おしごとお疲れ様(平成22年度2月)平成23年2月

先日の保育参観には、大雪の中、たくさんの保護者の方がおいでいただきました。親の手の届かない所で我が子がどのような様子で生活しているのか、きっとどのお父さんもお母さんも観て知りたいと思っておられる事でしょう。そんな気持ちが手にとるようにわかる程、参観日には、毎回たくさんの保護者の方が時間をつくって来てくださいます。幼稚園の参観日には、ご両親揃っての参観が多く見られます。子供達もお父さんやお母さんに来てもらうのを楽しみにしているようです。

振替休日明け、ある子に「○○ちゃんは参観日には誰に来てもらったの?」と聞くと、「お母さん!あのね、お父さんはお仕事で来れなかったの。」と笑顔で答えました。「日曜日だったのに、お仕事だったんだね。」と私が言うと、「そうよ!泊まりだったの。」───「そう!お泊り?楽しいのかな。」とわざと言うと「違うよ!夜中でも忙しいのよ。だって、泥棒は夜中にお家に入るからつかまえないといけないでしょ。」と…。その子のお父さんの仕事は警察官です。不規則な体制の仕事に、子供達の行事だからと必ずしもお父さんが来れるとは限らないのです。きっと、お父さんにも来てもらいたいでしょうに……、来てもらえないという事を残念に思っているなずなのに……。その子の話しぶりは、お父さんが忙しい事を十分に理解していて、「お父さんはお仕事が忙しい。頑張っている。」と納得しているのです。そして、また感心した事は、その子はお父さんが毎日どんな仕事をしてどんなに頑張っているかがよくわかっているという事でした。

そんな事もあって、ある日、私は「お父さんのお仕事は?」と子供達に聞いてみたのです。すると、首をかしげて、「うーん?わからない」という子が案外多い事に気づきました。お父さんは毎日仕事に行くものだ…と漠然としか思っていない子が多い事にも驚きました。多分お父さんの仕事を何と言ったらいいのかわからなくて返事に困ってしまったのでしょう。お母さんの仕事もなかなか説明できない子がいます。例えば、「お母さんの仕事は病院。」とは答えられるけれど、「病院で何してるのかな?」と聞くと、「うーん?」と困ってしまうのです。看護師さんなのか医療事務なのか、薬剤師なのか、病院の仕事の中にもいろんな仕事があるのだから、ぜひ、そこまで子供達に教えてやって欲しいと思うのです。

昔、建設会社にお勤めのお父さんの子が、「わたしのパパはトンネル掘ってるんだよ。そのトンネルを昨日見に行ったの。」と話してくれた事がありました。お母さんにその話をしましたら、「見せてやったら、パパってかっこいい!って思ってくれるかなと思って…。」と冗談っぽく言っておられました。私は、それはとても大切な事だと思いました。あんな大きなトンネルを作る仕事に携わっているパパは、子供達にとってヒーローなのです。冗談ではなく、きっとパパ!かっこいい!と本気で思ったことでしょう。

毎日「お仕事に行ってくるね。」と言って出かけられるお父さんやお母さんを「いってらっしゃい」と見送ったり「お帰りなさい」と迎えたりする子供達は、その姿をどう思っているのでしょうか?あまりにも毎日の事で、当たり前の事になってはいないでしょうか?誰のために?何のために?どんな思いで仕事をしておられるかという事を意識させてあげてください。お父さんやお母さんが仕事をしているイメージが浮かばないまま「いってらっしゃい」「おかえりなさい」と言ってはいないでしょうか?「お仕事頑張ってね」とは言うけれど、お父さんってどんな仕事をしているのかを教えてもらえていなかったら、きっとイメージできないでしょう。一口に「会社」といってもいろんな会社があり、その中でどんな事をしているのか…見せてやることができなければ、話してあげるといいと思います。あなたのために…家族のために…という事だけではなく、その仕事に誇りをもって頑張っているお父さんやお母さんは、子供達にとって輝いて生き生きしていて素敵に見えると思うのです。たとえ幼い子供でも、話してやったり見せてやったりすることで、幼いなりに具体的に理解して自分なりの感謝の気持ちや労いの言葉が心から言えるようになると思います。

老人福祉施設で働いておられるお母さんの仕事の事を「私のお母さんは、おじいちゃんやおばあちゃんのお世話をしたり話を聞いてあげたりするお仕事なの。」と教えてくれる子もいます。何となくでもお母さんがどんな事をして頑張っているか、そしてその事によってお年寄りの方々に喜ばれている…すごく大切な仕事をしているんだという事がわかっているのです。その子はきっと、お母さんが疲れた顔でおられる時には「大変だね」といたわりの言葉をかけてくれるでしょう。お母さんがどんな事をして疲れているのかがイメージできるからです。お父さんがパトカーや消防車・救急車に乗って夜中の街や命を守るヒーローだったり、会社や学校や施設でいろんな人と関わる、家とはちょっと違うかっこいいお母さんだったり…。そんなお父さんやお母さんをあらためて尊敬できるようになるはずです。

お子さんに、「お父さんの仕事って何か知ってるかい?」「お母さんはどんなお仕事をしていると思う?」と聞いてみてください。どんなに頑張っているかを子供達は知ってくれているでしょうか?

「お父さん、お母さん、いつもお仕事お疲れ様。」って言ってくれるかな?

心の休憩所(平成22年度1月)平成23年1月

新年あけましておめでとうございます。明るい新年を迎えられた事と思います。本年もどうぞ宜しくお願い致します。

お正月と言えば、普段あまり会うことのないおじいちゃんやおばあちゃんに会えたり、親戚が集まったり、家族でのんびり過ごしたり、色々と思い思いの何日かを過ごされた事でしょう。

我が家の年末年始は親戚の人達がたくさん挨拶に来られます。娘達は、普段会えない親戚のお兄さんやお姉さん、自分達より小さな子供や赤ちゃんに会えるのを楽しみに迎えます。そして、一緒に食事をしながら、色んな話をします。以前は、大人同士の話だったので、加わることもなかったのですが、最近は一人前に話に加わって来るようになりました。

そんな時、普段、私達親には言わない事を親戚の人達に話す事があります。「お母さん、そんな話、初めて聞いたよ。」ということが発覚するのです。今なら、お母さんも叱らないだろうという魂胆もあるかもしれませんが……、この時とばかりに色んな話をします。 親と子だけの時には、笑い事では済まされない事が、親戚のおばさんやいとこの前では、何故だか笑い事になり、たいした事ではなくなるような気がするのだと思います。どうやら、親戚の人達が子供達にとってはワンクッションになっているようです。確かに、その話を受け止める私達親はすぐに“指導しよう”とか、“育てる責任!”等という考えが先に来てしまい、軽く聞き流して欲しい子供達にしてみれば、窮屈なのかもしれません。親戚の人達にはその点、客観的に聞いてくれたりみてくれたりする余裕があるので、笑いながら相談にのってもらえます。そして面白い事に、子供達も、さすがに、誰でも彼でも話をしているわけではなく、おしゃれの話はこのお姉さん、恋の話はこのおばちゃん、勉強の話はこのお兄ちゃん、お父さんやお母さんへの苦情はこのおばちゃんとおじちゃん、おねだりはおじいちゃん……と、何となくジャンル別に相談相手を決めているようです。子供達から格別な信頼をおかれている人達です。その親戚の人達の事を私達夫婦もまた信頼をおいています。そして、私達の子育てや環境をよく理解してくれていて、いつでも力を貸してくれる絶大なる協力者です。こっそり子供達が相談したであろう内容も、これは!という事は私達に「あの子、こんな事悩んでいるみたいよ。」と伝え、アドバイスをしてくれます。子供はいつまでも、親に何でも話してくれる…というものではないようです。親もいつも完璧で正しいとは限りません。間違っていたり失敗していたりする事だってあるのです。親は知らず知らずのうちに考えを押しつけてしまっていたり、子供を傷つけたり追い詰めたりして、親であるという“おごり”が子供と親の間に半透明な壁を作ってしまっているという事に気づかされます。つい、子育てに必死になるが故に笑い飛ばして聞いてやる広い器を失くしてしまうからです。子供が、自分の思っている事を自由に言えて、自分の目線に立って一緒に考えてくれる人が周りにいる事は、それだけで子供にとっても親にとっても安心な事だと思います。それは、“心の休憩所”です。

悲しいかな、大きくなると親だけでは物足りない事や、親では駄目な事だって出てきます。そんな時にこの“心の休憩所”はとても必要だと感じます。それは、友達であってもいいかもしれませんが、自分とそれほど違わない人生経験なので、解決策は見つからないまま同調だけで終わったり、慰め合い共に道に迷ったりする事になったりします。それが、経験豊富なおじいちゃんおばあちゃんであったり、近所のおじさんやおばさん、親戚であったりすると、聞き役だけでなく何らかのアドバイスを求める事ができます。そして、不思議とその人達のアドバイスなら、す~っと子供の心の中に入って素直に聞けるようです。(そんな時、いつも親として反省させられるのですが…。)子供達がそうできる環境をつくっておいてやる事も必要ではないかな?と思います。そのためには、私達親も、いつも周りにいてくれる人達と信頼関係を結び関わり合っていないと、周りの人達も振り向いてくれません。ありがたい事に私の周りには、近所や親戚の人達も子供達を私と一緒に守ってくださっています。いつも気にとめてくださっている事が私達親にとっても“心の休憩所”となっている事に間違いありません。昨年は、親にも相談できなくて、誰にも言えなくて、一人で悩み自分をあやめる子供達のニュースをたくさん聞きました。「どうしたの?」「話してごらんなさい。」というオーラを周りから感じながら成長できる子供は幸せだと思います。何もかも、親がしなきゃいけない…のではなく、親にできない事は周りの人達に託せる……、その環境づくりこそ親にしかできない事なのかもしれません。時に煩わしいと考えられがちな親戚づきあいや近所づきあい、人づきあいですが、いい関係を築いていく事によって、私達親と子供達を一緒に育ててもらえる環境づくりでもあるのです。

幼い間の子供達は、お父さんお母さんが一番ですが、成長と共に世界を広げ、親の手の中に納まりきらなくなり、悩む時もあります。その時の親と子の“心の休憩所”、……ありますか?

今年のお正月も何やら親戚のおばさんに愚痴をこぼしていた娘。聞かぬふり聞かぬふり…ここはお任せしましょ。ありがたやありがたや。

ぼくだけみてて!(平成22年度12月)

朝、園庭一面に敷きつめられたイチョウやモミジ、カエデ等の落ち葉に思わず感動します。幼稚園の庭は、春夏秋冬一年を通して季節を感じる事ができるのです。子供達も首や頭に可愛い手づくりアクセサリーをつけてご機嫌で帰っているのではないでしょうか?

保育室の子供達のロッカーの中に、きれいな落ち葉や、小さな木の実が宝物のように入れてあるのも微笑ましい光景です。

その園庭に今、たくさんの歌声や楽器の音が響き渡っています。12月に控えているフロアーコンサートに向けて、今、各クラスや学年での取り組みの真っ最中です。年少組は、保護者有志の方に作っていただいた衣装を身にまといお遊戯を、年中・年長組は、たくさんの楽器を使って合奏をします。毎年、この経験を通して、子供達の力の凄さや子供達の中に見られる成長には大きな感動を与えられます。本番を迎えるまでに、この子達がどんなに頼もしく成長してくれるだろうかと楽しみにしながらその練習を見ています。

今月中旬まで、年中・年長組は各クラスで楽器のパートに分かれて練習をしていました。その後は、ホールに全ての楽器を搬入し合奏の練習をしています。パート練習をしている頃、時々クラスを回ってその様子を見ていました。そんなある日の事、年長組の打楽器の練習を見てみようと部屋に入ったら、子供達が自分の使う楽器を準備している最中でした。ある男の子が「聴きにきたの?」と言うので「そうだよ。職員室にもよく聴こえて来るから、どんな事をしているのかな?と思ってね。」──。その子は、少しぶっきらぼうに、でも嬉しそうに「聴いてていいよ。」と言ってくれました。子供達の前に立っていると、「もう少しこっちに来ないと僕が見れないよ。」と言うのです。意外でした。その子は照れ屋で、ストレートに本音を言ってくれないタイプだと思っていたので、「僕を見るのならここにおいで。」と誘ってくれた事に驚きました。それどころか、その子を見ながらも、他の打楽器を練習している子を見ていると、一曲終わった所で、「さっき、僕じゃあない人を見てたでしょう!!」と少しご機嫌斜めな顔で私に言うのです。「エッ?!ちゃんと見ていたよ。みんなを見ながら見ていたよ。」と言うと、「ダメよ!僕だけ見て!」と怒った顔で言いました。そう言えば、運動会の鼓隊演奏の練習の時にも、練習が終わったら「僕を見てた?音聴いてた?」とよく聞いてきていました。普段は私の前ではクールにしているのに、ぶっきらぼうではあるけれどぽろっと子供らしい本音を言ってくれた事がやけに可愛く思えました。

子供達はいつもこんなふうに、自分を見ていて欲しいと思っているのです。頑張っている姿を見て褒めてもらいたいのです。また、鉄棒で逆上がりができるようになったり、太鼓橋で技ができるようになったりした時にも「先生!!見て!見て!」と何度も声をかけて来ます。「すごい!」と言って認めてもらいたいのです。そんな時に他の場所に行こうものなら「せんせーい!!見てってば!!」ともの凄い声で連呼します。先生にでさえ、こんな風に僕を見ていて!とアピールするのですから、お父さんやお母さんには“凄い自分”を見て欲しいともっともっと思うはずです。見てもらえているという気持ちは、子供にとってはとても大きなエネルギーになっているのだと感じます。いつも、大きな行事の時に感じる事ですが、練習をしている時より、本番の一発勝負の方が子供達の顔つきは自信に満ち溢れていますし、素晴らしい出来栄えだったと子供達自身も満足感でいっぱいになります。本番には、お家の人達が自分を見に来てくださいます。自分のためにあれこれと段取りをして、家族揃って来てもらう。そして、最後には「よく頑張ったね」と誰の事よりも自分を褒めてくれる。それがどんなに励みになり誇らしい事か。

「僕だけを見ていて。」という気持ちは、子供のわがままでも何でもなく心からの正直な当たり前の気持ちなのです。

ただ、「僕だけを…」と言ってくれれば、その子のそう思う気持ちを裏切ったりがっかりさせたりする事はないのですが、そう言えないでいる子もいるはずです。言えないでいたり伝える方法がわからなかったりする子……。それでも、子供達の気持ちはみんな同じだと思います。その気持ちを察知してもらえなかったり、応えてもらえなかったりすると、子供達はお父さんやお母さんの注意を引こうと、わざと困らせるような行動をとったり、赤ちゃんがえりをして手をかけてもらおうとしたりする場合もあります。そうする事で、自分の気持ちをアピールするのです。それは、意識的な場合も無意識的な場合もあると思いますが……。とにかく、お父さんやお母さんの目に自分の姿をいつも映していて欲しいと思っているのです。その気持ちに、どうか、しっかり応えてあげてください。“いつでもあなただけをみているよ”という気持ちを伝えてあげてください。以前にも、書きましたが、愛されている事を実感しながら大きくなる子供達は幸せです。

「今度の参観日にはお母さん仕事だから行かれないわ。ごめんね。」──。「別にいいよ。」と高校生の娘のつれない返事…。「私だけを見に来て!」と言ってくれていた頃が、あぁ懐かしい…。

子供達にありがとう(平成22年度11月)

今年の夏は、異常とも言える猛暑となりました。動植物の生態系にも異変が起きているようです。最近ニュースでよく耳にするのは、クマやサルが山から里に下りてきて、人を襲ったり作物を荒らしたりしているという事です。異常気象でブナやカシの木にそれらの好物であるドングリや栗が実らなかった事が原因の一つにあるようです。そう言えば、毎年この時季になると幼稚園の子供達も青々しいドングリの実を見つけて喜んでいるのですが、今年はまだそんな姿を見ないような気がします。当たり前の事が当たり前に……、これは、自然に支配されているのかもしれません。


その影響を受け、幼稚園では今年の運動会を例年より遅らせて開催しました。涼しくなってから本格的な練習に取り組めるようにと考えての事でした。無事開催できた秋季大運動会は盛会裡に終える事ができました。毎年子供達の頑張る姿には胸が熱くなります。涙がこぼれます。そんな時ふと思うのです。「最近こんなに感動して胸が熱くなった事があるだろうか?」…と。感動的なシーンにテレビや書物で触れた時にはあるかもしれませんが、生活の中で、何かがあって感動する事はそんなにないのではないでしょうか?青春時代なら胸高鳴る恋愛や自分自身の人生の選択においても一喜一憂しながら涙する事もあったでしょう。でも人生ひと山越えた頃にはなかなかそんなドラマチックなシーンに出会うことはありません。ですが、子育てにおいては、感動する事がたくさんあります。子供達が私達を感動させてくれるのです。ここ数年を振り返ってみてください。飛び上がるほど喜んだり、身体が震えるほど怒りを覚えたり、涙をこぼしたり、この上なく楽しいと感じたりしたその先にはいつも子供達の存在があったのではないでしょうか。それがどんなに私達大人にとって幸せな事かを思うのです。


私はいつも行事の度に取り組みはじめた頃の子供達の様子や先生の様子、本番までの見え隠れする先生と子供達とのドラマ、そして本番の子供達、それを見守る保護者の方々の様子…それら全てに感動します。運動会でも、それぞれに子供達が一生懸命でしたし、楽しそうでした。そして、運動会後に寄せられた保護者の方からの感想には、どれも我が子の成長への驚きや喜びと、ありがたい事に先生達へのそれまでの労いと感謝の言葉を添えていただいていました。


我が子の活躍に胸を熱くして手を叩き、抱きしめたくなるほど愛おしく感じたりしてもらえた事と、子供達のそんな成長の記録にほんの少しでも関われている事に喜びを感じました。
子供って、そこにいてくれるだけで私達大人に感動を与えてくれます。お腹の中に生命が宿った事を知った時から始まる感動のドラマは、その先、些細な事から大きな事までの何もかもが心を動かしてくれる長編作となるのです。幼稚園に入園するまでは、自分が手をかけて育て、我が子の成長を誰よりも近くで見てこられたでしょうが、入園と同時に小さな社会に送り出し、人の手に委ね、こうした節目節目にその成長をふと目の当たりにした時の感動は何とも言えないものがあると思います。運動会の日の朝、どのお父さんもお母さんも、お子さんに「頑張ってね。応援しているからね。」と送り出された事でしょう。そして、先生や友達と楽しそうに一生懸命に頑張っている姿に感動し、運動会終了後、お子さんを迎えた時のお家の人達の目は、とても温かかったように思いました。お子さんを迎えられた時の第一声は何でしたか?「頑張ったね。えらかったね。凄かったよ。……」とお子さんを褒めてあげられたのではないでしょうか?その裏には、感動させてくれた我が子に「ありがとう。」の気持ちもこもってはいませんでしたか?我が子のそんな姿を見て、喜びを味わえた事に感謝しませんでしたか?
周りを見てください。子供のおかげでできたママ友、パパ友、出会えた人達、場所、得た知識……。子供を通して、自分の環境も作られてきている事に気が付かれるでしょう。子供達が世界を広げてくれているのです。その中で、笑ったり泣いたり、喜んだり怒ったりという感動があるのです。淡々と過ぎる日々も幸せでいいかもしれませんが、まだまだ若いうちは、心躍らせる日々にエネルギーを使ったり、またそうする事でエネルギーを充電させてもらうのもこれまた楽しいものです。


運動会が終わって、子供達は先生達から素敵なご褒美をもらっていました。この運動会を頑張った印にして欲しいと渡したプレゼントです。あのご褒美は、子供達へのものでしたが、それを手にした時の子供達の達成感と満足感と自信に満ちた最高の笑顔は、これまでのお子さんの成長を見守って来られたお父さんやお母さんが手にされたご褒美だったかもしれませんね。こういう節目に、改めて子供の存在の大きさや意味を感じたり、子育ての苦労が報われたりするのではないでしょうか。子供達!私達大人にたくさんの感動を与えてくれて、どうもありがとう!


これから、まだまだ子供達は私達にいろんな感動を与えてくれます。何しろ、長編大作ですから…。それはまだまだ、始まったばかりです。さて、この先どうなるかはおたのしみ…。

どこで教える怖い・痛い・危ない(平成22年度10月)

最近になって、やっと秋めいてきました。朝夕は寒ささえ感じられる日があります。黄金色の稲穂を刈り終えた田んぼに秋を感じます。

今月の初めに、年長組の子供達が稲刈りを経験しました。4ヶ月前に自分達の手で植えたお米の苗が稲に姿を変えた事に感動を覚えながらの作業でした。この稲刈りは今年で5回目となります。初めて幼稚園の子供達に田植えを体験させた年は稲刈りなど幼稚園の子供達にできるはずがないと諦めました。しかし、田植えはしたものの稲刈りの工程を経験せずして、収穫の喜びや自然の恵みへの感動や感謝の気持ちを本当に育ててやれるのかと、煮え切らない気持ちがどこかにありました。その次の年も田植えをしました。稲刈り時期になって、どうにかして刈らせてやれないかとあれこれ考えました。刈らせたい気持ちと、本物の刃物を持たせて、日常の生活の中にない経験をさせる事への不安が交差していました。子供達に鎌を持たせて稲刈りをさせる事は危ないだろうからとためらっていた私達に理事長が、「稲刈りは鎌でするものだ。子供達は、真剣に取り組めば怪我はしない!大丈夫だからやらせてごらん。」と言って背中を押してくれました。そうして、初めての年にはやむなく見送った稲刈りを、翌年からこの理事長の言葉により、子供達に経験させる事にしたのでした。

実際に子供達に鎌を持たせた瞬間から、一瞬たりとも子供から目を離せない状況で、先生達の方が緊張したのを覚えています。勿論刈る前には、鎌とは一歩間違えばとても危険な刃物なのだという事をしっかり話して持ち方刈り方等をくどい程聞かせました。しかし、いざやってみると案外子供達は出来るものだと思いました。私の説明が頭に入っているのかいないのか、自分流に危険のないように力加減を考えながら刈っていたのでした。“案ずるより産むが易し”と言ったところでしょうか。しかし、子供達のその時の顔は実に真剣でした。油断していたり鎌を振りすぎると、稲を握る手や踏ん張っている足まで、切ってしまうかも知れない事が、やってみて初めて理解できたのでしょう。どのくらい力を入れれば刈れるか、どの向きに鎌の刃を向ければいいか、その時の足はどうしていればいいか等が、何株か刈るうちに自分の感覚で見つけられたのだと思います。いくら言葉で「危険だから気をつけてね。」と言っても実際想像がつかないのです。どんなことがどうなって危険なのかは聞くだけではわからないのです。

楽しい事や嬉しい事は、普通の生活の中でどうしなくても経験できるし、親は子供達に楽しい想いをさせるために、そのチャンスをわざわざ作ってまで経験させてやろうとします。だけど、辛い事や苦しい事悲しい事痛い事は、できるだけ経験しなくてもいいように避けて“守り”の生活をしています。では、いつ子供達は、その辛い事や苦しい事悲しい事痛い事を覚えていくのでしょう。生涯、“楽しい”“嬉しい”ばかりで過ごせるわけはありません。痛い思いを経験しないと、それにどう対処したらいいのかどう回避したらいいかを学ぶ事ができないのです。頭の中だけでの知識は実に頼りないものです。実際に怖かったり痛かったり危ない思いをした事があれば、二度とあんな事にはなりたくないと心から気をつけるでしょうし、大切な人がそんな思いをしたら可哀相だと気を付けてあげる事もできるようになるでしょう。

子供達のあそびの中にはそんな学びがたくさんあるのです。ある年少組の女の子が吊り輪にぶら下がり手をすべらせて落ちました。尻もちをついて大泣きをしましたが、その女の子はその後、他の学年のお兄ちゃんが上手にぶら下がっているのを見ながら何度も繰り返し挑戦していました。一度失敗してからは、手が離れて下に落ちたとしても、上手に落ちています。その子には落ちた時にはお尻を強打する可能性があるから気をつけないといけないという構えができているからです。また、幼稚園の小川の飛び石を渡って向こう岸に行こうとして、バランスを崩し、つい小川にはまってしまう事があります。その時に、次からはどうやってバランスを保てばいいのか考えます。こうして子供達は身をもって経験した危険に対して、身の守り方を学んでいくのです。

子供達は今、幼稚園という安全と危険をバランスよく取り入れた環境の中でチャレンジしながら遊んでいます。 “怖い・痛い・危ない”を見守られた環境の中で経験させてやる事は、子供達が自立して生活するための基盤をつくる事の一つでもあると思います。危ないから…と先回りをして子供達の周りにある危険物の何もかもを取り払ってしまっては、子供達が学べるチャンスまで奪ってしまい危険の予測ができない人間になってしまうのです。“心配する事はいい事、心配し過ぎる事は不幸の元”とも言います。

そんな事を思いながら、今年の稲刈りも緊張感の中、無事終わりました。真剣に刈った稲がお米になり、もう少ししたら年長組の子供達はおにぎりを作って食べます。どんなにか満足することでしょう。その時の嬉しそうな顔が目に浮かびます。