体験の記憶(平成10年度)10月
幼稚園の子供たちが、テレビゲームやたまごっちのような、いわゆるコンピューターゲーム機を、どのくらいの子が持っていて、その子供たちがどのくらいの時間、それで遊んでいるのか調査をしたことがないので解りませんが、今日の様子だと、相当数の子供たちが、それを買ってもらって、「仮想現実の世界」で遊んでいるのではないかと思われます。ボタンを押せば、簡単に相手をやっつけたり殺したりもします。たまごっちもボタンを押すだけで子供を育てることができます。そのゲームで勝ったり高得点を得るため、必死になって相手を殴り倒したり、やっつけたりします。いくら殴ったり殺したりしても、血を見ることもありませんし、殴った手が痛くなるわけでもありません。たまごっちで子育てしても、実際におむつをしかえることや夜泣きして起こされることもありません。うまく育たなければ、簡単にボタンを押して消すこともできればやり直しもできます。
もし、子どもたちが毎日のかなりの時間を、このような遊びをして仮想現実の世界に浸っているといるとしたら、何か末恐ろしい気がしてなりません。もしかして、人をいじめたり殴ったり、ナイフで刺しても、余り心の痛みを感じないような子供が育ってしまうのではないかと思うのです。そうだとすれば、このようなたまごっちやテレビゲームの仮想現実の世界で遊ぶ時間をできるだけ少なくしていくことを真剣に考えなければなりません。
今日、小学校や中学校での、いじめや不登校の問題、校内暴力やナイフによる殺傷事件等々、様々な問題が表面化しています。そして、今日の社会では、このようなことが、どこの学校や家庭で起こっても仕方がない状況になっていると言われます。それほど子供の世界が異常な状況に置かれ、これらの原因には様々な要因が相互作用し複雑化しているのだと思います。
この要因の一つに、子供たちの生活が、たまごっちやテレビゲームのような仮想現実の世界に浸っていることが上げられるのではないかと思うのです。
私たち大人の子供の頃は、このような仮想現実の世界に浸って過ごすというようなことはほとんど経験しないで育ってきています。長い間の人間の経験を通して培われた、生活の知恵や子育ての方法の中で育てられてきました。そこでは、子どもたちは戸外で、自然の中で、日が暮れるまで友達と遊んでいました。
例えば、兄弟喧嘩をしたり、友達と喧嘩をしたときには、殴ったりひっかいたりすることがあります。殴られた相手はもちろん痛いのですが、殴った自分の手も痛かったり、喧嘩に勝っても、泣いている相手を見て自分の心も痛みを感じます。そのような身を持っての経験の中から、喧嘩の手加減や相手に対しての思いやり、喧嘩にならないよう感情をコントロールする自制心も育ちます。
ところが、コンピューターゲームでは相手を殴り殺しても、なんの痛みも感じません。気に入らなかったら簡単にやり直したり消したりします。感情の自制を必要としません。
今、私たちは、今まで人類の経験したことのない環境の中で子育てをしているといっても過言ではないのです。仮想現実の世界に浸って生活する子供たちが、どんな人間に成長するのかは、まだ解らないのです。危険さえ感じます。
子供たちは、「知識の記憶」と「体験の記憶」を脳の中に持っています。知識の記憶というのは、本を読んだり、親や先生から習ったり勉強したりして身に付けます。ところが、体験の記憶は、いくら本を読んでも、勉強して知識を身につけても、獲得できないのです。
熱い冷たいということや土や水の感触は実際に触ってみないと解りません。熱くなれば汗が出てきたり、日陰に入れば涼しくなるということも体験の中から学びます。勝てば嬉しい、負ければ悲しい、優しくしてもらうと嬉しい、転べば血が出る、痛い、友達と一緒に遊べば楽しい、お母さんに抱きしめられたら気持ちが休まる、等々、様々な経験を通して、脳の中に「体験の記憶」として残るのです。このような体験を通して、子供たちは、喜びや悲しみを知り、痛みや相手を思いやることも学び、危険なことやその時の対応の仕方や防ぐ方法も獲得します。競争する心や助け合う心も育ちます。善悪の判断もできるようになります。
このような「体験の記憶」は、子供たちの生活の中で、自然との関わりや遊びを通しての直接経験の中で培われるのです。コンピューターゲームのような「仮想現実の世界」からは、獲得できないのです。人間として成長していく過程の中で、より望ましい豊かな経験を、特に、自然と関わったり友達と遊ぶことを、しっかりとさせてやって欲しいのです。
我が家のコンピューターゲームを、今一度、見直してみて戴ければと思います。
1998年10月7日 5:59 PM | カテゴリー:白髪せんせいのつぶやき | 投稿者名:ad-mcolumn