知ってるつもりの知らない事(平成20年度11月)

寒がりの私には、朝晩の寒さがこたえる季節になってきました。ですが、秋の紅葉が待ち遠しく、赤とんぼが無数に飛び回る向こうで、山々が少しずつ秋色に変っていく様子には心癒されています。
癒されるといえば、9月14日は十五夜で今月11日は十三夜のお月見でした。今年は良い天気だったのできれいな月をみる事ができました。


幼稚園では、毎月年長組の子供達がお茶の稽古をしています。稽古を通して気配りや相手を思いやる事の意味に気付いたり、日本の美しい文化や自分の住む国の良さに気付いてほしいという願いからお茶の先生を招いてご指導いただいています。お月見のお茶会の時の事、お供え物のススキやお酒、秋の木の実や作物について話をしてくださいました。その時、「ちょっとみんなに聞いてみようかな?これはお酒なんだけど、お酒って何で出来ているか知ってる?」と子供達に問いかけられました。子供達は一瞬「???」と、答えを見つけるまでに間がありました。そういえば、何で出来ているかなんて考えた事もなかったからです。「じゃあビールは?」と先生が試しに問われると、「泡があるからなぁ~」といろいろと考えていたようでした。「ワインは?」…3度目の問いにやっと「ブドウ!」と答えた子がいました。なるほど、ブドウは色的にもそれっぽいので納得していました。しばらく思いつくまま子供達は答えていましたが、先生が「日本酒はお米から出来るんですよ。ビールは麦、焼酎はいろんな物から出来るの。芋とか麦やそばからね。」と教えてくださいました。すると、「そば?」…。子供達の頭の中には、ツルツル食べるそばが浮かんでいたようでした。すかさず先生が「お箸で食べるそばからできるんじゃあないよ。」と言われると、何が何だかわからなくなってきた子供達でした。私は、ふと、うちの娘達は知っているのだろうか?と心配になりました。あらためてそんな事を教えた事がないような気がしたからです


発泡トレーで売られている肉が、いったいもともとの姿は何なのか、肉は“肉”としか思っていなくて、牛とか豚とか鶏があるという事を知って食べているでしょうか。すでに刺身になっている魚はいったい何の魚か、実はどんな姿をしているのか知っているのでしょうか。あまりにもきれいに商品化して店頭に並べてあるために、子供達は本物の姿を知る機会が少ないのです。


娘が小学生の時に社会科見学でジーンズの生地を織る会社に行った夜、「お母さん!このジーパンって、初めからジーパンなんじゃあないんよ。」と自分がはいているジーパンを指差して言いました。既製品がほとんどの我が家の娘にとっては未知の世界だった事でしょう。その工場で、自分がいつもはいているジーパンと同じ生地ができる様子を目の当たりにして、(ジーパンの正体はこれだったのか!)と、娘はさぞかし感動した事でしょう。と同時に、私は、(こんな事も知らなかったのか。そう言えば、商品は知っていても、それが何でどうやってできているかなど一つ一つ教えた事がなかったな。)と、いささか焦ったのを覚えています。


また、幼稚園に来ている実習生が保育をする日がありました。土の中からいろいろな作物を掘る絵を描き、製作をするといった内容でした。実習生が「土の中にできる物は何があるかな?」と聞いたところ、まず一番に、「さつまいも!」と答えました。イモ掘りの経験のおかげでしょう。その次は「かぶ!」…これは、“おおきなかぶ”の絵本から思い浮かんだのでしょう。それからは、人参・大根…カボチャ・ピーマン・キャベツ……トマト…???と、思いつくまま適当に答えていました。土の中にできるものと土から上に生るものが、本当のところわかっていないのです。ある人が、以前びっくりして話してくれた事がありました。食品売り場のレジのアルバイトをしている高校生が、かごの中に入れていたレタスを見て、客であるその人に「すみません、これはキャベツですか?レタスですか?」と尋ねたそうです。高校生でさえそうなのですから、幼稚園の子供達が野菜の生り方など知らなくても無理はないのかもしれません。


お茶の先生から教えてもらった事は、まだピンときていないと思います。だけど、これから先、お父さんがお酒やビールを飲む時にこれが何からできたか、お母さんが夕食支度をしている横で食材に関心を持って何がどう変身して食卓に並ぶのかという事を知るでしょう。大人が気づかせてやる事もなく、関心さえもなかったら、子供達はそこを素通りして大人になってしまうのです。“これは、何なんだろう”“どうなっているんだろう”“どうやってできているんだろう”と、いろんな事に興味を持ち、素通りできない子になって欲しいと思います。そして、私達大人も“ん?これは?”と立ち止まって子供達と一緒に感じ合える時間を持つ事は大切だという事に気付いていないといけないと思うのです。


最近、パソコンを使えるようになった娘が「どうしてパソコンでこんな事ができるの?いったいどんな仕組みでどうなってるの?」とよくきいてきます。何でも一緒に考えて答えてやりたいと思っている母ではありますが、さすがに…限界が……。

裏舞台(平成20年度10月)

「地球はどこかおかしくなっている」と言われ始めてから、何年経ったでしょうか?地球温暖化・環境問題・エコ…等という言葉を随分耳にしてきました。だけど、地球も頑張っています。少し様子はおかしいですが、空を見上げれば、いつの間にか秋の空に秋の雲、吹く風は秋風でその優しい風にコスモスが揺れています。裏山に行ってみれば、栗の木や柿の木に実が生っています。地球は忘れずに私達に過ごしやすい実りの秋をちゃんと届けてくれたようです。


そんな中、幼稚園では秋分の日に秋季大運動会を行いました。確か、昨年の『葉子先生の部屋』の10月にも運動会をテーマに書いたと思います。今年は違うテーマで…と思いましたが、運動会を終えて、まだ興奮冷めやらぬままの執筆なので、どうしてもここから外れる事ができませんでした。


さて、今年のお子さんの晴れ舞台はいかがでしたか?いつも決まったように行われる運動会ですが、毎年毎年その日を迎える気持ちや感動やできる思い出が違います。それは、その運動会の主役である子供達が毎年違うからです。そして、運動会当日の舞台のムードも毎年違います。きっと、保護者の皆様も、わが子の姿に様々な感動を覚えられたのではないかと思います。本番に、わが子がどんな様子になるのか心配でたまらなかったお家の方は一つひとつの出番が終わるたびに、ほっとしたり感動したりされた事でしょう。


しかし先生達は、当日までにすでに、「この経験は子供達をグーンと成長させるものだった。」と言える自信がありました。


運動会に向けての取り組みが始まったのは6月頃からでした。“運動会の練習”としてではなく、仲間意識や体を動かす事の楽しさを感じ、心や体にも強さを持ち合わせることのできるように経験を繰り返すという意識から始まりました。子供達は、毎日音楽に合わせて踊ったり友達と一緒に「どうかな?こうかな?」と練習し合う子もいました。いつも足の速い友達のフォ―ムをじーっと観察し、自分なりに研究したのでしょう、急に走り方がかっこよくなった子もいました。子供達は自分の中にある“苦手意識”や“弱さ”と葛藤したり、挑戦意欲をもって努力をしようとします。そうしながら、がんばる楽しさや達成感を味わうのです。それはそれは頼もしい限りです。実は、こうしていろんなドラマが運動会の当日までにありました。それを知っているからこそ、私達は本番に自信を持ってその日を迎えたのです。感動的な運動会はこのドラマの延長線上にありました。


特に、さくら組でのリレーは感動しました。様々な面にハンディを持つ子供達を取り巻くクラスづくりや取り組みには特に丁寧に進めてきました。子供は実にピュアです。いろいろな事をストレートにうけいれます。子供の心はもともとバリアフリーなのです。      担任の三上智子先生と専任の新家あずさ先生は、こうちゃんとだいちゃんとみんなで自然に生活したいと思っていました。そして、子供達はみんな一緒に二人の障害を、自分達ももっている個性の一つとして関わっていたように思います。だから、遠慮なく子供同士の言い合いも喧嘩もしていましたし、車いすやバギーにも恐る恐るさわるのではなく、まるで手をつなぐようにみんなが操作していました。そんな毎日の生活の中で障害をもつ友達への関わりや気持ちの向け方を先生達は手探りで、子供達は自然に学んできたと思います。とは言え…と言うか、それゆえに…と言うか、運動会のリレーはクラス対抗です。勝ちたい気持ちになるのは当然のことです。だけど、一番にはなれない…子供達なりの葛藤はそれまでにあったはずです。先生に聞いたところ、子供達の口から出た言葉は、「僕たちがすごく速く走ったらいいじゃん。」だったそうです。子供達が考えた言わば作戦です。

そして運動会。リレーを終えたある子に、「リレー、頑張ったね。」と言うと「うん(こうちゃんもだいちゃんも)わらっとった。」とサラッと言うのです。こうちゃんが車椅子に座って風をきりながら嬉しそうに笑っていた事が嬉しかったのでしょう。だいちゃんが歩行器で一生懸命ゴールに向かう姿に胸を打たれたのでしょう。きっと、子供達の心には、リレーの勝敗すら超える“大切な物”をそれまでの関わりの中で見つける事ができていたのだと思います。


運動会はそれら全ての集大成、その発表のために用意されたステージなのです。運動会そのものは、たった一日限りのステージですが、実は子供達と先生達にとっては毎日が晴れ舞台だったのです。昨日より今日、今日より明日…と子供達がどんどん自分に自信を持ち、変化や進化して行く手ごたえを感じる毎日…それは、まさしく感動的な舞台でした。そう考えると、もしかしたら私達は、保護者の方よりも、素敵なステージを見ていたのかもしれません。園長先生の挨拶にもありましたが、本当は、それまでのこの過程こそが大切な時間なのです。目標に向かって取り組んでいく中で色んな出来事があり、心が揺さぶられ、生きていく上で大切なたくさんの事が子供達の中に宿っていきます。この過程での成長こそ見て認めてやって欲しいと思います。そう!この裏舞台こそが、みごとで輝かしいのです。だから、みんなみんな金メダルおめでとう!!

夢を支える(平成20年度9月)

今年の夏も異常な程の暑さでした。地球全体が悲鳴をあげているような気がします。そんな中今年は北京でオリンピックが行われ、様々な種目で世界記録が塗り変えられました。人間業をはるかに超越したそれらの雄姿に感動をおぼえました。オリンピック選手の姿は子供達の目にどのように映ったでしょうか。金メダルを首にかけた世界チャンピオンは特別に輝かしく見えたに違いありません。メダルには届かなかったけれど、庄原市から競泳女子200m平泳ぎの選手が出場!みごと決勝で7位入賞というビッグニュースに拍手喝采しました。田舎のスイミングスクールからオリンピック選手が出たと驚き、「ぼくもオリンピックに行きたい!」「私もいつか!」と子供達に夢と希望を与えました。また、これまではオリンピック種目でありながらも特に取り上げられなかったバトミントンも、いわゆるオグシオ効果でバトミントンのラケットがとぶように売れたそうです。その経済効果もさる事ながら、人々の心を一気に揺さぶった事に驚かされます。自分もあんな風に走りたい!泳ぎたい!戦いたい!と夢を見させてくれるのです。


あるメダリストが、「メダルを手にした瞬間、誰が思い浮かびましたか?」というアナウンサーのインタビューに「両親です。そして、自分をこれまで応援して支えてくださったたくさんの方の顔が思い浮かび、感謝の気持ちでいっぱいです。」と答えていました。戦いの一瞬しか知らない私達には、それまでにどんな苦しみや厳しい試練や自分との戦いがあったかなんて計り知れません。それは、間近で見てきたご両親が一番よく分かっておられるのです。そして、叱咤激励しながら、共に夢を追い続けて来られたのです。


子供達はみんな、夢を見て、夢を描いて、夢を追っていずれ自分の進む道を選んで生きて行きます。その途中に自分の夢に共感してくれる人が存在していれば、「自分にもできそうな気がする。」と夢実現への光が見えてきて力が湧き、挫折しそうな時も立ち上がれるエネルギーが持てるのです。


高校生になる直前になって始めたボクシングで、今やウェルター級国内高校生の2位で頑張っている卒園児がいます。幼稚園の頃は、どちらかと言えばやんちゃで友達ともよくトラブルを起こす男の子でした。だけど、その分、情に厚く、分かり合えた友達の事はとても大事にする“いい奴”でした。そのお母さんは、その子の良いところをちゃんとわかっておられるよき理解者だったようです。心と体を鍛えたその子は、まっすぐに自分の夢に向かって頑張っています。また、中学受験と同時に頑張っていたフィギアスケートへの夢も諦めきれず、「この子の夢を叶えてやりたい!」とご両親が決心され、受験をやめてスケート一本に絞った卒園児が、今や、浅田真央も夢じゃないぐらいの力をつけ、国体等でいつも輝かしい成績を上げています。その子とご両親に先日再会し、「この子の今があるのは、毎日がむしゃらに遊ばせてもらった幼稚園の環境や遊具のおかげなんです。」と言ってくださいました。受験をスパッ!とやめて、子供の夢を支える決心をされたという知らせを聞いた時、その潔さに感動したのを覚えています。その子は「私は、ずーっとお父さんやお母さんに感謝してる。」と話してくれました。


スポーツだけではありません。子供がキラキラした心で夢を話してくれる時、それがどんな夢であっても、どうぞ、子供と向き合ってしっかり聞いてやってください。一緒にその話に夢中になってやってください。「何つまんない事を言ってるの!」とか「無理に決まってる!」なんて決して言わないでください。その内容は“つまらない事”でも“無理に決まってる事”でも、夢を見るその気持を持つ事が大事なのです。夢は人生の目標にもなります。生きるエネルギーになるのです。そして、それを聞いてやるだけで、夢はどんどん膨らむでしょう。今ある力が何倍にも大きくなる事だってあります。夢を支えるとは、直接何かの手立てやお膳立てをする事だけではなく、夢を見させてやる事、夢を聞いてやる事から始まるような気がします。


私も、幼い頃から、夢を見るのも語るのも好きでした。一番の理解者は母でした。母には何でも話をしていました。幼稚園の先生になりたいという夢もいつも聞いてくれていました。ただ聞いて共感してくれていただけでしたが、そのうち夢がどんどん膨らんで、夢は夢に終わらない気がしてきました。京都の幼稚園の就職試験に合格・採用が決まった時には、やはり両親の顔が真っ先に浮かびました。夢が叶った事を誰よりも喜んでくれる人だからです。


先生になっても、「こんな先生になりたいんだ。」という話を真剣に聞いて意見を聞かせてくれる私のよきアドバイザーでした。


どうぞ、子供達と一緒に夢を見て、夢を支えている事を感じさせてやってください。大きくなっても、夢のない…夢を見つけられない子供達にするのは、私達大人のせいなのかもしれませんよ。
後に、母は私達子供に家業を継がせ、家族皆で店を盛り上げるという夢をもっていた事を聞きました。今、あらためて“私の夢を応援してくれてありがとうございました。”と言いたいです。

誰のせい?誰のため?(平成20年度8月)

地球温暖化をひしひしと感じさせる例年にない暑さの中、子供達は元気に一学期を終える事ができました。新年度を迎え、これまでの3ヶ月間に子供達はたくさんの経験をしてきました。個人差はあってもそれぞれにどの子も成長を見せてくれています。思いきり楽しんだり頑張ったりしてきた子供達に、ここで少し休憩を入れてあげましょう。夏休みは、日頃親の手から少し離れたところで生活している子供の成長を身近で確かめられるいいチャンスです。どうか、一緒にいられる時間を少しでも多くもって、小さな成長も見逃さず一緒に喜んであげてください。夏休み…何はともあれ、安全に楽しく過ごさせたいものです。


さて、6月1日より“道路交通法”が一部改正され施行されました。自転車の乗り方や自動車後部座席シートベルトの着用義務化等、お年寄りや子供の命を守るためのきまりが見直されました。そんな中、小学生をもつお母さん方が、この事について数人で話されているのを耳にしました。自転車利用者対策の一つで、13歳未満の子供の自転車乗車時におけるヘルメット着用努力義務についてのようでした。小学生にもなると、自転車で遊びに行く事等で、道路を走る機会も多くなってきます。当然それだけ危険が伴うのです。そんな話をしているうちに一人のお母さんが、「学校でヘルメットの形や被り方の指導をしてくれて、着用を校則にしてくれないかしら。」と言われました。「みんなが被らないと、うちの子も被らないと思う。」と言われるのです。

以前、似たような言葉を聞いたような気がします。今や子供達の間では、持っていて当たり前のように氾濫しているゲーム…、「自分の子供にはさせたくないけど、友達皆が持っているから、買わずにはいられなくなる。学校でも注意してもらって、少々厳しくてもいいからゲームをしてはいけないきまりをつくってもらえないかしら。」…。私は、この言葉を聞いて、びっくりしたのを覚えています。子供達はいくら幼くても、一人前の人格を持った人として認めていかなくてはなりませんが、まだ、物の分別を正しくつけられない、何かに対して自分で全ての責任を背負えない間は、やはり親の監視の下、毅然とした態度で子供達に言って聞かせるだけの力は持っていて欲しいと思うのです。「ダメなものはダメ!」と言っていいのではないかと思うのです。私は、そのお母さんに、「この子は誰のお子さんですか?」と聞きたかったです。

子供達の命を守るために、ヘルメット着用は有効です。ヘルメット着用は、子供達を保護する責任のある者…言わば、保護者へ課せられた努力義務です。自分の子供は自分で守らなければ!と思えば、ヘルメットの意味や危険性をきちんと話すべきではないでしょうか?どうして、その責任を学校や他人に委ねるのでしょう。もし、学校が規則をつくったとしたら、「校則だから、被りなさい。」と子供に話をされるのでしょうが、そんな事ばかりしていると、子供達は、人が決めてくれた“きまり”でしか、分別がつけられず、“きまり”がないと生きていけない人間になってしまうような気がします。自分で考えて納得して自分なりのルールの中で正しく生きていける人間になれなくなるような気がするのです。そして何か問題が起きたら、きっと「もっと学校側がきちんと指導してくれなかったから…。」とか「先生がしっかり言ってくれれば…。」と、その責任の所在を他人に求めたくなるでしょう。

校則だから…法律で決まっているから…ではないのです。何故、規則にしてあるかを大人が納得をして、子供達に分かりやすくその理由を話してやって欲しいと思います。たとえ、規則になっていなくても、我が子を守るためにどうすればいいのか、どうする事が正解なのかという事を親の判断で決定したっていいではないですか。それは愛情なのです。この子を想うがために「ダメなものはダメ!」と言える親としての自信を持ってほしいと思います。親ほど子供の事を一生懸命考えている人はいないのです。親の言う事をきかないからと、学校や人に委ねるのは情けない事だと思うのです。子供達はよくわかっていますよ。大好きなお母さんやお父さんがここまで「ダメなものはダメ!」と言うには、それなりの理由があるのだという事を…。そして、自分が言っている事は、実はちょっとしたわがままなのだという事にも本当は気づいているのです。

親は親としての責任をもって子供達に与える物や話す内容や態度を選んでやらなければならないと思います。それが誰のためなのかがはっきりと納得させられる話がしてもらえる子供は、納得できたらそれからの責任は自分にあると思って、ちゃんと責任もって行動できる人になるのではないでしょうか。規則がある事に頼らないで、自分の言葉で子供達に世の中のルールを伝えてあげてください。


“人に優しくする”という法律はありません。だけど、人は皆、そうする事は当たり前の事で、そのほうが、皆が楽しく幸せに過ごせるという事を親から世間からあるいは経験から、納得して学びとってきたのです。子供が幸せに生きていくために、親はもっと自信をもって子供達に関わらないといけないと思うのです。それ相当の親としての重圧を感じますね。ホント…親って大変なんだなぁ。

食わず嫌い(平成20年度7月)

梅雨を感じさせる毎日になりました。そんな中でも、子供達はプールあそびを楽しんでいます。これからどんどん暑くなり、水あそびもますます活発になってくることでしょう。


しかし、子供達の中には、そのプールあそびを苦痛に感じている子も案外います。プール開きとなる6月初日、さぞかし喜んで水着を持って来るのだろうと思いきや、持ってこない子、お母さんに叱られて仕方なく持って来た子、後からこっそりお母さんが届けてくださった子もいました。勿論、喜んで持って来た子がほとんどですが、みんながみんなそうではなかったのです。年長児ぐらいになると、それまでにプールあそびをしていて、嫌な思いや不快な事があった等、何かのきっかけでプールあそびに消極的になってしまった、という事はあるかもしれません。しかし、まだ幼稚園でのプールあそびを経験していない新入園児達が、それが楽しいものやら辛いものやら知らないはずなのに、何に対して?どうして「嫌だ!水着は持って行かない!」と言うのでしょうか。


「水着は、持って行かない!」と言っている子に「どうして?」と聞くと、その子は私に、「コンコン」と咳をしてみせるのです。(私は、風邪をひいているの。だから、プールに入ってはいけないの。)と言いたかったのでしょう。連れて来られたお父さんに聞くと、「体調は すこぶる元気です!」と言われていました。「だって、雨が降りそうなんだもん。」と青く晴れた空を指差して言う子…。いかに、プールに入らなくて済むかを色々と思案しているのです。「どうして、入りたくないの?」と聞くと、しばらく考えて…「どうしても!」と答えました。理由が見つからなかったのでしょう。だって、幼稚園のプールあそびはまだした事がないのだから。嫌な原因は自分にもわからないのです。


ある朝、水着を持って行きたがらないでいる年少組の男の子に、「どんな水着なのか見せてね。後でお部屋に行くから、着て見せてね。」と約束をしました。そして、プールあそびの時間にその子に会いに行き、「どれどれ、どんな水着?見せて。」と言うと、朝の約束を覚えていてくれたようで、プール袋の中から取り出して水着を広げて見せてくれました。「わあ!かっこいい!きれいな色だね。着て見せてよぉ。」と言うと、少しその気になってくれて着替え始めたのです。水着を着たその子は、少し得意顔でした。「やっぱりかっこいいよ!よく似合う!」と褒めた途端、いきなり脱ぎ始めました。(見せてあげたからもういいでしょ。)というわけです。私は慌てて、「待って待って!せっかく着たんだから、少しプールに入っておいでよ。今日は暑くて汗がいっぱい出たから、冷たいお水が気持ちいいと思うよ。楽しいよ。」と話してやりました。それから、間髪入れずに担任の先生が、外へ誘い出しました。そこからは、先生の“魔法の言葉”に誘われて、プールに入って行きました。プールから出てきたその子は、とてもニコニコ顔でした。それからは、毎日水着を持って来て、プールの時間を楽しみにするようになったといいます。


“食わず嫌い”という言葉があります。それが何でどういうものなのかを分からないまま、拒んだり避けたりすることです。文字通り食事に関してもよくあります。食べてもいないうちから「これ、嫌い!」と言います。それは、ただ単に、口に入れる勇気がなかったり不安だったりするだけなのです。食べた事がないからちょっと不安なのです。誰だって初めての事や物に対しては、多かれ少なかれ警戒します。その警戒心以上に、興味や関心、好奇心が深い時に食べてみようやってみよう!と行動に移せるのです。


赤ちゃんは、好奇心を持って行動します。目が離せなくなる頃です。目の前にある物がたとえ危険な物でも、どんな物なのかを試そうとして、自分の口に持っていったり手で触ったりします。怖い経験や危ない思いをまだ味わった事がないから、興味だけで行動します。それが、少しずついろんな経験をしていくうちに物事の分別がつくようになり、臆病になったり警戒心をもつようになったりするのです。成長の印なのかもしれません。しかし、その向こうにある本当の楽しさやおいしさを知らないまま大きくなるのは、ある意味不幸です。何かきっかけをつくって、それに正面から向かわせてやらないと、ただの“食わず嫌い”が本当に自ら“苦手意識”の壁をつくってしまう事になり、その先はあえて挑戦しなかったり、受け付けなかったりして、自分のものにしようとしなくなるのです。


“為せば成る、為さねば成らぬ何事も”という言葉がありますが、やってみなくっちゃわからない!子供達自身に挑戦する気持ちを持たせる事もですが、そういう気持ちを奮い起こさせるきっかけをつくってやってほしいと思います。もともと子供達は好奇心のかたまりなのですから…。やってみたら楽しかった、食べてみたらおいしかった、という気持ちを味わえた子供は幸せです。幼児期の間は、新しい経験を自分の力にするために、“食わず嫌い”の壁を乗り越えさせるきっかけはおおいに必要だと思うのです。乗り越えるコツがわかったり、その先にある“おもしろさ”を味わえたら、そのうちに“食わず嫌い”の壁はつくらなくなるような気がします。