誰のため

アンドレアス氏は教育を車のキーを紛失した運転手になぞらえてこういっています。「車のキーを無くした運転手が、街灯の下を探し続けたところ、誰かに『鍵を落とした馬車はそこか?』と聞かれ、『違うがここしか見えないから』と答えた」そして、教育にもこういったところがあると言っています。「最も手にしやすく、見やすいものを見るという根深い本能です。多くの場合、最も重要なことではなく、最も簡単に測定できる方法で教育の進捗状況を確認する。そして、他のところで達成されているものとの比較ではなく、自国や特定の地域の自信の学校内で起こっていることのみに基づいて教育を議論することが多い」といいます。

確かに人は目に見えるものを信じます。それは何も教育だけではなく、様々な産業でもそうでしょう。目に見えるほうが安心するのです。しかし、ヒトには知恵があり、見通しを持てるだけの想像性も持ち合わせています。大きな大局を見て、教育を進めていくことが必要であり、未知の未来を想像して進めていかなければいけないなか、どうも最近はこの見通しを持つことを忘れ、ルーティーン化された教育体系が当たり前になっているように思います。こと保育においても同様に言えます。「去年こうだったから」とか「これまではこうだった」といって毎年同じことが行われているということはよくある話です。もちろん、それが今の子どもたちにとって、発達にあっているものであったり、興味や関心があったりするものならいいのですが、大人が導入をしっかりして、子どもたちを誘導していくというのはどうなのかと思うこともあります。また、どうしても新しいことに取り組むことにはエネルギーが要りますが、なかなかそこに目が向けられず、合理化してしまったり、長い目で成長を見届けれず、介入してしまったり、と保守的になってしまうことが多くあります。

アンドレアス氏はこういった保守的に考え、広い視野で教育を考えていかなければいけないことにこう言っています「グローバル化は、経済、職場、日々の生活に大きな影響を与えており、教育は非常に局所的で内向きになることがおおい、教育システムは、互いに学ぶことから分離する『壁』を構築する傾向がある」と言っています。つまり、こと「教育」や「保育」に関しては閉鎖された考えがあるといっているのです。これは私も気にしているところです。教育や保育の世界にいるものにおいて、経済界や現在の企業職場に至るまで、社会のことが直結しているという実感がわいていない現状は大いにあるように思います。これは私もかつてはそう思うところがありました。しかし、今、海外の教育施策の話を聞いていると、日本に比べ、海外の保育、特に運営者ほど、社会に向けて保育を考えていることが分かります。アンドレアス氏も「教育システムの運営者は、自分の長所と短所に関する知識を得られるが、最前線で教育を運営し尽力している校長や教員はそうではない。自身の知識をより効果的な実践に転換する方法を知らないかもしれない。」と言っています。

保幼小の連携はずっと問題視されている中で、こういった連携や情報交換は非常に重要な意味合いを持たせるのでしょう。そのためには、各々の人たちがそれぞれの現場でどういったことを考え、どういった保育や教育を施し、繋げていくのかということを議論しなければいけませんし、なによりも、どういった人材を育成するためにあるのかという共通認識がなければ機能しないのかもしれません。