子供達が幼稚園に植えて育てている稲や野菜や花が、順調に生長しています。毎日元気に過ごしている子供達の姿と重なり、幼稚園全体が生き生きとして見えます。先週から、昨年度はできなかったプールあそびも始まり、こうしてゆっくりでも良いからこれまでの日常が取り戻せますように……と願いながら子供達の笑顔を守りたいと思っています。
さて、先月は“母の日”今月は“父の日”と、お母さんやお父さんの事を想う日が続きました。私事ではありますが、この6月は13年前に母が、昨年は父が他界した悲しい出来事があった月です。先日は父の一周忌と母の十三回忌の法要を行い、身内で父と母の思い出話に花が咲きました。私の両親は62年前にふたりで小さな時計店を始め、軌道に乗るまでの数年間は、地元の高校に通う生徒を下宿させたり、母は和裁をしたりして生計を立てていました。私が小学生になって時計店一本になっても両親は、毎日接客や時計の修理等で忙しく働いていました。そんな日々でしたから、全てを親に頼る事も出来ず、色々な事を自分でせざるを得なかったように記憶しています。夕飯時なのに、食卓にはまだ準備ができていなくて仕方なく買い物に行き、できる料理をして妹と弟とで食べる事もよくありました。制服のブラウスのアイロンがけや持って帰るお弁当箱を洗うのは当然自分達の仕事でした。
私が小学校6年生だった夏、市内の小学生の水泳大会に出場する事になりました。(やる気だけで選ばれました。笑)夏休み中、学校へ毎日練習に行きました。その練習を友達のお母さんやお父さんは時々応援に来られていましたが、私の両親は一日も見に来てくれませんでした。忙しい事はわかっていたので仕方がないと諦めていました。そんな中迎えた大会当日、プールの周りにはたくさんのお父さんお母さん達が応援に来ておられました。その中に、なんと、来てくれると思っていなかった母の姿があったのです。ビックリして、母の所に行くと「これ、おやつに食べなさい。頑張りなさいよ。」と言って、小さな紙袋を渡してくれました。中には、プリッツ1箱とチーズが……。大会の事より母に来てもらえた事の方が嬉しくて一日気分が良かったのを覚えています。母は最後まではいませんでしたが、私が大会から帰ると、「50メーターの真ん中あたりで、追い越されたね~。でもよく泳いだね。毎日練習をよく頑張ったよ。それでいいよ。」と凄く凄くほめてくれました。後で聞くと、大会を気にする母に父が「今日はお店はいいから、観に行ってやれ」と言ってくれたらしいのです。
何でもない事のようですが当時の私にとっては、大会の練習の様子を毎日見に来たり聞いてくれたりしていたわけではなくても、私の頑張りの全てを両親はちゃんと分かってくれていた事と、忙しい中、毎日の練習に持たせてくれるお弁当も当日のおやつも最
大の応援の形だった事を感じ、今でも忘れられない思い出となっています。側にずっと居て私の事をしてくれたり気にかけてくれたりする愛情より、はるかに大きな愛情を感じた出来事のひとつになっています。
先日、年中組のある女の子が、登園してすぐに「お腹が痛い」と不調を訴え、職員室で休んでいました。心細くなったのか涙が出て止まらなかったのでお家での様子を聞くためにお母さんに連絡をしました。すると、「確かに、少しお腹が痛いとは言ったのですが、少しすると普段通りに支度を始めたので、体調より気持ちの問題かもしれない。先生、私はいつでも迎えに行きたいんだけれど、今、行ったら気持ちを持ち直せなくならないかな?どうですかね?」と、我が子が弱くなっている気持ちを自ら打破して欲しいという願いと泣いてるのならすぐにでも迎えに行ってやりたいという思いとで迷われていました。結局は女の子の涙は止まらなかったので本調子ではないのだろうという事で迎えに来ていただきました。そのお母さんは、すぐに笑顔で抱きしめ「じゃあ、今日はママと一緒にゆっくりしようか。」と連れて帰られました。甘えから来ているかもしれない弱さを簡単に抱きしめるのではなく「ここを踏ん張ったら…踏ん張らせないと…」と、子供を信じて心を鬼にして支える事も我が子の先を見据えた愛情だと思いました。その女の子は次の日元気にやって来ました。その時お母さんが「先生、昨日は迎えに来させてくださってありがとうございました。」とお礼を言われました。本当は、一刻も早く迎えて抱きしめたかったんだろうと、ここでも見え隠れする親の愛情を感じたのです。
また、少し前に私は、全園児に向けて「4月から少しずつ大きくなっているみんなに頑張って欲しい事があります。自分の荷物(かばんや体操服袋)は自分で持ちましょう。」という話をしました。自分の事は自分で頑張るという生活を小さな事から始め、将来に繋がる責任と自立の気持ちを育てたいと思っているからです。それから子供の中には、「自分で持つ!もうここで大丈夫!」と車から降りて、得意顔で幼稚園の中に入って行く姿を多く見るようになりました。小さな身体には荷物が重そうにも見え、お母さんは子供の背中を心配そうに…でも、笑って見送っておられます。年長組のある女の子がカラー帽子を被らず遊んでいるのを見て、「カラー帽子は?」と声をかけると、「今日忘れたの。私、いつも自分で準備するから、私の失敗!明日は忘れない!」と恥ずかしそうに…でも元気よく笑って答えてくれました。何もかもをお家の人に準備してもらう毎日では、子供は“忘れ物はないかな?全部あるかな?”と自分で気にする事もありません。意識する事が自立に繋がるのだと思います。“自分の事は自分で”──これは、親と子供の間につくる“ほど良い距離”です。付かず離れずの……でも深い愛情のような気がします。
子供達には、お父さんお母さんがこれまで片時も離れず、寄り添い注いでこられた愛情が根っこにあるのですから、どうか、自信をもって、「付かず離れず、見て見ぬふり」をしてみてください。きっとお父さんやお母さんの愛情は伝わります。そして、それを感じながら大きくなろうと力を発揮し始めるのです。実に頼もしいじゃあないですか!子供達が大人になって、その深い愛情にあらためて感謝する時がいつか来るはずです。
2021年6月30日 10:11 AM |
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新型コロナウイルスの感染拡大が依然として収まらない状況です。わずか数年前なのに、マスクをせず出かけたり人と会ったり集まったりしていた世の中を懐かしく思えたりもします。辛抱辛抱の日々、外出自粛を余儀なくされている今、家庭での過ごし方も以前より変わってきているのではないでしょうか?または、どう過ごせば良いかと悩まれていたりするのでは?
さて、そんな中、1才8カ月になる幼稚園の先生のお子さんと、毎日子守りを任されているおばあちゃんとの微笑ましい話題に触れ癒されました。そのおばあちゃんは、毎日、忙しく帰りが遅くなるお母さんを 孫が良い子で待てるように、いろいろと楽しませてくださっているようです。お母さんである先生は、おばあちゃんが動画に撮ってくださるその様子を時々私に見せてくれます。おばあちゃんと一緒にお墓参りをしたり、自分で一生懸命ご飯を食べたり、庭でおてんばしていたり……。そんな可愛い様子には、それを見るだけでも癒されます。「園長先生!ちょっと見てください。」とその日、見せてくれた動画は、おばあちゃんとその日仕事が休みだったお父さんと三人でホットケーキを作っている様子でした。どうやら絵本『しろくまちゃんのほっとけーき』を読んでもらいながら作っていたようでした。どろどろのホットケーキのタネをおたまで上手にホットプレートの上に乗せていました。2才にもならない子がひとりでするのですからテーブルのあちらこちらも、ぽたぽた どろどろです。「あ~ぁ」と思わず声が出てしまう程でしたが、そのおばあちゃんとお父さんは、それを楽しんでおられるようでした。「○○ちゃん、今、どこ?ぽたあん どろどろ」しばらくすると「ぴちぴちぴち ぷつぷつ」と絵本のシーンを追いながら焼けるのを三人で待っておられました。そして、焼きあがると、その子は満面の笑みで食べていました。
幼稚園でも、その本のホットケーキが焼けるページを読みながら「だんだん焼けて来たね、ちょっと匂ってみる?」と、絵本を子供達の鼻に近づけると「わ~!ほんと!いい匂い!」と言って、ホットケーキが焼けるいい匂いがさもしているかのような反応をします。その時に子供達が思い浮かべている匂いは、これまでに自分が嗅いだ事のある数々の香りの引き出しの中からホットケーキやお菓子の匂いを取り出してイメージしているのです。
年中組の先生がそらまめのさやを持って来て、子供達に剥く体験をさせていました。『そらまめくんのベッド』という絵本を読んで、実際にそらまめを見せてあげようと思ったようでした。「くものようにふわふわでわたのようにあったかい」というフレーズがありますが、そらまめのさやの中を実際に見ていないと、その部分が子供達の頭の中でイメージが湧きにくいのです。剥いてみてふわふわした綿で豆が包まれている事を知ると、まるでベッドのようだ!と感動します。そして、子供達は、そのそらまめに目や口や手足をくっつけてイメージし、そらまめ君達の冒険を一緒に楽しむのです。実際にさやの中のふわふわの綿を見たからこそ、そらまめ君達が眠るベッドが本当に気持ちよさそうだと想像できるのです。
その少し前にはその先生が大きな背の高いたけのこを持って来てくれていました。皮を剥いた後、子供達が「たけのこが百何枚(?)も皮の服を着てたんよ!」と興奮しながら教えてくれました。「このたけのこが大きくなったら何になるか知ってる?」と聞くと「うん!竹!竹の子供だから“たけのこ”なんだよ。」と自信たっぷりに答えてくれました。「そのたけのこ、もしかしたら大きくなってかぐや姫が入る竹だったかもしれないね。」と言うと、昔話がピンとこなかったのか、たけのこと竹とが結びつかなかったのか、キョトンとして残念ながら盛り上がりませんでした。でも、いつかまたその子達が竹を見た時に、何百枚もの皮の服を着たたけのこの事を思い出し、“かぐや姫”の話とその時の感触や匂いや重みを繫ぎ合わせてイメージを膨らませて楽しむ事ができるでしょう。
私が、満3歳児クラスを担任していた10年以上も前の事…。子供達は『おおきなかぶ』の絵本が大好きで、何度も何度も読み聞かせていました。「うんとこしょ どっこいしょ。それでもかぶはぬけません」と繰り返すフレーズがお気に入りのようでした。その頃、我が家の畑にたくさんの大根が育ったので、子供達に大根を抜かせたいと思い、園バスで畑に連れて行った事がありました。小さな子供達が隠れそうなくらいの大きく長い大根の葉を皆でつかんで抜こうとしました。当然の事ながら、ちょっとやそっとでは抜けません。私が、「先生でも抜けなーい!助けて~」と言うと、子供達がどんどん私の後ろに繋がってしぜんに「うんとこしょ どっこいしょ うんとこしょ どっこいしょ!」という掛け声が聞かれ、尻もちつきながら力いっぱい引っこ抜こうと頑張っていました。子供達は、絵本の中のそのシーンを実際に体験した事で、おおきなかぶを抜く時に、どこに力を入れて、どんな風に踏ん張って、どんなに大変な事かがはっきりイメージできて、もっと『おおきなかぶ』の絵本が好きになりました。
『しろくまちゃんのほっとけーき』
わかやま けん 作
こぐま社
『そらまめくんのベッド』
なかや みわ 作
福音館書店
『おおきなかぶ』
A・トルストイ 作
福音館書店
絵本を食い入るように見てお話を聞く子供達、そこに出てくる物や景色を実際に見たり触れたりする事で、絵本の世界が実写版になって感じ方に広がりができます。その話の中に自分を登場させて心を躍らせながら、いろいろな人や動植物を自分の身近なものとして慈しみ大切に思う心や、夢を抱く心が育っていくような気がします。
子供達は“空想の世界”と自分が体験した事がある“現実の世界”とをリンクさせて自分なりにイメージを広げ、その絵本の物語に入り込んでいきます。絵本の世界の登場人物と一緒にホットケーキを作っている気分になったり気持ちよさそうなベッドに一緒に入ったりして、しろくまちゃんやそらまめ君達の嬉しかったり楽しかったりする気持ちを想像する事が出来るでしょう。そして、豊かな感性が育っていくのだと思います。人の心や周りの空気を見たり触れたり感じたりしてイメージできる力は、これから先、どんどん世界を広げていく子供達にとって、そこに順応して生きて行く力に結びついていくのではないかと思うのです。
この文章を考えている最中、世界中の子供達に親しまれている絵本『はらぺこあおむし』の絵本作家 エリックカールさんの哀しい知らせが届きました。手掛けられた数々の絵本はこれからも子供達の心の世界を豊かに広げてくれることでしょう。
2021年5月31日 4:46 PM |
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新しい春の始まり……。春休みには、3月に卒園した1年生がランドセル姿を見せに来てくれたり、中学・高校・大学受験を突破した卒園児達が報告に来てくれたりして様々なスタートを切る子供達の頼もしい姿に元気をもらえたような気がしました。幼稚園でも2021年度がスタートしました。新しい生活に胸を膨らませて元気いっぱいに遊ぶ進級児、初めてお家の人達と離れて過ごす事に不安を隠せない新入園児達。歓喜の声や泣き声、友達や先生を呼び合う大きな声──いろいろな声が幼稚園中に響き渡って賑やかです。
昨年度の終わり、卒園を迎える年長組の子供達に、『おおきくなるっていうことは』(作:中川ひろたか)という絵本を読んであげました。新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から卒園式の時間短縮、規模縮小等の制限もあり、本来なら卒園式で子供達に伝えたかった事を前もって各保育室を回りこの絵本と共に話をしておきたかったからです。幼稚園を卒園して小学1年生になるという大きな変化は、子供達にとって大きくなる事を実感できる出来事です。それまでの自分と今の自分、そしてこれからの自分のどんな事が違ってきたか?何をもって“大きくなる”というのか?改めて大きくなる自分と向き合って考えて欲しかったからです。『おおきくなるっていうことは…』のフレーズで始まるいろいろな出来事、身体の変化だけではなく心の変化を言葉にして伝えてくれる絵本です。卒園前にその絵本を通していろいろな事を子供達なりに感じて欲しいと思いながら読みました。
大きくなったのは、卒園児だけではありません。進級児達も前よりお兄さんお姉さんになっています。どの子もみんな一つずつ大きくなっています。また、幼稚園に入園したばかりの不安気な新入園児達も、それまでのその子より大きくなっているのです。「大きくなったね」「成長したね」と言うけれど、子供達にとってその言葉はとても嬉しくて誇らしい事なのに、実は抽象的で実感しにくい言葉かもしれません。“大きくなった”“成長した”はそのもの自体が見えないからです。例えば、誕生日を迎え4歳になった。去年まで着ていた服が小さくなって着れなくなった。前はできなかった事ができるようになった。──こうした見える変化を共感してあげる事で子供達は体感しながら(本当だ!私、大きくなってる!)と、大きくなった自分に気づくのです。
満3歳児クラス(さつき組)に入園してきた男の子のお世話を一生懸命にしてくれる年長組(さくら組)のある男の子がいます。名前がたまたま同じなので、先生達が「同じ名前の男の子が今度さつき組に入園して来てくれるからよろしくね。」と頼んだ事がきっかけでした。入園してすぐ手をつないでいろいろな所へ案内してくれたり、一緒に付いて回ってくれたり、あの手この手で泣き止ませたり楽しめたりできるように考えてくれたりもしていました。そのうち、涙が出るそのさつき組の男の子は幼稚園にも慣れてひとりでも楽しく過ごせるようになりました。独り立ち(?)したその子を少し寂しげ(笑)に見守るさくら組の男の子に「○○君がいつも優しく遊んでくれたり、いろいろな所に連れて行ってくれたりしたから、あんなに元気で遊べるようになったんだね。きっとあの子は○○兄ちゃんの事が大好きだと思うよ。ありがとうね。」と言うと、「うん。また、泣いてたら遊んであげる。」と誇らしげでした。大きくなった自分を実感してくれたと思いました。それからも、彼は毎日さつき組の男の子を気にかけてくれています。
さくら組の子供達がトイレに行くと、丁度、大勢の年中組(もも組)の子供達がトイレに居て、順番に出て来るのを並んで通り道を開けてあげていたそうです。さくら組の先生はお兄さんお姉さんらしいその姿が嬉しくて私にも教えてくれました。自分の事より小さい子を優先させてあげようと考えられる──これも大きくなるという事。それがしぜんにできる事も成長したという事。そんな時、「ありがとうね」「嬉しいよ」「助かったよ」というさりげない言葉や態度で返してあげる事は、子供達自身に“(ぼくは)大きくなった”“(私は)成長した”という事を実感させるための“見える化”となります。
今、そんな“大きくなった”子供達の姿をあちらこちらで見かけます。朝、中門でお家の人と離れるのが辛くて泣いている小さな子を見て「連れてってあげようか?」と言ってくれたり、保育室に行って着替えを手伝ってくれたり、泣いている子がいれば先生の所に「あの子が泣いてるよ!」と教えに来てくれたりしています。頼もしいお兄さんお姉さんです。先生達も遠慮なくそのお兄さんお姉さんに頼ります。「これからも、小さなお友達の事をよろしくね」と頼りにする事で“見える化”しているのです。
そして、新しい環境に戸惑っている新入園児達だって、去年までのその子よりぐーんと大きくなっている事を感じてあげてください。中門で大きな声で泣いても、「幼稚園に行きたくない!」と言っても、お昼ごはんがなかなか進まず食べていなくても、みんなと同じ事ができていなくても、それでも、集団生活に一歩踏み入れたその事だけで入園するまでのその子とは違っているのです。「成長する」入り口にいます。大きくなったからこそ!の一歩を踏み出したのです。昨日より今日、今日より明日…とほんの少しでも、変化した様子を認めて喜んであげましょう。子供達のちょっとした日々の成長を…大きくなった事を“見える化”してあげてください。急激に成長を見せてくれる子もいれば、じわじわじっくりタイプの子、3歩進んで2歩さがるタイプの子……といろいろです。お子さんの成長していく様子をお家の人達が余裕をもって見守り、我が子なりのあり様を受け入れる事が大切だと思います。そのたびに、“大きくなった”事を実感させてあげてください。
進級児達も新入児達も、この三次中央幼稚園の環境全てを思いっきり使い、人としてより良く「進化」「深化」して行けるよう、私達も子供達を応援していきます。
今年度も『葉子えんちょうせんせいの部屋』で毎月お付き合いいただきたいと思います。子供達は未来ある宝だと思っています。幼児期の今できる事、今でないとできない事、この時期にこそ必要な事は何か?子供達にとって真の幸せとは何か?を問いながら、保護者の皆様と共に考え合うきっかけとなればと思いながら書かせていただきます。読んでいただく事で子供達の事を更に愛おしく感じてもらえたら嬉しいです。どうぞよろしくお願い致します。
2021年4月28日 4:19 PM |
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昨年の初夏、我が家の庭の隅っこにフキを数本見つけました。来年の春には、この場所でフキノトウを見る事ができるかもしれないと、ちょっとした楽しみにしていました。寒い間はそんな事も忘れていましたが、柔らかい春の光を感じる休日に「そう言えば…」と思い出しその場所に行ってみると、ちゃんと小さなフキノトウが土の中から数個頭をのぞかせていました。この一年大変な事がいろいろあったけれど、ちゃんと春はやって来てくれたんだねと嬉しくなりました。
暦の上では節分を境に春が始まります。節分と言えば「豆まき」。古来、季節の変わり目には悪い事が起きがちだとし、その邪気を追い払うために行われるようになった年中行事です。幼稚園でも2月2日には「豆まき」をしました。その日までに先生達は子供達に「豆まき」の由来や意味について紙芝居や絵本などを読み聞かせながらわかりやすく話をしました。当然ですが、子供達は「鬼=怖いもの」というイメージを持っているので、警戒しながらその日を迎えました。鬼の登場から「鬼は外!福は内!」と叫びながらの豆まきによる鬼退治劇では、自分の身を守る為に一生懸命に豆まきをする子供達は皆真剣そのものでした。この日本の古来から伝わっている行事について考えてみます。
幼稚園には鬼が来た翌日、子供達から聞いたところによると「家には“お父さん鬼”が来たよ。だから怖くなかった」とか「めっちゃ怖い鬼が来た」とか「幼稚園で退治したから、もうお家には来なかった」等いろいろでした。鬼に対して、子供の反応も親の受け止めも様々だった事が伺えました。鬼は確かに怖いものです。今の世の中、その受け止め方も賛否両論です。ただ単に鬼を登場させて怖がらせるのではなく“賢く健康に成長しますように”“災いもなく平和にすごせますように”との願いが込められています。邪気を祓い新たな気持ちで先を生きる力をつけるという先人の願いが込められた大切な日本の伝統のひとつのような気がします。私達が幼い頃には「嘘をついたら鬼や閻魔様に舌を抜かれる」と脅かされながら、「嘘をつく事はいけない事」だと教わりました。見えないこの得体の知れない怖いものには逆らえないという縛りから、いつの間にか規範意識を身につけたような気がします。大人になるまでずっとその事を本気にしていたわけではなく、成長するにつれていろいろな経験を積みながら本当の物事の善悪の判断が鬼を頼らずしてできるようになったのです。昔の歌ですが、「トイレの神様」という歌があります。(古いですね)おばあちゃんが、トイレ掃除が苦手な孫にトイレにはきれいな神様がいて掃除をしたらべっぴんさんになるという歌があります。また妊娠中にトイレ掃除をすると可愛い子が生まれる等という迷信があります。これまた得体の知れないものを信じ、汚い所をきれいにする事で気持ちを清らかにできる事を習慣づけられました。この得体の知れない「鬼」とか「女神様」を恐れたり信じたりする経験は自分への戒めなのではないかと思うのです。
子供達には節分の豆まきの意味を、“心の中の鬼を追い払い、きれいな心にする事によって幸せを呼ぶのだ”と話します。子供達それぞれに、「みんなの心の中にはどんな鬼がいるか見てごらん」と言うと、服の首元から胸の中をのぞき込み、いろいろな事を言っていました。「野菜が食べられない鬼!」「泣き虫鬼!」「ケンカ鬼!」「おしゃべり鬼!」…。思いつく悪を鬼に変えて言っていました。子供達もちゃんとわかっているのです。それが心の中でわるさをするために、偏食をしたりすぐに泣いたり喧嘩をしたり、人の話を聞けずにいたりするのだと、自分のせいではなくその得体の知れない何者かのせいにするのです。それさえいなくなれば、良い子に…強い子になれると信じているのです。無病息災を祈り身体の鬼を追い払う事で気持ちが強くなり病からも災いからもどうにかして逃れられると信じているのです。子供が自責の念に駆られなくてすむ…ある意味優しい?行事かもしれませんね。
人間は誰もが“善の心”と“悪の心”を持っています。そして、この善と悪の心を戦わせながら社会に順応して生きています。悪の心が誰かを傷つけたり、自らが悪に染まってしまったりする事もあるかもしれません。そんな時、善の心が「それでいいのか?それはいけない事じゃないか?」と戦うのです。その戦いに勝利しながら規範意識をもって生活しています。子供のうちは、周りの大人達に悪から守ってもらい、善の道を照らしてもらえています。でも、大きくなるにつれて世界が広がり、自ら闘わなければならない状況に何度も出くわす事が増えてくるはずです。右か左か?諦めるか頑張るか?進むか止まるか?を選ばなければならない時にどちらが善でどちらが悪となるのかを冷静に判断できる力が必要です。そのためには、自分の弱さとか欠点を知り、そこを何とかしようと自ら努力する強い心を持ち合わせていなければならないのです。そういう事を子供達に伝え、強い意志を持った大人に育てるために、この行事が残されて来たのだと思います。節分の豆まきをした後で、お迎えを待つ子供達に「今日の鬼は怖かった?」と聞くと「凄く怖かったよ~でも泣かなかったよ」「豆を鬼に命中させてやっつけたよ」「園長先生は大丈夫だった?」等と口々に話してくれました。「心の中の鬼はどうなった?」と聞くと服の首元からまた胸を覗き込み「うん!もういない!」と安心した顔で答えました。自分で自分の心の中の鬼を追い払うことができたと思う事で、心身共に健やかな賢い自分になれた事を喜んでいたようでした。
3月はひな祭り(桃の節句)、5月にはこどもの日(端午の節句)があります。これらの伝統行事もまた、大切な子供達の健やかな成長を願う年中行事です。そこに飾る一つひとつの物にも全て、その願いに通ずる意味合いを持たせてある事に愛を感じます。昔とは生活様式も変わり、様々な伝統行事は時代と共に薄れがちです。かつて良い薬もなく簡単にお医者様に診てもらう事の出来なかった時代から伝えられている子供達の健やかな成長への願いや祈りの行事は、世の中が混乱しているコロナ禍の今だからこそ意味を見つめ直し、私達は次の世代に大切に繋いでいかなければならないのではないかと思います。
もう少ししたら59名の子供達が、幼稚園から巣立って行きます。この子達が、どんな境遇に身を置く事になっても、自分の中の“善”と“悪”の心を戦わせながら正しい道を選びそれを信じて生きていく事のできる大人になって欲しいと願っています。また、子供達は新型コロナウイルスにより様々な事が制限された一年を過ごしてきました。しかし、そんな中だったからこそ新しい価値との出会いがあったはずです。それに出会わせるために私達は知恵を出し合っていろいろな事に挑戦してきた一年でした。子供達と一緒に、どうしたら楽しめるか?もっと豊かな生活にするためにどんな事ができるかな?と絶えず考え心の中で闘い葛藤してきた一年でした。できない環境の中で何とかできるようにする豊かな発想が必要だった一年を共に過ごしてきた子供達は実にたくましく、人を大切な存在として求め合う愛情深い子供達に成長してくれていると信じています。
どうか自分の力を試してみたくなるような夢溢れる未来がこの子達を待ってくれていますように…
2021年2月26日 3:14 PM |
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もう間もなく立春、春の訪れです。心なしか、少しだけ日も長くなってきたような気がします。新型コロナウイルスのニュースの中、「今年の花粉は…」という春目前ならではの話題に耳を傾けました。これまでの日常生活様式が狂ってしまっても、季節はこうして必ず約束通り巡って来ます。なんてホッとする事か……。
さて、今シーズンは、たくさん雪が降り3学期の初めには、たっぷり雪遊びを楽しむ事ができました。雪の日の休日の事……、私の家は、街から少し外れた山際に位置していて、雪が降っても除雪された道まで降りて出るのに苦労します。怖いので、あえて家から車では出掛けません。冬ごもり気分です。雪かきをして道を広げないと出掛けられなくて、幼稚園で「雪が降って楽しい!」と思う気持ちとは別の次元で、実際は寒いやら不便やらで大変です。そんな時に、我が家から少し離れた所に住む義理のお兄さんが、車で雪をかき分けながら届け物を持って来てくれました。私が「おはようございます。この辺、雪で大変ですよ~!そんな中ありがとうございました!」と大雪に嘆きながらお礼を言うと、義兄が「いや~ぁ、ここはすごくきれいだね~、見渡す雪景色が素晴らしい。植木に被った雪や下の方の家の屋根や田んぼに積もった雪がきれいに見えるじゃない。すごい!」と雪景色を見ながら言いました。私は、その義兄の言葉を聞いて、あらためて家の周りを見渡しました。すると、それまで私が見ていた景色とは全く違って見えたのです。なるほど、この景色は他の場所では見る事ができない銀世界(少し大げさですが…)なんだな。雪どけまでのほんの数日間、楽しませてもらおうかな?と、気持ちにゆとりが持てました。
私が嫁いで間もない頃、用事があって訪ねて来た実家の母が、田植えの準備で並べられたたくさんの苗を見て、「わぁ~!きれいですね!緑色がすごくきれい!ずっと見ていたいくらい。向うの山の色と空の色と苗の緑とが何とも言えないですね。」と姑に言った事がありました。確かに、緑色に敷き詰められた苗はきれいと言えばきれいだけど、その時は、農作業の大変さを知らない母の言葉に、(何て能天気な事を言うの!)と、恥ずかしいやら申し訳ないやらの気持ちを抱きました。でも、その言葉に姑も「そうですよね~。おかげさんできれいな苗ができました。」と笑っていました。もしかしたら、姑は大切に育てた苗をそういう見方で関心を持ってもらえた事に誇りを持てたのかもしれません。大変!大変!と思うだけではなくて、見る角度や見る方向を変えてみると、見え方感じ方が全く違ってくるのです。大変な事は百も承知、でも、私達の力ではどうにもならない事ならば、共存する気持ち──受け止める気持ちで目を向けるのです。その気持ちの持ち様で幸せな気持ちになれるのです。
コロナ禍の今、私達は、世界的な歴史に残る程の大変な年をもがきながら過ごしています。そして、それはまだしばらくは続くと思われます。会いたい人にも思うように会えず、行きたい場所にも行けず、医療機関が…経済が…と、言えばきりがないくらいとても生きにくい世の中に様変わりしてしまっています。ともすれば、“不安”が“不満”に“寂しさ”が“孤独”に…人の気持ちが悲壮感に陥りやすくなっています。それでも、どこにも行けない家時間を楽しく過ごす良い趣味に出会えたり、日頃目を向ける事のなかった家族の在り方を考える良いきっかけができたりもするでしょう。また、会いたくても会えないその人が自分にとってどんなに大切で尊い存在であるかが再認識でき、もっと大切に思えるようになったり、テレワークが「働き方改革」の推進を活性化させたり……と、意外にも、違った所に光を見出す事ができて、ほんの少し気持ちが明るくなります。
どこかの中学校では、生徒達が秋に行う体育祭に向けて3密回避をベースに種目や開催方法を考え企画し、協力し合って生徒達だけで安全で楽しい体育祭を行ったという話も聞きました。また、先日、共通テストが行われました。首都圏等で緊急事態宣言が出されるほどの感染拡大の中、さぞかし受験生もそのご家族も感染を恐れながら緊張の毎日を送っておられた事だろうとニュースを見ていると、試験後の受験生がインタビューを受けていました。「今まで、健康の事を一生懸命に気を付けて支えてくれた家族に感謝しています。」とか、「オンラインでいつも先生が励ましてくださったので、孤独にならずにいられました。とてもありがたかったです。」と話していました。大人達が何とかしてこの困難を乗り越えさせてやりたいと自分達のために力を注いでいてくれている事に感謝の気持ちを抱かずにはいられなかったのでしょう。このコロナ禍を過ごしている子供達にとっては、不自由で残念な事も多いですが、制限された中で今までに例のない何もない所から、“いかにして”と知恵を働かせ考え、同じ目的をもつ仲間達と協力し合い実践する──その力は凄いものだと思います。そして、自分の力を最大限に発揮できるようにと、色々な方法で支えてもらえている事に心から感謝できる若者が、今だからこそ育っている事を感じます。もしかしたら、この世代の若者たちは、将来、奇想天外な発想を持ち、仲間を大切にし、人に感謝しながら世の中を動かしてくれる実に頼もしい人材となり得るかもしれません。
この状況、誰だって大変なのは百も承知!一つの物事を同じ角度からばかりみても、見える景色は同じです。少し、角度や場所を変えてみたら、見える景色が変わります。もしかしたら、違って見える景色の中に違う発見や光や希望をみつけられるかもしれないのです。根本的に新型コロナウイルスを解決できるものではありません。私達では、大きな事は動かせないかもしれませんが、自分自身の物の見方を少し変えてみれば、それにより失ってしまいそうな元気な心をとり戻す事はできます。
先日、卒園児のお父さんの計らいで、今年度卒園する年長組の子供達に風船をプレゼントしていただき、一人ずつメッセージを書いて空に飛ばしました。「ころなにならないでね」「ころなにきをつけて」等と書いた手紙が、風船と共に空高く飛んで行きました。それから数日後、愛知県と滋賀県に飛んで来たとの連絡がありました。一つは障害者施設に届き、電話をいただきました。もう一つは幼稚園帰りの親子連れの手で拾われ、拾ってくださったお母さんとそのお子さんから手紙が届きました。『コロナ禍の中、世の中も暗い話が多く大変な事も多い中、つけられていたメッセージで、家族、友達に話して、みんなとても温かい気持ちになり、頑張るパワーになりました。』と書かれていました。そして、拾ってくれた男の子の兄弟二人の写真が添えられていました。子供達のメッセージは、世の中の危機を抑え込むワクチンほどの効果はないかもしれないけれど、遠く離れた場所に住む“ともだち”と、共に希望を持って生きよう!と心通わせる事が出来たのは、ワクチン以上(?)の力だと思えました。今だからこその胸熱くなる出来事でした。
ものの見方、考え方は、私達の心の持ち様だと思うのです。嘆くより、“こう考えたらどうだろう”とか“こっちからも見てみよう(考えてみよう)、あっちからも見てみよう(考えてみよう)”と嘆きあえぐ気持ちをクールダウンして景色を見るゆとりをこんな時だからこそ持っていたいと思います。
2021年1月29日 3:03 PM |
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