思い出の一曲(平成19年度12月)

ついこの前まで「今年はいつまでも暑いね。ちょっと異常だね。」と言って冬の到来の遅さを不思議がっていたのに、その寒さをいよいよ感じ始めたら「さむーい!この寒さは辛いね。いやだねぇ。」と勝手なことをつい口走ってしまいます。当たり前の事が当たり前にやって来る事を有難いと思わなくてはいけませんね。幼稚園の庭の木々も深まる秋の冷たい風に色付いた葉が落ちていきます。街路樹も枝を切られて冬支度。そろそろあちらこちらでクリスマスソングが聴かれます。一年の終わりが近くなるのを感じます。


幼稚園では、今“音楽発表会”に向けて合奏・踊り・歌の練習を頑張っています。お家でもお子さん達が、練習の様子を話して聞かせてくれているのではないでしょうか。私も毎日その様子を見ています。この発表会への取り組みは夏から始まっています。先生が選曲をし、子供達の耳から身体にリズムやメロディーを自然に感じとらさせるために色々な工夫をしながら楽しませて来ました。そして、歌ったり踊ったりしながら曲を覚え、11月になってやっと楽器を手に合奏します。12月9日の本番までこの経験を繰り返しながら、その中で音楽の力を育てるだけでなく、頑張り抜く力や友達や先生との関係を深めていきます。


10年以上も前に卒園した子が、以前「彼女ができたから紹介するよ。」と久しぶりに幼稚園を訪ねて来てくれた事があります。懐かしい幼稚園の中を歩きながらたくさんの思い出話をしました。今は教材室になっている部屋を覗いて、「あっ!この部屋で合奏をした!僕木琴をしたよね。」「確か、戦いの曲!すごく楽しかった。」その話を聞いて、発表会の練習の事を言っているのだという事がすぐにわかりました。それは、戦いの曲…ではなくて、『剣の舞』という曲の事を言っているのでした。曲のイメージをつかんで欲しかったので、曲の中で物語を作って「ここは、戦っているところだよ。」とか、「静かに踊っているところね。」等と話をしながら取り組んだのでした。

中学生になる男の子が習っている音楽教室の発表会で「思い出の曲を弾きます。」と言って、幼稚園の発表会で合奏した曲を電子オルガンで弾いてくれました。

また、人生の道に迷っている、まともにいっていれば今高校2年生の卒園児である少年が、よく幼稚園を訪ねて来ます。自分の夢を見つけられずこれからどうしていけばいいのか悩んでいます。その子は、事ある毎に幼稚園の事を思い出し懐かしむのです。…というより、その思い出にすがりついているのです。その子の大きな思い出になっているのが、“音楽発表会”で演奏した『シング・シング・シング』というジャズです。小さな体で大太鼓をしました。早いリズムに合わせて連打する部分では、手に豆が出来るほどバチをしっかり握りたたきました。彼なりに努力をして必死だった姿を覚えています。出来栄えは最高でした。本当にかっこよかったです。少年は、今でも時々あの時の発表会のビデオを一人で観るそうです。(あの頃の俺は凄かった!あの頃は楽しかった!)…と、かつての自分の姿や友達を見たり、若かりし頃の私の姿を苦笑したりしているのです。振り返る事で前に進めないでいるのかも知れませんが、少なくとも壊れそうになっている彼を支えられているという事には間違いありません。


彼女を連れて来てくれた彼も、音楽教室で自分が選曲して演奏した子も、道に迷っている少年も三人共あの頃演奏した曲をずっと心の片隅にしまっていてくれました。音楽的な才能を育ててやれたかという事ではなく、彼らの人生においてこれまでささやかでも心の支えになっていた事…そしてきっとこれからも…。その事が意味ある事だと思うのです。

教育のねらいは目先の結果ではなく、その子の長い人生においてどのような意味を持たせてやれたかという事だと思います。特に幼稚園では『生きる力』の『根』の部分を育てたいのです。私たち大人でも、心に残る思い出の一曲があるでしょう。その曲を聴いたら、胸がキュンと痛くなったりその頃の事が走馬灯のように思い出されたりする事がありませんか?一瞬自分をその頃に巻き戻させて青春時代を懐かしみ、そうする事で勇気や元気をもらったりする事が…。


今、幼稚園の子供達は、これから先きっと『思い出の一曲』になるであろう演奏にとりくんでいます。それが何になるのかどんな意味を持つのかなんて考えもしないで練習しています。ただただ楽しいのです。中には、なかなか上手にできなくて落ち込んだり悲しんだりする事もあるでしょう。しかし、先生達は子供達に無理難題を提示しているのではありません。きっとできる事だから…ぜひそこをクリアーして欲しいと思っているから頑張らせるのです。その子にとってその達成感こそがこれから長い人生の中で必ずどこかで自分を支えてくれる『思い出の一曲』になるはずだからです。友達や先生と心を合わせて頑張った思い出が、子供達の生きる力になると思うからなのです。


音楽発表会まであとわずか。子供達がずっと先に思い出してくれるような、そんな経験となりますように、どうか遠い先にまで続く先生と友達との思い出作りを温かく応援していてください。

トンボって、リンゴって…(平成19年度11月)

例年になく暑かった長い夏が終わり、いよいよ秋到来です。昨年度の『葉子先生の部屋』にも書いた事がありますが、私は秋が大好きです。秋の空気や風の匂い、山の色や秋の虫などが夏の暑さにさらされた心や体をホッと落ち着いた気分にさせてくれるからです。

どの季節も子供達にとっては楽しい季節ですが、秋は格別のようです。秋は子供達に自然からのお土産を届けてくれます。ドングリ・マツボックリ・紅葉した落ち葉…これらを使って子供達は色々なあそびを考えます。園庭でみつけたドングリがあまりにも嬉しくて、スモックのポケットの中に大事そうにしまって喜んでいる子もたくさんいます。


10月は遠足や秋の木の実を探しに、たくさん園外に出かけました。このような園外に出る時には、いつも園長先生や私が引率に同行します。子供達と一緒に出かけると、楽しい事や感心する事にたくさん出会います。バスの中では、歌を歌ったりクイズを出し合ったり、一緒に広場を走り回ったり、友達ととても楽しそうに話したり、以前はできていなかった事ができるようになっているのを感じとる事もできます。


そんな中、園長先生が引率した今回の園外保育で園長先生が驚いた事があったそうです。…というのは、年少組の遠足で風土記の丘に行き、遺跡を見て子供達に昔の人達の生活についてや暮らしぶりなどを話しながら散策していたときの事、トンボが草にとまっているのをみつけ、園長先生はそーっとトンボの羽をつまんで捕まえ、子供達に見せてやったそうです。「これ、なーんだ!」と聞くと、驚いた事に「バッタ!」という答えが返ってきたらしいのです。保育の中でよく『とんぼのめがね』の歌を歌っています。きっとお家でもお母さんやお父さんと歌う事があると思います。秋の絵本にだってトンボはいくらでも登場しますし、そんな話をして制作する事だってあります。当然知っている事を仮定した上での質問だったのに、返ってきた答えにびっくりしたそうです。


子供達は、いつでも直接体験を通して様々な事を知り自分の知識にしていきます。きっと、今の子供達の中にはトンボを意識して見たことがない子がたくさんいるのでしょう。目にはしても、改めて「これがトンボなんだよ」と、知らされないまま今までを過ごしてきた子供達がいるという事ではないでしょうか。よく考えてみると、こういった事は結構あるような気がします。子供達はお弁当に入っている梅干は、そのまま酸っぱくて赤い姿で実っていると思っているのでは?…すでに切り身で売られている魚ばかり目にしている子供は、魚の本当の姿を知っているのでしょうか…。お恥ずかしい事に、私も、蓮根は土の中にサツマイモのようになるのだと思っていて、本当は、沼地の中になっているという事を知ったのは、けっこう大きくなってからだったのを思い出します。


年少組のある女の子が休み明けに、「みんなで食べてください。」と、真っ赤なリンゴをたくさん持ってきてくれました。担任の先生がその子のお母さんによく聞いてみると、「娘に、『リンゴってどこになってるか知ってる?』と聞いたら、『土の中!』と答えたのでびっくりして、木になっているリンゴをぜひ見せてやらないと…と思い、リンゴ狩りに連れて行ってやりました。」ということだったようです。リンゴの実をたくさんつけた木はその子の目にどんなふうに飛び込んできたでしょうか。辺りにほんのり香るリンゴの匂いはどんなだったでしょうか。私がその子に「リンゴの木を見たの?」と聞くと、「うん!びっくりしたよぉ!」と、感激していました。


虫や魚については、この子の右に出る者はない!という程の生物博士(?)の男の子がいます。その子は、虫を見つけると食い入るように見つめ触ります。裏返したり指で押してみたりしながら興味津々です。魚を見つけると素手で上手に捕まえる事もできます。虫や魚の生態をよく知っているからです。乱暴にみえても見たり触れたり追いかけたりしながら、生き物の事を知ってくるのです。


こういう直接体験をたくさん経験している子供は心をときめかせて、その物について知ろうとしたり考えたりする事が楽しくなってきます。そうしているうちに、いろいろな事を発見できたり納得できたりします。そしてまた、目を輝かせてたくさんの事に興味をもちます。

この繰り返しが、本来の『学び』だと思います。大人にとって知っていて当たり前の事でも、子供達は知らされないと自分の知識として心のレンズには写らないのです。実際に手にとって、見つめて、感動する事そのものが学びなのです。心くすぐる体験こそが学習なのです。この直接体験は図鑑やテレビの画面で得た知識よりも、ずっと子供達に大きな知識を与えてくれます。そこには、驚きと感動が必ずあるからです。(これは何?)(どうしてだろう?)(ん?)と色々な事に気付ける…そして、私達大人が、子供達にできるだけたくさんの直接体験をさせてやる事によって、心と身体を使って自分から関わり、知らず知らずのうちに学びとる姿勢ができてきます。それが、いずれ子供達の『生きる力』を育てるのだという事を知っておかなければいけないと思うのです。

土俵(平成19年度10月)

先日23日(秋分の日)には、第37回目の運動会を行いました。だいたい例年、当日まで毎日のように天気を気にしながらその日を迎えるのですが、今年は、全くそんな心配もなく、逆に暑さ続きで熱中症の心配の方が優先でした。途中、にわか雨が降ったものの当日も、青空の下で、賑やかな運動会を行う事ができました。


オープニング前の子供達の顔つきは、満3歳児・年少組・年中組・年長組それぞれにみんないつもは見られない表情でした。運動会の経験の回数や、その子の性格などによってみんなその表情は違います。そして、その様子をテントの中から…あるいは、テントの外で直射日光を浴びながらでも見つめていてくださる保護者の方々の表情は、子供達以上に様々でした。心配そうにわが子を目で追い続けておられたり、トラック内に出て来る姿を一時でも逃すまいとビデオ・カメラのピント合わせに一生懸命だったり、余裕で安心して観ておられたり…と、私は、その様子を本部席から観ていました。しかし、そんな保護者の方に共通して感じたのは、お子さんへのエールでした。そのエールを私達もひしひしと感じながら、色々な意味でいい運動会にしたいと思っていました。


運動会の歴史は、133年前にさかのぼるようです。それから時を経て、今や、もともとの運動会からは、捉え方も形も変わってきました。運動会は、日本特有の学校行事のようです。当たり前のようにだいたいどの教育現場でも行われていますが、運動会をどう捉えて子供達に経験させるかが、一番大切なところだと思います。(運動会があるから色々な種目を子供達に経験させなくてはならない。)と考えるのではなく、子供達に秘めたる可能性や才能を発掘したり、踏ん張りどころを感じたり、個と集団を意識したり、得られる達成感により生活を潤い豊かなものにするきっかけの場所になっていなくてはいけないと思うのです。

私は、これをよく“土俵”と言っています。この土俵は、実は何だっていいのです。あればある程子供達一人ひとりの輝きが見えてきます。例えば、“魚釣り大会”があれば、運動は苦手でも魚につけては誰よりよく知っているという子がヒーローになれるでしょう。“劇遊び”をすれば、お姫様や小人役に表現力の豊かな子が一躍スターになれるでしょう。学校で言えば、勉強は苦手だけど、歌を歌わせれば…絵を描かせたり制作をさせれば、右に出る者はいないという子には、“歌”だったり“作品展”だったりの“土俵”で輝けるでしょう。運動が苦手でも楽器演奏が得意な子は“演奏会”などで……。運動会はそういった“土俵”の一つだと思っています。

そして、その運動会の中にも、跳ぶ・投げる・走る・踊る・演奏する等、子供達が「これなら!」と自信が持てるもう一つ小さくした“土俵”が用意されています。どこで自分の力を出せるかは、子供達が一番先に自分で気づきます。それから、先生達がうまく後押しをしたり、誘ったりしていくうちに(これぞ!プロの技なのです。)、自分では、気づいていなかった自分の違った力の発見をします。そうして自信たっぷりに力を発揮しているのを見て、まわりの友達もその子を認めて賞賛しはじめます。苦手意識を持っている子でも、これだけ数々の“土俵”を用意してあげていれば、どこかでは、ヒーロー気分になれるというわけです。

こういう経験を毎日の生活の中に取り入れていけば、いずれ、欲すら出てきて次はチャレンジする気持ちが生まれてくるでしょう。自分の力より少しハードルを上げて跳んでみようかなという気持ちになってきます。また、違った型の“土俵”で勝負してみる気持ちにもなるかも知れません。チャレンジ精神が芽生えれば、その子のまわりにエールを贈ってくれる人達がいてくれれば、幼くても少々の挫折は乗り越えられるのです。そのたびにたくましくなります。


運動会には、そのような意義をもって取り組んできました。運動会を観て、まさか「へたくそだったねぇ」とか、「期待はずれだったよ」とか「ダメだったじゃないか」などと言って反省会じみた会話をされたお父さんやお母さんはおられないでしょう。運動会は、その子の結果ではありません。通過点です。ひとまず、どのような事があったとしても、自分なりに運動会という“土俵”で力をためした事をたくさん褒めてあげてほしいと思います。実際、みんな輝く事ができたいい運動会で大成功でした。

私も、夜、運動会の一日を振り返りながら、あの子はきっとお家で「転んでもよく立ち上がって走ったね。かっこよかったぞ!」って褒めてもらっているだろうな。あの子は「たくさんのお客様の前で立派にできたね。感動したよ。」って抱きしめてもらっているだろうな。あの子は……なんて想像していました。いつの時も家族の人達のエールはうれしいのです。そうして、成長していく子供達を見ることにより、私達にも元気を与えられます。園長先生が最後の挨拶で、子供達に「ありがとう!」と言いたかった気持ちが私にもわかるような気がします。


これからも、私達は、子供達が色々な場面で輝けるように、生活の中にたくさんの“土俵”を用意してやりたいと思います。みんなそれぞれに個人新記録保持者であり、その記録を少しずつ更新していく生活は、子供達にとって最高におもしろいはずです。

偲ぶ心(平成19年度9月)

今年は、記録的に暑い夏でした。熱射病・熱中症・日射病といろいろなところでこの文字を目にし、まるで最高気温の記録会のようでした。そんな中で高校球児たちが、甲子園でプレーしている姿を見て、鍛え抜かれた精神力と体力そして、優勝という夢にかける高校球児達の気力に感動をおぼえました。広陵高校準優勝おめでとう!暑い!熱い!夏でした。そんな暑さをもたらしたおてんとう様もそろそろ秋の準備を始めているのではないでしょうか。


夏休みの間にご家族でたくさんの思い出をつくられた事でしょう。夏が終わるとなると楽しかった夏を振り返り、何だか寂しくなってしまいます。思い出があればある程、振り返ったときに物悲しく感傷的になるものです。懐かしさ余って涙する事さえあります。いい思い出にせよ悪い思い出にせよ、過ぎた日はもう二度と戻らないからです。その戻らない日が恋しいからです。


我が家の地域では、毎年お盆には地元の若い(?)人達の主催で、盆踊り会が行われます。実は、私も微力ながら主催者の一人です。地元の人達が多い地域ですので、街に出ている人達が、お盆休みに実家に帰って来たり、お墓参りに来て本家に集まったりします。ですから、その時期は大変賑わいます。盆踊りの日には、懐かしい人に会えたり、小さな子供達もたくさん来てくれます。いろいろな催し物や夜店があって準備は大変ですが、結構楽しいものです。


『盆踊り』の意味には、色々な説があるようですが、祖先達の霊のために行う事には違いありません。私が夜店の販売をしていると、二人の方が来てくださいました。それは、5年前に他界した義母をよく知ってくださっている美容師さんと公民館の方でした。その時、美容師の方が、「お義母さんが亡くなってからもう何年ですかね。本当にいい人でしたよね。おしゃれさんで、楽しい人でね。」公民館の方は、「人のために一生懸命働いてくださる人でした。お世話になったんですよ。」と色んな思い出を私に語ってくださいました。私の娘を見て、「この子が上の娘さん?まあまあ、大きくなられて。おばあちゃん(義母)もさぞかしここで喜んでいらっしゃるでしょうねぇ。可愛がっておられたから。」──私は、何だか胸が熱くなりました。「ここで喜んで……」という言葉に、(そうか、いつも私達の事を見ていてくれてるんだぁ。今日はお盆だから、きっとお義母さんもここにいてくれている。人の前に出るのが恥ずかしい人だったから、踊ったりはしないでうちわをあおぎながら、座って見ているかな。)と色々思ったりしました。


大切な人を失って、その時は深い悲しみに打ちひしがれたはずなのに、いつの間にかその人のいない生活が当たり前の生活になってきます。また、そうならないといけないのです。だけど、ふとした時に思い出したり、その人を懐かしみながら話をしたり……。

私は、家の中で何か変わった事があると、いつも(どうしたらいいんだろう?こんな時お義母さんなら何て言うかな?どうするかな?)と考えます。きっと、力を借りたい気持ちからなのでしょう。私の娘たちも嬉しい事があると仏壇に報告します。きっと、おばあちゃんに褒めてもらいたいのでしょう。お義父さんは、おいしいものを食べる時や楽しい事があると思い出して「おばあさんもうらやましがっておるじゃろう。ここにいたら、喜ぶんだろうに…」といつも涙ぐみます。お義母さんは、亡くなってからも幸せです。こうして、色々な人達に思い出してもらえて。そして、私達の心の支えになってくれているのだと思います。そうしてみると、この世にいなくても家族の支えになっているなんて…お義母さんはすごい人です。不幸にして大切な人を失ってしまっても、私達にその人を偲ぶ気持ちがあれば、私達の心の中で生かされる──思い出して泣いてあげる事も、話題にしてあげる事も祖先の供養だと思うのです。


話題になった『千の風になって』という歌に元気づけられた方もたくさんおられるのではないでしょうか。白い盆灯篭がたくさんたてられたお墓の前で手を合わせる家族がありました。小さな子供も一緒です。悲しみから癒される間もなく初盆を迎えられたご家族でしょう。お墓の前で涙を拭っておられました。幼い子供達は、そんな大人たちをじーっと見ています。はしゃぎまわれない神妙な雰囲気を幼いながらにも察することができたようでした。お母さんから促されてお墓にしゃがんで手を合わせていました。私は、きっと、このご家族も、毎年ここで亡き人を偲び、それを力にまた元気を取り戻し、家族が力を合わせて強く生きて行けるようになるのだろう、と思って見ていました。

小さな子供達にとって、飼っていたペットが死んでしまったり、大切にしていた宝物が壊れたり……。そんな時でも「死んじゃいました。さようなら。」「壊れちゃいました。捨てましょう。」ではなくて、大切だった物は大切だった物のように、それを偲ぶ気持ちを持たせてやるべきだと思うのです。

お盆にお墓参りをする私達大人の姿を見て子供達は、本当に大切な人を失くしてしまったんだと感じ、その子達もまた、大切な人としていつも偲んでくれるようになるでしょう。
『偲ぶ心』は、人を人として大切に思う心だと思うのです。

いたずらっこ、世にはばかる(平成19年度8月)

“いたずらっこ”──そういえば、最近世間の会話の中にあまり聞かれない言葉になったような気がします。“いたずら”と“悪行”との大人の捉え方に区別がなくなってきているという事かもしれません。


子供達のいたずらには、私達大人は多かれ少なかれ振り回されてしまいます。その対応には、心身共にほとほとくたびれてしまうというのは、誰もが経験された事ではないでしょうか?子育てをする間には、ママ達の仲間うちでしばしばこの“いたずら”を嘆く会話がなされます。

ある病院の待合室でのママ同士の会話が耳に入ってきました。「聞いて!うちの子ったら雨ふりの日に長靴や靴を外へいっぱい並べて、雨水がたまるのを面白がって見てるのよ。信じられなかった。おまけに傘まで逆さまにして雨水を受けて…。勿論自分もびしょ濡れよ!この子頭がおかしくなったのかと思ったよ。いけない事ってわからないのかしら!いったいどんな子になるんだろう!!」──そう話をしている母親の隣には、聞いているのかいないのか、3歳にやっとなったぐらいの男の子が座っていました。母親の目線からして、その子はこの話題の提供者と思われます。看護士さんの忙しそうな動きをじーっとみていました。もう一人のママは、「うちの子も悪いのよー。静かにしてると思ったら、大概悪い事をしてパパに叱られてるよ。ほんと!最近叱る事ばっかり!!」と答えておられました。その時点で、そのママたちの間では、お互いの子供達は、“悪い子”に決定されてしまいました。


ですが、私には、その子がどうしても“悪行”を働いたとは思えないのです。ましてや“悪い子”だなんて…。面白そうじゃあないですか、どんどん降って来る雨が深い長靴に溜まっていく様子や、傘で雨を受けるポツポツとかザーッ!っという音を聞くのは。

濡れた靴や傘は乾かせば済むはなしです。その時に感じた愉快な気持ちや子供なりの発見や驚きが、きっとたくさんあったはずなのです。目を輝かせて雨水が溜まっていく様子を気長に気長に見ていたはずなのです。何かを考えながらじーっと…。この状況を想像すると、頭ごなしには叱れません。むしろ私なら、後ろからその子のそんな姿を静かにいつまでも見ていたくなるほど可愛く思えたでしょう。


これは、“いたずら”です。だけど、この“いたずら”というのは、子供にとっては“学び”なのです。いたずらをするためには、結構知恵が必要です。この状況をどうやって楽しもうか?どうやってこの事態を乗り越えようか?と知恵を使い体を動かして、何とか自分の力でやってみようとするのです。興味を示しているのです。


いつも“いたずら”は自発的で自主的です。こう考えたら、すごい事だと思いませんか?大人が思えば、(よくこんな面倒くさい事を思いついたものだ。)と逆に苦笑しながらも感心してしまいます。赤ちゃんがティッシュぺーパーを箱から何枚も何枚もひっぱり出すのも、たたんである洗濯物を散らかして遊ぶのも、テーブルや壁に落書きをするのも、“学び”なのです。おもしろいと思う事から、(どうして?)と不思議がり、何度も何度も繰り返し、その内(なるほど、こうしたらこうなるんだ)という発見をするのです。大人は、この貴重な経験を“いたずら”という言葉でひとまとめにしていますが、子供の世界では立派な“学びの時間”なのです。


その様子が一番よく見られるのが、幼稚園でいうとさつき組満3歳児クラスです。さつき組の保育室に行くといつも「こりゃこりゃ~」「ありゃりゃ」と困っているんだけど楽しそうな…叱りたいけど許しちゃう…そんな先生の声が聞こえます。さつき組は、在籍3人のクラスですが、3人の目が合えば“いたずら”のスイッチが入ります。先生が保育のために準備していた細長く巻いた画用紙をいつの間にか持ち出して、剣の代わりにして遊んだのか、しばらくして保育室に持って帰った時には、ヨレヨレグシャグシャになっていました。リサイクルバザーの準備物が置いてある部屋に入り、先生達が折り紙を貼って作った模擬店のポスター…少しめくれていた部分、そこを剥がしてみたらおもしろかったのでしょう、どんどん3人でめくってしまっていました。その部屋に残されていたのは、無残に折り紙が剥がされたボロボロのポスターでした。そこには、3人の姿はありませんでした。

先生が、子供達を呼んで「これ、どうしたの?」と聞いたところ、「あのねぇ、いっしょにビリビリしたんよぉ。」と普通に答えたといいます。だって、その子達にとっては、悪い事だなんて思っていないのですし、あそびの一つに過ぎなかったわけですから。勿論、その場で「これは、大切な物で破ってはいけなかったの。」という事は教えてやらなければ、規範意識を養うチャンスを逃してしまいますが、それよりもここで大切なのは、その子達を見て、一度は微笑んでやれるかどうかです。いきなり悪い子だと叱らないでください。学ばせてやるチャンス到来!と笑ってやってほしいのです。

こうして“いたずら”を経験していくうちに良い事といけない事、そして物事の成り立ちや仕組み等も学ぶ事にもなるのだと思います。幼い頃のいたずらは、成長の証です。さあ、夏休みです。子供達はどんないたずらで攻めて来るでしょうか?