巣立つ背中に…(平成21年度3月)平成22年3月

お正月に掛けたカレンダーはまだ始まったばかりなのに、幼稚園の年間予定のカレンダーはあと一枚……。ふきのとうやつくしを見つけやっと春めいてきたかと嬉しくしていたら、子供達との別れの季節がやってくるのです。春は、“別れ”や“出会い”“出発”…と、とても忙しい季節です。


幼稚園でも、この頃になると、いろいろな想いで時間が優しく流れていきます。私も担任をしていた頃は、子供達が「さようなら」と帰ってしまった後の静まりかえった保育室を、一人で掃除しながら、この子達と過ごせるのも残りあと何日…あと何日と思い、色んな想いにふけ、毎日やけに寂しく思えたのを思い出します。そして、これまで心から笑って過ごせたのも、真剣に子供達を叱ったり、涙が出る程心配したり、跳び上がる程喜んだりできたのも、子供達がいてくれたからだったとしみじみ思うのです。子供達にとって先生は大切な人だったでしょうが、先生達にとっても子供達は大切な存在です。先生達を幸せにしてくれる存在であった事をこの時期にいつも感じます。


時々、私も子供の様子を見るために保育室に行きます。そのクラスの子供達と先生との深いつながりがみられます。新年度当初はまだ、関係が確立されていない分、お互い探り合いながらより良い付き合い方を編み出していきます。だから、どことなくぎこちなかったり遠慮気味だったりという様子がみられましたが、この頃は、あうんの呼吸で生活しているようにさえ思えるのです。こうして築いてきた幼稚園生活も年長組にとってはあとわずかとなりました。


三次中央幼稚園には、自慢があります。それは、卒園児が幼稚園や先生をよく訪ねて来てくれる事です。先日も、卒園児が家族揃って来てくれました。「幼稚園にいた頃の写真を今でも眺めながら懐かしんでいます。ここの幼稚園に来ていなかったら、得られなかった事を沢山得る事ができました。親子で楽しめたあの時間は私達家族にとっては宝物です。私達家族は幸せです。」その言葉を聞いて私も幸せでした。幼稚園は今年で40周年を迎え、卒園児も3467名となりました。この子達は卒園してからいろいろな人生を歩んでいるはずです。卒園して随分経った子供達でもひょっこり来てくれます。結婚の報告や生まれた子供を見せに来てくれたり、卒業・入学・就職の節目に来てくれたりします。だけど、そんな幸せな子供ばかりではありません。時には、「先生!助けて!」と言わんばかりに何かの救いを求めて来る子もいます。話を聞いてやったり、しばらく一緒に時間を過ごしたりしてやるだけで、少し元気を取り戻して帰って行きます。帰っていくその後ろ姿に“頑張れ!!”と静かにエールを送るのです。「先生!助けて!」と来た時には(よく、ここへ来てくれたね)という気持ちになります。私達の知らない所で、一人で悩んだり苦しんだりしている教え子がいると思うと胸が痛いのです。来てくれたら何かしてやれる事があるような気がするからです。嬉しい時も悲しい時も苦しい時にも、幼稚園を思い出してくれる事が嬉しいです。私達は、子供達の遠い将来まで気にしています。送り出してもいつも私達はその後の子供達の人生を気にしています。遠い将来につながる保育をしているからです。私達のしてきた仕事が確かなものであったかどうかの答えは子供一人ひとりの人生の中にあるからです。「卒園したら敷居が高くて…」とか、「きっと、先生は私の事なんて覚えていてくれないだろうから…」とか、「卒園してまで、幼稚園にお世話になったらいけないだろう…」なんて思わないでください。先生達は自分の手から離れてもなお“あなたの先生”でいたいと思っています。3467名もの子供達を送り出した間には、園庭や園舎や遊具の様変わりはありますが、その中に宿る幼稚園の子供達に対する想いは、ゆるぎないものでありたいと思っています。


卒園児の活躍や幸せは私達の喜びです。理事長室には、卒園児の活躍を報道した新聞の切り抜きが壁に貼ってあります。思い上がりかもしれませんが、その子のどこかに、幼稚園生活の何かがほんの少しでも力になっていると信じたいと思います。逆に、問題を抱えているのなら、何が足らなかったのだろうか、と一緒に振り返ってやりたいのです。そして、やり直すきっかけがまたこの幼稚園になればと思います。


来月の誕生会には、大学の音楽専門の学部に入学が決まった卒園児が、バンドのメンバーと一緒にドラム演奏に来てくれます。幼稚園の頃、音楽発表会で小太鼓を見事に演奏した男の子です。あの頃の彼と重ね合わせながら幼稚園の子供達と一緒に彼のスティック捌きや、ドラムの音を聴くのが楽しみです。夢を追い、進む道を切り開いた彼はきっと眩しい程に輝いている事でしょう。卒園児の輝かしいスタートを再び幼稚園で祝ってやれるような気がして、今から楽しみです。
年長組の子供達は今、幼稚園での残りの時間を先生と一緒に大切に過ごしています。年長組だけではありません。どの学年も今の先生とは、小さな別れをします。きっと、どの先生も同じ想いで毎日を過ごしているはずです。子供達一人ひとりの背中に語りかけながら…『いつまでも、私は“あなたの先生”です…』と。

喧嘩のなかの「まぁいいか・・・」(平成21年度2月)平成22年2月

3学期に入り、子供達もさらに生き生きと生活しているようです。

これまで積み上げてきた友達との関係や、すっかり慣れ親しんだ幼稚園の環境の中で、それぞれに個性を発揮し合い、気心の知れた仲間と愉快なやりとりを見せてくれています。色んな話をしたり色んなあそびを楽しんだりしている顔は4月5月の頃とは全く違っています。仲間達と過ごす月日がこんなにも子供達の心を解きほぐし、余裕を与えるものなのかとつくづくそう思うのです。

 ところが、関係が深まれば深まる程、逆に、困った事も起こります。仲良く遊んでいるかと思えば、急に何かをきっかけにトラブルが発生するのです。12月の『葉子せんせいの部屋』で、あそびのトラブルを自分達でジャンケンによって解決したというエピソードを書きましたが子供達の解決策も様々です。こんな事がありました。

 「せんせーい!僕が先に遊んでいたのに、後から来て○○君が横取りしちゃった!」と険しい顔で訴えて来ます。話を聞けば、なるほど、言って来た子が最初は遊んでいたのに、それを置いて他な事をしている一瞬の間に、もう一人の子がそのおもちゃで遊んだものだから、「横取りした!」と言ったのです。「だって、置いてあったんだもん!」と、どちらもが自分の言い分を主張します。決して横取りしたつもりはなさそうでした。こういうトラブルはよくある事です。仲裁人の立場からみても仲裁しようがなかったので、どのように解決するだろうかと黙って見ていると、思いきり言い合った後で、「まぁいいか」と最初に訴えてきた子が手にしているおもちゃをもう一人の子に渡したのです。100パーセント良い気持ちではなかったかもしれませんが、白黒はっきりしたいという事よりもその場の空気とその後の二人の関係が悪くなる事を子供ながらに避けたかったのかもしれません。その後、二人は何事もなかったかのように、また一緒に遊び始めました。

子供ってとても無邪気に友達との付き合いができるのです。言葉も方法も内容もストレートなので、一瞬激しいやりとりになってしまうのですが、お互いの関係の積み重ねによって、大切にしたい人、失いたくないものもわかってくるのでしょう。(このまま言い合っていても楽しくないぞ)とか(それより、早く一緒にあそびの続きをしたい)という気持ちのほうが強くなって、「まあいいか」と許し合えるようになるのかなと思います。兄弟姉妹で激しい喧嘩になったとしても、ずっと言い続けても平行線をたどるだけ、一生口をきかないわけにもいかないし、どうせ頼り合わないといけない人だと思えば、最終的には、言い合っている事が「面倒臭い」という気持ちに近くなってきて、いつの間にか、腹立たしい気持ちを自分の中で浄化したり消化したりして「まぁいいか」とウヤムヤの状態で終わらせてしまいます。これが、関係の積み重ねのない相手となれば、白黒はっきりさせないと後には引けなくて収拾がつかなくなってしまうでしょう。白黒はっきりさせるためには、いろんな状況調査や心情鑑定が(少しオーバーですが…)必要になるために、見なくてよかった部分まで見てしまったり、知りたくなかった事までわかってしまったりして、良い関係が保てなくなってしまう事もあるのです。その間はとても苦痛で辛い気分です。だから、いつまでも楽しく仲良く過ごすためには、この場合どうするのがいいのかな?…と子供達は、子供なりに幼稚園という集団生活の中でそれを学んでいくのです。激しくやり合ったとしても、壊してはいけない…失くしてはいけないものにまで槍を刺さない“程々加減”を学びます。これを学べないまま大きくなると、人を許せない、引きどころがわからない…極端に感情的な人間になってしまうような気がします。関係の積み重ねの中には、相手の良い所も悪い所も相受け入れ、悪い所もあえて見逃せるようになる事だと思います。

「まぁいいか」は、時には『いいかげん』、…だけど時には『好い加減』なのです。「まぁいいか」と好い加減に考える事は、色んな人と色んな状況の中で様々な人生を生きて行くためには、自分自身を必要以上に追い込まない精神上健康な考え方だと思うのです。

しかし、こんなケースはどうでしょう。子供達の喧嘩の時に先生がかけよるだけで、いきなりドギマギしながら「ごめんね」「いいよ」というやりとりがあります。その台詞で一瞬にして喧嘩にピリオドが打たれるのです。(さっき出会ってまだ関係を築いていない間ではそれもありかもしれませんが…)何が“ごめん”で何が“いいよ”なんだ!と、腑に落ちません。心が通わないままで終わった後、そこに積み上げられるものは“ストレス”だけです。一見仲直りしたように見えても、心からの「ごめん」でもなく「いいよ」でもありません。この場合は再試合が必要です。自分の気持ちを出し、また相手を受け止めた上で「まぁいいか」と思えた時に更に関係が深まり人間関係の築き方を学ぶのだと思います。

こだわって物事を考え、真正面から向き合う事も大切です。その一点だけにこだわる事によって高められる事もあります。全てを「まぁいいか」と納めるのがいい訳ではないという事も知っておかないと『いいかげん』な人間になってしまいます。時には“こだわり”、時には“まぁいいか”と、人と人との関わりの中で『好い加減』を大人も子供も学んで行きたいものです。

気配り目配り思いやり(平成21年度1月)平成22年1月

新年あけましておめでとうございます。
新型インフルエンザをひきずったまま冬休みが始まり、幼稚園の子供達はみんな元気にしているだろうかと気にしながら過ごしておりました。皆様お元気で輝かしい年明けを迎えられたでしょうか?毎年繰り返し迎える年明けですが、その年その年で、迎える気持ちや状況が違っています。私自身、若い頃はそれ程感じていませんでしたが、年をとってきたせいでしょうか?近年、新しい年を元気で迎えられる事のありがたさをかみしめます。この気持ちを忘れないで、一日一日を大切にしながら過ごして行きたいと思っています。


そんな気持ちで、私もこの冬休みは年末から新年を迎える準備に忙しくしていました。日頃、“忙しい”を言い訳にしてまともに掃除ができていなかったので、我が家の年末の大掃除は大変です。こんな事になるのなら、日曜日の度に少しずつでも窓ふきや換気扇の掃除に手をつけておけば良かった…と毎年思うのです。ここは娘達に頼るしかありません。娘達にも日頃さんざん“働かざる者食うべからず”と言っているせいか、「手伝って」と声をかければ手伝ってくれますが、何もかもしてとは言わないけれど、自分のできる事を見つけて手伝って欲しいと思うのです。「何したらいい?」と聞くので、「家中のごみ箱を集めてくれる?」と言うと、せっせと集めて来てくれました。しかし、私が掃除機をかけている間に、いつの間にかいなくなっていました。集められたごみ箱がごみの入ったまま、置きっぱなしです。「ごみ箱を集めて。」と言ったのは、ごみを仕分けして一つにまとめるためだったのですから、状況的に見ても、ごみ箱を集めるだけでその仕事が終わったわけではない事は中学生ぐらいになればわかるはずなのです。しかも、置きっぱなしという事になれば、結局はバタバタと忙しくしている私か主人がする事になるのです。お父さんやお母さんを助けてあげたいと思ってくれているのならば、「ごみを分けておこうか?」という言葉が出たり、言わなくてもそうしてくれるでしょう。「ごみ箱を集めて。」と言われたからそうしただけなのです。言われた事だけするのであれば、誰だってできるのです。アンテナがピーンと張っていれば、次に自分はどうするべきか、何ができるかと考えて行動に移せるのです。ましてや、そうすれば、お父さんやお母さんが助かるだろうと思えば、自然にここまでやっておいてあげようかと考えられるのです。


幼稚園の創立以来副園長として勤務しておられ、退職後十数年経った昨年亡くなられた先生がいつも言っておられた言葉が『気配り目配り思いやり』でした。掃除をする時、皆が皆ほうきを持っていたのでははかどらない。一つ先を見据えてちりとりを持ってごみを集める、草取りをする等、いくらでも役立つ策はあるのです。皆できれいにしたい気持ちがあれば、気が回るようになる。なくなったティッシュペーパーの空箱がそのまま置いてある…次の人が困るだろうと思いやる気持ちがあれば、新しいティッシュペーパーに入れ替えておく事もできるのです。次の人が困らないように…思いやる気持ちがあったら…。全てが愛情なのだ。…という事を言っておられたのを思い出します。


我が家にお年始にいらっしゃったお客様に料理やお酒を出す時にも、「料理を運んでくれる?」と頼んだら、言われなくても料理の中にお刺身があるとわかれば醤油やわさびが…ビールがあればコップや栓抜きが必要だろうなと考えて準備できる──、そんな気の利く人になって欲しいと思います。そのためには、私達大人がそうする姿を見せる事が必要ですし、一緒にする事で子供達は自然に学ぶのだと思うのです。『気配り』は、相手に気持ちよく居ていただくための思いやりによるものだという事に気づくようになります。(こうしてもらえたら嬉しいだろうな。喜んでもらえるだろうな。)と考えて行動できる人になって欲しいと思います。そして “自分も共同生活を営む家族の一員である”ということが自覚できる生活をお互いに意識していることも大切です。気が利かないことをつい子供のせいにしてしまいそうですが、実はそうなってしまっている原因が大人にもあったのでは?という事に気づいてやらないといけないのです。今まで、子供達が些細な事でも何かをしてくれた時に、その気持ちに気づいて「ありがとう。助かったよ。」とか「よく気がついたね。」とか言ってやれていたか…、“子供は手伝うのが当たり前!”と思い過ぎて、押しつけていなかったか…と私自身も振り返ってみました。「ありがとう」「どういたしまして」「ごめんね」「あ~助かった」「嬉しいよ」「よかったね」という相手の気持ちに気づき、またその気持ちに応えてあげられる言葉のやりとりがいつもできていただろうかと考えてみないといけないと思いました。そういう言葉が自然に飛び交う家庭の中で育った子供達は『気配り目配り思いやり』のアンテナが育っていくでしょう。そして、たくさんの人達に愛情をもって接して生きていける人になってくれるようになると思います。感謝・ねぎらい・尊敬という人と人が円満に付き合っていくために必要な心が育っていきますように…。そう願いながら心あらたにこの一年娘達と向き合う事を誓った元旦でした。

じゃんけんのちから

いよいよ冬の到来です。街にはクリスマスソングがどこからともなく耳にはいり、気分がウキウキしてくるそんな12月です。


幼稚園の子供達は夏の暑さも冬の寒さも当たり前に受け入れ、その自然を体感しながら毎日元気に遊んでいます。子供達が遊んでいる様子を見ていると色々な場面に出くわし、あらためて子供の世界!のおもしろさを感じる事があります。


先日、数人の子が、集まって何やらもめていました。年中組の子供達でした。「どうしたの?」と聞くと、「この自転車、僕も乗りたいんよ。待っているのに、○○君が代わってくれないんよ。」と腹をたてて言って来ました。「かわりばんこに使ったらいいんじゃないの?」と私が言うと、「だって!僕だって乗りたくてずっとこの自転車が空くのを待っていたんだ!」ともう一人の子も訴えます。どうやら、他の子が乗っていた自転車がやっと空いて、使えるようになった矢先のもめ事だったようでした。「どっちかが独り占めしたら、乗りたくても乗れない人が可愛そうでしょ。」と、私はいかにも極々当たり前の事を子供達に言いました。子供達だってそんな事は百も承知です。どちらかが「いいよ。譲ってあげる。」と言ってくれればその場は解決するのです。だけど両者譲ろうとしません。二人ともその自転車のサドル部分を握ったまま離そうとしません。この手を緩めたらこの勝負に負けてしまうからです。いろいろと言い聞かせましたが、子供達にとって納得のいく解決法にはならなかったようでした。鋭いにらみ合いです(本人達は鋭い顔のつもりでしょうが、私から見ると“必死さ”をお互い訴えようとする心理が見え見えで可愛いにらみ合いでした。)そこで、私は「じゃんけんしたら?」とふと提案しました。これだけ、いろいろ話をしても納得してくれないものが、じゃんけんごときで納得してくれるわけないだろう。と思いながらの提案でしたが、なんと、二人共顔を見合わせニヤリッと笑って、「いいよ!」と言うのです。すると二人は急にサドルから手を離し、じゃんけんの構えをしました。「じゃんけんで勝った方が、先に乗るんだよ。そして、また次にじゃんけんして勝った方が乗るんよ。」と二人の間にルールができました。最初のじゃんけんは私がジャッジしました。「最初はグー!じゃんけんポン!!」勝ったのは、さっきから乗せてもらえなかった男の子でした。私は、変わる事を拒んだり苦愚痴の一つでも言うのではないかと思っていましたが、あっさり「はい。」と言って交代したのです。少し拍子抜けしましたが、それからは、何度も何度も、じゃんけんをしては勝った方が乗り、負けた子は横をついて走る……そしてある程度乗ったらまたじゃんけん……、その繰り返しでした。さっきまでの険悪なムードが一転し、結構楽しそうな様子でした。それがまた二人の間での遊びになっていきました。


あれだけ、仲裁に入っても納得してくれなかったのに、じゃんけんには、特別な力があって凄い!と思いました。しかもその勝負を決めるじゃんけんをする時がとても楽しそうなのです。トラブルを解決するには、普通、お互いに話し合うという方法で向き合います。話し合いで解決する事には、解決策を見つけ出すまでのプロセスの中で、お互いに相手の気持ちや立場に気づき、学び得る事があるという意味があり大切な事だと思います。しかし、時に話し合いは、そこに大人が入る事によって、子供にとっては実に面白くない終結になってしまう事もあります。解決したように見えて実は気持ちの部分では解決しきれていないという事もあるのです。子供の心理として“嫌なものは嫌!”誰が何と言っても“我慢できない事は我慢できない!”という事もたまにはあるでしょう。トラブルの全てを話し合いで解決するのは窮屈です。(少し乱暴な言い方かもしれませんが…。)じゃんけんという遊びの“審判”がはいる事でトラブルの解決をごまかす事になるのかもしれませんが、内容によっては、ウヤムヤにしてしまう事も子供の世界にはあっていいのではないかと思うのです。やり合っているうちにいつの間にか問題が解決していた…何がなんだかわからないうちに、又は、どっちが悪かったのかをはっきりさせないうちに何となくこの喧嘩はおさまっていたという事はしょっちゅうあります。大人が大人の物差しで、仲裁に入る事より自分達の納得いく方法で解決していく方が、子供達にとっての喧嘩やトラブルを通してさらに子供同士の関係を深く密なものにする事ができるような気がします。


誰もが納得いくこのじゃんけんの“審判”はそういう意味で子供の世界には欠かせない遊びなのかもしれません。じゃんけんのおかげで、後腐れのない喧嘩の終結となるのです。じゃんけんで負けたんだから仕方ないなと思えるのも子供の世界だからでしょう。腕力の差や能力の差がじゃんけんには関係ないから実に公平で結果に納得でき、その結果にしたがう気持ちにもなれるからです。“たかがじゃんけんされどじゃんけん”です。子供達が兄弟姉妹でちょっとしたもめ事を始めた時に「ねえねえ、じゃんけんで決めようよ!」と遊び心を匂わせて提案してみてください。さて、どう反応するでしょうか?…兄弟姉妹げんかにおいてはそんなに甘くないかな?

見えない糸(平成21年度11月)

園庭の落ち葉が多くなってきました。秋の深まりを感じます。衣替えになってもしばらく半袖半ズボンで頑張っていた子供達の中にも、冬用体操服姿が増えてきました。季節が移り変わる事を、自然の変化や生活の中で確かに感じる事ができます。子供達にも色々な活動を通して、この季節を肌で感じ楽しませてやりたいと思っています。


幼稚園では2学期も後半となりました。この時期ぐらいになると、新年度当初の子供達の不安気な様子や落ち着かないクラスの雰囲気も全くなかったかのように全体が落ち着いてきます。クラスの個性もでき、どのクラスにもそれぞれにいい雰囲気が感じられます。この2学期間過ごした友達や先生とのつながりができているからだと思います。子供達は、何と言っても自分の担任の先生が大好きです。絶対的な信頼を寄せています。担任の先生とその子供達の間には、それ以外の人には入り込めない部分があるようです。


先日、私がトイレに行った時の事です。大人用のトイレに入ろうとしたら、年少組のある女の子が、「エッ!そこは、えつこせんせいのところよ!はいったらダメよ!」と可愛く言うのです。悦子先生がそこに行く姿を見たことがあって、悦子先生のトイレだと思っていたのでしょう。「ここは、誰もが使っていい所なんだよ。だからいいかな?」と言うと「えー!悦子先生がいいよって言ったの?」私が、「そうだよ」と言うと「じゃあいいよ。」と納得してくれました。あまりにも可愛かったので、その後保育室に行ってその子に、「さっきはありがとうね。ねえねえ、○○ちゃんは、悦子先生が好きなの?」と聞くと、「うんすきよ。いっぱいすきよ。」とニコニコしながら言いました。その子にとっての一番は、担任の悦子先生なのです。入園当初は結構先生を手こずらせたやんちゃなその子でしたが、今では、悦子先生との信頼関係がすっかりできているようです。また、満3歳児クラスに行った時の事です。昼食のお手伝いのつもりで一緒に食べようと思って行ったのですが、ある男の子の隣に私用の椅子を置くと口を小さく開けて私に何か言っていました。よく聞いてみると小さな小さな声で、「あっちへ行って。」と言っていたのです。私に悪いと思ったのかとても遠慮気味に…。一瞬(あら?私、嫌われてるのかしら?)と思い、試しに他の先生にも同じ事をしてもらったら、やはりその先生にも、「あっちへ行って。」と言うのです。そして、担任の美穂先生が座ると安心したように納得していました。「美穂先生だったらいいの?」と聞くと「うん」とニッコリしながら大きくうなずくのです。(ここは、僕の大好きな美穂先生が座る所なんだ!)と決めているのでした。一番安心できる先生はやはり担任なのです。


もうすぐ、音楽発表会の取り組みに入ります。年少組はクラス毎にお遊戯を、年中・年長組は合奏を披露します。私は発表会本番には舞台の袖からステージに立つ子供達と指揮をする担任の先生のどちらの様子も見ます。幕が開くと、そこには言葉を必要としない気持ちのキャッチボールが見られます。幕が開いて、たくさんのお客様にびっくりして緊張している子供達に先生は笑顔を向けます。(大丈夫よ。先生はここにいるよ。いつでも助けてあげるから。このステージを一緒に頑張ろうね。)という先生の気持ちが子供達に伝わるのです。先生が見つめるだけで…。それはとても不思議です。演奏中や出演中、信じられる人は先生にとっては子供達であり、子供達にとっては先生なのです。先生が笑顔で見ていてくれるだけで安心できるし元気にもなります。毎日生活を共にしてきている先生と子供達の間には、見えない糸がある事を感じます。先生が向けてくれた笑顔に子供達は(うん。わかった!がんばるよ。)と目で答えているその“心と心のキャッチボール”が手にとるように分かって感動します。それは、必要とする時に、いつも一番近くにいて守ってくれる人だという事がわかっているからです。そして、園生活で本気で叱ってくれるのも心から褒めてくれるのも、その先生だからです。幼稚園ではそんな生活を送っています。4月からこれまでの積み重ねの中でこの信頼関係も築かれてきました。担任の先生とそのクラスの子供達との色々な経験を通して、たくさんの喜びや感動を共有した者同士だからこそ分かり合える関係ができたのです。「先生が一番好き!」という子供達の言葉には、一点の曇りもない純粋な気持ちに違いありません。そう思うと、(「あっちにいって。」と言われても仕方ないか。)と喜んで引き下がる気持ちになります。


これから音楽発表会で演奏したり踊ったりする曲が賑やかに聞こえはじめ、取り組みも本格的になってきます。今年も子供達と先生との見えない糸をいろいろな場面で感じられるかと思うとそんな取り組みの毎日が楽しみになって来ます。


子供達と外で遊んでいる先生が、どこからか聞こえる泣き声に「アッ!○○ちゃんが泣いてる!」と、姿を見なくても泣き声だけでわかってそちらの方へ走って行きました。そんな時つながりの深さに驚かされます。これまでに目に見えない糸で一本一本丁寧に紡いできた時間がどんなに大切なものかをひしひしと感じるのです。