朝の光景(平成21年度5月)

3月の終わりから4月の初めまで、私達の心を癒してくれていた桜の花…、枝先につぼみがつき少しずつ膨らんでくるじれったい時間も、花咲きほころび薄ピンクの優しさに包まれる時間も、そして春風に舞う花びらの優雅さや、一気にその時を終わらせる潔さにも、桜は、その全てに美しさを感じさせてくれます。いつの間にか、そんな時期も終わり、初夏を感じる5月になりました。
今年度もまた、『葉子せんせいの部屋』を書かせていただきます。子供達を取り巻くいろいろなものや、子供達の心の動き等で私なりに感じる事を書いていきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。


さて、幼稚園では、新しい生活が始まっています。先生達は、子供達にまず自分を“ぼくの、私の先生”として受け入れてもらうのに一生懸命です。子供達もまた、その生活の中で先生や友達と新しい関係をつくろうとしています。入園して3週間が経っていますが、これまで順調にいい朝を迎えられている子もいれば、まだお家の人との別れが辛くて涙が出てしまう子もいます。そんな子供達にとっては、『朝』が勝負です。気持ちよく朝が迎えられたら、その一日が調子よく過ごせます。子供も大人と同じです。


毎朝、私は登園して来る子供達を中門で迎えます。毎年ここでは、お家の人と子供達との小さなドラマをいろいろ見る事ができます。毎朝立っていると、その子がどんな風に今後幼稚園に慣れていくか…とか、何に不安を感じているか…とか、何に期待して幼稚園に来ているのか…が見えてきます。不安そうに保育室に向かって行く子供を見送るママやパパは、担任の先生の所にたどりつくまで、中門の外で心配そうに見つめておられます。きっと、「今日こそ泣かないで幼稚園に行ってほしい。」とか、「どうか、すんなりと先生の所に行ってくれますように…。」と祈るような気持ちでお家から幼稚園までなんとか連れて来てくださったに違いありません。実は先生達もそんな気持ちでおられるお家の人からお子さんをうけとる気持ちは、ある意味“勝負!”です。お母さんの手から先生の手に繋ぎかえる瞬間、お母さんにも子供にも…そして先生にも緊張が走ります。すんなりと手を繋ぎかえてくれたら、その子の気持ちが先生に向いてくれた!と嬉しくなるのです。この瞬間には、先生の観察力と包容力が必要です。どの子にも同じ対応でいいわけではありません。泣かないで幼稚園に来るだけで精一杯の子供に、先生達が「おはよう!!」と遠くから思いっきり元気な声で迎えたら、その子は、気後れしてしまい緊張の糸を解くどころか、もつれさせてしまうかもしれません。人知れず静かに門をくぐりたい子だっているのです。そっとしておいてほしい子だっているのです。園庭に入るきっかけを見つけられないでいる子には、先生たちが優しく言葉をかけて、そのきっかけをつくってあげないといけません。次の新しいステップのために、泣いてかわいそうでもお母さんから離してあげないといけない子もいるでしょう。その子の心にどんな壁ができているのかを早くつかみ、その壁を取り除いてあげたり、乗り越えるための後押しをしたりします。一人ひとりの事を理解している事が必要です。これまで、家族の愛情をいっぱいかけてきたお子さんを言わば“他人”に預ける瞬間は、親としても不安で仕方ない事でしょう。その気持ちを理解した上で、私達幼稚園では、“信頼関係”を架け橋にして、子供達がママやパパの手から、先生の手に繋ぎかえる“橋”を渡ってほしいと願って子供達と向き合っていきます。


ゴールデンウィーク真っ只中、4月のうちに少し慣れていたはずなのに、この連休で一気に緊張がほぐれ、それと同時に幼稚園に向いていた気持ちが離れてしまう…こんな事もあるかもしれません。しかし、これは、“後退”ではないのです。石橋をたたいて確かめながら渡っている最中だと思ってあげてください。(この架け橋を渡ったら、楽しい事が待っているのかな?嬉しい事があるのかな?あるかもしれないな。渡ってみようかな、どうしよう…)と迷っていたり、葛藤していたりするだけなのです。だから、(大丈夫だよ、渡って行ってごらん。この橋は丈夫な橋だから。)と言うつもりで、パパやママと幼稚園の“信頼関係”という架け橋をガッチリ丈夫なものにしてあげないといけないのです。私達もお家の方々の協力を得ながら一人ひとりの子供達の事をしっかり理解し受け止めて、楽しい経験を一緒にしていきたいと思っています。


さてさて、明日から少し長い幼稚園での時間を子供達と先生達はどんな顔で過ごすのでしょうか。中門で見られる朝のドラマがどのような連続物になっていくのだろうかと…。私は、それをみるのがこれからとても楽しみです。ちなみに、昨年度の6月の『葉子せんせいの部屋』に登場した(ホームページをご覧ください。)女の子も男の子も、今では、それぞれに新しい環境をすんなり受け止め、実にいい顔をして中門を通って行きます。一年前の事が懐かしいです。子供達はこうして幼稚園でのいろいろな環境や経験を栄養にし、少しずつ自立しながら世界を広げていくのですね。一年前の『朝の光景』から始まったこの子達のドラマもまだまだ続きます。

夢(平成20年度3月)平成21年3月

今年の春一番は、みぞれ雪を運んで来ました。春を待ちこがれていた土の中の生き物達は、どうしたものかと悩んでいるのではないかと思います。そんな中でも、幼稚園の花壇には10月に子供達と一緒に植えたチューリップが春の様子をうかがうように、小さな芽を出しています。「もうそろそろだよ。」と声をかけてあげたくなります。そして、その春はいろいろな別れと出会いの季節です。年長組を送る卒園式の日も近づいています。“別れ”と言っても、その先に希望や夢が見えている“別れ”です。子供達が笑顔で新しいスタートがきれるように、“いい別れ”をしたいと思っています。


先日、子供達に「大きくなったら何になりたい?」と将来の夢を聞いてみました。アニメやドラマのヒーローが圧倒的に多い中、ピアノや学校や幼稚園の先生、コックさん、美容師さん、お医者さん…と少し現実味のある答えも返ってきました。どの子も積極的に答えてくれました。かつて私にもこんなに無邪気に夢を語った頃があったなぁと思い出しました。


先日、“キャリア教育”の一環として、ある小学校の児童に幼稚園教諭の仕事について話を聞かせて欲しいという依頼があり出向いていきました。“キャリア教育”というのは、子供達の勤労観や職業観を育てる教育です。それは、将来的には社会人として…いずれ働く者としての自立を目的にされているようです。校長室にはいろいろな職業の方が打ち合わせに来られていました。その時に校長先生が、「最近は、将来就きたい職業が見つけられないでいる子がたくさんいる。夢ですら語れない子供達がいる。そういう子供達に漠然としたものであってもいいから、自分の将来を描ける子供になって欲しい。」という話をされました。

私は、少し驚きました。幼稚園の子供達はそんなに悩まず将来の夢を話してくれます。たとえそれが、とても幼い夢であっても自信満々に話します。それが、大きくなるにつれて悩んでくるのです。よく考えたら、それも成長段階の一つなのかもしれません。

幼児期の子供達の知っている社会はまだまだ狭いし、多方面に目を向けたり経験したりするにも限界があります。自分の住んでいる楽しい世界の中だけで夢を描くのです。しかし、成長するにつれて世の中を幅広く見ることができるようになって、“○○レンジャーになれるはずがない”と知る日が来ます。そして、さらに自分をみつめる事もできるようになると、自分がこの世界でどう生きられるかと考えて悩んでしまうのでしょう。悩むのは当たり前なのかもしれません。その時に自分が幼稚園の頃に描いていた夢がベースにあれば、発想の転換によって“叶うはずがない夢”の続きでも描けるかもしれないのです。

○○レンジャーになりたいのは、正義の味方に憧れているから…とか強くなりたいから…、と自分を見つめた時に気づけたら、警察官や消防士に夢を持ち目標を置くかもしれません。そう考えると、夢のまた夢のような、“夢”を見たり語ったりする事はとても必要な気がします。「そんなものなれるわけないでしょ!」ではなくて、「そうかぁ、正義の味方はかっこいいよね。」と聞いてあげてください。ピアノが弾けない子が「ピアノの先生になりたい」と言えば、「教えてあげられる程いろんな曲が弾けたら楽しいもんね。」と希望を持たせてあげてください。具体的に考えるのはまだまだ先でいいのです。そのうちに、世界を広げて自分の目で見て考えるようになるのですから、今は、夢を見る事や描く事が楽しいしウキウキしてくるという事を実感させてやってほしいと思います。


そしてさらに、お父さんやお母さんの仕事は何か、どこでどんな事をしているのかも話してあげてください。一番身近にいるお父さんやお母さんの事には特に興味を持って聞くでしょう。朝、お父さんは決まったように仕事に行っているけれど、その生活はその子が生まれた時からそうなのだから、当たり前過ぎて逆に関心をもっていないかもしれません。「お父さんの仕事は何?」と聞かれて、「会社」と答える時に、お父さんがそこで働く姿がイメージ出来たり、かっこいいお父さんを想ったりできる事って大切だと思うのです。また、お母さんの働く姿は、家で一生懸命に自分達のために動き回ってくれている姿とまた違って素敵に見えたりすると思うのです。ある男の子が「僕のお父さんは、道路を作ってるんだよ。ずーっとつながっている道路を作ってるんだよ。」と教えてくれました。その子は、汗いっぱいかいて働くお父さんの姿といつも歩く道を見るたびに、お父さんの力を尊敬したり憧れたりするのかもしれません。その憧れが夢に結びつくかもしれないし、夢を描くひとつの選択肢となるかもしれません。


年長の子供達はもうすぐこの幼稚園から巣立っていきます。憧れのランドセル…これを背負って学校へ毎日通う事だって、この子達にとっては夢だったのです。そして、これまでに一緒にしてきた経験が子供達の夢へとつながったり、夢を描くきっかけとなってくれれば、こんなに嬉しい事はありません。夢を語る今の輝く心がどうか、なえる事なくこの子達の数十年先の姿や生き様を素敵にしてくれますようにと祈らずにはいられません。

異年齢の学びあい(平成20年度2月)平成21年1月

1月は行く2月は逃げる3月は去る…本当にこの3学期は毎年駆け足で過ぎて行きます。だからこそ、子供達と一緒にいられるこの時間を大切に過ごしたいといつも思うのです。


これまで、春夏秋と幼稚園で過ごし、いよいよ最後の季節を過ごしているわけですが、四季折々に表情が変わる園庭も、子供達の成長を見つめてきた環境の一つです。若い芽を吹く春の木々、青々と葉が生い茂る夏の木々、風の波に上手に乗って葉が舞い降りる秋…。


ちょうどこの頃、私は土曜日にプレイルーム(預かり保育)の子供達と一日中過ごした日がありました。いつものように園庭中に敷き詰められた落ち葉で、その日もいろいろなあそびが繰り広げられました。遊んで散らかった落ち葉を少し掃き集めておこうと、ほうきを用意していたら、女の子数人が、「先生!何するの?」と寄ってきました。「落ち葉を掃除しようと思っているんだよ。」と答えると、「私もする!」と言ってくれたのです。その日の落ち葉は尋常でなく大量でした。早速、子供達にほうきを用意して掃除に取り掛かる事にしました。手伝ってくれるのは、年長児も年中児も年少児もいました。少しすると、他の子供達も「僕も!」「私も!」と、どんどん助っ人として集まってくれました。


プレイルームには、満3歳児から年長児までの子供達がいます。もちろん力の差も知恵の差も動きの差もあります。そんな子供達がどうやってみんなで掃除をしてくれるのかを観察しながら私も一緒に掃除をしていました。人気は、竹ぼうきでした。とりあえずみんなが竹ぼうきを手に、掃き掃除に取り掛かります。しかし、自分の身長より数段長いほうきは、年少児では持て余します。しばらくして、自分には向いていない事がわかり困っていると、年長児の女の子が「じゃあ、○○ちゃんはちりとりを持って落ち葉を集めて!」と指示を出します。竹ぼうきもちりとりも足りなくなったら、落ち葉を入れるビニール袋を持って集める子供もいました。落ち葉で一杯になった重たい袋を運ぶのに一役かったのは、男の子でした。これには、力の差に関係なく、自分は男だから!と思った子が、頑張ってくれました。かなり重く、必死で引きずっている男の子が可愛かったです。よくみると、いつの間にか役割分担ができていました。


ご存知のように、プレイルームには異年齢の子供達が、夕方、保護者が迎えに来られるまでの時間を過ごしています。ここは、子供達がいろいろな面で学習できる場所でもあるような気がします。異年齢の子供達の生活は、学年別のクラスでは味わえない事がたくさんあるのです。これまでいろいろな事を体験してきた時間に違いがあるのですから、そこに生じる力の差や知恵の差、動きの差を子供達は感じながら生活しています。“自分にはできても、小さいからこの子にはまだ無理なんだ。”とか“○○君はすごいね。さすが!”と、いたわったり尊敬したりしながらお互いを認め合おうとします。もちろん、認め合うためには、喧嘩やもめ事も数々あるはずですが、兄弟姉妹のように一緒にいろんな事を感じ合いながら過ごせているのだと思います。


おやつや昼食の時間にも、兄弟姉妹のように過ごし、自分がこの中でどういう立場でどう行動しないといけないかがわかっているのがうかがえる場面がたくさんあります。何人かずつが一つのテーブルで食べるのですが、それも異年齢になります。小さい子が牛乳やお茶をこぼしたら、先生を頼らず、年長児や年中児が率先して雑巾を取りに行きテーブルを拭きます。手が届かないコップをその子の前に寄せてあげます。それがとても自然にできるのです。もちろん、全てをやってあげているわけではありません。プレイルームでの生活は、基本は“自分の事は自分で”なのです。

それは、今家庭でも失われがちな厳しさではないでしょうか。我が子可愛さに、子供が困る前に先回りをして困らないように、お膳立てをしてしまいます。プレイルームでは、“自分の事は自分で…。”“小さい子を気にかけてあげる…。”“助け合う…。”“役割に自分なりに責任を持つ”等、いろんな事を異年齢の中で学習します。困った事が生じたとしても、お兄さんやお姉さんの良いお手本があるので、見様見真似で、自分でクリアしてみようと頑張ります。自分の本当の妹や弟ではなくても、小さい子を可愛く思う気持ちが育っていくような気がします。家では末っ子で受け身でいる事が多い子にとっては、この場所では、お兄ちゃんでいられるし、お姉ちゃんでもいられるのです。

それは、まるで大家族のように、子供達同士で助け合おうとするのです。喧嘩になってもいつも仲良く一緒に過ごしている仲間には、手加減ができます。その喧嘩の中で、相手を思いやる気持ちやどうしたら友達とうまく関わって生活していけるか等を会得します。こうして、子供達はお父さんやお母さんの迎えまでの時間、家庭では味わえない学習をしていると私は思います。そこにいる子供達は、実にたくましく見えます。家庭とプレイルームのどちらが子供達にとって良いかという問題ではなく、その中でどう子供達を育てるかを意識して環境を整えていかなくてはいけないという事なのです。家庭での異年齢もそう考えると、子供達にとって大切な環境なのです。

おふくろの味(平成20年度1月)平成21年1月

新年明けましておめでとうございます。
昨年は、年の瀬に急激に悪化した経済情勢に世の中が重苦しいムードに包まれました。しかし、幼稚園で可愛い無邪気な子供達に囲まれて過ごす時間には、そんな暗い雰囲気など少しも感じませんでした。おもちつきをしたり、サンタクロースにも会ったりと、年末をしっかり楽しみました。そんな子供達の笑顔や笑い声はいつも素敵です。どんな時でも子供達のおかげで明るく元気になれます。子供達はまさしく未来の希望だと思えます。


さて、今年はどんな年になるのでしょうか。子供達の笑顔の絶えない明るい世の中になりますように…。そして、そうなるために私達の役割は何かを考えながら、この1年を大切に過ごしたいと思います。


そんな事を思いながら年末から年明けを過ごしていました。今年も我が家では、子供達と一緒におせち料理を作りました。お客様があるので、おせちの他にもいくつか料理を作っておきます。我が家のおせちに必ずお目見えする献立があります。それは、“ポテトサラダ”と“筑前煮”です。これは、家族全員からの毎年のリクエストメニューです。以前は、私一人で作っていましたが、ここ数年子供達が手伝ってくれるようになりました。(思春期に入った上の娘は少し面倒臭そうではありましたが…。)みんなで味見をしながらの正月支度は時間がかかりますが楽しいものです。子供達は、「お母さんのポテトサラダが大好き!」といつも言ってくれます。筑前煮を作れば、「そうそう!この味この味!」と言って喜んで食べてくれます。

そう…それは、何十年か前に私が私の母に言っていた言葉です。どこのどんな家のポテトサラダを食べても、どんなお店でも、お母さんの作るポテトサラダのおいしさにはかなわないと思っていました。私の弟は、「お母さんの筑前煮しか食べられない。」と言っていました。これが、食卓に並ぶととても嬉しかったのを覚えています。「お母さんのポテトサラダはおいしいね。私にもこの筑前煮を教えて。」と子供の頃からお母さんが台所に立つ時には、必ずと言っていいほど隣で手伝いながら見ていました。(…と言うか、家業が忙しいので子供が手伝う事は当たり前の事でした。)特別な食材を使っているわけでもないのですが、お母さんなりの工夫がある事やこだわりがある事をそうするうちに知ったのです。真似て作るたびにお母さんと同じ味になる事が嬉しくて、いつの間にか私の数少ない得意料理の一つになりました。

結婚して新しい家族に作ると「おいしい」と受け入れてもらえ、今では、家族から“お母さんの味”と言ってもらえています。でも、私がお嫁に来て義母から教えてもらった料理の中には、未だに義母の味にならない物があります。“酢の物”です。義母の酢を使った数々の料理は本当においしくて、結婚して間もない頃、夫と二人で海外旅行に行き外国の食事にうんざりした時、ずーっと“義母さんの酢の物が食べたーい!”と思って過ごしたのを覚えています。私がいくら真似をしても同じ味にならないのです。そんな義母も8年前に亡くなり、“義母の味”を“私の味”にする事ができないままになってしまいました。そして、“お母さんの味”を教えてくれた母もまた昨年突然亡くなりました。


母が作る煮物もポテトサラダも、もう二度と食べる事はできないけれど、私が母から受け継ぎ、大切な家族に食べさせる事で母の味はいつまでも生き続けるのです。子供達が「お母さんの味だ。」と言ってくれるたびに、私は母の事を思い出すのでしょう。子供達に「これは、おばあちゃんがお母さんに教えてくれた味なんだよ。本当は“おばあちゃんの味”なんだよ。」と話した時「じゃあ、この味を私達が覚えて、同じ味になるようになったら、私達の子供には“ひいおばあちゃんの味だよ”って教えてあげないとね。」と言ってくれました。“おふくろの味”はこうしていつまでも思い出の味として残っていくのでしょう。将来この家から離れて暮らす事になるだろうこの子達が「お母さんのあの料理が食べたいなぁ。」と故郷の忘れられない物の一つとして、思い出してくれれば…と思うのです。私が未だに同じ味が出せないでいる義母の味も、いつか義父や主人に「お母さんの味だね。」と懐かしんで食べてもらえるようになりたいと思います。義父と主人にとっての“おふくろの味”が途絶えてしまわないように…。

どのご家庭にもそんな“おふくろの味”があるのではないでしょうか?どうか、子供達に、その味を伝えてください。その料理こそ大切な『家宝』だと思うのです。


昨年のお正月、母から教えてもらい初めて煮た黒豆、母に食べてもらったら「ふっくらとおいしく良い色にできたじゃない。合格!」と言ってくれました。私が煮た母認証の黒豆が重箱に入るのは今年で2度目です。また、母のいなくなった実家に帰ったら、筑前煮が作ってありました。一口食べたら、それは“お母さんの味”でした。弟のお嫁さんが受け継いでくれている“おふくろの味”です。私は仏壇に手を合わせ、お母さんに話しました。──「お母さん、およめさんの筑前煮がおいしいよ。私達に家宝をありがとうね。」

見て学ぶ(平成20年度12月)

紅葉真っ盛りの中、例年になく早い初雪で山の景色にも一段と趣が感じられました。紅や黄や白で囲まれた周りの景色の何と贅沢な美しさよ…と、心からそう思います。これから益々寒くなり、次は冬の自然が子供達にどんな姿で感動させてくれるのかを楽しみに待ちたいものです。


そんな事を考えながら、園庭を歩いていたところ、どんぐり集めや落ち葉集めに使ったビニール袋がドロドロになって落ちているのに気が付き、私はそれを拾いゴミ箱の方へ歩いていました。すると、一人の年少組の女の子がその様子を見ていたようで、保育室から出てきて、「葉子先生、それどうしたん?」と聞いてきました。わたしは、「園庭にゴミが落ちていたから拾ったんだよ。」と答えました。「それ、どうするの?」と聞くので「ゴミ箱に捨てようかと思っていたの。捨ててくれる?」と逆に聞くと「うん。」と言って、得意気にそのゴミを捨てに行ってくれました。そして、また私のところに戻って来て「なんで、拾ったの?」と聞くので、「だって、せっかく落ち葉や雪でお庭がきれいなのに、ゴミが落ちていたら残念でしょ。」─そう言うと女の子は、私の顔と園庭をかわりばんこに見ながら、「ゴミに気がついたん?」と聞くので「そうよ。気がついたの。」と答えました。そしてまた、私の顔と園庭をかわりばんこに見て少しすると、「そっか!ゴミは気がついた時に拾うのか。」と納得したように向こうへ走って行きました。ゴミを手に歩いていた私の姿が、見過ごさなかったその子の心にどう映ったのか、また、私とのこのやりとりで何に納得して何を感じたか、それはわかりません。だけど、(どうして?)と思ってくれた事で、ゴミを拾った私の気持ちはわかってくれたと思うのです。(なんで葉子先生は、お掃除の時間でもないのに、ゴミを拾っているんだろう?)と思うその子の純粋な眼差しを見て話をしていると、「だから、あなたも気がついたらゴミを拾うようにしようね。」等と教え込みたくありませんでした。私も勿論、そういうつもりでゴミを拾ったのでもありませんでしたから、その時にゴミ拾いを意識させる言葉が出なかったのです。だけど、「そっか!ゴミは気がついた時に拾うのか。」と言って走って行ったその余韻(?)は、その子にとって、自分なりに“考える時間”だったのではないかと思うのです。

このやりとりの結論は『ゴミは掃除の時間に関係なく気がついた人が拾う事によって園庭もきれいになるし、みんなが気持ちよくなる。だから、あなたも気がついたら知らないふりをしないで拾いましょう。』という事になるのだけれど、子供って、人がしている事を見て、それをどう理解して自分はどうしなければならないか、という事が頭の中で整理できるまでに、少し時間を要するものだと思います。これは自分でそれを会得するための大切な“間”なのです。結論を急いで伝える必要はないような気がします。見て知り、見て考え、見て学びとる事が学習だと思います。そして、やってみる事でより確かなものにしていくのです。子供の学びは、そうやって時間をかけて積み上げられていきます。
子供達は大人のする事をとてもよく見ています。ふと気がつくと、わが子が自分と同じようにしている事や、口調が同じだったりする事がありませんか?子供にとって、お父さんやお母さんは絶対的なお手本なのです。特に躾をしようとか教えようとかしなくても、小さい間は私達大人が、正しい事を正しく行動していれば、その姿を見て学ぶのです。“考える時間”“余韻”を与えてあげてください。結論は子供自身で出させてやるのです。


しかし、大きくなったら、そうばかりではいけなくなってきます。例えば、先日、私に同窓会の出欠を問う往復はがきが届きました。その返事を書いている隣で娘がじーっと見ていました。返信用の宛名についている“様”の文字を私が消していると「どうして、消すの?」と聞きました。「だって、自分の事を“様”で相手に送るのはおかしいでしょ。何でもそうよ。こういう時には、二重線で消して送るのよ。」と教えてやりました。娘は「なるほど!」と大変納得していました。子供なりに世界が拡がっていくのですから、自分の事だけでなく、いろんな人達との関わりが生まれます。お互いが気持よく生活していくために必要な事も知っていかなければならなくなります。折に触れ、人生の先輩として、伝えてあげるといいのだと思います。教えられて学ぶ事と、目にして自分で考え学びとる事があるという事を私達大人は知って、“伝え分け上手”にならないといけないのかもしれません。そして、いつでも子供達は大人のする事に関心をもって見ているという事も忘れないでいたいものです。
街を歩いていた親子連れ、紙屑をみつけて拾った子供が「ママ、ゴミが落ちてた。」とお母さんに見せました。「汚い!何拾ってんの!離しなさい!」──。誰がどんな物を捨てたかわからないのですから確かに汚いし、この物騒な世の中、危険が伴う事も無きにしも有らず、そう言いたくなる気持ちもわかります。ましてや、最近では、ゴミ箱が設置された場所はそんなにありません。自分なら何て言ったかな?と考えますが、気がついて拾ったその子の気持ちと行動は間違いなく常識的で正しい事だという事は伝えたいものです。