わんぱくチャレンジ(2022年度)10月

暑さ指数を気にしながら過ごした夏が終わり、その頃とは違う空の青さに秋の雲が見られるようになりました。夜、庭に出てみると虫の声が楽しませてくれます。思わず「あれマツムシが鳴いている~♪」と口ずさみます。先日は、年長組のふたりの女の子が小川に架っている橋に腰をかけ、「う~さぎうさぎ何見て跳ねる 十五夜お月さんみては~ねる♪」と可愛い声で歌っていました。お月見の頃に、年長組の子供達は、自分達で作ったお月見団子と、秋に収穫された果物や野菜をお供えし、この歌を先生に教えてもらったようでした。季節を感じながら思わず口ずさみたくなったのでしょう。子供達の心の中にそんな歌をたくさん残してあげたいものです。穏やかで豊かな心に触れたような気がして温かい気持ちになりました。

さて、幼稚園では今、来月予定している『わんぱくチャレンジデー』に向けて各学年それぞれの種目に取り組んでいます。数年前は『運動会』と称して行っていました。3年前から「新型コロナウイルス感染症」の影響を受け、何もかもを新しい様式に変えざるを得なくなりました。それを良いきっかけと捉え、今までの運動会で何を育てたいと思って行ってきたかを先生達とあらためて確認しました。その上で新たな形で取り組もうと考えました。この経験を通して子供達の中に育てたいと思っている事は、“いろいろな事に挑戦する力・一つの事を最後までやり遂げようとする力”です。

三次中央幼稚園には、ゴツゴツした小山や急なアスレチックを駆け上ったり、木や綱にぶら下がったり、小川の向こう岸に飛び越えたり、広い園庭を走り回ったりして、身体を動かし遊べる環境があります。子供達はその普段の外あそびの中でいろいろな事を学んでいます。

でも、その中だけでは育てられない事もあります。自分のやりたい事には夢中になれるけれど、好きではない事や苦手な事を避ける事もできます。例えば、鬼ごっこをしようと誘っても、クラスの全員がそこに参加しているかと言えば、走るのが苦手だったり、鬼になるのが嫌だったりする子は、その気持ちを超えてまで参加しないでしょう。「よーいドンしよう」とみんなで走っても、自分が出遅れたら途中で走るのをやめて歩いたり、そのあそびの輪から離れたりする子もいるでしょう。苦手な子は苦手なまま、新しい事に出会えたり興味が広がりにくかったりします。

私達は、日常のあそびの上に積み上げたい学びを「わんぱくチャレンジ」に込めています。友達と一緒に一つの事をがんばり抜こうとする努力や粘る力は、クラスや幼稚園の子供達と先生達全員でとりくむ事でこそ育つと思うのです。興味がない好きではない事にでも、みんなと一緒やってみる事で、新たな“自分発見”が出来るでしょう。

ルールを理解し、そのルールの中でいかに自分の力を発揮できるかを考えながら競う競技や、最終ゴールを目指してクラスみんなで力を合わせ友達をカバーしたりされたりしてバトンを繫ぐリレーやクラス対抗競技、そして、音楽に合わせて気持ち良く踊ったり……年長組は堂々と鼓隊演奏をしたりします。どの種目もがんばってみるチャンスへの挑戦です。日頃、身体をいっぱい使って遊びながら身につけている技や根性と、友達と築いている仲間意識とその信頼関係が、どのような力を生み出すかを試す力だめしなのです。

そして、そこには、「頑張る楽しさ」「達成感」「自信」「力を認め合う気持ち」が得られるはずです。それらを得るためへのチャレンジの場であり、子供達に潜在している成長の可能性を引き出すチャンスなのです。得意な事をもっと深め…苦手であってもそこから目を逸らさず挑む気持ちや力の育ち、……友達や先生達からそのがんばる姿を認められながら、その先にある「頑張って良かった」「僕ってすごいんだ」「私って頑張れるんだ」という喜びや楽しさに出会わせてあげられると思っています。それは、長い人生のうちにいつかはきっと出会うであろう「苦難」「挫折」「失敗」をも逞しく乗り越え、自分の目標や夢に向かおうとする力の根っことなるはずです。

三次中央幼稚園では、10月の一週間を『わんぱくチャレンジ週間』として、学年別に保護者の皆様にご覧いただく予定です。ご覧いただくのは、一日だけですが、実は、子供達のチャレンジはこれまでも…これからもずっと続いているのです。日々園庭を走り回ってあそぶ事から、健全な心と身体を育てるまでの延長線上にこの『わんぱくチャレンジ』があるのです。この経験で得られた様々な力は、この先いろいろな育ちに繋がって行くと考えています。点が線になって行くように……。そんな思いで取り組んでいる事に保護者の皆様にも共通な思いを持ってご覧いただきたいと思います。子供達は、きっと、それぞれにそれまでの自分を超えようと頑張ります。

子供達による子供達のための『わんぱくチャレンジ』です。

一本歯下駄に挑戦している子供達が、「園長先生!見て見て!」と友達と手を繫いで、ゆっくりゆっくり下駄を履いて歩いて見せてくれました。一人は歯の高さが10cm程もある下駄、もう一人は一番低い数センチの下駄──難易度の差は一目瞭然。でも、子供達の中ではどっちが凄くてどっちが凄くないかなんていう視点ではなく、一本歯下駄を履いて歩ける事が共通の喜びと達成感のようでした。でも、友達と一緒に挑戦する事で、「私ももう少し高い下駄を履いて歩けるようになりたい」と思えたり「前は履けなかったのに履けるようになった○○ちゃんは凄い!頑張って偉いな」と思えたりするのです。それが自分を超えたいと思うチャンスになるのです。子供達ひとり一人の成長と集団で取り組む事で獲得できる成長──それらへのチャンスを逃さないようにこのチャレンジャー達を応援したいと思っています。

愛いっぱいの最初のプレゼント(2022年度)9月

 長い夏休みが終わり、2学期がスタートします。この夏休みは、どのような思い出ができましたか?相変わらずの…いえ、これまで以上に新型コロナウイルス感染症の陽性者数の多さにひやひやしながらの日々を過ごされた事と思います。新たに強い行動制限は発出されてはいないものの、帰省や旅行を計画実行されるには、少なからず慎重にされたのではないでしょうか?それでも、きっと今年流の夏休みを考えながら、思い出づくりをされた事でしょう。久しぶりに会う子供達から、いろいろな夏休みの話が聞ける事が楽しみです。

 この夏休みには、嬉しい出来事がありました。26年前に卒園したふたりの教え子にそれぞれ第2子が授かり8月に無事出産をしたのです。ふたりは、三次中央幼稚園で幼少期を共に過ごした同級生です。幼稚園での思い出を大切にしてくれている可愛い可愛い教え子達です。「産まれました!」とLINEで送ってくれた画像には、愛くるしい赤ちゃんと大仕事をやり遂げたママの誇らしさと優しさが伺えました。一人は男の子を、もう一人は女の子を出産しました。数日後、男の子を出産した教え子が、赤ちゃんに命名した名前と由来を教えてくれました。その由来を聞いて、我が子の生涯の幸せを願う一心に夫婦で一生懸命考えたのだという事が伝わって来ました。“名前は子供へ贈る最初のプレゼント”と言われます。これから先、節目節目でいろいろなプレゼントをする事になるでしょうが、この“名前”は、その子が一生付き合っていく‟自分”が“自分”であるために大切なものとなる最高の贈り物です。誰もがもらっている“名前”──それはきっと適当につけられたものではないはずです。パパやママが…あるいは家族がいろいろな思いをその名前に織り込んで決めた迷いのないプレゼントなのです。

 お盆にそんな話を娘にすると、「私の名前は、どういう願いが込められているの?」と聞いてきました。実は、その名前以外にも幾つか考えていた事も話すと、「知りたい!知りたい!」と言うので、それを書き留めていた紙をアルバムに貼っている事を思い出し、その頃のアルバムを探し出して見せました。娘がまだお腹の中にいる頃の私の姿の写真をみて、「お母さん!お父さん!若っ!」と大笑いしながら「この大きなお腹の中に私が??なんだか不思議な気分!」と驚き、それからもアルバムのページをどんどんめくり、産まれたばかりの自分の写真に見入っていました。そして、もしかしたら自分の名前になったかもしれない他に考えていた名前を幾つか見比べて、「うん!私に今の名前をつけてくれて良かった。一番いい!」と言ってくれました。なぜその候補の中から今の名前に決めたのか、どんな願いが込められているのかという事を話して聞かせました。大人になった我が子に話をするのは少し恥ずかしかったですが、一生懸命に聞いてくれるので、私もその頃の事を思い出しながら話しました。思い出話に火がついて、それから赤ちゃんの頃の10冊以上ものアルバムを次から次へと出して見る事になりました。「もっと見たい!幼稚園の頃のアルバムは?」と聞かれ、その頃仕事に復帰して写真の整理が追い付かず、その後は箱の中にまとめてしまっていた写真を一枚一枚見て楽しんでいました。(いつかアルバムに整理しようと思っていましたが、もはやそれは難しいでしょう(笑))

 写真を見ながらたくさん話をしました。名前を決めた時におじいちゃんおばあちゃんがすごく喜んでくれた話、命名式の写真に家族以外にたくさんの人達が写っていて、産まれた事をみんなで喜んでもらえた事等、そんな事を知り娘は感動していました。その時その時のエピソードに見え隠れする名前に込められた自分への願いを感じてくれたのか、自分が生まれて来た意味も同時に感じてくれたと思います。そして、最後に「そうかぁ、私は、お父さんお母さんからはもちろんだけど、たくさんの人に大切に思われて育ててもらったんだね。名前のような子になれているかなぁ。ならないとバチが当たる。」と言いました。いい時間でした。お盆に思いがけず、写真の中の亡くなった祖父母、曽祖父母や今でもずっとお世話になっている叔父叔母、今はお互い大人になったいとこ達等を見て、娘は自分の命のルーツをたどる事になりました。今年のお墓参りでは、いつにも増して感謝の気持ちを込めて手を合わせていたのではないかと思います。

 子供達は誰もが愛されていなければなりません。産まれたばかりの赤ちゃんの顔……手足、泣き声、息づかい、鼓動、匂い、その全てを愛おしいと思いながら、子育てはスタートします。『名前』は、その子にどんな子になって欲しいか、どんな人生を歩んで欲しいかという“願い”や“思い”を込めて贈る最初のプレゼントです。いずれ親の手から離れ、たとえいつか自分達がいなくなったとしても、その願いをまとって愛された事を自覚しながら生涯を歩んで欲しいというこの上ない愛情の表れです。その事を、いつか子供達に伝えてあげて欲しいと思います。愛されている事、産まれてきた事へ感謝する事ができたら、今ある命は、自分だけのものではなく、たくさんの人達に望まれたものである事をあらためて感じ、自分の事を大切にできるでしょう。これから長い人生を送る子供達です。必ず、いろいろな事に出くわします。そんな時、自分の名前には、深い深い愛情と願いが込められている事を思い出し、それに背中を押してもらう事でしょう。
お父さんお母さんからお子さんへ贈られた最初のプレゼントには、どんな思いが込められていますか?もう一度あの頃に戻って思い出してみたら、我が子への愛情がまた深まるのではないかと思います。幸せな子供達がもっと幸せになれるように……。

赤ちゃんのママになったふたりの教え子達には、あなた達の名前にも、同じようにお父さんお母さんからの最上級の願いが込められていて、幼稚園の頃、ご両親がどれだけ大切に愛情いっぱいに育てておられたかを伝えたいと思います。そして、素敵な名前をもらったふたりの赤ちゃんの成長と、生涯の幸せを教え子達と同じ気持ちで願いながらずっと見守って行きたいと思っています。

産まれて来てくれてありがとう♡ おおきくなあれ♡ しあわせになぁ~れ♡

生きるために遊ぶ(2022年度)8月

いよいよ明日から夏休み。今年は早い梅雨明けだったため、例年の同じ時期に比べて雨のために外で遊べないといった日があまりなかったような気がします。ただ、これからは、ますます厳しい暑さが訪れ、熱中症警戒アラートや暑さ指数とにらめっこしながら過ごす必要に迫られる日が多くなって来ます。私が子供だった頃、暑ければ暑い程喜んで汗いっぱいかいて遊んでいたし、夏休み明けにはどれだけ日に焼けたかを友達同士で競っていたものです。大人達も今ほど熱中症の事に気分を使っていなかったと思います。環境の変化を受け止めながら、上手に夏を楽しみたいものです。

夏になると、子供達は小川やプールで水あそびをしっかり楽しみます。ホースで水を引っ張って来て園庭にダムや水たまりを作って、身体いっぱい汚し動かしながら遊びます。心も身体も開放されます。特に幼稚園では「どんどん汚していいよ」「やりたい事を存分にどうぞ」という先生の眼差しの中で遊べるのですから、初めは躊躇していても徐々に自分の中で心溶きほぐしそんなあそびもそれぞれに考えて楽しめるようになります。

朝から園庭がカラッカラに乾いていたある日、私がホースで園庭に水まきをしていた時の事。しっかり湿らせた後、年中組のある女の子ふたりが「園長先生!それ貸して!」とホースを指差しました。「どうするの?」と聞くと「ここに水がなくなってるの。ここにお水をいれたいの。」と、いつも水たまりができている小川の横のくぼみの事を言いました。「あらっ!お水はどこに行ったのかねぇ」と言うと、ひとりの女の子が「蜂が全部ぜーんぶ飲んじゃったのかなぁ。」と答えました。そう言えば、少し前にその水たまりに一匹の蜂が来て騒いでいたので「触ったらだめだよ。蜂は水を飲みに来てるだけだから。そっとしていたら何もしないからね。」と、一緒にじっとその様子を見ながら話した事がありました。その時の事を覚えていたのでしょう。それを聞いた、もうひとりの女の子が「そんなわけない!それじゃあ飲みすぎでしょ。土の下に行った(染み込んだ)んじゃない?」と言いました。「そっかあ、いったいどこに行ったんだろうね」と返すと、そのやり取りを聞いていた別の女の子が「暑いから乾いたんだよ。」とあっさり言いました。「乾くって、消えるの?」「いつどうやって消えたんだろう」と私がわざとつぶやくと、その女の子は「………。」少し考えたようでしたが、「知らない。」と言って向こうに行きました。残ったふたりの女の子達は、納得できる答えが出ないまま「どうしてかねぇ」と、首をかしげながらホースでそのくぼみに水を溜めて「園長先生!また蜂が来るかな?」言いました。

何でもない数分間のやりとりでしたが、“どうしてだろう?”“こうなのかも、ああなのかも”とか“知りたい”“また観てみよう”という興味や関心が子供の中に生まれたのです。

ある年長組の男の子が、プレイルーム担任の先生の所にやって来て「先生!今日は、昨日まであまり鳴いていなかったのに、暑くなって急にセミが賑やかに鳴いてる!」と言っているのを聞きました。その言葉を聞いて、昨日と今日のセミの鳴き声の大きさや多さに、思わず耳を傾けました。「ホント、すごい!昨日と今日は何が違うんだろう」と聞くと「昨日は少し雨が降ったでしょ。雨がやんで急に暑くなったから、セミがどんどん成長したんだと思う!」と自信満々に答えてくれました。

私達大人は、当たり前に季節の動きを感じていますが、昨日と今日のセミの鳴き声が違うとかそれがどうしてかとか、気付かなかったり興味を示し探求心を持つ事があまりないのかもしれません。きっとそれが当たり前になっているからです。

子供達は、たくさんの“~したい”という欲求を本能的に持っています。その欲求を身体と心と知恵で向き合いながら満たしていきます。子供達にとっては、周りの環境の一つひとつが新鮮で、それらに関わろうとする事で、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触る経験をし、五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)を刺激します。そしてそれは、好奇心や想像力や意欲、また自ら問題に取り組もうとする力を育みます。これは、将来、子供達が人として生きるために必要な能力となります。これをたくさん繰り返しながら、生きる方法や生きる力の基盤づくりができるのだと思います。それができるのが『幼児期のあそび』です。特に、戸外で友達と一緒に自然と関わりながらのあそびには、子供達が生きるための学びがたくさんあると思っています。自然は生きています。季節が動けば、木も花も生き物も変化します。空も空気も違います。生きているものを相手にすると、その時その時にできる体験とそこで生まれる“なぜ?”の答えが違ってきます。自然は多様だからです。それが子供達にとっては無性に面白い事なのです。遊びながら子供達はいろいろな発見に出会い、いろいろな感情や感性を生みます。知恵を働かせて考え自分達なりに答えを見出し、何回も試して確信や納得できるものを追及しようとします。そして、生きているものを相手にして試すうちには、危険な事に出くわす事もあるでしょう。怪我や共に遊ぶ仲間とのトラブルも生じるでしょう。でも、それは、危険やトラブルを自ら回避したり解決したりする力を身に付けるためには必要な事で、生きて行くために身を守る技を学んでいるという事なのです。まさに『生きるために遊んでいる』のです。幼稚園には、たくさんの木、水、草花と自然を見立てた小山や遊具があります。1学期、そんな中で遊んで学んだ子供達が2学期にはどんな成長を見せてくれるかが楽しみです。

子供達の“なぜ?”“なに?”“どうする?”“ほんとだ!”“なるほど”の経験が親子でたくさんできる夏休みの始まりです。ぜひ、時間を作って、自然と向き合って過ごしてみてください。何かを教えよう、育てようという気持ちではなく、先ずは一緒に楽しんでください。かつて自分もこんな事をして楽しかったなぁと思えていた事を……。しっかり遊んで五感を磨き育てる事は『生きる』に繋がって行くのだと思います。その学びを親子で実感出来たら、楽しいじゃあないですか。子供達と過ごして、もしその瞬間に出会えたらまた教えてくださいね。小さい間だけですよ。「お父さん一緒に遊ぼう!」「お母さん一緒にしよう!」って言ってくれるのは(笑)

お父さんお母さんに教えてもらった事(2022年度)7月

今年は梅雨入りからわずか2週間で梅雨明けとなりました。青い青い空の下、プールあそびや泥んこあそびをたっぷり楽しんでいます。子供達には水まみれ泥まみれ汗まみれがよく似合います。泥んこになって遊んだ証拠の靴や体操服に驚かれているかもしれませんね。そんなお土産にも「よく遊んだね」と笑いながら洗濯をしてあげてください。

さて、毎年この時季になると、私は、父と母の事を深く思い出します。5月の「母の日」6月の「父の日」、そして、6月は私の母と父の命日の月でもあります。仏壇やお墓に手を合わせながら両親の事を思い出します。母とお別れをしてもう13年、父とは2年の年月が経つのに、今でも思い出すと涙が溢れます。

私は、亡くなった父や母の事を娘達に事ある毎に話して聞かせています。娘達にも私の父や母であるおじいちゃんおばあちゃんとの思い出がもちろんありますが、私との思い出話をする事で、私が一番大切に考えている家族への思いのルーツを感じてくれたらいいなと思うからです。娘達がまだ子供だった頃は、その思い出話も笑い話だったり懐かしむだけだったりでしたが、大人になってからは、いろいろな事を聞いてくるようになりました。「その時、おばあちゃんはお母さんに何て言ってくれたの?」「お母さんはどう思ってたの?」とか「おじいちゃんのその時の気持ちはこうだったと思うよ」「こういう事を言いたかったのかもしれないね」等と話し、親子の絆や家族の在り方を感じてくれているようです。

母が闘病生活になった時も父がそうなった時も、家族皆で一生懸命に最期まで支えました。そんな姿を見て、娘達は「家族っていいね。凄く大きい力になるよね。」と言うようになりました。そんな事、わかっていてもふと言葉が漏れる程実感する事もなかったのかもしれません。それは、同じく私にとってもそうです。この時ほど家族の在り方を考えさせられた事はありませんでした。病との闘いに辛がっている母を家族もまた心と身体が疲れないように、交代で見舞い勇気づけている間に、家族の大切さを実感しました。父の時もそうでした。これが、母と父が生涯を通して私達残された者に教えてくれた事だったような気がします。「弟姉妹でいつまでも助け合って仲良くしなさい」「家族を大切にしなさい」と……。

今、92歳の義父が2年前から施設でお世話になっています。コロナ禍で、面会も制限されて私はしばらく会えていませんが、夫や義姉が面会する度に送ってくれる動画で義父の様子を知る事が出来ています。温厚で優しい人なので、認知が入り寝たきりになっていても「ありがとうありがとう」「用心しなさい」と周りの人への感謝の言葉を忘れず、娘や息子へ気遣う言葉をかける姿に毎回胸があつくなります。その姿もまた私達に「いつも感謝の気持ちを持つ事」「無茶をせずにほどほどに……」という気遣いの気持ちを持つ事の大切さを教えてくれているように思います。その画像は、私の娘達とも共有します。おじいちゃんの様子を見て安心してくれていると同時に、耳を澄まして聞いていないと分からない程のおじいちゃんの言葉に教えられている事もあるようです。いつの時代も、私達子供は父や母の愛情と命を受けて大人になります。こうして、時代はどんどん巡り、家族の歴史が作られていく事を感じています。

幼い頃には、お母さんと一緒に居る事が“嬉しい”とか、お父さんに遊んでもらったり、どこかへ連れて行ってもらったりして“楽しい”とかの感覚しかなかったような気がします。大好きという感情はもちろんありましたが、ありがたいとか大切な存在だという事を実感する事があまりなかったかもしれません。少し大きくなってからは、口うるさい母に歯向かったり厳格な父に素直になれなかったりしました。大人になって、就職・結婚・出産・子育て……と力を借りる事が増えてきたその頃に、やっと親のありがたみや大切さを感じ、親の背中を真剣に見つめるようになりました。そして老いていく姿を目の当たりにして、父や母が命をもって私への最後の“子育て”をしてくれているように感じ、それまでの生き様を見習おうと思いました。

私よりはるかに…はるかに若い保護者の皆様にも、お父様お母様の存在があり、自分を育ててくれた人へ抱かれている思いがそれぞれにおありでしょう。我が子に言っている言葉や態度を振り返ってふとご自分のご両親と重なる時がありませんか?私は、父から、「葉子の話し方や言う事が母さんに似てきた」とよく言われていました。みんな自分の親の背中や生き様に影響を受け学び……たまに反面教師にしながら生きて行くための柱となる物を自分の中に少しずつ積み上げていっていると思うのです。幼い子供達もすでにお父さんお母さんを見て「お母さん大好き!お父さん大好き!」と思いながら積み上げています。

子供達が毎日お家の人に見送られて……または、送って来ていただいて幼稚園にやって来ます。お父さんお母さんの「行ってらっしゃい」の言葉に送られながらやって来る子供達の様子は様々です。「行ってきま~す」と手を振って元気に来る子、タッチやムギュ~のスキンシップで来る子、言葉は交わさずともお家の人の手を離し照れくさそうににやにやっと笑いながら来る子、どの子も、「行ってらっしゃい」の言葉をお守りにして一日が始まります。「いってらっしゃい!」という言葉と温かい眼差しにどれだけの深い愛情が込められているかなんて、幼い子供達はまだ、本当には感じていないかもしれません。親子の…家族のありがたさを実感するのはまだまだかもしれませんが、保護者の皆様がお父様お母様から受けた愛情と教えを思い返しそれを我が子に少しずつ少しずつ繋いでいく事で、いつか「行ってらっしゃい」の意味と思いが心からわかる日が来ると思います。私達の親に教えてもらった事、親から学んだ事が生き様となり、その姿が道標になるよう子供達に伝えて行けたら……また、たとえ、いろいろな事情でそういう道標を与えてもらう事ができなかったとしても、ご自分が道標となるよう我が子に繋ぎ、これから家族の歴史を作って行く──これもまた親として幸せな事なのかもしれません。

アッ!私の場合は決して立派な生き様になりそうにないので、娘達には参考書程度にしてくれたらいいかな?(笑)

それにしても、いつの時代でも“お母さんお父さん、心からありがとうございます!

悔しい思いはバネになる(2022年度)6月

幼稚園の庭がたくさんの作物や花で賑やかになっています。ゴールデンウイーク明けには、年長組の子供達がバケツ田植えをしました。年中組は保育室のテラスでひまわりを育てています。年少組や満3歳児の子供達もプチトマト、キュウリ、パプリカ等々、夏野菜の苗植えをしました。苗を見ただけでは「これがキュウリになるんだよ」と聞かされても「?????」……ピンときていないでしょう。今はそうでも、毎日観察していくうちに夏になり、小さなキュウリが生っているのをみつけた時どんなに驚くだろうかと楽しみです。子供達と一緒にたくさんの野菜や花を育てながら命の息づかいに触れ楽しみたいと思います。

さて、先日年長組は、書道教室をされている島田真由美先生を迎え“かきかた教室”をしていただきました。40分間という短い時間でしたが、島田先生との挨拶から始まり、机に向かう姿勢や鉛筆の持ち方を分かりやすく教えていただきながら名前書きを習いました。毎日一緒に生活している私達も“先生”ですが(笑)初めて会うその“島田真由美先生”にはまた違う眼差しを子供達は向けていたような気がします。少しだけ、“お勉強気分”を抱いていたのでしょう。いい緊張感が漂っていました。前以て、島田先生は一人ひとりに名前のお手本を書いてくださっており、子供達はそのお手本を見ながら静かに一生懸命に書いていました。年長組の子供達は、来年小学1年生になります。まだ先の話だけれど、子供達にとってそれは大変な憧れであり、自分が大きくなる事を実感できる節目として楽しみにしている事でもあるはずです。その楽しみを味わえる時間でした。

でも、みんながみんな字が書けるかというとそうではありません。「先生!書けたよ!」「見て!見て!」と先生達を呼んで得意気に見せてくれる子供達が出て来る中、サポートに来ていた先生がずっと付いてあげているひとりの男の子の姿がありました。その先生は丁寧に励ましながら教えてあげていました。姿勢とか持ち方とかを気にしている段ではなく、とにかくふたりで一生懸命紙に向かっていました。何度か繰り返し書いてやっと名前が書け、島田先生からはなまるをもらいました。つきっきりでサポートしていた先生は「よく頑張ったね!よく頑張ったね!」とその頑張りが愛おしくさえ思え、涙ながらにほめて一緒になって喜んでいました。書きたい気持ちで楽しみにしていた子供達は皆、書道教室の先生が用意してくださっていたお手本をあたかも「魔法のお手本」のように思っていたと思います。(これがあれば、先生の話をちゃんと聞いていれば書ける)と……。でも、そうではなかった。それを実感したその男の子は、もう書きたくない!やめたい!と諦めたくなっても不思議ではないくじけそうな気持ちの中、サポートしてくれる先生の励ましで踏ん張る事が出来ました。

また、ある女の子は、途中で紙と顔の距離が数センチになる程にして書いていました。どうしたのかと覗き込むと涙がこぼれていました。先生達が励ましていましたが思うように書ききれないまま“かきかた教室”は終わりました。その後、トイレに走って行きました。トイレから出て来たその子は涙顔でしたが、それは悲しい顔ではなくとても悔しそうな顔で、そのまままた走って保育室に帰って行きました。思うように書けなかった事を悲しいと思っているのではなく悔しいと思って涙が出たのでしょう。トイレに行ったのは、持って行き場のない気持ちをクールダウンさせるためだったかもしれません。

そして、翌日、私が各保育室を回っているとその女の子がひとりで机に向かっていました。部屋の中でいろいろなあそびが展開している中、ひとりで何をしているのかと後ろから覗き込むと、お手本を見ながら自由画帳に自分の名前を何度も何度も消しゴムで消しては書き消しては書きしていたのです。すると担任の先生が、「実は、昨日帰る前に、頑張った事をみんなの前でほめて、頑張る事を続けていたらいつか書けるようになるから!と励ましたんです」とこっそり教えてくれました。その子はそれからもずっと毎日書き続けていました。先生の昨日の言葉に支えられて頑張っていたのです。書き順とか、鉛筆の持ち方とかは正しくなくても、その子にとって先ず大切なのは悔しい気持ちをエネルギーに変えていく事でした。先に記した男の子も、またこの女の子も、書けなかった悔しい気持ちが劣等意識ではなく努力する気持ちに繋がったのは、その子に寄り添う先生達の心の眼差しがあったからでしょう。

『努力はいつか報われる』とか『努力は必ずしも報われない』とかいろいろ言われる事がありますが、この子達にとって“報われる”というのは“字が書けるようになる”事ではなく、“努力する姿を認めてもらえた喜び”“励ましに応えてみせようとする自分への肯定感”“成功へ向けて一歩一歩前進(クリアー)していく充実感”等、目標達成に行きつくまでにいろいろな所で点々と報われているのだと思うのです。子供達のこれからの人生の中でそう言った経験はたくさんあります。勉強、人間関係、受験、就職、結婚、どんな時でも、思い描いた夢に向けて設計図通りに行かなくても(そうならない事の方が多いですよね)いろいろな場面で繰り返し努力していく事はそれだけで粘る力を培い、何事にも向き合えるエネルギーになって行くのです。失敗や挫折や空虚感を何度も何度も味わいながら、それでもその時その時で得られる人との出会いや支えの言葉によって自分の力を信じ頑張って生きて行こうとできるのです。だから、私は『努力は必ずどこかでは報われている』と思っています。

そもそも、子供達は、努力しようとか努力しているとかと思いながら頑張っているのではなく、夢や目標を叶えるためにただ必要なプロセスに力を注いでいる──その様子を“努力”と称しているだけなのかもしれません。無心になっている姿に、私達大人が共感したりそのプロセスを踏んでいる間を励ましたり応援してあげる事で報われ続けるのではないでしょうか?

その後、頑張った男の子と女の子が、名前や字が書けるようになったかどうかはまだ道なかば……ですが、確実に自己肯定感は得られ自分の力を見直せるきっかけになったはずです。それは、文字を書く事だけではなく、生活のいろいろな場面で自分の中に潜在していた力を発揮できるエネルギーに変わって行く事でしょう。