人間にとっての住居

藤森平司氏の「保育の起源」には日本の住居学からも保育を見ています。そして、人が生きる中で住居という場所はとても重要な要素があるといいます。それは「安心する空間」としての意味合いがまずあてはまります。そして、「仲間と一緒に食事をする空間」という意図があります。人はこれまでの社会脳の中であったように集団になって生活することで生存戦略を進めてきました。そのため、安心でき閉じられた空間を確保できたことで仲間とともに食事をすることができるようになりました。そして、その仲間と食べるという行為、「共食」という行為は人類の特徴であるといわれています。

 

その空間では様々な世代(赤ちゃん~年寄りまで)がおり、火を囲んで、輪になって食べていたのでしょう。そこで赤ちゃんは様々な発達過程の他者を見ることができます。そして、「食べる」という同じ行為を見て、様々な発達過程を見ることができたのです。そういった他者観察を通して赤ちゃんは自己を確立していったのではないかと推測されます。そこでは自己と他者、年齢の違い、男女の違い、多くの違いを感じていたのではないかと言われています。そういった仲間集団の中には、仲間の安全や健康を祈願して豚を生贄にした部族があったといいます。それができたのも安心できる空間があったからこそだといいます。そして、この安心した空間の中で豚を生贄にした姿を表したものが「家」という字だといいます。この安心できる空間とする家は、赤ちゃんにとって共食の中で自己を確立する以外にも、人となるうえで重要な役目を果たすといいます。

 

その一つが「大声で泣くことができる」ということです。泣き声を出すということは敵に居場所が見つかる可能性を上げてしまうとても危険な行為です。しかし、守られた空間であるがゆえに大声で泣くことができたのです。そして、泣くことで、深呼吸するようになり、肺が強くなり、また、息継ぎを覚えることが次第に言葉の獲得にもつながっていくのです。そして、言葉の獲得はヒト属の特にホモサピエンスにとって重要なものになります。この言葉の獲得も、安心できる空間のたまものかもしれないと藤森平司氏は言います。

 

次に、安心できる空間があることで脳の発達にもプラスの影響がおきてきます。人間の赤ちゃんは自力で立つまでに、寝返り、ずりばい、ハイハイなどゆっくりと過程をふんでいきます。その過程は直立するための準備なのですが、同時にその間に、ゆっくりと十分に脳を発達させることができたのです。そのため、安心できる空間には、赤ちゃんが移動できるある程度の広さが必要だというのです。

 

このことを踏まえて考えると、最近の集合住宅では赤ちゃんは大声で泣くことも許されず、様々な発達過程を見ながら食事する仲間もおらず、移動することのできる十分な広さもないといったことが多いかもしれません。現在のわれわれの住む住居は本来の「家庭」とは違うものになり始めているのではないかと藤森氏は言います。

 

人の進化や文化は人類の知恵の集合体であり、一つ一つの文化は生きる力としての意味や意図のあったものなのでしょう。これまでのAIの話でもあったように、これからは「そもそもの人」というものを知っていかなければいけない社会になってきます。人の本来の営みから改めて学ぶことは多いように思います。便利な世の中になったがゆえに、人が捨ててしまっているものもあるのかもしれません。それが「進化」として、これからも有意義な知恵としての進化であるといいのですが、そうでないのであれば、もう一度こういった過去の人の営みから学ぶ必要はあるのかもしれません。