜから何に変える」といった質問の形式を変えるということを紹介しました。しかし、思いつかない場合はどうすればいいのでしょうか。これは鈴木氏によるとよく企業でのコーチングの研修などをしたときによく質問が出るそうです。「経験や知識の少ない人に探索させたところで、何か発見があるのでしょうか。」といった質問です。

 

この場合、特に企業の場合はコーチングよりもティーチング(教えること)の方が効率的であったり、効果的であったりする場合もあるのです。仕事のリスクが高いのに、それを担当する部下の職務能力が低ければ、どちらかといえばコーチングよりもティーチングがコミュニケーションの中心になるのです。

 

しかし、鈴木氏は「探索と発見のために多少時間的余裕があるのであれば、答えは与えずに相手を“旅”に出したほうが良い」と言います。これは与えられた情報よりも、自分で取りに行った情報の方が、実際に血となり肉となって使える知識として活用される確率がはるかに高いからです。「天才とは努力する凡才のことである」というアインシュタインの言葉が正しいとすれば、凡才を旅に出すことで、天才という頂に近づけることができるかもしれないのです。

 

確かに、誰かに教えられた知識であっても、それをその場だけで利用してもあまり、知識として蓄積していないのを感じます。それをどこかで使ったり、伝えたりすることで、初めてその知識は自分のものになったと感じることは多いのです。とりわけ、そういった時に自ら学びに行っている知識というのは自分が主体的にあるために血となり肉となるものになることは間違いないでしょう。できるだけ自分の「学ぶ」という意識は持っていたいものです。

 

このことはそのまま教育や保育においても、なぜ主体性が大切であるかと言われているのかということとも大きくつながっている話であると思います。子どもや生徒が一方的に教えられて、それを機械的に活動しても、それは適した知識ではないことが多いのです。以前、インフォーマル学習について学んだことがありました。インフォーマル学習とは「仕事、家庭生活、世かに関連した日常の活動の結果としての学習(OECD 2011)」のことを指し、逆にフォーマル学習とは学校などの制度上の学習を指します。その時、人が「人生で学んだこと」を書き出してみると、殆どは学校での授業の内容より、母親からであったり、恩師からであったり、友だちなどであったりといったことが多くありました。これは今の生き方や考え方に大きくつながる学びであったのだろうと思います。

 

つまり、何をまなんだかではなく、どう学んだかどう考えたか、どう感じたかの方が人は学んだと感じるのかもしれません。コーチングの共に考えるという姿勢は教育をする人間にとっても、必要な能力なのかもしれません。