偏見

偏見は知らずしらず起きていることがあります。それを「無意識の偏見」とクリスティーン氏は言っています。そして、気を付けなければ知らず知らずのうちに誰かに無礼な態度をとる恐れがあるのです。そうなってしまうと、当然、とても悪い結果がもたらされますし、職場内の無意識の偏見を放置すれば、それは不平等へとつながり、業績に悪影響を及ぼしかねないのです。しかし、多くの人は自然と無意識の偏見をしていると言います。

 

クリスティーン氏がある法律事務所に頼まれて、社員間の直接のフィードバックについて講義した時にアフリカ系アメリカ人の社員から「マイノリティ(少数)は、正直なフィードバックを得られにくい、同僚たちがマイノリティを保護するべき存在と感じ、何か良くないところを見つけても正直に言いにくいからだ」という発言があったそうです。つまり、「悪いところがあっても、気を使って言わないのは、その人を下に見ることであり、侮辱であるばかりか、必然的に失敗へと導くことでもある。自分より下だと思っている人には、初めから期待をしない。だから、正しいフィードバックもしない。その結果、相手が何か失敗をすれば、自分より本当に下であることが証明されたと感じてしまう。いわゆる「予言の自己成就」が起きるというわけだ」というのです。要は相手を下に見ているがゆえに、失敗するのを分かっていながら見てみぬふりをするというのだ。しかし、そんなことをしていると業績が上がってこないのは当然であるし、働く職員のレベルアップにもつながらない。

 

そのため、無意識の偏見と闘うには、隠れている偏見を表に出し、目に見えるようにすることです。「自分にはどういう偏見があるのか」「その偏見によって影響を受けているのは誰か」「それによってどのような結果がもたらされるのか」まず、自分の偏見を持っているといった客観視が必要になってくるのです。

 

保育でも、子どもたちに対して「この子はこういう子」というように悪く言えば「レッテル」を貼る人がいます。確かに子どもの様子や発達を見ることが仕事ですが、それが固定概念化されるとその子自体へのアプローチや関わり方に偏りが出てくるようにも思います。だからこそ、今自園で行っているような「チーム」で子どもたちを見るということは必要なことだと常々思います。一人だけの目線であると、偏見を持った見方に偏ることが起きてしまいいます。そのため、他の人の目線からも子どもを見ることで、偏りが緩和されます。その人にはその人の視点、自分には自分の視点といったように偏らず、複数の視点を持つことで子どもの発達をより多角的に見ていくことができます。しかし、そのためにはそもそものチームを組んでいる職員間も風通しがよく、関わりが持てていなければ、新たな子どもの見方が産まれてきません。最終的には職員間の子どもに対する見方をすり合わせ、尊重しあわなければ、より良い見方にはなりません。やはり大人にっても、子どもにとっても、偏見以上にその人そのものを見つめなければいけませんし、そういった人であるようにしていなければいけませんね。