社会

スマホ認知症

先日、テレビ番組で、「スマホ認知症」という症状が最近に人たちに多くなっているということが言われていました。この症状はスマートフォンの過度の使用により脳が疲労し、認知症と似た症状がでる状態のことを指すようです。物忘れや集中力、記憶力の低下などが主な症状で、放置しておくと日常生活に大きな影響が出る可能性も言われています。つまり、脳がオーバーヒートした状態に起きる症状なのですね。

 

現代社会ではスマートフォンは重要なツールであるのは間違いないですし、日々膨大な情報を脳に送ることになっています。そのうえ、身近なデバイスであるがゆえに、枕元までもっていく人も多いほど、常に情報が頭の中に流入するような状態と言えます。結果、脳の前頭葉が疲れてしまい情報処理能力が限界を突破するのですね。

 

実際、オーバーヒートした脳は様々な影響を出し始めます。①伝えたいことを言語化できないことや、受け取った言葉を理解するのに時間がかかるといった「コミュニケーション能力の低下」。②物忘れが多くなり、新しいことを覚えないだけではなく、昔のことを思い出せないことで、仕事や生活にも支障の出る「記憶力の低下」。③一つのことに集中できず、集中力が続かないっといった「注意散漫・集中力の低下」④ひらめきやアイデアが生まれず、簡単な作業で手間取ったり、効率よく作業を進められない。また工夫したりチャレンジすることを避ける傾向が起きる「創造力の低下」⑤計画通りに作業を進められない、段取りを考えられないといった「実行力の低下」。最後に前頭葉が疲労することで感情をコントロールすることが難しくなり、イライラしたり、怒りっぽくなったり、涙もろくなったり、それと同時に、昼間に眠く、夜に眠れないといった症状から、より重い疾患に発展する可能性もある「情緒不安定・体調不良」といったものが症状としてあげられています。結果、これらの症状は睡眠負債や睡眠不足からくる肥満や抑うつ、将来の認知症リスク、にまで影響があるそうです。いくつかのチェックリストが様々なHPに書かれてありますので、気になる方はご自身がどうか調べてみてください。

 

では、これらにならないようにするためにはどうするのか、簡単な方法はスマートフォンを遠くする「デジタルデトックス」が一番早い方法です。使用する時間を決めたり、思い出せないことや調べることをスマートフォンに頼りすぎない。人とのコミュニケーションを重視することや、良質な睡眠をとるといったことが対策になります。まるで、子どもたちがゲームを止められているときのようですね。

 

ただ、そんな疲労困憊の脳ですが、一方で、若返らせることや老化を遅くしたりすることができることもわかってきました。そのキーワードが「運動」です。

GDPと保育

最近日本のGDPがドイツに抜かれ世界4位になったというニュースがみえられました。これを見てどのように思うでしょうか。私は「これからどうなってしまうのだろうか。世界的に見て、日本は弱くなってきているのだろうか」と不安になりました。しかし、池上さんは「after2040」でGDPについて「先進国では『GDP』という概念の抜本的な見直しが一段とすすむ」と話しています。そもそもGDPとは消費してものが生まれることで初めて増えます。つまり「お金をかけない『コト消費』ではふえません。」と話しています。このコト消費ですが、例えば、家族でレストランに行って1人1500円のものを4人で食べれば6000円になり、GDPに反映されますが、家で1000円くらいの素材を買って料理すると1000円しかGDPに反映されません。もっというと、月500円と破格の値段で畑を借りて、野菜を作って自給自足すると当然まったくGDPに反映されません。しかし、その人が畑作りに生きがいを感じていれば、GDPが低くとも生活の豊かさや幸せが生まれると池上さんは言います。

 

一方で、アメリカはGDPが世界1位ですが、「訴訟社会」です。ちょっとした揉め事でも裁判になります。そのため、弁護士の支払いは増え、GDPに上乗せされていきます。また、アメリカは医療費の補助がないので、医療費は高いです。虫垂炎に掛かろうモノなら、手術に100万円かかります。果たしてGDPは高いが結果的に国民は幸せなのでしょうか?と話されています。つまり、GDPが世界で何位かということを国の豊かさの指標にするのではなく、「何が幸せか」という幸福度の方に目を向けた方がいいのではないかということを池上さんはおっしゃられています。このことには私も同感です。

 

最近の新入社員の就職における大切なものの優先順位は給料ではなく、年間休日など自分のワークライフバランスのほうが優先しているようです。まさに今の若い子ほど、幸福度を優先しているのかもしれません。それが悪いことであるとは思いませんが、そういった今の人たちの意見も取り入れて幼稚園を運営していかなければいけなく、思考を柔軟にしていかなければいけないのだろうと思います。

 

保育でも保育活動において似たようなことが言えます。例えば製作活動においては、これまで「作品作り」が活動の中心でした。それは「上手に作る」ということが中心です。しかし、大切なことは作品を作ることではなく「製作活動が楽しい」と思えることが本来の目的であると思います。そして、「楽しい」というのは保育者が「思わせる」ことではなく、子ども自体が実感することです。これが「主体」の捉え方です。いつの間にかその意識が保育者が「楽しませる」ものになっていたり、「製作を上手に作れる方がいい」というふうになってしまうとそれは保育者主体になります。

 

保育と社会とを比較すると同じ構造が見えて来るように思います。要は「主体」がどこにあるのかということです。「幸福度」で見ると、個々の感じ方が中心になります。GDPになるとその指標は「お金の流動」が指標になります。つまり、人の感じ方ではなく「お金=幸福」という見え方になりかねません。保育で言えば、「作品の出来=保育の成果」ではない、ということでしょうか。大切なことは「保育=楽しさ」に目を向けるためには「作品の出来」といった結果に目を向けるのではなく、「作品を作ること自体」といった仮定に価値を求める必要があるでしょうし、「子ども達が熱中しているかどうか」に目を向ける必要があります。

 

少し話が一貫性のないものになってしまいましたが、日本は良くも悪くも結果ばかりに目がいくことが多い社会なのかもしれませんし、結果で良し悪しを考えすぎなのだろうとも思います。当事者に目を向けるということが保育においても、社会においても求められるのかもしれませんね。

社会の変容と好奇心

前回まで、「モラル」ということを軸に人間性や人間力、人とのかかわりを保育の中で重要視していく必要があるという話を書いてきたのですが、これはこれからの社会で生きていくにあたっても重要になってくる事案だと思います。その人間を思いやるような力はこれまでのような学歴や成績以上に重要になってくるであろうと思っていたのですが、このことについて池上彰さんの「未来予測 After2040」にもこれまでとは違った能力が未来の社会では必要とされることを示唆する内容が書かれていました。

 

これからの時代の変化は間違いなくAIが業務にかなり多くの割合で使われるようになります。そして、今現在ある仕事が無くなってしまうものも多くあり、それは簡単な単純作業の代替だけではなく、業務によってAIに置き換わるようにもなってくるといわれています。たとえば、裁判の判決を行う裁判官や検察官、弁護士が判決を出す際、判例によってある程度結果が決まりますが、過去の判例のデータを効率よく出すのはまさにAIの得意とするところです。なので、弁護士の補助的な業務をするパラリーガルのような仕事は減ることになるだろうと言っています。また、会社の経理もAIと相性のいい仕事です。記者の仕事も、結果を伝えるような記事やデータをまとめるような「コタツ記事」のようなものはAIが得意とするところです。驚くことに生成AIは日本経済新聞が主催する文学賞「星新一賞ており、2022年AIと人間が共同で作った作品が初めて入選しました。最近ではNHKの番組でのニュースの読み上げがAIをしていることもすでに行われています。このようにすでにAIが社会の中で少しづつ浸透している現状があります。もうすでに無くなってきているものもあります。レストランではタッチパネルでの注文になっていたり、コンビニやスーパーのセルフレジなど、こういったものはすでに代替が始まっており、スタッフがいなくてもよくなっている現状があります。

 

しかし、一方で、AIをうまく使いこなす人は確実に生き残るといっています。現在アメリカでは生成AIに対して優れた指示(プロンプト)を出し高品質な答えを引き出す「プロンプトエンジニア」という仕事が需要や年俸も高くなっているそうです。しかし、この職業も2040年には消えるとみられており、今後需要として増えるのは「企業ごとの専門知識や個性を身に着けた『最適な』な生成AIを作っていく『AIトレーナー』という仕事」だそうです。このように新しく需要のある仕事を生み出すのは「困っている誰かのために」などと仕事の目的や意義を常に考えられる人でないと不可能であり、やはり人間力が大事になると池上氏は言います。「だれのためにAIを使って作るか」といったクリエイティブな能力と思いやりを持った人を予測する力が必要な世の中になるのだと思います。

 

このように仕事の価値がこれまでと大きく変わると思うと不安になってきます。しかし、池上さんは「2040年は暗い未来が待っていると思えるかもしれません。しかしそういう時は思い切って好奇心をもって、新しい仕事に挑戦するしかありません」と言っています。ここに教育の一つ目の重要点が隠れています。それは「好奇心を持てる人材を育てる」点です。新しい社会が待っていており、それに対して悲観的にしていても、しかたありません。その時代にどう生きていけるかといったときに、そこに柔軟に対応する力が必要になります。そのために「好奇心」は非常に重要なスキルになります。

 

特に乳幼児教育は学校教育とは違い「できること」を目的としていません。「楽しむ」や「味わう」「豊かにする」という言葉が教育要領にも多く語尾として出てきます。私はそういった意味で乳幼児教育は「好奇心や探求心」を育むことができる一番の時期であると考えています。そして、社会で一番重要なことを得る時期において、乳幼児教育の影響はかなり大きいように思います。

人との関係性から得られる規律

先日の為末さんの話はとても考えさせられるものがありました。

確かに日本は同調圧力が強い国だと思いますし、それがモラルを生み、安心な国にしていたということはとてもよくわかります。うちの園の理念は「自由と規律」ですが、この内容の中に「規律」を作ることについてこういっています。「社会を営む上ではいろいろなルールがありますが、それは決まりを守ることでお互いが快適に生活できるためのものです」とあります。このルールや法律、規律というものはそもそもは「守らなければいけないもの」ではなく「守ることで自分も人も快適に生きるためにある」ということは忘れがちなような気がします。それは裏を返すとルールや法律になければ「何をしてもいい」ということでもありません。

 

そのため、社会の中で生きるためには自分だけではなく、人とのかかわりや関係性を理解することが重要になります。そして、人との関わる力というのは座学で得れるようなものではなく、さまざまな関わりの中で経験する体験であり経験値であると思っています。一番それを感じるのが子ども同士のトラブルが起きたときです。トラブルやケンカは基本的に「自分の思いと相手との思いとのぶつかり合い」であることが多いように思います。自分が一方的に悪い場合でも、起こした側がそれを感じていないと解決しません。

 

そこで大人はどういった役割かというと「問題を解決する人」ではありません。もし、そういった介入をしてしまうと、結局大人が法律によって解決するのと同じで、解決するに際、自分で相手を思いやるような考えを持つのではなく、他者に白黒をゆだねることになります。トラブルの際、大人は本来子どもたちが自分たちで話し合って、当事者間で解決するように間を取り持つことが重要であると思っています。それは子ども同士が相手の気持ちを受け止め、そのうえで自分の思いを伝えることで、お互いの関係性のあり方や考えを知る機会にしてほしいと考えてるからです。そう考えると、解決がすべてではないということが見えてきます。自分たちが納得する結果をどれだけ自分たちで見つけることができるかが重要になってくるのです。

 

しかし、一方で大人が介入しなければいけない瞬間があります。それは「暴力による解決が起きたとき」です。この時は大人が介入しなければいけません。暴力での解決は何も生みません。ただ、力関係をはっきりとさせるだけのように思います。それはやり取りでもなければ、納得する形での終結にも向かわないように思います。

 

私の園で行っている藤森メソッド(見守る保育)は異年齢保育という形態をとることが保育の特徴でもあります。この保育形態において前述の関係性の構築にメリットがあることが多くありました。その一つの特徴は年齢別では近い発達の人の関わりのケースになりがちだが、異年齢では年齢別だけではなくいろんなケースで他者を感じるいい機会になるからだと思っています。

モラルと社会の同調圧力

最近「モラル」という言葉をよく聞きますし、よく感じます。ニュースを見ても、あおり運転やドローンの問題、SNSの問題などあげ始めればきりがありません。そもそもモラルというのは何を言うのでしょうか。無人島に一人でいるとそのモラルは必要とはされません。何をしても咎める人がいないだけに何でもできます。しかし、そこにほかの誰かいたら、ある一定の「ルール」がなければ安心して生活ができなくなります。しかし、それは「ルール」や「規律」であって、「モラル」と同義語ではないように思います。私は「モラル」というのは「思いやり」から始まる「暗黙のルール」だと思っています。

 

辞書でいうとモラルは「人が現実社会において守るべきとされる規範」と書かれいます。AIに聞いてみると「人が社会生活を送る上で守るべき倫理的な規範や道徳のことです。法的な拘束力はありませんが、個人の良心や価値観に基づいて行動を導く、善悪の判断基準として捉えることができます。」と出てきました。「法的な拘束力がない」というのが重要なところのような気がします。それは「個人の良心や価値観に基づく」という言葉に表されているとおり人によって千差万別であり、やはり社会と個人の価値観とを「すり合わせていく」という作業がモラルを守ることに重要なことのように思います。

 

そう考えると昨今の「モラルがない」というのはとても危険なことです。いかに個人だけの主張が強くなっている時代で、社会に対する影響が強くなっているのかということを感じます。そして、それらを「法律を整備しなければ守れない」社会というのも怖いものです。ドローンの問題もSNSの問題も法整備以前にそもそものモラルがあれば問題は起きなかったように思います。元日本代表の為末大さんが自身のNOTEで日本のモラルの高さについて日本の安全性について「安全安心は突き詰めると思い込みです。」と話していました。「近所の人も一定のモラルがある。という前提で私たちは『安心感』を得ています。しかし、もしも『やろうと思うなら』、どこにも安全はないことに気が付きます」といわれていました。確かにその通りだと思います。

 

そして、日本がモラルが高い理由について「高信頼社会を、同調圧力によって保ってきました。同調圧力はなんらかの形で社会に内包されていないと通じません。近代は地縁から解き放たれ自由になりましたが、同時に個人を内包する力も弱まりました。孤立と自由は表裏一体です。」日本は同調圧力が強い国だといわれています。「同調圧力」といわれると悪い意味でも捉えられますが、一方で、だからこそ逸脱した動きが抑止され安心できる人間関係にあるということも言えるようです。

 

だからといって「同調圧力がいい」とは私は思いません。それはその同調圧力に乗っかるだけでは意味がなく、その中で自分の意見を話すことや他者と自分を調整し、よりよい社会を作ることが重要だと考えているからです。結局のところ、思いやりを持った関係性というものが重要になってくると思っています。