手紙(平成18年度2月)平成19年2月

早いもので、新しい年を迎えてもう1ヶ月が過ぎました。1月は行く・2月は逃げる・3月は去る…とはよく言ったものだと毎年思います。

同じように、この時期になると毎年思う事があります。…というのも、1月から2月にかけて年中組と年長組で流行るあそびがあります。『ゆうびんごっこ』です。このあそびに夢中になっている子供達の姿に考えさせられることがあるのです。


今年も我が家に年賀状が届きました。以前勤めていた京都の幼稚園の教え子達から、遠い友人から、ご無沙汰している方々から、身近にいる子供達から…そして、幼稚園にも先生達にたくさんの年賀状が届いていました。

それを一枚一枚読みながら、(手紙っていいなぁ)と思うのです。今の世の中、スピード時代になって、手紙より携帯電話やパソコンを利用してのメールでのやりとりが普通になってきています。新年の挨拶でさえメールで済ませる人も多くなっているようです。確かに自分の今の気持ちをリアルタイムに伝えたり返事を急ぐという時には、最良の方法であると思います。私もやっと覚えたパソコンを触りながら、メールのやりとりをすることも多くなりました。

しかし、子供達から届く手紙の文字や絵を見たり、遠い友人から届いた便箋に綴られた手紙を読むと、メールとは違う気持ちで相手の気持ちが伝わってくるのを感じるのです。


職員室にいると、クラスの郵便配達役の子が「ようこせんせい!ゆうびんで~す!」と先生達が用意しているはがき代わりの画用紙を届けてくれます。その字はまだまだたどたどしくて、読み取れなかったりしますが、少なくとも、この手紙を書いている時は私の事を想いながらしたためてくれているのです。時間がかかればかかるほど、その間相手の事を想っています。その様子が一枚の手紙からわかるから感動します。

まだ字が書けない子は「ようこせんせいをかきました」とかわいい絵を描いてくれています。“葉子先生”をかわいく描いてあげようと一生懸命だったことがわかるのです。そして、その想いに応えようと返事もまた時間をかけて書きたくなります。「お返事はまだかなぁ~」と、すぐに届かない返事が…このじれったい『間』が、なんとも心と心をつないでいる時間になっているような気がするのは私だけでしょうか?


少し…いやかなり古いですが♪文字のみだれは線路のきしみ?愛の迷いじゃないですか?♪という歌詞の演歌がありました。(古すぎ??)文字には、その人のその時の気持ちが見え隠れします。上手な字、下手な字ではなくて、どんな気持ちでしたためられたものかを察する事ができます。書くという事はメールより時間も手間もかかるけれど、書いている間に相手を想いながら気持ちを文字にし、即答されない返事を待つ間もまた相手を想う…。もしかすると、この『間』が人を思いやる事ができたり冷静に物事を考え行動に移すという心のゆとりにもつながるのではないかと思うほどです。


共働きの両親をもつ子供が学校から誰もいない家に帰った時、ふと見たテーブルの上に“おかえりなさい。”と一言置手紙がしてあったとしたら、その子はどんなに嬉しいでしょう。(お母さんやお父さんはお仕事をしていても僕の事を思ってくれているんだな。)と愛情を感じる事でしょう。そして、もっと深く考えることができる子ならば、本当は、家にいて「おかえりなさい。」と言ってやりたいのだけれど…せめて…という親の気持ちを察することでしょう。


先月、講師に沖田孝司先生をお招きしておこなった教育講演会で、ヴィオラの楽しい演奏を聴かせてもらった年長組の一人の女の子が2日後、担任の先生に「これを沖田先生に送ってください。」と一通の手紙を持って来ました。それには、素敵な演奏を聴かせてくださった事へのお礼とまたいつかお会いしたいといった内容が、可愛い絵と一緒に一生懸命書かれていました。思った事や考えた事、感動をこんなふうに素直に書き連ねる事にエネルギーを惜しまない子供の純粋さに感心しました。その手紙は早速沖田先生に送りました。


『手紙』は、書いてくれた人の気持ちを察したり想像したり、また、自分も相手の事を懐かしんだり気にしたりする想いをはせる時間をつくってくれるような気がします。筆不精なんて言わないで、自分の気持ちをどんどん文字にして相手に伝えてみてください。いい言葉やきれいな文章を並べなくても、相手を心から思いながら書いているその時間が貴重で意味深い事なのです。そして、必ずその気持ちは相手に伝わります。

年明け以来、職員室では先生たちに届いた年賀状を見せ合いながらその子を懐かしんだり、居ても立ってもいられなくて、表書きの住所を見て連絡をとっている先生もいます。日頃はなかなか連絡がとれないでいても、こんなふうに時折届く『手紙』をきっかけにお互いを気にとめ、心と心とを通わせる事ができます。


今日も職員室に郵便屋さんに扮した子供達が手紙を届けてくれます。「ようこせんせい!ゆうびんで~す!」──。さてさて、今日はなんて書いてくれているかな?職員室で受け取った園長先生と私は、たどたどしく書かれた文字と文章の解読に悪戦苦闘です。

親ばか万歳!(平成18年度1月)平成19年1月

新年あけましておめでとうございます。地球の温暖化や国と国の紛争、人と人との争いの数々…、「世の中何かが狂ってきている」と言われているけれど、私は暗い事ばかりをクローズアップして考えないで、ささやかな平和や喜びを大切にし、幸せに希望をもってこの一年を過ごしたいと思います。またこのページでも、読んで希望のもてるコラムを書いていきたいと思っておりますのでどうぞ今年もよろしくお願いします。


さて、12月の園だよりでは、音楽発表会の取り組みの中で見せる子供の精神的成長について書きました。発表会を終え、その後、寄せていただいたお家の方からの感想の中には、嬉しいお便りがたくさんありました。中でも微笑ましかったのは、「うちのクラスが一番よかった。」とか「うちの子の姿が一番輝いて見えた。」という言葉でした。

言葉は違えど、どのクラスの保護者の方からもそのようにとれる感想をいただいたのが本当に嬉しかったです。褒めていただいた事はもちろんですが、それぞれの子供達がみんなお父さんお母さんから「うちの子が…うちのクラスが…一番!」と思ってもらえているという事が嬉しかったのです。

俗に『親ばか』という言葉がありますが、私はこのお便りを読んで“親ばか万歳!”という気持ちがしました。この世の中で、その子の事を一番よく知り、一番愛しているのは、他の誰でもないその子の親です。親ばかになって当たり前です。そのおかげで、子供達はどんなに喜んだり救われたりしているでしょう。たとえ、人が何と言おうが、お父さんとお母さんだけは自分の事をスゴイって言ってくれると思えたら、孤独な子はいなくなります。


お母さん同士が、謙遜か本気か、我が子がそばにいるのに「うちの子本当にダメなのよ。」「全然言うことをきかないし、わがまま言って困らせるし、何でも遅いし……。」まだ言うか!と思うくらい“ダメな子像”を言い並べている光景をよく目にします。

それを聞いている子供の気持ちはどうでしょうか。一瞬にして孤独になります。そんなところもあるけれど、「それでも何でもあなたの事が一番好きよ。誰よりもお父さんやお母さんがあなたのことをわかっているよ。」と言ってもらえるだけで、子供は安心して暮らせるのです。他の子と比べてしまうから、自分の子供に自信が持てなくなってしまうのです。比べる必要なんて全くありません。その子は、その子の持って生まれた力や能力を十分に発揮すれば…または、そうできるように導いてやればいいのです。そして、できた時には、「やっぱり、うちの子が一番!」と喜んでやるのです。…と書きつつ、私自身にも今、言い聞かせています。


これは、夫婦の間でも言える事です。本当は、大好きなのに人前では夫婦互いにけなしあう──。これがある意味、日本人大人の美学かのようになっているような気がします。長い人生、結局は最後まで一緒に夫婦互いに心寄せ合って生きていくのですから、“この人が一番!”と思って生きたいじゃあありませんか。そしてそう思ってもらえているとわかっていれば、ますます夫婦の絆は深くなります。まあ、夫婦の場合、他人には分からない色々なことがあるので全てが全て単純にそういくとは限らないでしょう。ただ、子供に対しては思い方一つで、子供達の生き様が変わってくる──それぐらい重要な事のような気がします。


しかし確かに、周りの空気をよめず、我が子の自慢話を長々と話す人がいて「親ばかだ」と笑われるということもあります。わざわざ人に言いふらしたり、可愛いと思う気持ちが先走り、周りに目を向けることも忘れ、わが子の事ばかりを優先したりする姿には首をかしげてしまいます。自分の心の中で、そう思って育ててやって欲しいということなのです。何があっても、あなたの事をお父さんとお母さんは信じて守ってあげるからという気持ちでいてあげて欲しいという事なのです。くれぐれも、本当の『親ばか』にならないようにご注意を!


三次中央幼稚園の子供達は幸せだなぁと思います。うちの子が一番と思ってもらえたり、よく頑張ったねと涙を流して褒めてもらったり、それだけでなく、今回の音楽発表会でも他のクラスの子供達や先生にも目を向けてクラス全体の頑張りを認めてくださる──。本当に温かい気持ちになります。こんな保護者の方々がいてくださるおかげで、私達ものびのびと自信をもって子供達と向き合う事ができているような気がします。


幼稚園では新しい年を迎え、締めくくりの3学期になりました。1学期・2学期と色々な経験を積んできて、最後の1学期間でクラスの意識や、個々の成長をより確かなものにするために私達も頑張っていきたいと思っています。どうぞ、ご家庭におきましても共に悩みを分かち合い考え合いながら、温かい雰囲気の中で子供達を育ててやってください。


子供達はお父さんやお母さんが大好きですよ。どの子もどの子も“私の、僕のお父さんお母さんが一番!”と思っていますよ。その気持ちにこたえてあげてください。『親ばか万歳!』です。

任される喜び(平成18年度12月)

今、幼稚園中に色々な楽器の音色が響き渡っています。あと数日もすれば、“おんがくはっぴょうかい”です。これまで子供達は、様々なかたちで踊ったり演奏したりする曲に親しんできました。


先生達は、入園・進級当初から子供達をずっと見てきて、自分のクラスに合う曲を探っていました。そして夏休みには自分で編曲をして楽譜を完成させます。実はこれは、とても大変だけどとても楽しい作業なのです。頭の中で、子供達の演奏する様子を想像しながら音符を五線譜に書き込んでいく──(こう演奏したらかっこいいだろうなぁ。)とか(ここでこの音が入ったら楽しくなるかな。)と思いを巡らすのです。こうして温めてきた楽譜の中では、既に先生と子供達との絆を感じるオーケストラ演奏がイメージとして完成しています。


実際に子供達が楽器を手にして演奏したのは、11月の半ばぐらいからですが、それまでに原曲を聴いたりそれに合わせて手拍子をしたりして、耳からリズムを身体に入れていきました。そのうち楽器の使い方・音の出し方を教えてもらいます。子供達はその楽器のきれいな音に感激をしてとても嬉しそうです。それぞれのパートが決まったら各パートの練習です。自分のパートは自分で覚えなくてはなりませんから、なかなか覚えられず、合わせられなくて悔しかったり悲しかったりして時には涙が出たりする子もいます。それでも先生はあきらめず励ましながら一緒に頑張ります。何度も何度も励まして頑張ります。それは、こここそ頑張りどころで、これを乗り越えればこの子はきっと成長できる!とわかっているからです。成長してほしいからです。それは、先生にとっても正念場です。


パートを与えるという事は“任せる”という事なのです。“任せる”という事には、任せる側にも任される側にもそこには“責任”が生じます。「あなたに任せる。」と決めた時の心の中には(あなたを信じて…)という思いが込められます。信じて任せてもらうからには、できるだけその気持ちに応えようと努力をします。

こんなふうに言うと、大変な事のように聞こえるかもしれませんが、幼い子供でも自分を信じて任せてもらったら、張り切って頑張ろうとします。自分を頼りにしてもらった事や、自分に関心を持ってもらった事──(あなたでなきゃできないの。だからお願い。)と思ってもらった事に優越感と共に喜びを感じるのです。

よくある例で言いますと、それらは、“おつかい”等に明確に表れます。満3歳児のさつき組や年少のうめ組のような幼いクラスでも、「事務所におつかいに行ってくれる?」と聞くと「ハーイ!」と争うように張り切って行ってくれます。「事務所」と言ったのに、間違って「職員室」へ行っていたり、やっとたどり着いたかと思えば、用件が何だったか忘れてしまったりもする──でも、そんな珍道中の末、責任を果たした時の得意気な顔はたまらなく可愛いものです。そこには、(僕にもできた。僕はすごい!)という自信が生まれます。


今、先生と子供達は発表会に向けての練習の中で毎日これを繰り返しているのです。先生はその子を信じてパートを任せ、子供達は任されたパートを責任を持って演奏したり踊ったりする──その数分の演奏中の空間には、第三者の入り込めない空気が漂っています。指揮をする先生を真剣な目で子供達が見ています。(次はあなたよ!)という先生の目に、(わかってるって、まかせて!)という気持ちが返されます。

そしてうまくいった後の満足感は、先生と子供達との関係を深めます。発表会の練習時期に入る前と今とでは、クラスのムードも全然違います。信頼関係がぐっと深まっています。そんな様子を見てクラスのない私は羨ましくなります。


任せてもらえる喜びは、私たち大人社会でも実感する事が多々あるのではないでしょうか。任される事は大変でしんどい事もありますが、“信じてもらえている”と思えば逆に嬉しい事なのです。それはエネルギーに変える事ができるのです。子供は大人以上に純粋に喜びます。自分の存在を認めてもらえた事を素直に喜んで、意欲的に物事に取り組もうとします。どうぞ、子供達に“任せる”事をしてみてください。

生活の中で何でもいいです。「これはあなたにお願いするね。」と任せてみてください。そして責任を果たした時には、「あなたのおかげよ。」と言ってあげてください。自分の力と存在の大きさを実感してくれます。どんなに小さな力でも、我が家にはなくてはならない大きな存在で、とても大切な存在なのだ。と伝えてあげてほしいと思います。


いよいよ“おんがくはっぴょうかい”です。先生と子供達が、このような経験を積み重ねてきた様子が、色々なところで感じ取っていただけると思います。上手にできる事も大事かもしれませんが、もっと大事なのは、与えられた責任を果たすためにいかに頑張ろうとしているか、先生や友達と築き上げた信頼関係がどんなに深まっているかという事だと思うのです。

ステージの何とも言えない張詰めた緊張感の中に存在する、先生と子供達との目に見えない心のキャッチボールを感じながら、一つひとつのプログラムをお楽しみいただけたら嬉しいです。それはそれは感動の一日です。

背中のぬくもり(平成18年度11月)

お父さん方お母さん方、思い出してみてください。一番最後にご両親にだっこ……或いはおんぶしてもらったのはいくつの時ですか?


2学期は、親子で園生活を楽しんでもらえる機会がたくさんあります。これまでにも運動会・“親子ふれあいデー”・PTAソフトボール大会等、親子の微笑ましいシーンをたくさん見ることができました。運動会の朝、「がんばってね。お母さん観てるからね。」と送られた時、終わって「よく頑張ったね。」と抱き上げてもらった時、お父さんと顔をつき合わせて相談しながら一生懸命作品を作った時、お母さんと一緒に手をつないでお父さんのナイスプレーを応援した時──。どの時の子供の顔も心から幸せそうでした。

子供達はお父さんやお母さんそして家族の人と一緒にいる時が一番安心で幸せなはずです。また、そうでなくてはならないと思います。今や、実の親でありながら、わが子の生きる権利を奪い取ってしまうような悲しすぎるニュースがたくさん聞かれ、私はそれを耳にするたびに胸が張り裂けそうになるのです。「それでもお母さんが好き。お父さんが好き。」と最後まで親を信じる小さな叫び声が聞こえるような気がしてたまりません。


私がしてもらった最後のおんぶは、確か父親には小学校生活最後の運動会で行われた6年生の親子競技でした。少し照れくさかったけれど何だかとっても嬉しくて「しっかりつかまっておけよ。」と私をおんぶして走る足の速い父の背中がやけに頼もしかったのを覚えています。

母親には祖母の家の秋祭りに行き、母から大判焼き20個を頼まれて一人で夜店におつかいに行った小学校2年生頃だったと思います。私はご覧の通り、背が低く夜店の台から顔がのぞかなかったためか「ください!」と言っても気がついてもらえず、どんどん後の人に抜かされてしまいました。次第に心細くなっていたところへ、なかなか戻らない私を心配して迎えに来てくれた母。「葉子!」の声にそれまで我慢していた涙がほぐれる緊張とともに「ワーッ!」と流れ出てしまいました。その後で母が私に「大きな声が出なかったの?」と言いながら祖母の家までおんぶして帰ってくれました。その背中が本当に温かかった事が忘れられません。だから私は今でも大判焼きを見ると、あの日の事を思い出します。


子供にとってお父さんお母さんの背中や胸やひざは、一番安心できる場所だと思うのです。一番素直になれる場所でもあります。特におんぶは顔が見えないので面と向かって話がしにくい時には、何となく背中で「ごめんなさい。」が言えたり正直になれたりするから不思議です。

私もわが子をよくおんぶしてきました。お父さんにしかられてしょんぼりしている娘をおんぶしてさんぽしながら言いなだめたり、友達ともめて悩んで泣いた日に励ましたのも、大好きだったおばあちゃんが天国へ逝ってしまったわけを話してやった場所も私の背中でした。年中組の時、大嫌いな歯の治療を頑張ったご褒美はいつもおんぶして歩いて帰る事でした。その道々で色んな話をしました。今でも娘は、「歯医者さんの帰り道にお母さんがおんぶして糸トンボを教えてくれたよね。」「たぶん私、これからも糸トンボを見るたびに、おんぶしてもらった事を思い出すと思う。」と言います。私と全く同じような事を言うのでおかしくなっちゃいます。


父親や母親の背中の温もりは子供の心を安定させてくれるようです。不安な気持ちを安心させてやれたり、楽しい気分に向けてやれる場所のような気がします。父親母親になった私達がかつて父母にしてもらったように、子供達にも同じようにしてあげてください。

不安につぶされそうな時、つらさに耐えられそうにない時には惜しげもなく、背中や胸の温もりを感じさせてあげてください。そうする事が、子供達にどのようにいいのか、なぜいいのか難しい事はうまく言えませんが、ただ無条件に必ず『愛』が伝わると思うからです。『愛』を感じて大きくなる子供達は幸せです。そして、その子達がいずれ父や母になったときにも『愛』を与えてあげられる親になるような気がします。そして、十分にそうしてあげたら、時期をみて少しずつ手を離してあげましょう。自分で……自分の力で頑張れるように『見守る愛』への移行です。いざという時に、ここにいるわよ──と後ろに控えてあげていればいいのです。


これまでの色々な行事を通しての親子の関わりを見てきて、うちの幼稚園の子供達は本当に幸せだなと思います。お父さんやお母さんの背中や胸やひざの温もりを十分知っているからです。愛情いっぱいに包み込まれる腕の中でなら、褒められれば何倍も嬉しいし叱られれば素直に反省もできます。本当に魔法のような場所です。そしてきっとそこは、一生忘れられない場所となります。

この子達が大きくなって世の中の激しい嵐に負けそうになった時、きっと羽根を休める場所を探すでしょう。私達大人は、その居場所になってあげられるのです。背中や胸の温もり、ひざの広さに安心して再び立ち向かう勇気や元気を与えてあげられるのです。そして、子供達誰もが必ず幸せになってほしいと思います。私も、父母におんぶしてもらった思い出のおかげで、今とても幸せです。

あぶない!あぶない!がもっと危ない(平成18年度10月)

すっかり秋めいてきました。吹く風が秋の香りを運んで来ます。私は秋の気配が大好きです。空の雲がのんびりとして見え、山々が色づき“日本らしさ”を感じるからです。(おいしい物がたくさんある季節の到来だから……というのも理由のひとつかも……。)

秋の香りといえば、ご存知の通り我が家は田畑に囲まれています。秋になると稲を刈る匂いがあたり一面に漂い、お嫁に来てからというもの、これが私にとっての“秋”を感じる代表的な物になりました。


今月の初めにさくら組の子供達が、我が家の田んぼへ稲刈りに来てくれました。5月に子供達が田植えをしてくれた部分だけ刈り残しておいたのです。これまで田植えはここ数年毎年経験させていましたが、稲刈りはいつも計画倒れでした。今年は色々なタイミングが良く、やっと念願の“稲刈り体験”をさせることができました。


しかし、はたしてどうやって刈ればいいだろう。さくら組の先生達も園長先生も私もなかなかいい方法を考える事ができません。普通で考えれば鎌以外にはないのですが、たった5歳6歳の小さな子供達には危なくてとても無理だと思ったからです。考えに考えたあげく、はさみで切ろうかという事になっていました。だけどどうも納得いきません。だって稲刈りは鎌で行うものだからです。稲刈りを経験させたいのに本来の方法と違えては、本当の経験をさせた事にはならないような気がしてなりませんでした。

家に帰ってもその事ばかり考えていました。本当に鎌を使わせる事は無理なのか──私は何度も田んぼに行き子供に鎌を使わせるにはどうしたらいいかと自分でもあれこれとやってみました。一人ひとりに鎌を持たせ、後ろからまわって手を添えればできなくもないかも……それなら経験した気分にはなれる……そう思いました。

その翌日、職員室に理事長先生が来られ稲刈りの事を話しました。「今、どうやって刈ろうかと思案中です。」と言うと「どこかの小学校で鎌で稲刈りをしていたよ。幼稚園の子供でもできるよ。ひとりでやらせてごらん。」とあっさりと答えられてしまいました。「え~っ!!危なくないですか?」先生達もそれが一番いいという事はわかっているのですが、危険だという心配が先にたってしまって決断できなかっただけなのでした。理事長先生に背中を押され、十分に安全策を考えて鎌を持たせる事にしました。


そして当日、子供達が身支度をして意気揚々と田んぼにやって来ました。5月に植えた緑色の苗が黄金色の稲に姿を変えている事に感動していたようでした。私は念入りに鎌の使い方を説明しました。子供達も熱心に話を聞いています。やりたくてたまらなさそうでした。ザクザクと稲株を踏んで歩く音が弾んで聞こえました。

一人ずつ呼んで、まず一株目は先生と一緒に手ほどきを受けながら刈ります。「足をぐっと開いて!稲をぎゅっと握って!鎌を引くように!」───二株目からは一人で鎌を片手に刈ります。先生達はハラハラしながら見守ります。子供達の顔は真剣そのものでした。油断したりふざけたりしたら危険だという事がわかるからです。稲を刈る音が鋭く(これはタダモノではないぞ)と感じるからです。そうやっ て刈った後の満足そうな顔(^.^)。そしてもう一株。どんどん上手になりました。


デモンストレーションに理事長先生や家のおじいちゃんも稲を刈って見せてくださいました。その速さに歓声が……。こうやって見たり聞いたり体験したりする事で、危険性を理解するのです。“あぶない!あぶない!”と言われているだけでは本当に危険な物だと実感しないでしょう。恐ろしい事に、いとも簡単に刃物を持ち歩き人を傷つけてしまう事件事故があります。本当に危険な物は危険な物として扱い、大切な物は大切な物として考えられるようになるためには、そう感じさせる経験を与えなければならないのだと思いました。

安全に使うにはどうしたらいいか、どこまでなら安全でどこまでしたら危険かという加減を知るのです。その加減を知らないと、「つい!」という事にもなり得ます。もちろん年齢に合わせて与える事は必須ですよ。そろそろいいかな?とチャンスをみつけてあげてください。ママの夕食の支度を手伝いながらお茶碗を落さないように運ぶ、パパの日曜大工を見ながら金槌の使い方を知る等、見たり聞いたり体験したりしながら正しい使い方を知るのです。私も今回あらためて思い知らされたのでした。


子供達って真剣に活動したり遊んだりしている時は怪我も少ないと言われます。頭にも体にも心にもグッと力が入っているからです。“あぶない!あぶない!”と隠したり触れさせようとしなかったりしてそのいいチャンスさえ逃したまま大きくなってしまったら、もしかしたらもっと危ない事になるかもしれません。


自分で刈った稲を幼稚園に持ち帰る子供達の顔はとても得意そうでした。先生達は少し寿命が縮まったような気がしましたが、将来農業を背負って行けそうな子をたくさんみつけました。「もっとやりたい!!」と言いながら帰って行きました。次はそのお米でおにぎりを作って食べます。さてさて、自分達で作ったお米はどんな味でしょうか?新米・さつまいも……やっぱり私は秋が好きです。